聖書からのメッセージ


【礼拝説教要旨】

「主に感謝する」
詩篇 107篇1~9節

2014年12月28日 第4聖日 牧師 長江忠司

 聖書には一貫して、主に感謝すべきことが教えられています。私達が主に感謝する上で何が大切なのかを確認しましょう。

第一に、神の恵みを思い返すことです。
 かつてエジプトを脱出した時に荒野をさまよった時のことを回想していると思われます。その間、主の恵みと守りは尽きませんでした。私達も今年一年間、いやこれまでの人生を思い返して、主の恵みを覚えることが大切です。

第二に、神の恵みに気づくことです。
 神はまどろむことなく私達を守って下さっています。私達が気づく所だけでなく、気づかない所でも守って下さっているのです。その恵みに気づくことが大切です。

第三に、神の約束を信じることです。
 たとえ状況が厳しいものであったとしても、神の約束は輝いています。私達はその約束を信じて、信仰により感謝するべきなのです。一年が終わろうとしています。この3つのことを踏まえて、あらためて主に感謝をささげる歩みをする者でありましょう。


<聖書のことば>
「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」
詩篇 107篇1節





「喜びのおとずれ ~本当のクリスマス
ヨハネの福音書1章9~14節

2014年12月21日 第3聖日 牧師 長江忠司

 すべての人を照らす真の光が世に来られました。

 まず、この世について。
 第一に、闇がありました。光とあることから、この世は闇であることがわかります。サタンの支配する闇であり、霊的な闇の世界に主は来て下さいました。
 第二に、人々はキリストを拒絶しました。当時のユダヤ人のほとんどが自分のことで忙しく無関心でした。

 次にイエス様について。
 第一に、身代わりに死ぬ為に来られました。
 罪がありさばかれる定めにある人間を救う為に、御子イエス様は全人類の身代わりに死ぬ為に来られました。
 第二、最高の愛を与えて下さいました。
 主は全ての罪を認めた上で、私たちを愛して下さっています。

 このお方を信じ受け入れる時に、闇は光と変わります。恐れは喜びに変わります。全ての方がこのお方を受け入れますように。


<聖書のことば>
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
ヨハネの福音書 1章9節





「イエス様の変貌の姿」
マルコの福音書9章1~8節

2014年12月14日 第2聖日 牧師 長江忠司

 イエス様は3人の弟子たちの前で、栄光に満ちた御姿に変わられました。ここから教えをいただきましょう。
 第一に、主は本来の姿を現されました。御顔は太陽のように、御衣は光のように白くなりました。実はそれこそが主の本来の姿でした。地上に於いては栄光の体を隠され変貌されていたのです。私達の信じる主はその様に栄光に満ちたお方です。
 第二に、主はご自身の最期について語られました。ペテロたちは驚きのあまり、何を言ってよいのかわからなかったのですが、主はこれからのことについてモーセとエリヤと話しておられました。主は全てをご存知の上で歩まれていたのです。
 第三に、主は彼らの恐れを取り除かれました。主は彼らに触れて、恐れなくて良いと言われたのです。私達は主の御声を聞き、心に触れていただくことで恐れが取り除かれていきます。
 私達の人生も様々な事が起きてきます。しかし恐れることはありません。全てを支配されている主の御声に聞くことが大切なのです。


<聖書のことば>
それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。
マルコの福音書 9章2節





「キリストの弟子の道」
マルコの福音書8章34~38節

2014年12月7日 第1聖日 牧師 長江忠司

 イエス様は弟子達と群衆を呼び寄せられて、弟子の道について教えられました。主に従う弟子の道とはどのような歩みなのでしょうか。
 第一に、自分を捨てることです。 私達の自己中心性、主の御心に反しようとする古い自分を捨てていくことです。私達は 結局、自分を捨てるかキリストを捨てるか、どちらかを選択することになります。
 第二に、自分の十字架を負うことです。これは自分に課せられた苦しみを負うという意味ではなく、主に従い通すということです。群衆のようについたり離れたりではなく、どんな事があっても主に従い通すことが求められるのです。弟子の道を歩むと、命を得ることができます。キリストの弟子の道は一見窮屈で不自由な様に思えますがそうではなく、この道こそまことの命を得ることにつながるのです。
 キリストの弟子の道こそが真に自由な道です。私達は救われた者として、この道を歩み主に従い通す者でありましょう。


<聖書のことば>
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
マルコの福音書 8章38節





「イエス様の受難予告」
マルコの福音書8章31~33節

2014年11月30日 第5聖日 牧師 長江忠司

 ペテロが信仰告白をした箇所の続きです。ここでイエス様は、御自身が殺されなければならないことと復活されることを語られました。
 第一に、神の時がありました。これまで宗教指導者たちとの無駄な衝突を避けてきた所がありましたが、この時に至り、主は十字架に向けて舵を切られました。すべてに神の時があります。主は私達にも最善の時を用意し導いて下さいます。
 第二に、サタンの誘惑がありました。サタンは神のみこころに従うよりも人の思いに従うことを勧めてきました。私たちに対しても同様に働いて神に従うことを妨害して来ます。
 第三に、苦しみが用意されていました。主はご自身が苦しみにあうことをご存知で十字架に向かって歩まれました。同様に、私達の人生にも患難があります。しかし、イエス様の十字架の死の後に復活があり、救いの道が開かれました。同様に、苦しみの後にこそ祝福が用意されているのです。
 私達は人生に苦しみがあることを覚悟しつつも、しかしその先に、神の祝福があることを信じて、主に頼りつつ歩む者でありましょう。


<聖書のことば>
「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
マルコの福音書8章33節





「イエス様についての告白」
マルコの福音書8章27~30節

2014年11月23日 第4聖日 牧師 長江忠司

 イエス様はピリポカイザリヤの村で、弟子たちにイエス様が誰であるのかを問われました。ここから3つのことを学びましょう。
 第一に、明確な信仰の告白が大切です。人々はイエス様に対して色々な評価をしていましたが、ペテロははっきりと「あなたはキリストです」と告白しました。私達も明確な告白をする必要があります。曖昧ならば、何の力もありません。
 第二に、恵みの認識が大切です。彼らがそのように告白することができたのは彼らの悟りによるものではなく、ひとえに主の働きかけによるものでした。私達の救いは全て、主の恵みによることを認識して主に感謝するべきなのです。
 第三に、最後まで従い通すことが大切です。あれだけ確信に満ちていたペテロが、後にその関係を完全に否定してしまいました。それでも主は彼を用いられましたが、私達は最後の最後までキリストを主と告白し従い通す人生を送る者でありたいのです。
 主は今日も私たちに問われます。主が誰であるのかと。私達は明確な信仰の告白と態度をもって従い通す者でありましょう。


<聖書のことば>
ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」
マルコの福音書 8章29節





「子どものように」
ルカの福音書19章1~10節

2014年11月16日 第3聖日 牧師 長江忠司

 ザアカイはエリコの取税人のかしらでした。罪深い者でしたが、主の取り扱いにより変えられました。彼の歩みを通して教えをいただきましょう。
 第一に、主の近くにいこうとしました。彼には多くの富がありましたが心は満たされていなかったのでしょう。主が来られる噂を聞いて、何とかして近づきお姿を見ようとしました。私達もあらゆる妨げを超えて主の御もとに近づき、みことばをいただく者でありたいと思います。
 第二に、喜んで主を迎え入れました。イエス様が彼の所で泊まることにしていると聞いて、喜んで即座に主を迎え入れました。私達も自分の罪と神の恵みがわかるなら、喜んで主を迎え入れたくなるのです。
 第三に、悔い改めました。彼は躊躇することなく、具体的な悔い改めをしました。私達も主から罪が示された時に躊躇するのではなく、すぐに罪を言い表し悔い改めるべきなのです。
 私達もザアカイの如く、子供の様な純真さをもって主と向き合い、応答する者でありましょう。


<聖書のことば>
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
ルカの福音書 19章6節





「心の目を開かれる主」
マルコの福音書8章22~26節

2014年11月9日 第2聖日 牧師 長江忠司

 イエス様と弟子たちはベツサイダの町に着きました。すると人々は盲人を連れて来たのです。ここから教えをいただきましょう。
 第一に、彼は個人的な出会いへと導かれました。主は彼を村の外へと連れて行かれ、1対1で向き合われ癒しを与えられたのです。主は同様に私達と1体1で向き合うように導かれます。それは辛いことかもしれませんが、同時に恵みの機会であることをおぼえましょう。
 第二に、彼はへりくだって主のお取り扱いを受けました。彼は主の取り扱いに対して、従順に応答しています。決して反抗したりしませんでした。私達も自分がさらに整えられる必要があることを自覚し、従順に主の取り扱いを受けることが大切です。
 第三に、彼は段階的に目を開かれました。私達も瞬時に成長する訳ではなく、段階的です。私達の周りの魂も同様なのです。だから、現状だけを見て落胆しないようにしましょう。
 主の前にへりくだる人は幸いです。そうしてさらに主によって霊の目が開かれる者とさせていただきましょう。


<聖書のことば>
イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両目につばきをつけ、両手を彼に当てて「何か見えるか」と聞かれた。
マルコの福音書 8章23節





「生きて働く信仰」
マルコの福音書 8章14~21節

2014年11月2日 第1聖日 牧師 長江忠司

 イエス様と弟子達が舟に乗って向こう岸の町へ行こうとされていた時のことが書かれています。ここから何を教えられるでしょうか。
 第一に、悪い教えに十分に気をつけることです。イエス様はパリサイ人やヘロデの罪に気をつけるようにと教えられました。罪というのは、最初は僅かなものであっても知らない内に大きく膨れあがるものですので、私達は警戒しなければならないのです。
 第二に、目先の問題に心奪われてしまわないことです。弟子たちはパンを忘れて来たことに気づき慌てましたが、主は更に大きな大切な真理を教えようとされていました。確かに目の前の問題も大切ですが、主がそれらを通して、更に私たちを成長させようとされていることを覚えましょう。
 第三に、過去の経験を自らの信仰に結びつけることです。弟子たちは直前に4千人の給食の奇跡によってパンが増やされた経験をしておりました。しかし、その経験が信仰と結びついていなかったのです。私達も聞いたみことばを自分の信仰に結びつけていくことが必要なのです。
 主は私達のことを本気で愛し導いて下さっています。形式的ではなく、生きて働く信仰をもって歩むように致しましょう。


<聖書のことば>
それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。
マルコの福音書 8章17節





「説教を聞く正しい心構え」
ルカの福音書 7章1~10節

2014年10月26日 第4聖日 牧師 長江忠司

 百人隊長のしもべが病気で死にかかっていました。それで百人隊長はイエス様の所に使いを送って、しもべを助けてほしいと願いました。ここから、主のおことばをいただく心構えについて学びましょう。
 第一に、謙遜な心で聞くことです。百人隊長はローマの権威がありましたので高圧的に イエス様に命令することもできました。しかし、「わざわざおいで下さいませんように」と、へりくだってみことばを頂こうとしました。私達もいかなる内容のみことばであっても、へりくだり従う心で聞くことが大切です。
 第二に、みことばの力を確信して聞くことです。イエス様が来て下さろうとしていたにもかかわらず、彼は丁重に断りました。その理由は、主のおことばに力があると信じていたからでした。私達も主のみことばには絶対的な力があると信じるべきです。
 第三に、熱心に聞くことです。言うまでもなく彼は切にみことばを求めており熱心に聞いたことでしょう。私達もどれだけ熱心にみことばに向き合うことができるかが大切な鍵となるのです。
 毎週礼拝や祈り会で聖書から説教が語られます。正しい心構えをもって聞く人には主は それだけ多くの恵みを注いで下さいます。本日も最高の心構えをもって礼拝をささげましょう。


<聖書のことば>
ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
ルカの福音書 7章7節





「聖書のみことば」


2014年10月19日 第3聖日 牧師 長江忠司

 聖書は誤りのない唯一の神のみことばです。全世界で毎年一億冊以上売れている永遠のベストセラーであり、長きにわたり多くの人々の人生を良い方向へと変え続けてきました。聖書はどのようなものでしょうか。

 ・愛の手紙です
  神がいかに私達人間を愛して下さっているのかが書かれています。
 ・鏡です
  等身大の私達、内面も全て映し出します。
 ・地図です
  私達が今いる場所、そして行くべき道を示してくれます。
 ・魂の糧です
  食事で肉体は養われますが、霊的に強めるのはみことばだけです。

『みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます』詩篇119:130 
『これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。』詩篇119:50 
 聖書のみことばを少しずつでも読んで、霊的に強められましょう。


<聖書のことば>
あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
詩篇 16篇11節





「真に幸いな歩み方」
マルコの福音書8章10~13節

2014年10月12日 第2聖日 牧師 長江忠司

 イエス様と弟子達は異邦人の地からユダヤ人の住むダルマヌタ地方へ移りました。そこにパリサイ人達がやって来て議論をふっかけたのです。愚かで不幸な歩みでした。真に幸いな歩みとはどういう歩みでしょうか。
 第一に、主の御そば近くにいることです。直前に4千人の給食の奇跡が行われていたにもかかわらず、彼らはその場にいませんでした。それ故に、主の御業を見る事ができなかったのです。私達も主との距離が離れていると、多くの祝福を逃すことになってしまいます。
 第二に、柔らかい心でみことばを聞くことです。彼らは初めからイエス様に従おうとする心がありませんでした。それ故に、いつまでも神の祝福に与る事ができませんでした。私達も謙遜に柔らかい心でみことばを聞くのでない限り、祝福を頂くことはできないのです。
 第三に、見ずに信じることです。彼らは見る事ができたら信じると言いました。しかしそれは本当の信仰ではありません。私達も時に暗雲が立ち込めるような状況に入れられることがあります。しかし主はどんな時でも共にいて導いておられるのです。それ故、主の約束に目を留めて前進するべきなのです。
 主にある真に幸いな歩み方をして、祝福の中を歩ませて頂きましょう。


<聖書のことば>
イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」
マルコの福音書 8章12節





「あなたのパンを水の上に投げよ」
伝道者の書11章1~2節

2014年10月5日 第1聖日 牧師 長江忠司

 本日はCSカミングデーですので、導かれたテーマで語らせていただきます。あなたのパンを水の上に投げるようにと言われています。
 まず第一に、私達はパンを神から受けていることがわかります。パンは文字通り食糧というだけでなく、神からの賜物と考えることもできます。タラントのたとえ話の如くに、私達は神から賜物を受けたのであり、管理者であると覚える必要があるのです。
 第二に、心を込めて善を行うことです。水の上にパンを投げる行為は一見無駄なことのように感じます。同様に、人の為に善い行いをすることは無駄なことと感じるかもしれませんが、主はそれをするようにと教えられているのです。最も善い行為は、魂が救われる為に祈り証しすることです。
 第三に、主は不思議なみわざを行われると覚えることです。人が見て希望を無くすような状況がありますが、神は全能のお方であり、その知恵とご計画は私達の理解を超えたものです。私達人間の側で諦めるべきではないのです。
 私達は今年の目標「家族にあかししよう」をおぼえて歩んでいますが、主のみわざをなそうとされています。期待して証し続けましょう。


<聖書のことば>
あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。
伝道者の書 11章1節





「4千人の給食の奇跡」
マルコの福音書8章1~9節

2014年9月28日 第4聖日 牧師 長江忠司

 これは異邦人の地で行われた奇跡でした。ここから3つのことを学ばせて頂きましょう。
 第一に、神は私達に大きな関心を注いで下さっていることです。この時、主は群衆がどこから来てどういう状態なのかをよくご存知であり関わろうとされていました。同様に主は、私達の歩みの全てをご存知であり関わろうとして下さっています。
 第二に、神から頂いた教訓を覚えて歩むべきことです。主はこの時、5千人の給食の奇跡の時と同様の場面へと弟子たちを導かれました。彼らは前回の教訓を活かして信仰を働かせるべきでしたが、不信仰な対応をしてしまいました。主は私達にも同様の訓練を与えることがあります。その時こそ教訓を活かすべきです。
 第三に、神にこそ希望を見出すべきことです。弟子たちは状況のみを見て希望を見出そうとしていましたが、主に目を向けて希望を見出すべきでした。この時、異邦人に対する神の恵みは豊かでした。私達も恵み豊かな主に希望を見出すべきなのです。
 不足を覚える状況がやって来ます。その時こそ、信仰を働かせましょう。


<聖書のことば>
弟子たちは答えた。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」
マルコの福音書 8章4節





「耳が聞こえず口のきけない人の癒し」
マルコの福音書 7章31~37節

2014年9月21日 第3聖日 牧師 長江忠司

 イエス様と弟子たちはガリラヤ湖周辺に戻って来ました。そこで、耳が聞こえず口のきかない人を癒されたのです。ここから教えられることは何でしょうか。
 第一に、主は人の理解を超えて働かれることです。人々は主に手を置いて癒して頂くように願いましたが、主の癒しの方法は全く異なったものでした。私達も主が人の思いもつかない方法でみわざをなされる事を覚えている必要があります。
 第二に、主は機会を用いて、個人的な出会いへと導かれることです。主はこの機会に、彼一人だけを御前に進ませ、個人的な出会い、信仰と癒しへと導かれました。主はあらゆる機会を通して、主との深い出会いへと導かれるのです。
 第三に、主は私たちに合った最善の形で導いて下さることです。ここで主は特別な方法で彼を癒されました。それは耳が聞こえない彼が信仰を持つ為の、最善の方法だったのです。
 私達は聞くことのできる耳を持っているかもしれませんが、果たして様々な機会に、どれ程主の御声を聞こうとしているでしょうか。大切なのは、主の御声を聞いて従う事であることを忘れない様にしましょう。


<聖書のことば>
そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。
マルコの福音書 7章34節





「年老いてもなお」
詩篇 92篇1~15節

2014年9月14日 第2聖日 牧師 長江忠司

 一般的に、人は老いるにつれて、若い時にあった強さは失われていくものです。しかし主にある者は強められることが教えられています。どうしたら強められることができるのでしょうか。
 第一に、主のみことばに心を留めることです。みことばを通して神の恵みと真実を知るのです。この世の富や物質的なものではなく、神のみことばによって私達は強められます。
 第二に、主の家に植えられることです。神ご自身にしっかりとつながるだけでなく、主のおからだである教会につながることで実を結ぶ歩みをすることができます。そして互いに仕え合うのです。
 第三に、主に感謝することです。これが私達の霊的な力となります。
 その様な歩みをする時に、たとえ年老いてもなお、力強く実の多き、レバノンの杉やなつめやしの様な人生を歩むことができるのです。大切なことは、しっかりと主と向き合っていることです。私達は主にあって力強い歩みをさせていただきましょう。


<聖書のことば>
主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。
詩篇 92篇1節





「ツロの婦人の信仰」
マルコの福音書 7章24~30節

2014年9月7日 第1聖日 牧師 長江忠司

 ツロの地で、ギリシャ人の婦人がイエス様に対して、自分の娘から悪霊を追い出して欲しいと願いました。彼女の信仰から大切なことを学ぶことができます。
 第一に、神の沈黙を受け入れる信仰でした。彼女はイエス様に訴え続けましたが、主は何も答えられませんでした。にもかかわらず彼女は諦めず懇願し続けたのです。私達は沈黙が続く時に信仰が揺らいでしまいがちです。しかし、沈黙の時に屈しない信仰を持つ者でありたいのです。
 第二に、神の前に謙遜な信仰でした。犬よばわりされて普通ならば怒る所ですが、彼女は受け入れました。だからこそ、この後で恵みが与えられたのです。神の恵みは主の前に心低くする者に注がれるのです。
 第三に、神の恵みを信じ、拠り頼む信仰でした。彼女は神の食卓から落ちるものは、たとえパンくずであっても恵み豊かであると信じました。私達もそれ程に神の恵みを信じより頼むべきなのです。
 主は彼女の信仰に驚かれ祝福されました。私達も主に驚かれ喜ばれるような信仰をもって歩みましょう。


<聖書のことば>
しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
マルコの福音書 7章28節





「内なるきよめを求めて」
マルコの福音書 7章1~23節

2014年8月31日 第5聖日 牧師 長江忠司

 パリサイ人や律法学者たちが、弟子たちがきよめの洗いをしていないことで主を非難しました。ここから何を教えられるでしょうか。
 第一に、パリサイ人的信仰を主は嫌われるということです。彼らは口伝律法を形式的に 守りそれで正しい歩みをしていると考えていました。神の戒めをないがしろにし、相手をさばく者でした。第二に、人の内面から汚れが出て来ることです。外面さえきよめていれば内面もきよめられていると考えていた彼らに対して、内面こそが汚れているという事実を主は教えられました。愛に満ちたイエス様でしたが、パリサイ人達に対しては厳しく非難されたのです。
 次に、主はどのような歩みを喜ばれるのでしょうか。第一に自分の罪深さを自覚した歩みです。第二に、きよめられるように主に求める歩みです。第三に、主の前に罪を言い表す歩みです。
 私達は気をつけないとパリサイ人的歩みをしてしまいがちです。自分の内面をよく見つめ、「私をきよめ、雪のように白くして下さい」と祈る者でありましょう。そのような歩みにこそ祝福があるのです。


<聖書のことば>
外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。
マルコの福音書 7章15節






「盛大な宴会への招き」
ルカの福音書14章15~24節

2014年8月24日 第4聖日 牧師 長江忠司

 パリサイ派の指導者に招かれた食事の席で、主は盛大な宴会の例え話をされました。この箇所から学びをいただきましょう。
 第一に、神は救いを用意しておられます。ユダヤでは人を正式に宴会に招待する時に2回に分けて招くのが通常であり、この招きは当日全ての用意を終えてなされた招きでした。主は人が救われる為に全ての事をして下さいました。準備は完了しその上で招いておられるのです。
 第二に神は熱心に招いておられます。招かれた人は色々な事を言い訳にして断りましたが、それでも主人は何とかして宴会に人を招こうとしました。現在もキリストの招きを色々な事を言い訳に断る方が大勢おられますが、それでも主は熱心に人々を救いへと招いておられるのです。
 第三に神は私達を遣わしておられます。しもべは主人に従い遣わされた所で様々な方を招きました。これは私達クリスチャンに委ねられている大切な働きです。私達は主の仰せの通りに、遣わされた所でイエス様をお伝えし教会に招きたいのです。


<聖書のことば>
主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。
ルカの福音書 14章23節






「弱き者に寄り添われる主」
マルコの福音書6章53~56節

2014年8月17日 第3聖日 牧師 長江忠司

 イエス様たちが乗った舟がゲネサレに着くと、人々は集まり病人を連れて来ました。そして主は彼らを癒されたのです。ここから3つの登場人物に分けて、教えをいただきましょう。
 第一に、走り回って魂を連れて来たゲネサレの人々です。彼らは主だとわかると、くまなく走り回り病人たちを主の元に連れて来ました。主も公生涯において、魂を追い求めて村中を回られました。今、主はその働きを私達クリスチャンに委ねられています。
 第二に、素朴で素直な信仰を持っていた病人たちです。彼らは噂を聞いたのでしょう。主の着物に触れるだけで癒されると信じて手を伸ばしました。たとえ僅かな事しか知らなくても、聞いた事を信じて応答する信仰が彼らにはあったのです。
 第三に、弱き者に寄り添われた主です。主は5千人の給食の時にはすぐにその場を去られましたが、この時は時間を取り彼らと向き合い癒されました。主こそ、私達と同様に、いやそれ以上に苦しみや悲しみを経験されました。このお方が私達の苦しみを理解し寄り添って下さっているのです。
 私達の弱さを理解し同情して下さるお方が共におられることをおぼえて、思いを打ち明け、大胆に恵みの御座に近づくようにしましょう。


<聖書のことば>
イエスがはいって行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。
マルコの福音書 6章56節






「足を踏み出す信仰」
マタイの福音書14章23~33節

2014年8月10日 第2聖日 牧師 長江忠司

 本日はペテロの信仰から学びたいと思います。
 第一に、ペテロは主に近づこうとしました。彼は主の力を試した訳ではなく、純粋に主に近づこうとしたのです。ここに彼の主への愛が表れていると思います。私達も少しでも主の御そば近くに行きたいという思いをもつことが大切です。
 第二に、ペテロは主の呼びかけに応答し一歩を踏み出しました。「来なさい」と言われた主のおことばに応答し足を踏み出しました。彼はあれこれ考えたのではなく、ただ主のおことばだけを握りしめて足を踏み出したのです。私達もそのような信仰のレスポンスが必要です。
 第三に、ペテロは大切な霊的教訓を得ました。つまり主から目を離してしまうならば、霊的に落ちてしまうということです。また同時に、たとえ落ちたとしても、主に助けを求めるなら、主は憐みをもって助けを与えて下さるという教訓でした。
 ペテロの不信仰が注目されがちな箇所ですが、彼だけが信仰によって足を踏み出し、また体験をもって教訓をいただきました。彼こそが最も祝福を受けたのです。私達も船内にとどまっていないで、足を踏み出す信仰を持つ者でありましょう。


<聖書のことば>
イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
マタイの福音書 14章29節






「逆風が吹き荒れる中で」
マルコの福音書 6章45~52節

2014年8月3日 第1聖日 牧師 長江忠司

 5千人の給食の奇跡の後、熱狂した群衆を後にして、イエス様は弟子たちを強いて舟に乗らせました。ここから御教えを頂きましょう。
 第一に、時に強い逆風が吹くということです。強い逆風の為、彼らは思うように進むことができませんでした。それは信仰を働かせる訓練の時でした。クリスチャンの成長は逆風の時に与えられるとおぼえましょう。無風状態ではないのです。
 第二に、真に恐れるべきお方を恐れるべきことです。漕ぎあぐねている弟子たちに主は近づいて行かれましたが、幽霊と思い恐れました。それは本来恐れる必要の無い恐れでした。主を恐れていないと、他の様々なものを恐れるようになるのです。
 第三に、主がどのようなお方なのかをおぼえるべきことです。主は彼らに言われました。「しっかりしなさい、わたしだ。恐れることはない。」それは神の御名「わたしはある」を意味していました。彼らは主がどのようなお方であるのかをおぼえるべきでした。
 私達の人生にも必ず逆風が吹き荒れて来ます。しかし主は全てを支配しておられるのです。その時こそ、主により頼んで歩むように致しましょう。


<聖書のことば>
というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
マルコの福音書 6章50節






「五千人の給食の奇跡をとおして」
マルコの福音書6章35~44節

2014年7月27日 第4聖日 牧師 長江忠司

 よく知られている箇所ですが、弟子への訓練という非常に重要な教えがあります。弟子として、何を教えられるべきでしょうか。 
 第一に、信仰を用いて状況を見るべきことです。イエス様は群衆の為に食べ物を上げるようにピリポに言われました。彼は計算をして現実的否定的な答えをしましたが、主は弟子たちの信仰を試しておられました。私達も難しい状況の時こそ、信仰を用いて状況を見なければなりません。
 第二に、献げる時に神の祝福があることです。少年は僅かなお弁当を主に献げました。そうした時に、主はそれを祝福し用いて下さり、余る程に増やして下さったのです。今でも原則は同じです。献げる時に、主の祝福があります。献げなければ、本当の意味での主の祝福や豊かさを知る事はできないのです。
 第三に、主からいただいた愛を私達が分け与えることです。主は「あなた方で上げなさい。」と言われました。そして秩序をもっての着席、食料の配布、回収、余った食糧の勘定を弟子たちに命じられました。それらは、イエス様の昇天後、弟子たちだけで伝道して行く為の訓練だったのです。
 私達が弱くても構わないのです。大切なのは主の御力によって、キリストから受けた愛を人々に分け与えて行くことなのです。


<聖書のことば>
するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。人々はみな、食べて満腹した。
マルコの福音書 6章41~42節







「教会はキリストのからだ」
コリント人への手紙第一12章27節

2014年7月20日 第3聖日 牧師 長江忠司

 「教会」とは建物のことではなく、キリストによって世から呼び集められた者の集まりを意味します。私達は性別や年齢、生い立ち、性格、職業、考え方等が異なりますが 、キリストの体に連なる器官とされ一つとされているのです。それ故に交わりが非常に大切です。

 第一に、霊的成長の為に、交わりは不可欠です。
 横浜教会は人数が多く集われていますが、それでも交わりを大切にして歩んで来ました。それは素晴らしいことであり、主はそれを喜んでおられます。交わりが欠けてくると、信仰はひとりよがりなものとなってバランスを崩していきます。私達は兄姉を愛し交わることを通しても、霊的にバランス良く成長していくことができるのです。

 第二に、その基本姿勢は相手に与えることです。
 主は受けるよりも与える方が幸いであると言われました。受けることを期待していますと、必ず教会生活に不満を抱き呟くようになります。しかし、与える気持ちをもって集うならば、主はその方の信仰生活を祝福して下さいます。そして不思議なことですが、与えれば与える程に豊かに与えられて、更に与える者となるのです。

 私達は主のご計画の中で、主のお体である横浜教会の一員とさせて頂きました。その恵みをおぼえて、共に交わり与え合うようにしましょう。


<聖書のことば>
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
コリント人への手紙第一 12章27節







「羊飼いなる主に導かれて」
マルコの福音書 6章30~34節

2014年7月13日 第2聖日 牧師 長江忠司

 主は追って来た群衆をご覧になり、羊飼いのいない羊のように深く憐み、教え始められました。聖書は私達を羊に、イエス様を羊飼いにたとえています。羊飼いなる主はどのようなお方なのでしょうか。
 第一に、私達を正しく導いて下さるお方です。羊は視力が弱く、時に迷い出てしまいます。羊飼いはそんな羊を安全で正しい道へと導くのです。同様に主は、全てを通して私達を最善へと導いて下さるのです。
 第二に、私達を個人的に知って下さっているお方です。良い羊飼いは一匹一匹に名前を付けて呼んだと言われます。同様に主は私達に個人的な関心を注ぎ全てを知って下さり、それぞれお取り扱い下さっているのです。
 第三に、私達を守り平安を与えて下さるお方です。羊は怯えやすい動物で、よほど安全でない限り伏せることはないと言われます。しかし良い羊飼いの元にいる時に、羊は伏せて休みます。同様に、命を捨てて私達をお救い下さった主が共におられると信じる時に、私達は世では与えられない主の平安を頂くことができるのです。
 私達は無力な羊でも構わないのです。素晴らしい羊飼いなる主が導いて下さっていることをおぼえて、よくその御声を聞き、お従いする羊でありましょう。


<聖書のことば>
イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。
マルコの福音書 6章34節






「死に際しても主の恵みは豊かに」
マルコの福音書 6章22~29節

2014年7月6日 第1聖日 牧師 長江忠司

 バプテスマのヨハネの死について先週学びましたが、どうしてヨハネのような人が死ななければならないのかと疑問に思う方もおられるでしょう。今日は、人の命と死について学びましょう。
 第一に、命は神の御手の内にあることです。私達は自分の支配下に命があるように錯覚してしまいがちですが、そうではありません。ただ神の摂理の中で生かされていることを認めなければならないのです。
 第二に、私達の国籍は天にあることです。この地上が主体で、御国については入ってから考えるというのであってはいけません。地上の人生は、御国に入る前の準備期間でしかないのです。
 第三に、死に際しても神の恵みが豊かにあることです。死ぬ際にも主は共にいて下さいます。死後に罪に定められることはありません。天にある永遠の家に迎え入れられます。永遠に主と共に過ごします。そのように、死に際しても、その先にも、多くの恵みが備えられているのです。
  確かに死は突然やって来ます。でも、これらの事を覚えて歩んでいれば、地上主体の人生から、御国主体の人生に変えられるのではないでしょうか。許されている今日という日、主の為に精一杯生きましょう。


<聖書のことば>
そこで王は、すぐに護衛兵をやって、ヨハネの首を持って来るように命令した。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。
マルコの福音書 6章27~28節







「ヨハネの死を通して教えられること 」
マルコの福音書 6章14~29節

2014年6月29日 第5聖日 牧師 長江忠司

 ヘロデはバプテスマのヨハネの首をはねて殺しました。ヨハネの死を通して、3つのことを学びましょう。
 第一に、神の基準であるおことばに従うべきことです。ヘロデもヘロデヤも自分の欲望に従い、神の律法に背いて一緒になりました。それに対してヨハネは神のおことばに従い歩みました。私達は何の基準に従うのかを明確にしておくべきです。この世半分、みことば半分であってはならないのです。
 第二に、今日という日に悔い改めるべきことです。ヘロデは主から何度も悔い改める機会を与えられていましたが、悔い改めなかったので、最後は悲惨な歩みをしたと言われます。主は私達を愛し、悔い改めて主の御元に戻って来るのを待って下さっています。
 第三に、自分の務めを全うすべきことです。ヨハネはイエス様を指し示すという使命がありましたが、その通りに活躍し、また死んでいきました。彼は使命に生き、生涯を全うしたのです。私達も同様に使命を全うする者でありたいのです。
 主は一人一人に使命を与えておいでです。たとえ人から認められなくても、主から与えられた使命を全うする人生を送りましょう。


<聖書のことば>
人々は、「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が、彼のうちに働いているのだ。」と言っていた。
マルコの福音書 6章14節







「十二弟子の派遣」
マルコの福音書 6章7~13節

2014年6月22日 第4聖日 牧師 長江忠司
 イエス様から弟子訓練を受けてきた弟子たちがいよいよ伝道に遣わされます。その上での心構えが教えられています。私たちは何を教えられるでしょうか。  
 第一に、私達は世に頼ってはならないことです。主は最低限のもののみを持って行くことを許されました。弟子たちが物質的なものに頼らず神に頼るべきことを教えようとされたのです。
 第二に、私達には福音を伝える使命と責任が与えられていることです。私達はキリストを伝える為に生かされ遣わされています。救いに導く責任は与えられていませんが、伝える責任は与えられているのです。
 第三に、私達は主におぼえられていることです。平行箇所を見ると、雀の一羽でも主におぼえられている事が教えられています。ましてや、主は私達を愛し大切に思い配慮して下さっています。その愛は十字架に証明されています。
 私達は主に覚えられています。このお方は信頼できるお方です。恐れないでお伝えして行きましょう。


<聖書のことば>
また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。
マルコの福音書 6章7節






「父親がなすべきこと」
エペソ人への手紙 5章25~33節

2014年6月15日 第3聖日 牧師 長江忠司

 本日は父親がなすべきことについて、共に学びたいと思います。
 第一に妻を愛することです。夫婦が愛し合っている時に、子供は他の何ものによっても得られない安心感を得ることができます。夫はキリストが教会を愛された如くに、妻を愛し犠牲を払うべきなのです。
 第二に主の教育と訓戒によって子供を育てることです。世には多くの教えがありますが、主のおことばにより教え導くことが大切です。
 第三によき励まし手となることです。聖書には互いに励まし合うように繰り返し教えられていますが、父親こそその役目を担うべきです。その為にも家庭内によく目を配り、心を配る必要があります。
 主は父親に家庭での権威を与えられました。それ故に父親の責任は重大です。ですから父親は主により頼み、知恵を頂いて家庭を築くようにしましょう。また家族は父親の為に祈るようにしましょう。そうした時に家庭は神の愛に溢れた素晴らしい場所となるのです。


<聖書のことば>
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。         
エペソ人への手紙 5章25節







「郷里の人々の不信仰」
マルコの福音書 6章1~6節

2014年6月8日 第2聖日 牧師 長江忠司

 イエス様は再び郷里に戻られて、おことばを伝えられました。今日の箇所から何を教えられるでしょうか。
 第一に、人から受け入れられない現実があることです。主は公生涯において2回郷里 を訪れられましたが、2回共に民から拒絶されました。弟子たちはこの事を通して、伝道しても受け入れられない現実を学んだことでしょう。私たちが福音を伝えても受け入れられない事が多いですが、それは今もかつても変わりはないのです。
 第二に、先入観が信仰を妨害することです。ナザレの人たちはイエス様の生い立ちや家族を知っていましたので、そんな身近な者からメシヤが起こる筈がないと考えていました。その先入観が信仰を妨害してしまったのです。私たちも先入観を持ってしまうと、それ以上信仰が成長することはありません。
 第三に、不信仰が主の働きを制限することです。ナザレの人々の不信仰の故に、主は奇跡を行われなかったのです。主は私たちの信仰に働かれます。どんなに難しい状況であっても、信仰を働かせることが大事なのです。
 主は郷里の人々の不信仰を見て驚かれました。私たちの信仰はどうでしょうか。主が喜んで下さる信仰をもって歩みましょう。


<聖書のことば>
イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。
マルコの福音書 6章6節







「次の世代へ伝える」
申命記 4章7~10節

2014年6月1日 第1聖日 牧師 長江忠司

 今年度の目標は「家族にあかししよう」です。その上で大切なことは、次の世代へあかしし、信仰を継承していくことです。次世代に信仰を継承する為に、必要なことは何でしょうか。
 第一に、まず私たち自身が神の恵みを忘れないように、慎み深くあることです。かつてイスラエルの民はいとも簡単に主の恵みを忘れ主から離れてしまいました。すべては主の恵みであることを忘れてはなりません。
 第二に、次の世代に関心を持つことです。ともすれば私たちは、自分の世代が良ければそれでいいと考え、次の世代のことまで考えないことがあるかもしれません。もしそうであるならば、いずれ縮小することはあれ拡大することはないでしょう。10年後30年後50年後の教会を考えましょう。
 第三に、子供たちに教えていくことです。パウロは私にならうようにと言いました。私たちも言葉と模範的な態度によって、子供たちに主の素晴らしさや主と教会に仕えることについて教えることが大切なのです。
 次の世代に信仰を継承していくことが、明確な神のみこころです。私たちは家庭や遣わされた場所でしっかりあかしできるように、また、教会学校がますます祝福されていくように祈りましょう。


<聖書のことば>
イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」 
マルコの福音書 5章36節






「絶望的状況でおぼえるべきこと」
マルコの福音書 5章22~43節

2014年5月25日 第4聖日 牧師 長江忠司
 先週は先に、長血の女について学びました。 今日はヤイロの娘の癒しから学びましょう。
 第一に、主は妨害と思える出来事においても働いておられることです。会堂管理者のヤイロはイエス様に娘の癒しを求めましたが、長血の女という妨害が入った為に、娘は死んでしまいました。しかし、それは人間的観点から見ていたのであり、神の観点から見れば、長血の女の癒しは彼にとって励ましでした。
 第二に、主に信頼することを止めてはいけないことです。娘の死について聞いた時、恐らく彼は絶望し諦めたことでしょう。主はそんな彼に、「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われたのです。私たちも絶望的状況の時こそ、主に信頼する必要があります。
 第三に、主は人々のあざ笑いを驚きに変えられることです。人が聞くと馬鹿げていると思えるようなことでも、主に不可能なことはありません。あざ笑いを驚きに変えて下さる主に信頼することが大切なのです。
 私たちの人生においても、時に絶望的状況に陥ることがあります。しかしそのような時こそ、人の理解を超えた主の御業に期待して、主に信頼して歩みましょう。


<聖書のことば>
イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」 
マルコの福音書 5章36節






「苦しみから祝福の人生へ」
マルコの福音書 5章21~34節

2014年5月18日 第3聖日 牧師 長江忠司

 イエス様達は、会堂管理者ヤイロが娘の癒しを要求した為、ヤイロの家に移動しようとしていました。その途中で、長血の女の奇跡が起こりました。ここから教えられることは何でしょうか。
 第一に、主によりすがる信仰を持つことです。肉体的、経済的、精神的に苦痛を覚えていた彼女は、きっと直ると信じてよりすがる思いで主に触れようとしました。私たちもこのお方に解決があると信じて、よりすがる信仰が必要です。
 第二に、小さくても主は信仰にこたえて下さることです。彼女は癒し手という信仰しかなかったかもしれませんが、それでも主は豊かに応えて下さいました。小さな信仰しかないかもしれませんが、主はたとえ小さくてもその信仰を喜ばれ応えて下さいます。
 第三に、明確な信仰を持つように主は願っておられることです。主は誰が触ったのかご存知でしたが、敢えてたずねられました。彼女の信仰を明確にし、証し人として用いようとされたからです。
 彼女はその信仰の故に、苦しみから祝福の人生に変えられました。たとえ小さくても、主に触れようとする長血の女のような信仰が必要です。足を踏み出しておことばの真理に触れる者となりましょう。


<聖書のことば>
「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
マルコの福音書 5章34節







「あなたの母を喜ばせよ」
箴言 23章22~25節

2014年5月11日 第2聖日 牧師 長江忠司

 ここであなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませるようにと教えられています。
 まず、その理由について考えましょう。一つは、それが神様の絶対的なみこころだからです。時代と共に、この点が軽んじられる傾向にあるのかもしれませんが、神のみこころは変わりません。もう一つは、母親が惜しみなく愛を注いでくれたからです。父親も勿論なのですが、母親程に、全ての時間をささげて私たちを愛してくれた存在はいないのではないでしょうか。それ故に、私たちは母親を楽しませ喜ばせるべきなのです。
 次に、どのようにして、母親を喜ばせるべきでしょうか。第一に、感謝の気持ちを伝えることです。感謝の言葉は母親の疲れを吹き飛ばすことでしょう。第二に、母親の教えを守ることです。母親は子供の為を考えて導こうとします。だから、感謝して従うことです。第三に、主にある確かな歩みをすることです。幾らこの世的に成功したとしても、主から離れてしまうなら、本当の祝福はありません。主にお従いしてこそ祝福され、母親も喜ぶのです。
 母親を悲しませることは非常に大きな罪です。母親を喜ばせることは、主に従うことであり、大きな祝福も伴うのです。


<聖書のことば>
「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。」
箴言 23章25節






「主の愛を人々へ」
マルコの福音書 5章1~20節

2014年5月4日 第1聖日 牧師 長江忠司

 向こう岸へ渡ったイエス様と弟子達は、ゲラサ人の地に着きました。そこで悪霊につかれた者たちに会ったのです。登場人物を中心に見て行きましょう。
 まず、悪霊につかれた男性です。彼は墓場に住み、自分の体を傷つけ、夜昼なく叫び続けるような生活をしていました。他の人のみならず、彼自身さえも、自分を制御することができなかったのです。悪魔は今でも形式の違いこそあれ、人をそのように縛り付けて来ます。
 次に主イエス・キリストです。イエス様は誰もどうすることもできなかった彼から、おことばにより悪霊を追い出されました。ここから、主のおことばの絶対的な権威と、また、イエス様の彼への愛を学ぶことができます。
 最後に、癒された男性です。彼は感謝に満たされ、主にお伴することを願い出ました。しかし主は、家族の元へ行き、証しするようにと言われたのです。主は彼の住む異邦人の地で魂が救われることを願われたのです。
 私たちもかつては悪魔に縛られ不自由さを覚えながら滅びに向かう者でした。しかし主は恵みによりお救い下さったのです。主は私たちを家庭や地域、職場や学校へと遣わされています。私たちも主がどんなに素晴らしいことをして下さったのか、その愛を人々へお伝えしましょう。


<聖書のことば>
「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
マルコの福音書 5章19節






「救いの証しについて」


2014年4月27日 第4聖日 牧師 長江忠司

 横浜教会では、礼拝の時間に教会員の兄弟姉妹に救いのお証しをしていただいています。その際に、気をつけるべき事について再度確認しましょう。
 第一に、それは救いの証しをすることです。近況報告や最近教えられたことを語るのではありません。イエス・キリストとどのように出会ったのか、どのように信じるに至ったのか、そして今どのようになったのかについて証言する時間です。テーマはただ一つ、「救い」であるということを覚えましょう。
 第二に、勧めは必要ありません。勧めは説教の中で語られます。証しをする人は、証人として立てられているということを覚えましょう。
 第三に、時間を守ることです。時間は3分、長くても5分です。礼拝の中心は神のおことばが語られるメッセージですので、証しが長くならないように、時間内に収まるように準備しましょう。
 第四に、主に栄光を帰することです。主を証しする筈が、いつの間にか自分自身をアピールしてしまいがちです。ただただ、キリストが崇められるような内容となるように、よく祈って準備しましょう。
 主が救いの証しを祝福して下さり、聞かれた方が主を崇めますように。 


<聖書のことば>
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。
コリント人への手紙第一 15章10節a






「生ける望み」
ルカの福音書 23章50節~24章11節

2014年4月20日 第3聖日 牧師 長江忠司

 神の御子イエス・キリストは全人類の罪の身代わりに十字架にかかり死んで下さいました。墓の中に葬られました。しかし、主は死んで3日目によみがえられたのです。
 主が復活された客観的な証拠について確認しましょう。第一に、日曜日を主の日として礼拝するようになりました。安息日である土曜日を厳守してきた彼らでしたが、主が復活されたからこそ、週の初めの日に礼拝するようになったのです。第二に、キリスト教会が誕生し広がって行きました。仮に復活されていなかったら、当然そのまま消滅していたことでしょう。第三に、弟子たちが劇的に変えられたことです。恐れ逃げていた彼らが、復活された主に出会ってから全く変えられました。彼らは真実の為に、命をかけて伝えていきました。
 次に、主の復活を踏まえて、覚えるべきことは何でしょうか。第一に、私たちもよみがえらせて頂けることです。死んで終わりではありません。キリストを信じない者は裁かれて永遠の滅びに入れられますが、信じ救われた者はやがて肉体もよみがえらされ御国で永遠に過ごすことができるのです。第二に復活の主が私たちと共にいて下さることです。死んだまま動くことのないお方ではありません。生きて働かれる主が、私たちと共にいて下さいます。何と幸いなことでしょうか。この生ける望みから目を離さないで歩む様にしましょう。


<聖書のことば>
神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
ペテロの手紙第一 1章3節






「十字架の主を見上げる」
マタイの福音書 27章22~46節

2014年4月13日 第2聖日 牧師 長江忠司

 イースター礼拝を前にして、今日はもう一度、イエス様の十字架について学びましょう。十字架までの流れをかいつまんで説明させていただきます。
 まず、鞭打ちがありました。これはローマの特殊な鞭であり、数本の革紐に人を傷つける物が編み込まれていました。この鞭で打たれた主の体は既にズタズタになっており、出血多量状態であったと考えられます。
 次に十字架への道です。意識朦朧としていた主は途中でかつぐことができなくなりました。次に十字架につけられました。両手と両足に太く長い釘が打たれました。十字架ではすぐに死ぬことはできませんでした。想像を絶するような苦しみが長く続くという処刑方法でした。
 更に主は、人類の罪を負われましたので、父なる神様から断絶されました。主はまさにのろわれた者となって死んで下さったのです。
 私たちはこの十字架を見上げつつ、何を覚えるべきでしょうか。
 第一に、主の十字架の御苦しみです。確かに私たちの人生にも苦難はやって来ます。でも、主の苦しみを考えるなら、忍耐する力が与えられます。
 第二に、主の十字架の愛です。今も十字架の愛が私たちに注がれています。十字架の主を見上げることが勝利の為の秘訣なのです。


<聖書のことば>
三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
マタイの福音書 27章46節






「人生の嵐において」
マルコの福音書 4章35~41節

2014年4月6日 第1聖日 牧師 長江忠司

 夕暮れ時、イエス様は弟子達と共にガリラヤ湖の向こう岸へ渡ろうとされていました。そこで突然嵐がやって来たのです。この嵐を人生の試練という意味でとらえて見て行きましょう。
 まず覚えるべきことは、人生において、必ず試練はやって来るということです。この出来事が起きたのは丁度イエス様の一連のメッセージが語られた同じ日でした。彼らは聞いたみことばを頭で理解するだけでなく、自分のものとする必要がありました。それで主は彼らを試みられたのです。
 次に、人生の嵐を乗り越える為に大切なことは何でしょうか。
 第一に、神の約束に堅く立つことです。彼らは「向こう岸へ渡ろう」という主のみことばを心に留める必要があったのです。それは種まきのたとえで学んだことでした。
 第二に、共におられる主に信頼することです。彼らは最初自分で何とかしようと努力したのでしょうが、できなくなると主を責めました。それは彼らが主を信頼していない証拠でもありました。全てを支配しておられる主に信頼することを学ばなければならなかったのです。
 新年度が始まりました。今年も必ず試練はやって来ます。それを主から来たものとして受け止め、主に信頼して勝利させて頂きましょう。


<聖書のことば>
イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
マルコの福音書 4章39~40節






「からし種のように」
マルコの福音書 4章30~34節

2014年3月30日 第5聖日 牧師 長江忠司

 今日はからし種のたとえ話から学びましょう。イエス様は神の国はからし種のようですと言われました。驚く程に小さなからし種から3~4メートル程もある木に成長します。その対照性が強調されています。私たちはここから警告と励ましをいただくことができます。
 まず警告として、それ程にこの地上で教会が祝福された時に、悪魔の働きも大きくなるということです。それは今も昔も同じであり、初代教会の頃に既に誤った偽の教えが入り込んで来ていました。私たちは警戒しなければなりません。
 次に、励ましは何でしょうか。
 一つは、他に良い影響を与える者となることができます。最初は無名の田舎出身のイエスの弟子達から始まりました。しかし、彼らは大胆に伝え、ペテロが語った時には3000名が救われたのです。
 もう一つは、小さな始まりに気落ちしてはならないことです。キリスト教は最初は極めて少数の集まりでした。しかし、多くの迫害があったにもかかわらず、今世界中にキリストを信じる民がいるのです。私たちの周りに、クリスチャンが少ないからといって気落ちする必要はありません。主はそこから大きく成長させて下さるのです。
 新年度、からし種のように成長させていただきましょう。


<聖書のことば>
それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」
マルコの福音書 4章31~32節






「証しする者の心得」
マルコの福音書 4章26~29節

2014年3月23日 第4聖日 牧師 長江忠司

 種蒔きをするたとえ話から学びましょう。種まく人は語る人、証しする人のことであり、種はみことばを意味しています。

 まず、証しする人の心得について学びましょう。
 第一に、自分の力で実を結ばせることはできないことです。私たちは熱心に伝えるべきなのですが、しかし発芽させ実を結ばせるのは神であることを覚える必要があります。
 第二に、成長には時間がかかることです。種がいきなり実を結ぶことがないように、蒔かれた種もいきなり実を結ばせることはほとんどありません。
 第三に、収穫の時はやって来ることです。種は生きて力があります。時が満ちたなら、必ず実を結ばせるのです。私たちはそのビジョンを持つことが必要です。

 それら心得を持ちつつ私たちがなすべきことは何でしょうか。
 一つは忠実に種を蒔くことです。神が私たちに与えられている責任は、その方に救いを与えることではなく伝えることです。
 もう一つは忍耐をもって待ち続けることです。

 新年度の目標は「家族にあかししよう」です。正しい心得を持ちつつ取り組んでまいりましょう。


<聖書のことば>
また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
マルコの福音書 4章26~27節






「主の宮のために献げる」
エズラ記 1章1~6節

2014年3月16日 第3聖日 牧師 長江忠司

 エズラ記は、イスラエルの民が70年間、バビロンに捕囚された後に、エルサレムに帰還し、主の宮を再建したことが記されています。全体を通して、御教えをいただきましょう。
 第一に、主が宮を建てるように奮い立たされたことです。主はペルシャの王クロスに働かれて、彼の心を動かし宮を再建するようにとの命令を出させました。今でも主の宮を建てるように、教会の為に献げるようにと主が奮い立たされるのです。
 第二に、主の宮を建てる時に、敵の妨害があったことです。イスラエルの民が宮の礎を据えると、すぐに敵はやって来ました。そして執拗に妨害して来たのです。今でも、教会の為に献げようとすると多くの妨害が立ちはだかるのです。
 第三に、主のおことばに奮い立って、主の宮を完成させたことです。彼らは預言者たちを通してのおことばによって強められました。そして再び工事を始めることができたのです。私たちも主のおことばによって強められ、新会堂建築の働きを全うしたいのです。
 主の宮のために献げることは大変尊いことです。喜んで主のために献げるようにしましょう。


<聖書のことば>
ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。
エズラ記 1章1節






「聞く者の幸い」
マルコの福音書 4章21~25節

2014年3月9日 第2聖日 牧師 長江忠司

 今日は「明り」と「量り」のたとえ話から教えをいただきましょう。これらはいずれも「聞くこと」について教えています。
 どのようにみことばを聞くべきなのでしょうか。
 第一にしっかりと積極的に聞くことです。主は私達にみことばの真理の光を照らそうとしておられます。みことばによって私たちを成長させ輝かせたいのです。それ故に私達は積極的にしっかりとみことばを聞くべきです。
 第二に聞いているみことばに注意し従うことです。私達は聞いたみことばを無意識の内に吟味して、取捨選択してしまいがちです。しかし、その量りに応じて得るものは異なってきます。それ故に聞いたみことばに注意し受け止め従っていくことが大切なのです。
 次に、正しい態度でみことばを聞いた結果について考えましょう。主はそのような人に祝福を増し加えられます。逆に、正しい心で聞かないならば祝福を逃すことになり、いずれみことばを聞く機会すら失われてしまいます。
 今日も主はみことばの光を輝かせ真理を届けようとしておられます。私達はどのような態度でみことばに心を向けているでしょうか。主の御声にしっかりと耳を傾ける人は幸いです。聞く態度が明日の私達を形成します。ですから今日も、しっかりとみことばを聞いて従う者でありましょう。


<聖書のことば>
また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。
マルコの福音書 4章24節






「いきいきとした礼拝」
ヨハネの福音書 4章24節

2014年3月2日 第1聖日 牧師 長江忠司

 教会学校の基礎クラスのテキストに、いきいきとした礼拝を献げることについて、6つの項目で教えられています。
  1. 心地よい緊張感をもって
    私の一番尊敬する方(キリスト)にお会いする。おことばを聞かせて下さい。服装を整え、時間を守って。
  2. 明るい気持ちで
    喜びにあふれ、賛美の心で。
  3. こまやかな心配りを
    説教者に礼節をもち廻りの方(高齢者、障がい者、新来者)に気配り。
  4. 礼拝後に信仰の交わりを
    礼拝前後は静かに黙想を。メッセージに感謝し豊かな交わりを。それらの後でご奉仕に。
  5. 子供も親と共に礼拝参加
    訓練としてしつけ、礼拝堂では騒がず静かに。飲食はせず、親も共に静かに祈りに参加する。
  6. 礼拝の奉仕者は全力で祈り、協力して仕える準備を。
【教会学校基礎クラステキストより】

 正しい態度で礼拝にあずかっているか、自分自身を点検しましょう。


<聖書のことば>
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
ヨハネの福音書 4章24節






「神に期待せよ」
イザヤ書 40章27~31節

2014年2月23日 第4聖日 宣教牧師 山宮利忠

 人は、何を期待し求めるかによって生涯が決まります。一生を終えるにあたって自分の生涯を振り返えり価値ある充実した生涯であったと言える人は幸いであり、しかも更にその先に希望を持てる人は、もっと幸いです。
 混乱した時代に生きた旧約最大の預言者イザヤは神のことばとしてバビロン捕囚の苦しみの向うに神の救いの計画を語ります。その回復の章の始めが、この40章です。

 まず、神を待ち望めと勧めます。(31)
 信仰とは、神に期待することです。己の力の限界を知る賢い人は、人の当然の在り方として、創造主なる神に拠り所を求めます。人生の最後に自分を守ることができないものは、真の救いとはなりません。神は、人の期待を裏切ることをなさらないお方です。

 その人は、新しい力をいただくことができます。
 これは、上よりの力であり、キリストによって示された真の力です。罪の赦しの安らぎであり、神が共にいて下さることから生れる勇気であり、死に勝利した復活のキリストから約束された永遠への希望の力です。

 そして、鷲のように上ることができるのです。
 下る人生ではなく、上る人生を歩むことができます。若者もやがては老い人生の終末を迎えます。その時尚期待し、それに応えて下さる方こそ主です。


<聖書のことば>
若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
イザヤ書 40章30~31節






「信仰約束献金」


2014年2月16日 第3聖日 牧師 長江忠司

 信仰約束献金とは、宣教の為に、神に約束し信仰によってささげていく献金を意味します。主のご命令に従い、宣教の使命を果たしていく為に、非常に大切なささげものです。私達が宣教の為にささげるならどうなるのでしょうか。
 第一に、主の働きの同労者となることができます。宣教地で働くのも日本国内で祈りささげるのも、主の目から見れば大きな違いはありません。宣教の為にささげるならば、私達も宣教師とみなされます。
 第二に、ささげる者が祝福されます。聖書は宣教の為にささげることを種蒔きに譬えて教えています。宣教の為に蒔くならば必ず刈り取り、蒔いた以上に刈り取ることになります。神はささげる者自身を祝福し、あらゆる面において恵みで満たし溢れさせて下さるのです。
 第三に、祝福が全体に及ぶようになります。ささげた者やささげられた宣教師だけが祝福を受けるのではありません。その祝福は溢れ出て全体へと及ぶようになるのです。
 私は個人的に、宣教の為にささげることがとても楽しみです。主は私達の宣教に対する態度に注目しておられます。喜んでおささげしましょう。
 第二コリント9:7「神は喜んで与える人を愛して下さいます。」


<聖書のことば>
涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。              
詩篇 126篇5~6節






「実を結ぶ人生へ」
マルコの福音書4章1~20節

2014年2月9日 第2聖日 牧師 長江忠司

 このたとえ話で種は神のみことば、種まく人はイエス様であり伝える者、そして4つの土壌はみことばを聞く人の心を意味しています。

 まず道端の心。こういう人は神のみことばに無関心であり、故意に耳を塞ぎます。ですから心にみことばが入ることがなく、サタンは持ち去ってしまいます。
 次に岩地の心。この人は喜んでみことばを聞くのですが、堅い自我があり、根を張ることがありません。それで枯れてしまいます。
 また、茨の地の心。この人もみことばを聞くのですが、同時に世のことが心を支配しているので、成長を塞いでしまい、実を結ぶことがありません。
 最後に、良い地の心。この良い地だけが実を結びました。

3つの段階が考えられます。
 一つ目に、よく聞くことです。主は最初に「よく聞きなさい」と言われました。素直で純真な良い心でみことばを聞くことが不可欠です。
 二つ目に、みことばを実行することです。聞くだけでなく、従って初めて主は働かれます。
 三つ目に、主に信頼し忍耐することです。種を蒔いてすぐに芽を出し実を結ぶ訳ではありません。そこには信仰による忍耐が必要です。時が来れば必ず主が実を結ばせて下さるのです。

 実を結ぶ聞き方をしましょう。


<聖書のことば>
良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。
マルコの福音書 4章20節






「まことの兄弟」
マルコの福音書3章31~35節

2014年2月2日 第1聖日 牧師 長江忠司

 イエス様の身内の者たちが、「気が狂った」という噂を聞いて連れ戻しにきました。しかし主は、弟子たちを指して「私の母、兄弟たちです。」と言われました。血のつながりのある家族よりも密接な関係があると言われたのです。
 それはどのような人だったのでしょうか。第一に、イエスキリストを信じて救われている人です。神のみこころは人が御子を信じて救われて永遠のいのちを得ることです。第二に、神のみことばを聞いて行う人です。不完全であっても、主のおことばに従いたいと志す人のことです。
 これらを踏まえて、私達が覚えるべきことの一つは、この家族関係は永遠に続くことです。それ故に教会の兄弟姉妹を愛し大切にするべきです。もう一つは、神のみこころにこそ従うべきことです。神のおことばを聞いても行わないなら、残念な歩みをしなければなりません。この世や自分の思いよりも、主のみこころにお従いすることこそ、祝福の源なのです。
 私達も主から「私の兄弟たち」と呼ばれる者でありましょう。


<聖書のことば>
神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。    
マルコの福音書 3章35節






「あわれみ深く」
マタイの福音書18章21~35節

2014年1月26日 第4聖日 宣教牧師 山宮利忠

 福音の大きな柱は、神のあわれみによる罪の赦しです。このたとえの中心となる教えは、あわれみであり、あわれみを受けたものだからこそ、他にあわれみをもって接しなさいというキリストの教えです。

 先ず、大きなあわれみによって赦されたしもべがいます。
 1万タラントの意味するところは、返済不可能で、人の神の前における罪深さをあらわしています。たとえ返済しますと言ったとしてもできない姿に主人はあわれみをもって全てを赦します。神のあわれみは、十字架のキリストにおいて最大にあらわされている事を知って、ただただそのあわれみにすがって罪赦された者がキリスト教徒です。ここには、どれだけ大きな負債を負っていたものであったかを知る度合いが問われています。この自覚の多少が、クリスチャンの生き方を決めると言ってよいでしょう。

 次に、主は、100デナリの貸しを赦せなかったしもべを示します。
 借財に対して悪い奴と言わなかった主人は、あわれみの心をもって赦さなかったしもべを悪い奴とよんで牢につなぐのです。あわれみを受けた者が、人にあわれみをもって接することをしなかったことは、神の前に万死に価する大きな罪と言わんばかりです。たしかに負債の返済要求は、正しい事です。しかし、あわれみは、その正しい権利を越えたものであり、主の十字架の赦しは、まさしく審きの権利を捨てた大いなるあわれみの模範なのです。


<聖書のことば>
お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
エペソ人への手紙 4章32節






「ベルゼブル論」
マルコの福音書3章20~30節

2014年1月19日 第3聖日 牧師 長江 忠司

 第一に、キリストに対する反応についてですが、全く認めようとしない人がいたことがわかります。イエス様のことを気が狂っていると言う人や、主の御業を悪霊によるものだと言うパリサイ人達がいました。彼らは人間では成しえない業を見ておきながら、イエス様に対して完全に心を閉ざしていましたので、信じる事ができなかったのです。今の時代でも、心閉ざしているならば、どんなに素晴らしいおことばも心には入りません。
 第二に、赦されない罪について見ましょう。主は彼らの言動に対して、赦されない罪があると述べられました。これには幾つかの解釈がありますが、その一つは聖霊を汚し拒絶する罪のことです。人に罪を認めさせ信仰に導き新生させる聖霊を拒むなら、誰も罪を赦されることはできないのです。しかしキリストは既に贖いの業を完成されていますし、救われた私達を絶対に見捨てないと約束されていますので、クリスチャンが心配する必要は全く無いのです。
 私たちはただただ神の恵みによって救われました。私たちはそんな恵みに応答していくべきですし、またこの恵みの時に、まだ信じていない周りの方々にしっかりと福音をお伝えするようにしましょう。


<聖書のことば>
しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。
マルコの福音書 3章29節






「十二弟子の任命」
マタイの福音書25章14~29節

2014年1月12日 第2聖日 牧師 長江忠司

 イエス様はある時、十二弟子を任命されました。 弟子の使命は、第一に福音を宣べ伝えることであり、第二に互いに愛し合うことです。
 次に、十二弟子の任命と結果についてですが、第一に、キリストが選び集められたということです。それは弟子たちが特別に優れていたからではなく、ただキリストの主権により選ばれたのです。私たちも自分が何か偉くて相応しくて選ばれたのではなく、ただ主の主権により選ばれ、憐みにより救われたことを覚える必要があります。第二に、キリストが異なった者たちを選び集められたことです。十二弟子を見る時に、非常に多種多様で異なった性質や賜物を持った者たちが集まられたことがわかります。教会もこれと同じで、多種多様な方が集められています。ですから、異なった性質を持った人のことを批判してはいけないし、逆に互いに受け入れ合うべきなのです。第三に、キリストによって変えられたことです。 他の箇所を見る時に、弟子たちが見事に変えられて行ったことがわかります。
 教会もキリストによって呼び集められた者たちの集まりです。キリストの家族の一員とされたことをもう一度主に感謝しましょう。そして、主が命じられているように、私たちも互いに愛し合い、福音を伝えることに熱心な者でありましょう。


<聖書のことば>
そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
マルコの福音書 3章14~15節






「賜物を用いる」
マタイの福音書25章14~29節

2014年1月5日 第1聖日 牧師 長江忠司

 賜物とは、神から与えられた能力や肉体的、物質的なもの全般を意味します。タラントのたとえ話を中心に、賜物について学びましょう。
 まず、賜物についてですが、第一に全ての人に与えられています。与えられていない人はおりません。必ず与えられており、しかも十分な量が与えられています。第二にそれぞれに異なったものが与えられています。それ故に、賜物について誇ったり、逆に自己卑下したりするのは間違っています。第三に教会で互いに仕え合う為に与えられています。自分自身の為に与えられているのではありません。主の為であり、主の教会の為、兄姉が互いに仕え合う為に与えられているのです。
 次に、主の為に賜物を用いるなら、どうなるでしょうか。第一に主によって豊かに用いられます。主にささげればささげる程に用いられます。第二に主によって豊かに報われます。それらは決して無駄になることはありません。主は必ず報いて下さるのです。
 最後に、どのように賜物を用いるべきでしょうか。第一に喜んでささげることです。第二に忠実に用いることです。私たちはいつまで生かされるかわかりません。いずれ清算する時がやってきます。今年、賜物を土の中に埋めずに忠実に用いる者でありましょう。


<聖書のことば>
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
マタイの福音書 25章21節