聖書からのメッセージ


【礼拝説教要旨】

「主への感謝を忘れない」
ルカの福音書17章11~19節

2013年12月29日 第5聖日 牧師 長江忠司

 10人のらい病人達は病気が癒されるようにイエス様に熱心に求めました。主は彼らの信仰をご覧になり、自分を祭司に見せるようにと言われました。彼等はその行く途中で癒されたのです。しかし、帰ってきたのはサマリヤ人たった1人だけでした。
 まず初めに、私達は恩を忘れやすく、主に感謝することが少ないということです。9人は求める事には熱心でしたが、主への感謝が欠けていました。私たちもそんな9人と似ている所があるのではないでしょうか。
 次に、どうしたら恩を忘れず、主に感謝して歩めるでしょうか。第一に、誰から恵みを受けたかを覚えていることです。第二に、かつての自分の状態を覚えていることです。
 最後に、主への感謝を忘れないなら、どうなるでしょうか。第一に、私たちに変化が表れます。優先順位、言葉、態度が変わります。感謝している人とそうでない人とでは、それらは全く異なってきます。第二に、主に用いられる者となります。彼はこの後、証し人として遣わされました。
 私達は9人とよく似ています。恩を忘れて、主から「どこにいるのか」と言われないようにしましょう。どれだけ多くの恵みを主から受けたかを思い出し、日々主に感謝して、主に用いられる者となりましょう。

<聖書のことば>
そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
ルカの福音書 17章17~18節






「最高のプレゼント~東方の博士達の来訪」
マタイの福音書2章1~12節

2013年12月22日 第4聖日 牧師 長江忠司

 神の御子イエス・キリストがお生まれになられた時に、東方の博士達が拝みにやって来ました。この東方というのがどこであるのか明白ではありませんが、バビロンかペルシャ、アラビヤではなかったかと考えられています。彼らは天文学などに通じていた学者でした。キリストを礼拝する為に、東方で見た星に導かれてエルサレムにやって来たのです。ここから教えられることは何でしょうか。
 第一に、神は神から遠く離れている人を招いておられることです。エルサレムの上空ではなく、遠く離れた異邦人の地である東方の上空に、その星は輝きました。主は神から遠く離れている民を導かれたのです。それは今でも同じであり、主は神を信じず、また信じても離れているような人を招いておられます。
 第二に、神は最高の愛を与えて下さったということです。キリストは人類の身代わりとなる為に、人となって来られ、最終的に十字架にかかって死なれました。葬られた後、3日目によみがえられて、今も天国で生きておられます。このお方を信じるだけで救われることができるのです。神はひとり子を与える程に、私たちに最高の愛を与えて下さいました。
 東方の博士達は自分たちのできる全てをもって拝みに来ました。私たちも素晴らしい主に最高を献げるようにしましょう。

<聖書のことば>
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネの福音書 3章16節






「ザカリヤへの御告げ」
ルカの福音書1章5~25節

2013年12月15日 第3聖日 牧師 長江忠司

 御使いが祭司ザカリヤに現れ、イエス様の先 駆者として活躍するバプテスマのヨハネの誕生を告げました。この箇所から学びましょう。
 第一に、私たちの祈りは覚えられていることです。ザカリヤとエリサベツ夫妻には子供がありませんでした。彼らは祈っていましたが、今や年をとり諦めていたようです。また、イスラエルの民はメシヤの到来を祈っていました。その両方の祈りを主は覚えておられ、ここで応えられたのです。私たちは祈りを止めてしまってはいけません。
 第二に、神の前に静まる時が大切であることです。男の子をみごもることを聞いても、彼は信じることができませんでした。その不信仰の故に、口をきけなくなってしまいました。しかし、彼はこの間に、主としっかりと向き合ったのでしょう。彼は口がきけるようになった時に神をほめたたえたのです。私たちも神の前に静まる時が必要なのです。
 第三に、絶望の時こそ、主に信頼すべきことです。彼は御使いの言う事を信じる事ができずに、しるしを求めました。それは人間のレベルに神をおとしめる行為でした。私たちも絶望の時こそ、神が働かれることを信じ頼るものでありたいのです。
 ザカリヤ達はこの出来事を通して更に信仰が強められたでしょう。私たちもこのクリスマス、主を信じてもう一歩前進し成長致しましょう。

<聖書のことば>
そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」
ルカの福音書 1章18節






「あらゆる境遇に対処する秘訣」
ピリピ人への手紙4章10~20節

2013年12月8日 第2聖日 宣教牧師 山宮利忠

 人は境遇が変ったり、生活の変化が起ったりすると大きく動揺する事があったり、願い通りにならない事や、自分の思いと異なることがされると不満や呟きが生じます。パウロは、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていると言う時、豊かさや貧しさに対する事だけでなく、生活全般に渡っての対処でしょうから、あらゆる事に満されている秘訣を私達も学ぶ必要があります。
 では、その秘訣は何でしょうか。それは、「私を強くしてくださる方によって」(13)なのです。このお言葉は、何を意味するのでしょう。

第一に、キリストによって見ることです。
 自分の目で生活上起る事を見る時、自分の思いが出て不満や不平が出てくる事が多く、心が乱れます。しかし、主の視点で自分の境遇を見る時、そこに神の摂理のすばらしさを知る事ができます。

第二に、キリストを思うことです。
 キリストによって教えられた事、キリストの模範を思うことにより、自分の行動を整えることです。これはクリスチャン生活の原則ともいえるものです。自分の心や気持ちを優先しようとすると混乱が起ります。

第三に、キリストによって強くされることです。
 キリストを意識し、キリストによってあらゆる境遇に対処しようとするところに、力が主によって与えられる、それをパウロは体験しています。

<聖書のことば>
私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
ピリピ人への手紙 4章12節






「キリストのご性質」
マルコの福音書3章7~12節

2013年12月1日 第1聖日 牧師 長江忠司

 イエス様の噂を聞いて、大勢の人々が主の元 へやって来ました。そして主は彼らを癒されたのです。マタイはその様子を見ながら、イザヤ書のメシヤ預言の成就を見ました。キリストのご性質について見ましょう。
 第一に、争わない柔和なお方です。安息日に片手のなえた人を癒された後、パリサイ人たちは主の命を狙うようになりました。しかし主は彼らと争うことを避け、退かれたのです。柔和さとはやり返す力があっても、相手を理解し思いやることです。主は生涯を通して、どこまでも柔和なお方でした。
 第二に、弱さを覚えている者を強めて下さるお方です。この時、大勢の人々がやって来ましたが、主は彼らを皆、癒されたことが書かれています。主は弱さを覚えご自身に頼って来る者を必ず強め立たせて下さるのです。
 第三に、父のみこころに従うお方です。主は誤ったメシヤ観が広がるのを防ぐために、ご自身のことを言い広めることを戒められました。そして、ご自身の時がまだ来ていないことを知っておられました。主は父なる神のみこころに従って行動しておられたのです。
 私たちは主の元に詰めかけた者のように主に拠り頼む者になりたいと思います。そして、主の霊を宿す者として、救い主の歩みとご性質に倣い、キリストに似た者となりましょう。

<聖書のことば>
また、ユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。
マルコの福音書 3章7~8節






「開拓期の心」
使徒の働き 2章43~47節

2013年11月24日 第4聖日 宣教牧師 山宮利忠

 福音を伝え始める時期を開拓期と便宜上呼び、母なる教会が他の地域に伝道を開始し、やがて自給自立するまでの期間を伝道所、自らの群れに牧師を招いて母なる教会から独立して教会として組織する時を発足(ほっそく)と言います。開拓期は、教会が教会を生むわけですから、子供が自立するのに似て、母なる教会の助けの内にありますが、独立すれば自立し、物心両面に於て、又霊的、信仰的にも一つの教会としての歩みが始まることになります。
 地域の教会の自主独立こそ聖書の教える教会の在り方で、使徒の働きに於ける初期の教会は、現在の教会の模範であり、教会の目指すところですが、この時期こそ教会として最も大切な時期と言えましょう。将来の教会の基礎が築かれる時であり、教会の体質が決まる時で、しかも最も力の必要な時です。
 私達の教会も勿論この開拓の時期がありました。初期の教会の特徴はいかなるものでしょうか。

第一に、心を一つにする一致でした。群れに特に必要な事は一致です。
第二に、喜びです。救いから生まれる喜びであり、聖徒の本質的性格です。
第三に、キリストの愛に満たされた交わりです。他への深い心遣いです。
第四に、不思議な主のみ業です。今、最大の不思議は、魂の救いです。

 このような聖徒の集まりが周囲の人々の好意を生み出し、そのような群れに主も魂をおあずけ下さったのです。初めの心や姿勢を忘れずにいましょう。

<聖書のことば>
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
使徒の働き 2章46~47節






「片手のなえた人のいやし」
マルコの福音書3章1~6節

2013年11月17日 第3聖日 牧師 長江忠司

 ある安息日に、パリサイ人たちは会堂でイエス様に質問しました。疑問があったからではなく、主を訴えたかったからでした。今日の箇所から教えられることは何でしょうか。
 第一に、自分に焦点を合わせてみことばを聞くべきことです。パリサイ人たちは会堂で主を礼拝するのではなく、ただイエス様の行動を監視していました。それは正しい礼拝の態度ではありませんでした。私たちも他の人を見るのではなく、主と自分自身に注目してみことばを聞く必要があります。
 第二に、心を頑なにせずに、おことばを受け入れるべきことです。彼らは安息日であっても自分の羊を助けました。そうであれば、人間を癒すことが正しいことは明らかでした。しかし彼らは認めようとしませんでした。心が頑なであったからです。私たちも心が頑なだと、素晴らしいおことばが心に入り実を結ぶことはないのです。
 第三に、主の愛と憐みが注がれていることを覚えるべきことです。主は言わば、赤の他人をお癒しになられました。それにより、命が狙われることを知った上での行動でした。その愛と憐みは十字架へとつながっていったのです。私たちはそんな主の愛と憐みが注がれていることを覚えるべきなのです。
 私たちはパリサイ人のようであってはなりません。片手を伸ばした人のように、主の呼びかけに素直に応じる者でありましょう。

<聖書のことば>
イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。
マルコの福音書 3章5節






「自分を低くする者の幸い」
マタイの福音書18章1~4節

2013年11月10日 第2聖日 牧師 長江忠司

 イエス様の弟子たちは、天の御国で誰が一番偉いのかを尋ねました。それに対して主は、小さい子どもを呼び寄せて、子どものように自分を低くする者ですと答えられたのです。まず、自分を低くするとはどういう事でしょうか。

 第一に、無力さを自覚していることです。子どもは生活していく為の力が無いことを自覚しています。
 第二に、信頼していることです。子どもは親に全面的に信頼しています。
 第三に、従うことです。わがままを言う事も多いですが、最終的に親に従います。私たちは神の御前で、自分を低くしているでしょうか。

 次に、自分を低くするならば、どのような祝福があるでしょうか。
 第一に、喜びと感謝に溢れて歩むことができます。謙遜な人は神の恵みに敏感であり、それだけ感謝し喜ぶことができます。それは状況によりません。
 第二に、多くのことを吸収することができます。謙遜で教えられやすい態度を取っていますので、それだけ多くのことを吸収することができるのです。
 第三に、試練に勝利することができます。謙遜である故に、主に頼ります。そして試練に勝利することができるのです。

 私たちは救い主の御前にへりくだるべきです。そして、祝福ある歩みをさせて頂きましょう。

<聖書のことば>
だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
マタイの福音書 18章4節






「安息日の主」
マルコの福音書2章23~28節

2013年11月3日 第1聖日 牧師 長江忠司

 パリサイ人たちは、イエス様の弟子たちが安息日に麦畑で穂を摘んで食べているのを 見て抗議してきました。口伝律法においてそれらは労働であり、やってはならない事と規定されていたからでした。主は安息日について説明され、真理を語られました。
 第一に、主は人の為に安息日を設けられたことです。人間が安息日の為に作られたのではなく、神は人の為に、すなわち肉体的、精神的、そして霊的安息の為に、安息日を設けられたのです。
 第二に、主は形式的なことよりも、愛や憐みを好まれることです。いけにえをささげることはとても大切な外面的礼拝行為でしたが、しかし主はそれよりも人への愛や憐みを好まれるのです。愛が無ければ、たとえ自分の体を焼かれる為に渡したとしても役に立たないのです。
 第三に、主は安息日の主であられることです。
 主にこそ、安息日に何をするべきかを決定する権威がありました。私たちはそのような安息日に主に、心から礼拝をささげるべきなのです。全てを献げる心をもって、最高の礼拝をささげるようにしましょう。
 私たちは礼拝を通して、魂に安息が与えられ、互いに愛し合い、心に励ましや喜びを頂くことができます。礼拝を最も大切なものとして位置付けて歩みましょう。

<聖書のことば>
「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」
マルコの福音書 2章27~28節






「みことばに対する正しい態度」


2013年10月27日 第4聖日 牧師 長江忠司

 本日、牧師はつくば伝道所、宣教牧師は米子教会に出向しています。横浜教会の礼拝は須山執事がメッセージして下さいます。みことばに対する正しい態度について、もう一度確認しましょう。

 第一に、砕かれた態度で聞くことです。
サムエルは主が語られた時に、「お話し下さい。しもべは聞いております。」と言ってみことばを聞きました。私たちも主によって救われ、主のしもべの立場とならせて頂いています。砕かれた心で、みことばを聞くことが必要です。

 第二に、自分のこととして聞くことです。
 サタンは私たちに、他人事としてみことばを聞くように仕向けて来ます。そうであってはいけません。いつも主が私に語っておられるのだ、という思いで聞く必要があります。そうして初めて、心にみことばが入り、芽を出し実を結ぶことができるのです。

 第三に、応答することです。
 みことばが語られた時、主は私たちに応答を求めておられます。従うのか従わないのか、悔い改めるのかそうでないのか、一歩前進するのか留まるのか。私たちは心素直に、みことばに応答する者でありたいのです。

 本日の礼拝も正しい態度でみことばを聞き、祝福されますように。
(ルカの福音書18章9-14節よりメッセージ)

<聖書のことば>
サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。
サムエル記第一 3章10節






「新しい生き方」
マルコの福音書2章18~22節

2013年10月20日 第3聖日 牧師 長江忠司

 パリサイ人とヨハネの弟子たちがやって来て、どうして断食をしないのかと尋ねて来ました。多くの律法を厳守していた時代にあって、主はどのように答えられたのでしょうか。
 第一に今は喜ぶべき時であることです。ユダヤの結婚式では花婿と花嫁と友人たちとで1週間程の祝宴が持たれました。それは生涯で最も祝福された時でした。いずれ主は十字架にかかって死なれる時がやって来るが、今はその時ではない。救い主がおられる今は、喜ぶべき時だったのです。
 第二に古い生き方を継ぎあてしてはいけないことです。古い服に新しい布を継ぎあてると、新しい布が縮んでしまい破れがひどくなります。そのように、新しい生き方に、古い考え方を継ぎあてすることはできない。彼らは信仰による義によって歩むべきでした。
 第三に新しい生き方に変えるべきことです。古い皮袋に新しいぶどう酒を入れると、柔軟性が無い為に破れてしまいました。新しい皮袋が必要だったのです。彼らはこれまでの概念に捉われて生きるのではなく、キリストによる新しい生き方が必要だったのです。
 クリスチャンであっても古い生き方に戻ってしまう危険性があります。私たちは主にあって新しくされ主にある者とされたのですから、喜びを持って新しい歩みをさせて頂きましょう。

<聖書のことば>
「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。
マルコの福音書 2章19節






「マタイの召命」
マルコの福音書2章13~17節

2013年10月13日 第2聖日 牧師 長江忠司

 イエス様はカペナウムで道を通りながら、収税所に座っていたマタイをご覧になられ、「わたしについて来なさい。」と言われました。
 イエス様の招きの特徴ですが、第一に恵みに満ちた招きでした。取税人はローマに代わって税金を徴収していましたが、不正に多く徴収し莫大な富を得ていました。彼らは罪人と同じ扱いを受けており、ユダヤ人たちから憎まれる存在だったのです。その様な彼への招きでした。第二に愛に、第三に権威に満ちた招きでした。
 次に、その様な主の招きに対しマタイはどう応答したのでしょうか。第一に砕かれた心で従いました。彼は自分が罪人であり救いが必要だと認識し、砕かれた心で従っていきました。それはパリサイ人たちとは全く異なる心の態度でした。第二に主を仲間達に紹介しました。それは救われたことへの感謝であり、仲間たちへの伝道でもありました。これは私達への教訓です。第三に主にささげる人生を送りました。彼は自分の賜物を主に献げました。マタイの福音書ほど、イエス様の説教を体系的に記しているものはありません。彼は喜んで自分自身を主に献げる人生を送ったのです。
 「取税人マタイ」と、マタイだけが記しました。彼は自分に注がれた神の恵みに心から感謝していたのでしょう。それ故に大きく変えられることができたのです。主は今日も私達を招いておられます。主の招きに応じて、私たちも大きく変えられる歩みをしましょう。

<聖書のことば>
レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
マルコの福音書 2章14節






「あなたの罪は赦されました」
マルコの福音書2章1~12節

2013年10月6日 第1聖日 牧師 長江忠司

 イエス様の御元に中風の人が4人にかつがれて運び込まれました。今日の箇所から大切な3つの事を学びましょう。
 第一に、行動する愛です。この4人は中風の人の必要を見た時に、黙って見ていることもできましたが、彼らは病で動くことのできない彼の為に立ち上がりました。行動する愛があったので、彼は主の御元へと行くことができたのです。今でも行動する愛を必要としている方が私達の周りにおられます。
 第二に、屈しない心です。彼らは混雑した状況を見て引き返すこともできました。しかし彼らは屈しないで屋根をはがし穴をあけて、彼を天井からつり降ろしたのです。魂を主の御元へ導こうとしても、必ず障害が立ちはだかるものです。それでも屈してはなりません。何とかして成し遂げるという心が必要です。
 第三に、罪の赦しが最も大切であるという認識です。主は彼を癒される前に、罪の癒しを宣告されました。その上で病を癒されました。色々な解釈のある箇所ですが、罪の赦しこそ最も大切であることを認識しておられたからです。魂が救われ、罪が赦されることこそ、人間にとって最も大切なことです。それ以上に大切なことはありません。
 教会には多くのなすべき事がありますが、何よりも大事なのは、魂が救われることであり、それを祈り求めるべきなのです。私達も何とかして魂を主の教会へとお導きしましょう。

<聖書のことば>
その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。 
マルコの福音書 2章4節






「赦せる幸い」
マタイによる福音書18章21~35節

2013年9月29日第4聖日 宣教牧師 山宮利忠

 赦しは、聖書のとても大きなテーマです。イエス・キリストが世に来られたのは、人を審く為ではなく赦すためでした。
 弟子達は共同生活をしている中で、赦せない事にぶつかりキリストの弟子としてどれ程兄弟を赦すべきなのかを主に問うのです。それに対する主のお答えは、7の70倍、即ち限りなく赦せでした。その理由として、このたとえをお語りになりました。その主旨は、「赦されたのだから赦しなさい」という事です。ここにキリストを信じた者の幸いがあります。
 先ず赦された事の偉大さを覚えましょう。
1万タラントは、気の遠くなるような負債ですが、人はそれ程の負債を神の前に負っている事、そしてその清算の時がやがてやってくる事、勿論返済不能ですから、残された道は永遠の滅び以外にはないのです。しかしあわれみに富む神は、その負債を身に引き受けお赦し下さいました。そのあらわれがイエス・キリスト(救い主)の十字架の死なのです。私の罪(負債)は、神の御子を十字架につけてしまう程大きいと知る人は、どれ程いるでしょうか。
 ですから、この赦しを経験している人は、他の人から受けるささいな迷惑や痛みを赦すことができるし、赦さねばなりません。これは赦された者の義務です。赦さなければ、負債を負う罪よりも悪い悪者と言われます。赦された恵みをいただき、これを動機として人を赦せる幸いをかみしめましょう。

<聖書のことば>
私たちの負い目(罪)をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。
マタイの福音書 6章12節






「らい病人のいやし」
ルカの福音書2章36~38節

2013年9月22日 第4聖日 牧師 長江忠司

 らい病人のきよめの記事から、3つのことを学 びましょう
 第一に主のみもとに近づくことです。当時、らい病人はユダヤ人社会から隔離され、自分が汚れていることを人に伝えなければなりませんでした。それ故に差別もひどかったようです。そんな状況下にあって彼は、主のみもとへと近づいて行きました。主は私を受け入れて下さりお心一つできよめて下さると信じたからです。私達もどんな時でも主を信じて、みもとに近づき祈る者でありましょう。
 第二に主の憐みにより頼むことです。主は深い憐みの故に、彼のらい病の体に触れてきよめられました。主と私達罪人との関係も同じでした。主は私達への深い憐みの故に、十字架にかかって死んで下さいました。そして救いの道を用意され、私達の心に触れて下さったのです。
 第三に主の道を最後まで全うすることです。この事を口外してはいけない事と、祭司に自分を見せるなどなすべき事を言われていましたが、従いませんでした。私達もそのように最初だけ良くて途中で尻つぼみになるような信仰生活を送らないようにしたいのです。
 人生は信仰を途中で中断させようとするもので満ちています。しかし私達はどんな時でも主に信頼し憐みにすがり、最後まで従い通す者でありましょう。

<聖書のことば>
あなたのイエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
マルコの福音書 1章41節






「アンナの歩みから」
ルカの福音書2章36~38節

2013年9月15日 第3聖日 牧師 長江忠司

 本日は敬老感謝礼拝です。クリスマスの締めくくりとして登場する女預言者アンナの歩みから、教えを頂きたいと思います。
 第一に彼女は宮を離れませんでした。「非常に年をとっていた」と書かれていますので、肉体的に衰えや疲れがあったであろうと思いますが、それでも主の宮で神に仕えることを止めませんでした。それは彼女にとって最も大切なことだったからです。私達も生涯教会を最大限に重んじ、忠実に主に仕える者でありたいと思います。
 第二に祈りを欠かしませんでした。祈りは神の祝福を頂く為の大切な手段です。
 第三に望みを失いませんでした。若くして未亡人となったのですから、希望を失ってもおかしくなかったと思います。しかし彼女は救い主を待ち続けて希望を失わなかったのです。私達の歩みにおいても、主と主のみことばに目を留める時に希望があります。
 第四に黙っていませんでした。彼女は救い主とお会いした時に感謝して、エルサレムの贖いを待ち望んでいる全ての人に語ったのです。私達も救い主と霊的にお会いした者として、黙らずに伝える者でありたいのです。
 アンナの歩みから、たとえ人生の様々な問題があったとしても、主に目を注ぐ時に希望があることを教えられます。私達もいつも主に目を留めて、希望ある生涯を送る者でありたいのです。

<聖書のことば>
その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。
ルカの福音書 2章37節






「あなたの信仰はどこにあるのか」
ルカの福音書8章22~25節

2013年9月8日第2聖日 宣教牧師 山宮利忠

 信仰は持っているだけでなく、用いる時にこそ 価値のあるものだという事をこの出来事から弟子達も私達も学ぶ必要があります。
 先ず、私達の信仰を顧みてみましょう。
 困難は、私達の生涯に常についてまわります。ガリラヤ湖で何年も仕事をしてきた弟子達にも「死にそうです」というほどの恐れに襲われた事はまれであったでしょう。そんなとき、救い主イエス様は無関心の中で眠っておられるように思われるものです。弟子達は溺れそうになった時主の名を呼ぶだけの心は持っていました。私達もそうなのかもしれません。苦しみの只中に置かれる時、神は遠くにおられるように思ってしまいます。しかし主は私達と共におられます。叫び求める信仰が与えられている事は幸いです。しかし主は、「あなたの信仰は、どこにあるのです」と言われます。
 三つの福音書は、各々異なる表現で記していますが、主が言わんとされる事は同じです。即ち、信仰を働かせなさいと言うことです。困難のときにこそ、風も水も従わせることの出来るお方が共にいて下さることを信じる必要があるのです。弟子達は、「死にそうです」「何とも思わないのですか」と訴えます。たしかに船の中に水が入って今にも沈みそうな状況では、この叫びもやむをえない事です。しかし、主は「イエス様がおられるから、たとえどんなことがあっても大丈夫だ」と信頼する信仰を求めておられるのです。

<聖書のことば>
イエスは彼らに、「あなたの信仰はどこにあるのです」と言われた。弟子達は驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとはいったいこの方はどういう方なのだろう。」
ルカの福音書 8章25節






「イエス様の祈りから」
マルコの福音書1章35~39節

2013年9月1日 第1聖日 牧師 長江忠司

 イエス様の祈りに対する姿勢などを通して、祈りについての教えを頂きたく思います。
 第一に祈りは最優先すべきということです。前日は恐らく夜遅くまで病人たちを癒されていたと思われますが、それでも主は朝早くから祈っておられました。その後で弟子たちが主を追って来たのです。私達も何かに追いかけられる前に、主の前に出て祈るようにしましょう。
 第二に祈りによって新たな力が与えられることです。前日の肉体的な疲れがあった筈なのに、主はいきいきと次の伝道地へと向かわれました。私達も祈りとみことばによって、新たな力を頂くことができます。
 第三に祈りによって導きが示されることです。僅か3年間という短い公生涯で主のみこころを全て成し遂げる必要がありましたが、主は祈りによって、主から導きを頂き、みこころの内を歩まれたのです。私達も慌ただしい毎日の中で、祈りとみことばによって神のみこころを教えて頂く必要があります。
 第四に祈りによって新たな段階に進むことです。たとえ問題があり状況が変わらなくても、主は祈りの中で私達を変えて新たな段階に進ませて下さるのです。
 聖書は私達が祈るように何度も教えています。イエス様の祈りの模範も多く記されています。勝利ある人生を送る秘訣は祈りにあるのです。

<聖書のことば>
さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
マルコの福音書 1章35節






「私たちの病を負うキリスト」
マルコの福音書1章32~34節

2013年8月25日 第4聖日 牧師 長江忠司

 この箇所から何を教えられるでしょうか。
 第一に主は私たちの苦しみを背負って下さるということです。それは旧約の時代から預言されていたことでした。主は私たちの悩み苦しみを放っておかれることはなさいません。主のもとへ来る者の苦しみを背負って下さるお方です。
 第二に主は弱さを覚えている人に愛を注がれることです。イエス様は朝から精力的に働かれていたので、肉体的な疲れを覚えていたでしょう。しかし主はそのような病人たちを愛して病を癒されました。今も主は弱さを覚えている方に特に関心をもち愛を注がれるお方です。誰でも弱さを持ったままで主の前に出ることができます。
 第三に主は愛の手を差し伸ばされたということです。イエス様は言葉だけで全員を瞬時に癒すことができましたが、敢えて一人一人に手を置いて癒されました。肉体的な癒しだけでなく、手の温もりによる愛が必要だとご存知だったからだと思います。私たちも同様にして、主の御手が伸ばされたので救われることができました。多くの人々は愛の手を必要としています。私達はキリストから受けた愛によってその手を差し伸べたいのです。
 主は今日でも、私達の弱さや痛みを負い取り去って下さるお方です。ですから、私たちはより一層主に信頼して歩みましょう。また、周りの方々を主のもとへお連れし、また愛の手を差し伸べるようにしましょう。

<聖書のことば>
夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。
マルコの福音書 1章32節






「ペテロの姑のいやし」
マルコの福音書1章29~31節

2013年8月18日 第3聖日 牧師 長江忠司

 イエス様はペテロの姑を癒されました。この箇所に出てくる3人の人物にスポットをあてて教えを頂きましょう。
 まず人々についてですが、彼らは主の元へ行き彼女の癒しを願いました。彼らはイエス様なら何とかして下さるという信仰がありましたので、病気について知らせたのです。主はその信仰に応えられて彼女を癒されました。主は私達にも同様の信仰を望まれています。人間的に見て難しい状況であっても、主の元へ持って行くなら必ず最善がなされるという信仰を持ちましょう。
 第二にペテロについてですが、主が個人的な願いにこたえられるという経験をしました。それまでの他の人への奇跡ではなく、自分の願いに対する主の御業でした。私達も主が個人的な願いにこたえられるという経験をすることが大事です。
 第三に姑についてですが、彼女は主に感謝し主と弟子たちに仕えるようになりました。彼女は癒されて元気になっただけで終わらずに、心から主に感謝し主に何かお返ししたいと思ったのです。これは極めて自然な応答です。私達も主の贖いに心から感謝して、自分の出来ることをもって、主と教会に仕える者でありたいのです。
 信仰は常に躍動感があるべきです。主との生きた関係を保ち、生きた応答をしていきましょう。

<聖書のことば>
イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。
マルコの福音書 1章31節






「キリストのもたらす平安の実」
使徒の働き16章20~34節

2013年8月11日 第2聖日 宣教牧師 山宮利忠

 イエス・キリストの十字架と復活の事実は、信 じる者に世が与えることのできない平安をもたらしました。活けるキリストの事実と約束は、死の向うに尚いのちがあり、天の御国に入る希望を持ってこの世を生ける力を与え、苦しみにも困難にも耐える勇気を与えました。キリストを救い主と信じた弟子達は、皆この平安をいただいたのです。この平安こそがあかしととなり、伝道の力となりました。ピリピで捕えられたパウロとシラスもたしかにこの平安を持っていたのです。その平安は、何をもたらしたでしょうか。
 第一に、苦しみと恥かしめに耐えさせました。悪意ある訴えによって牢につながれ、死にも至ろう厳しいむち打ちにも耐え、足かせをはめられて不自由な中で、彼等の心は平安でした。主の十字架のみ苦しみを覚え、“苦しみにあずかる”恵みの中で、賛美し、みこころをなして下さいと祈る事ができました。
 第二に、状況や立場に支配されない心を持てました。明日を支配される主が共にいて下さるのであれば、状況を見て恐れ心配するのではなく、環境を支配される主を信じて平安でいられます。
 第三に、この平安が豊かな実を結びました。牢からの脱出だけではなく、牢番の救い、そして家族の救いをもたらしたのです。いかなる時でも主に在る平安を持っている時、あかしが生まれます。

<聖書のことば>
わたしは、あなたがたに平安を残します。・・・わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
ヨハネの福音書 14章27節






「キリストのおことば」
マルコの福音書1章21~28節

2013年8月4日 第1聖日 牧師 長江忠司

 イエス様はカペナウムにある会堂に入られみこ とばを教えられました。人々はその教えに非常に驚いたのです。キリストのおことばは、どのようなものなのでしょうか。
 第一にキリストのおことばには権威があります。権威とは、優れた者として他人を威圧し、自分に従わせる力のことです。キリストのことばが語られる時に、自然界や悪霊でさえ従います。同様に、私達が主のおことばを信じて従うなら、その約束の通りに御業がなされるのです。
 第二にキリストのおことばは新しい教えです。これは時間的にではなく、質的に新しいという意味の言葉が用いられています。世の教えとは全く異なった新しい教えであり、古びることがありません。
 第三にキリストのおことばは暗闇に光を与えます。複数の汚れた霊が支配しており、彼は暗闇の中にいました。しかし、主はおことばによって悪霊を追い出し、彼に光を与えられました。私達もかつては罪の闇の中にありましたが、主によって救いを頂き光を頂きました。そのように主のおことばは如何なる闇をも切り裂く光を与えるのです。
 この素晴らしい主のおことばが、今私たちの手にあります。教会で語られています。その大切な機会を無駄にしないようにしましょう。みことばを貪欲に求める者になりましょう。

<聖書のことば>
人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
マルコの福音書 1章27節






「イエス様の招き」
マルコの福音書1章16~20節

2013 年7月28日 第4聖日 牧師 長江忠司

 イエス様はガリラヤ湖のほとりで網を打っていたペテロたちをご覧になり、彼らを招かれました。
 まず、イエス様の招きについてですが、第一にイエス様につき従うことです。これは弟子になるようにとの招きでした。彼らは既に主を信じていましたが、更に明確な立場を取り弟子となるように呼び出されたのです。主は私達にもそれぞれの信仰のポジションから一歩踏み出すように呼び出されます。第二に人間を取る漁師になることです。これは人を救いへと導く働きです。これ程に尊い働きは他にはありません。クリスチャン全員は、この働きにつくように召されているのです。
 次に私達は主の招きに対して、どう応答すべきでしょうか。第一に先がわからなくても従うことです。彼らはイエス様について全てをわかっていた訳ではなかったですし、また生活の保障もありませんでした。にもかかわらず主に従ったのです。私達もたとえ未知な部分があっても信仰によって主に従うことです。第二に握りしめているものを捨てて従うことです。彼らは生活手段であった網を捨てました。捨てることなくして、神の祝福を得ることはできません。
 主は今日も「わたしについて来なさい」と個人的に私達を招かれています。弟子たちの模範に倣い、一歩踏み出して従って行きましょう。

<聖書のことば>
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
マルコの福音書 1章17節






「悔い改めて福音を信じなさい」
マルコの福音書1章14~15節

2013年7月21日 第3聖日 牧師 長江忠司

 イエス様は言われました。「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」このメッセージについて学びましょう。
 まず神の国についてです。新約聖書に頻繁に出てくるこの言葉は、鍵となる重要な言葉です。これは具体的な神の領土である国と、神による霊的な支配の意味の両方が書かれています。旧約の民は地上の王国を待ち望んでいましたが、その前段階として、十字架の贖いによる救いを通しての神の支配が近づいていると主は言われたのです。人は皆、この神の支配を頂く必要があります。
 次に悔い改めについてです。本来の意味は「心の方向転換」です。人は神に背いて歩み神を信じようとしませんので、心の方向転換をしない限り、主を信じて救われることはできません。救われた者も日々、悔い改めつつ歩む姿勢が必要です。
 最後に福音についてです。私たちの罪の身代わりにイエスキリストが十字架にかかって死なれ復活されたことです。これを通してのみ、人は救いを頂くことができ、神の国に入ることができるのです。
 イエス様は今日の箇所から福音を伝えられ、町々に出て行かれました。伝える人がいなければ、信じることはできません。私達はこの福音をお伝えする為に生かされている事を覚えましょう。

<聖書のことば>
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
マルコの福音書 1章15節






「悪魔の誘惑」
マルコの福音書1章12~13節

2013年7月14日 第2聖日 牧師 長江忠司

 イエス様がサタンから誘惑を受けた箇所から学びましょう。
 まず初めに、サタンの攻撃についてですが、第一に周到に時を選び攻撃してきました。バプテスマを受けた祝福の後であり、また40日40夜の断食の後で疲れていた時でした。その時をサタンは選び攻撃してきました。第二に視覚的に訴えてきました。サタンは世の様々な魅力あるものを見せてきました。第三に欲に働いて、神に従わせないように仕向けました。人間の持つあらゆる欲望で誘惑し、神に従うことが愚かであるかのように思わせるのです。私たちはサタンの攻撃の特徴を覚えて警戒するべきです。
 ここから教えられることは、第一にこれは神が与えられた試練でもあったことです。同じ状況を通して、主は私たちの信仰を試し強め高めて下さるのです。第二に主は神のみことばによって勝利されたことです。イエス様はここで一切奇跡を行われず、ただ神のおことばだけで勝利されました。主は私たちの為に模範を残されたのです。だからこそ、私たちは礼拝と日々のディボーションを大切にして歩むべきなのです。
 イエス様はサタンの誘惑に決して屈しませんでした。それ故に私たちに救いが与えられたのです。私たちも主の模範に倣い、みことばによってサタンの誘惑に勝利していきましょう。

<聖書のことば>
イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。
マルコの福音書 1章13節






「全てを益にして下さる神」
ローマ人への手紙8章28節

2013年7月7日 第1聖日 宣教牧師 山宮利忠

 キリストによって救われているかいないかは、天と地の違いです。このおことばは、なんと励ましに富んだおことばでしょうか。
 まず第一に、真の神は、信じる者を完全に支配しておられる事が判ります。キリストの支配に移された者は、完全な愛を持って見守られ、みこころのままに導かれるのです。勿論これは、私達の思いのままという事ではありません。主の最善のご配慮の内に守られます。神のご配慮は、明日を知られるご配慮であり、全能のお力を持って行われるご配慮なのです。なんとたのもしい約束でしょう。なんと嬉しいお働きでしょう。
 第二に、その配慮は、全てを益にして下さるものです。よいことだけでなく、つらい事も悲しい事もどんな事も、その背後に働いて下さる主は最善にして下さるのです。確かに私達は、弱さや愚かさの故に失敗したり、迷ったり、疑ったりします。しかし神を愛する者のためには、全ての事が働きあって益として下さるお方がいらっしゃる事とは、何と安心なことでしょう。信じる人は、このようなお方を信じるのです。
 最後に、私達は、神の最善を確信しているでしょうか。確かに確信しているはずです。そうであるなら、このお言葉だけでも、キリストを信じる者と信じない者の違いは、雲泥の差と考えましょう。ここに信じる者の平安と希望があります。

<聖書のことば>
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神が全てのことを働かせて益として下さる事を、私たちは、知っています。
ローマ人への手紙 8章28節






「バプテスマ」
マルコの福音書1章8~11節

2013年6月30日 第5聖日 牧師 長江忠司

 イエス様はヨルダン川でバプテスマのヨハネから、バプテスマを受けられました。主は神の御子であられるので本来は受ける必要がありませんでしたが、模範を残す為に受けられました。今日はバプテスマについて学びます。
 まず初めに、水のバプテスマについて、幾つかの基本的なことを確認しましょう。それは個人的な信仰の表明です。救いの手段ではありません。信じた者が証しとして受けるものです。主が受ける様にと命じておられます。形式は全浸礼です。その形式が、私達が主と共に死にまたよみがえったことを表している正しい形であり、人間の都合で勝手に変えてはいけないのです。バプテスマを受けて教会の一員となります。
 これらを踏まえて、私達が覚えるべきことは何でしょうか。信じてまだ受けていない方は、バプテスマを受けることです。私達の救い主がそれを命じておられますし、私達は教会につながってこそ、実を結ぶことができるし、良き証しもできるからです。また、既にバプテスマを受けられた方が覚えるべき事は、第一に初心に帰ることです。救われてバプテスマを受けて教会につながった最初の時のことを思い返し、初めの行いをすることです。第二に主のものとされた喜びを伝えることです。私達はもう一度初心に戻り、素晴らしい主の救いを感謝し、この喜びを周りの方々に伝えていきましょう。

<聖書のことば>
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
マルコの福音書 1章9節






「バプテスマのヨハネの出現」
マルコの福音書1章1~8節

2013年6月23日 第4聖日 牧師 長江忠司

 本日よりマルコの福音書の講解を開始します。著者はマルコ。しもべとしてのキリストが記されています。今日の箇所から教えられることは何でしょうか。
 第一に主のみことばの確かさです。預言者イザヤやマラキによって預言されていたみことばは数百年後にその通りに成就し、バプテスマのヨハネは現れました。神は終わりのことを初めから告げ、主の望むことをすべて成し遂げられます。私たちの持つ聖書のおことばが一つの偽りもなく全て真実であり、信頼できるということは大きな励ましではないでしょうか。
 第二に主のおことばによって悔い改める大切さです。バプテスマのヨハネは悔い改めのバプテスマを説きました。悔い改めとは心の方向転換であり、心を神に向け神に従う生活をすることです。私たちも日々おことばによって悔い改め、その実を結ばせることが大切です。
 第三に主を指し示す重要さです。彼は主の道を用意し整え、主を指し示しました。私たちも周りの方々に主を指し示す役割が与えられているのです。それが私達の使命です。
 バプテスマのヨハネは主によって豊かに用いられましたが、主は私達をも同様に用いて下さいます。その為に日々悔い改めること、そして、主を指し示す者となりましょう。

<聖書のことば>
彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。
マルコの福音書 1章7節






「舌を制御する」
ヤコブの手紙3章1~10

2013年6月16日 第3聖日 牧師 長江忠司

 私達はキリスト者としてことばが制御されている必要があります。まず、ことばについて二つのことを確認したいと思います。第一にことばは大きな影響力を持っていることです。船のかじは小さいけれど大きく方向を変えることができるのと同様に、ことばはたとえ少なかったとしても相手に大きな影響を与えることができます。ことばで人をたて上げることもできれば、致命傷を負わせることもできるのです。第二にことばは自分の力では制御できないことです。それ程の影響力のあることばを私達は制御する力を持っていません。私達はその事実を自覚している必要があります。
 次にどうすれば、ことばを制御する方法について見ましょう。第一に聖霊に心を支配して頂くことです。主は心にある思いを口が話すと言われました。その心が聖霊によって支配されている時に、愛と自制のあることばを語ることができます。第二に親切で人の徳を養うことばを話せるように主に祈り求めることです。私達はこの点で無力ですので、積極的に意識して祈り求めていく必要があるのです。
 主は十字架上から愛と赦しに満ちたおことばを語られました。そのおことばの故に、私達は救いという大きな恵みにあずかることができました。恵みと憐みのおことばを頂いた者として、私達は家庭でも教会でも、いつも親切で人の徳を養うことばを語る者でありたいのです。

<聖書のことば>
だれでも私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。
ヤコブの手紙 3章2節






「主の前に静まる」
イザヤ書30章1-18節

2013年6月9日 第2聖日 牧師 長江忠司

 ユダはアッシリヤの脅威の中にありました。凶暴な略奪の手が彼らに伸ばされていました。そのような彼らに主が語られたのがこの箇所です。ここから、試練の時になすべきことを教えて頂きたいと思います。
 第一に、主の前に静まることです。彼らは神に頼ることをせず、エジプトに助けを求めました。それに対して、主はご自身の前に静まるように言われたのです。私達も問題に直面し対応策が見つからない場合に、焦りを覚えて神に頼ることをしないことがあります。しかしそのような時こそ、主の前に静まる必要があります。第二に、主に心の焦点をあわせて信頼することです。私達は目に見えるものだけに焦点を合わせがちですが、その時に恵み深い主に焦点を合わせ頼る必要があるのです。
 次に、主はご自身に頼ろうとしなかったユダの民をどう扱われようとしたのでしょうか。主は彼らを見捨ててはおられませんでした。恵みと憐みを与えようと待っていて下さったのです。主は私達にも同様にして下さいます。
 ですから、慌てふためくのを止めて、主の前に静まりましょう。苦しみの時こそ、主の前に静まり主を待ち望む者でありたいのです。

<聖書のことば>
神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」
イザヤ書 30章15節






「主を恐れる」
詩篇103篇11~18節

2013年6月2日 第1聖日 牧師 長江忠司

 主を恐れるとは戦々恐々とすることではなく、神に対して畏敬の念を持ち、御前にへりくだり主に仕えていくことです。
 何故、私達は主を恐れるべきなのでしょうか。第一に主は全ての支配者であられるからです。私達の人生は主のご支配の中にありますし、主は全てをさばかれるお方であるからです。第二に主は計り知れない恵みを与えて下さったからです。日々、多くの恵みを受ける者ですが、何よりも主は私達罪人の身代わりとなって十字架にかかり死んで下さいました。その恵みの絶大さ故に、私達は主を恐れるべきなのです。
 次に主を恐れるならどうなるのでしょうか。第一に人を恐れなくなります。私達は人か神かのどちらかを恐れるものです。第二に悪の道から守られます。全てを支配しご覧になられている主を恐れるなら、悪の誘惑から守られます。第三に知恵が与えられます。主を恐れることが知恵の初めであると書かれています。第四に神の祝福が与えられます。それは今も昔も変わらない祝福を頂く為の大原則なのです。
 私達は恐れる必要のないものを恐れて歩みがちです。そうではなく、真に恐れるべきお方、主を恐れて歩むようにしましょう。それが教会にとっても個人にとっても、最も大事なことなのです。

<聖書のことば>
しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行なう者に及ぶ。
詩篇 103章17~18節






「全力を尽くして主の業に励みなさい」
コリント人への第1の手紙15章51~58節


2013年5月26日 第4聖日 宣教牧師 山宮利忠

 復活されたキリストは、メシヤであるあかしと共に、人の死は終りではない事を証明し、同時に人は与えられた生涯をいかに生きたかを神の前に清算されなければならない事を明らかにしました。ですから・・・(58)と勧めがされます。
 第一に、全力を尽くしなさいと勧めます。与えられた生涯を全力を尽くし、力の限りを尽くし励むことは、主もパウロも模範を示された事でした。人は、立派で大いなる事は出来なくても、自分の最善を尽くすことはできます。神は1タラント預けられた者の怠慢を嫌われます。
 第二に、主の業に励みなさいと勧めます。神が与えたあなたの使命を果たすことこそ、充実した人生の秘訣です。パウロにとっては、異邦人への伝道でした。走るべき行程を走り尽くした充足感は神のみこころに従った者だけに与えられる幸いです。
 第三に、堅く立って動かされないよう勧めます。途中棄権、途中放棄程みじめな事はありません。決勝点をめざして走り抜くことです。それには、忍耐と努力が必要です。罪の赦しに人の力は不要です。しかし、勝利ある人生を送るためには、全力を尽くすことが求められています。何故なら、その努力は決して無駄にならないからです。

<聖書のことば>
ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
第一コリント15章58節






「進展」
使徒の働き16章6~10節


2013年5月19日 第3聖日 宣教牧師 山宮利忠

 福音の拡大は、サウロ(パウロ)の回心と直後から開始された伝道によって大いに拡大し、さらにアンテオケ教会から派遣されての伝道旅行によりアジヤ(ローマによるアジヤ州)方面への伝道を計画したパウロに主はそれを禁じ、トロアスでの幻によりヨーロッパに足を踏み入れます。福音の更なる進展です。キリスト主導による福音の進展から学びましょう。
 第一に、主は、器をえらばれました。(使徒9:15)
福音の拡大、進展の為に最も相応しい神の器でした。パウロの回心の特徴は復活された主による直接の証明であり、又同時に働きへの使命が与えられ、回心と同時に伝道を開始したことです。(9:20)
 第二に、主は、器を導かれました。(16:7)
主はパウロの働きを支配されたと言って良いでしょう。3回に渡る伝道旅行の全てに主のご支配がありました。特にパウロの計画と願いにその都度妨げ、禁じ、許さないという方法で導かれました。学ぶべき事は、それを主のお導きと感知するパウロの信仰とただちに従う従順さです。
 第三に、主は、器を豊かに用いられました。
短期間に次々と教会を建設します。今も昔も伝道の困難さは変わらないでしょう。迫害の緊迫した中での伝道は、今よりはるかに危険度の高い働きでした。神は一人の人を何と豊かに用いられ、支配し、導かれることでしょう。

<聖書のことば>
神が私たちを招いて、彼らに福音を宣ベさせるのだと、確信したからである。
使徒の働き 16章10節






「新しき地で勝利するために」
ヨシュア記1章1-9節


2013年5月12日 第二聖日 牧師 長江忠司

 横浜教会は牧師就任式を終え、新たな歩みを始めました。また新年度、新しい環境に身を置かれたという方は少なくないと思います。そのような新しい地において、主から勝利を頂く為にどうすれば良いのでしょうか。
 第一に、主が共におられることを覚えることです。モーセを強め偉大な働きをなさしめた主がヨシュアと共におられると約束されました。それは彼にとって、どれ程大きな励ましであり力となったことでしょうか。この事実を覚えていないと、後退することはあれ前進することはありません。
 第二に、主のみことばに従うことです。多くのなすべき大切なことがあるでしょう。しかし、主のみことばに従って歩む時にこそ、主はその者を祝福して下さいます。場所は関係がないと主は約束しておられます。
 第三に主にすがることです。私達人間の決意はどんなに固いものであっても揺らぎやすいものです。自分の決意や力、経験だけで歩むならば、いずれ失敗する時がやって来ます。主にすがって歩んでこそ、私達の歩みはまっすぐにされ、祝福されるのです。
 主は新しい地において、素晴らしいご計画を立てて下さっています。私達は今日学んだ3つのことを心に刻み、新しい地で多くの祝福を頂きましょう。そして主の栄光を現す歩みをしましょう。

<聖書のことば>
『ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。』
ヨシュア記 1章7節






「拡大」
使徒の働き13章1~3節


2013年5月5日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 主は、復活後弟子達を全世界に派遣し、弟子達は、忠実に主のご命令を実行します。神は、時にかなって器を用意されるお方だということを、敵対者パウロの回心を通して教えて下さいます。生粋のユダヤ人でありながら、ローマの市民権を持つ、博学、熱意に燃えたサウロ(パウロ)の回心は、世界に福音が伝えられる為の最良の主のみわざでした。バルナバの仲介でアンテオケで主に仕えたパウロは、そこから世界宣教に出発します。このアンテオケ教会こそ、私達の目指す教会といって良いでしょう。
 第一に、この教会は、恵みに満ちた教会でした。(11:22~23)
主の御手が常に彼らの上にあり、魂の救いがあり、多くの働き人が一致して主に仕えていました。自分の教会の為だけという利己的な教会でなく、他を思いやる教会でもあり、エルサレム教会の窮乏を助けます。(11:21)
 第二に、礼拝と祈りを持って神のみ旨を聞く教会でした。(13:2)
キリスト教徒にとって礼拝は、何よりも大切なときで、この時の過し方によって、生活は変わります。彼らは、ここで神の声を聞いたのです。
 第三に、主の導きに喜んで従う教会でした。(13:2~3)
パウロとバルナバは、重要な働きをしていたのでしょうが、主のご命令にただちに従い、宣教の畑に送り出し、この二人により宣教の働きは拡大して行きます。キリストの体である教会の一部としての私もかくありたいものです。

<聖書のことば>
そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。
使徒の働き 13章3節






「前進」
使徒の働き9章31節


2013年4月28日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 約束の聖霊を受けた弟子達は(2:4)大胆に福音を伝え始め、ペテロの説教に応じて3000人もの回心者が与えられる驚くべき恵みを拝します(2:41)と同時に反対も起こり、ステパノは最初の殉教者にもなります。
 しかし、教会は、益々祝され拡大し、やがては異邦人にも福音が伝えられ、当時のローマ帝国内津々浦々にキリストの教会が建てられる事となりました。
 この時の教会にふさわしいことばは、前進でしょう(31)。このたくましい初代教会の姿から学びましょう。
 第一に、教会は築き上げられました。
築く為には土台が必要です。材料が必要です。たくみな建築家がいなければなりません。キリストを土台とし、良い忠実な聖徒がいて、良い正しい牧者が必要です。このどれも欠けても教会は築かれてゆきません。
 第二に、平安が保たれる事です。
迫害の只中で平安を持っているという事は、この世が与える平安ではありません。キリストだけが与えることの出来る真の平安で、それは永続します。
 第三に、聖霊に励まされ、前進し続けることです。
主を恐れるところに聖霊は働かれ、聖霊は信じて従う者を助けてくださいます。困難を乗り越えて福音を伝え続ける為には、人の力以上の神の力が必要です。この力を私達もいただくことができれば、教会は進展します。

<聖書のことば>
こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられ平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信徒の数がふえて行った。
使徒の働き 9章31節






「わたしはあなたを遣わします」
マタイの福音書28章16~20節


2013年4月21日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 復活の主は、ご自身を40日間現わされ、復活の事実と弟子達を励まされただけではなく、福音(よろこびのニュース)を全ての人に伝えるために、弟子たちを遣わされました。この命令には、三つの要素が示されています。

第一に、イエス・キリストの権威です。(16-18)
 主は、山に登りご自分があらゆる権威を父なる神より与えられていることを示されます。権威とは、物事を決定し、実行する力です。私達は、あらゆる事を正しく決定し、しかもそれを確実に実行する力はありません。しかし神の御子キリストには、その力が与えられています。それゆえに、その絶対的な力を背景として、弟子達に命じます。

第二に、あらゆる人を弟子とし、教え、バプテスマを授けるイエス・キリストの命令です。
 信じた者が、バプテスマを受けること、これは変えられない原則であり、バプテスマは、浸めです。そしてキリストの体なる教会に加えられます。

第三に、イエス・キリストの約束が語られます。
 力強く、見よと言われ、あなたの為にいのちを投げ出し、死に勝利したわたしを見なさい、あらゆる権威を持つわたしが、世の終りまであなたと共にあると。しかも、いつもいつも、キリストが共にいて下さらない時はないと約束されます。出て行って福音を伝える使命が聖徒に与えられました。

<聖書のことば>
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
マタイの福音書 28章20節






「回復」
ヨハネの福音書21章1~14節


2013年4月14日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 キリストの復活後の顕現に関しては、ヨハネは三度と言う。それは20章19節と26節に次いで三度と言う意味でしょう。主は他にもご自身をあらわしておいでです。主のご命令通りガリラヤに戻った彼等(マタイ28:7)は召される前の仕事に手をつけています。キリストの復活がまぎれもない事実であったことをお示しになる為だけでなく、弟子達の弱い信仰を回復させ、力をお与えになる為でもありました。ヨハネは、トマスへの確信を与えた主のお働きと失敗したペテロの回復を示すことによって、彼等が元の漁師になってしまうのではなく、主の召しに従って「人を漁る漁師」になる為に、新たに再任命をなさいました。

 弟子達は、棄てた網と舟を手にします。
何もかも棄てた筈であった彼等でした。既に、この時、主の復活は彼等に知られていた筈です。「私は漁に行く」との一声は、弱った彼等の心には丁度当てはまったのでしょう。しかし何の漁もありませんでした。それは当然な事です。彼等はそこに遣わされていなかったのですから。

 主は、舟の右側に網をおろせと命じます。
その命に従った結果は、大漁でした。召された時と状況に、彼等は深い痛みと喜びを持ってとれた魚を一匹一匹数えたのでしょう。153匹でした。主のもてなしと再任命は、彼らを強い弟子にする為には、十分でした。

<聖書のことば>
イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。
ヨハネの福音書 21章14節






「子とされる恵み」
ヨハネの福音書1章12節


2013年4月7日 第1聖日 伝道師 安藤修司

 主イエスを信じて神の子とされることは、どんなに大きな恵みでしょうか。

第一に、子とするため払われた神の大きな愛の犠牲です。
 主は罪人の私たちを見捨てずに、救いの道を備えられました。私たちを子として迎えるために、神はご自身の御子を地上に遣わし、御子は私たちを罪から救うためにご自身のいのちを犠牲にされました。そして私たちが永遠のいのちを得るために、不滅のいのちによみがえられ(1ペテロ1:3)、ご自身の天の富の一切をご自身ごと与えて下さったのです(エペソ1:22)。

第二に、子として相続される神の絶大な富です。
 神の子とされた私たちは、御子と同じ特権と富を受け継ぎます。御霊の実による豊かな交わり、祈り求めたすべてをいただく約束、失望に終わらない希望、神の最善の導きの内に、すべて良かったと言える生涯を全うします。そして天に蓄えられた富は、イエス様が下さった永遠のいのちと共に死後も保たれ、朽ちることがありません(1ペテロ1:4-5)。

第三に、御子と共にいただく栄光の豊かさです。
 神が御子に与えた第一のものは「苦難の後の栄光」でした。その最高の特権を、神の子とされた私たちも頂きます(ヨハ16:20-22)。試錬は私たちが子とされた証拠です(ヘブ12:7-9)。苦しみの時に主は共にいて慰めて下さいます(2コリ1:4-6)。主は苦しみを通して、私たちの信仰を強め、聖めて下さいます。真の富と栄光は、労苦の結果得られるものです。

<聖書のことば>
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人は、神の子どもとされる特権をお与えになった。
ヨハネの福音書 1章12節






「最後の望み」
ヨハネの福音書11章17~27節


2013年3月31日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 私達の人生の最後に望みがあるでしょうか。もしあるとしたらどのような望みなのでしょう。主が語られた「死んでも生きる」ことではありませんか。神は、私達人間がどうにもならない無力なところに救いをお与えになられたまことに、あわれみ深い、愛深いお方です。「死んでも生きる」(ヨハネ11:25)とは、いかなる意味でしょう。

第一に、魂が生きるのです。
 人の霊魂は、正確には霊が生きているか死んでいるかによって決るもので霊は神と人とをつなぐものです。もし神との正しいつながりがなければ霊は断絶しており、人はたとえ肉体的に生きていても、死んだものです(エペソ2:1)。この断絶の回復をして下さったのが、イエス・キリストの十字架の身代りの死です。肉体が滅びても霊魂は生きるのです。

第二に、再び生きるのです。
 死は人生の最終到達点ではありません。イエス・キリストの復活は、その事を明らかにされたのです。十字架上でむごい殺され方をしたキリストに再び会うことの出来た弟子達の驚きと喜びは、いかばかりであったでしょう。彼等はキリストにお会いした事により、死の壁を打ち破り、死して後再び生きる事が判った時、その人生は大きく変わり、勇気と力をもって宣教の働きに全精力を傾ける事ができたのです。最後の望みは、永遠の望みでした。

<聖書のことば>
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」
ヨハネの福音書11章25節






「父よ、彼らをお赦し下さい」
ルカの福音書23章34節


2013年3月24日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 福音書の記録によれば、救主キリストは十字架上で7つの言葉を発せられました。その最初の言葉が「父よ、彼らをお赦しください。」という、とりなしのことばでした。まさしくキリスト教の中心となる教えは、赦しであることを、この最後のおことばであらわされたと言えましょう。人の救いは、聖なる神の前の赦しなのです。罪のないお方が私達の罪を負って、身代りの刑罰をうけ、このわざを通して人は赦されます。キリストの赦しは、いかなる赦しなのでしょうか。

第一に、無条件の赦しです。(ロマ書5:6-8)
 人の行いによらず、行いの報いとして与えられる赦しでなく、キリストご自身が代ってして下さった罰による赦しであって、全くの恵みの赦しです。十字架の強盗は、過去に於ても今も、神の前に何の良い事もできない者でしたが、己の罪を認め、キリストを信じるだけでパラダイスへの資格を得たのです。罪人の最終的な救いは、赦ししかありません。

第二に、神から先に赦して下さった赦しです。(第一ヨハネ4:10)
 放蕩息子の父は、家出をした息子を赦していました。私達の罪は十字架に於て全て解決しているのです。ただその事実を認め信じる事が必要です。

第三に、誰にでも与えられるわけへだてない赦しです。(第二コリント5:18)
 いかなる者にも平等に与えられ、差別も変更もありません。

<聖書のことば>
その時イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
ルカの福音書 23章34節b






「神への犠牲を払える人」
使徒の働き4章36~37節


2013年3月17日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 キリストの弟子となり献身したバルナバは、信仰のあかしと喜びの故に、畑を売って、その代金をおささげしました。これは、十分の一のささげもの以外の献金です。
 主は、私達の罪と死からの贖いのためにいのちを犠牲としておささげ下さいました。この大きな愛を知る者は、その愛への応えとして犠牲を持って仕えずにはおられません。今ある礼拝堂の為に過去の多くの兄姉達が同じ心を持って犠牲を払ってくれた故に、私達は快適な礼拝をおささげできるのです。主の為に犠牲をはらえる人は、いかなる人なのでしょう。

第一に、主への愛のある人です。
 ナルドの香油をおしげなくキリストに注いだのは、主を愛してやまないマリヤでした。有形無形の犠牲を豊かにささげる事のできる人は、主を心から愛するひとです。愛がなければ決して犠牲を払う事はできません。

第二に、主への感謝がある人です。
 イスラエルの民は、産物の初なりをまず神にささげました。それは、自分の力ではなく、神の恵みによる収穫である事を知っていたからです。私達がまっさきに感謝すべきお方は、我主キリストです。

第三に、主への信頼のある人です。
 献げる者に報いて下さる信仰を持たなければ、レプタ2枚は献げられません。

<聖書のことば>
キプロス生れのレビ人で、使徒たちによってバルナバと呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
使徒の働き 4章36~37節






「立ちなさい。さあ、行くのです。」
マタイの福音書26章36~46節


2013年3月10日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 最後の晩餐の後に弟子達は、賛美をしつつオリブ山へ、ケデロンの谷を渡って出かけてゆきました。そこは、いつも集い祈りを共にしていた所だったのでしょう。主イエスは、石を投げてとどく程のところへ一人離れ、地に伏して祈りはじめます。良く知られたゲツセマネの祈りです。この祈りの後、主は弟子達に「立ちなさい。さあ、行くのです。」とうながします。祈りをもって勝利した力強い主のおことばです。

第一に、イエス・キリストの苦しみを学びましょう。
 悲しみで死にそうだとおっしゃったその苦しみは、いかなる苦しみだったのでしょうか。その杯を一滴も残さず飲みほされた苦しみの中に、私の罪のため、死の為に苦しんで下さった苦しみがなかったのでしょうか。

第二に、イエス・キリストの祈りから学びましょう。
 私のこころが聞かれないと満足しない私達ですが、みこころをなして下さいと祈られた主の祈りから、私達の祈りの在り方を学ばなければなりません。血のしずくのように汗を流されて祈られた祈りを学ばねばなりません。その祈りの後に、十字架への明確な決断と勝利を得られたのです。

第三に、イエス・キリストの勧めから学びましょう。
 目を覚して祈るべきことです。常に弱さを持つ私達は誘惑に陥り易いものです。祈りによって常に勝利をいただき、立ちあがる力をいただきましょう。

<聖書のことば>
立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。
マタイの福音書 26章46節






「最後の晩餐」
マルコの福音書14章22~26節


2013年3月3日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 主と弟子達と共なる食事は、旧約に於て判定された過ぎ越しの祭りの完成と言えるものです。時はまさしく過ぎ越しの祭りに必要な羊をほふる時であり、種入れぬパンを食する時でした。ここからは多く学ぶべき事はありますが、大切な点をしっかりと心に納めましょう。

第一に、これは、最後の晩餐でした。(ルカ22:16)
 弟子達は、主と共に度々食事を共にしたでしょうが、主は最後までその愛を余す所なく示され、弟子達の足を洗い、霊の家族の主として愛のこもった食事をされ、この地上における最後の食事を共にされました。

第二に、養いの晩餐でした。(ヨハネ6:51)
 肉の養いでなく、いのちを与える真のパンの養いでした。キリストの体を象徴する裂かれたパンは、永遠に養う生命のパンです。これを食する時、即ち信じる時、肉体の死を超えて永遠に生きるものとされるのです。

第三に、交わりの晩餐でした。(第1コリント10:16~17)
 一つのパン、一つの杯から分配される食事は、キリストのいのちを分けあったいのちのつながりのある一つの交わりです。切り離す事はできません。

第四に、み国での大いなる祝宴を象徴する晩餐でした。(マルコ14:25)
 天の祝宴に於て食事をするまで、主は再び、ぶどう液を飲まないと言われ、キリストを信じる者の天に於ける祝宴の約束をされました。永遠の晩餐です。

<聖書のことば>
まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。
マルコの福音書 14章25節






「足を洗い合いなさい」
ヨハネの福音書13章1~17節


2013年2月24日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 木曜日は、弟子達と最後の食事をされた過ぎ越しの祭りの最初の日です。主は、自ら手ぬぐいをとり、たらいに水を入れ弟子達の足を拭き始められたのです。一同に不思議な、そしていたたまれない雰囲気がただよったに相違ありません。

第一に、弟子達は、主のみ足を洗うことができませんでした。
 彼等は、弟子達の中で誰が一番偉いかを論じあっていました(ルカ22:24)。そんな彼等に、しもべのするような人の足を洗う思いが浮かぶわけがありません。誰も起きあがって足を洗う者はありませんでした。それは私ではない。他の誰かだったのです。そんな弟子達の思いを見抜かれた主は、自らしもべとなられました。

第二に、主、自ら弟子の足を洗いはじめられました。
 栄光の主、力ある神が、汚い弟子達の足を一人一人洗われたのです。彼等がどんな気持ちであったかをペテロが代弁します。「主よ。あなたが私の足を洗ってくださるのですか」と、私達の汚い罪を負われて身代りの刑を受けようとされる主は、弟子達に自ら模範を示されました。

第三に、互いに足を洗い合いなさいと命じられました。
 誇り高ぶりは、偉くなってしまった人の特徴です。主の弟子は、謙遜に仕える働きをもって栄誉をいただきます。そこに祝福があります。

<聖書のことば>
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
ヨハネの福音書 13章14節






宣教カンファレンス
「世界宣教命令と私」
マルコの福音書16章15節


2013年2月17日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 福音宣教のめあては、全世界であるという事は、キリストご自身の明白な命令です。たとえ教会がどんな状況にあったとしても、この主から与えられている使命は変ることはありません。或る人は言うでしょう。「わたし達の伝道がこんなに困難なのに、世界宣教だなんてとんでもない。」「経済的に苦しい状態なのに、海外宣教への支援など、本末転倒じゃないか」「先ず日本の伝道だよ。日本に宣教師が送られてきているのに、日本から宣教師を送り出す時ではない」と考えるのは、聖書と主の命令に合致しているのでしょうか。私達がどう考えようと、キリストご自身の主の群れである教会への命令は、全世界なのです。勿論この地に設立された教会は、この地域への伝道の責任があり、日夜宣教の為に心を熱くしてお仕えしなければなりません。しかし、教会がたとえ困難な中にあっても、教会は、常に世界の魂に対して責任があるのです。日本の魂のために責任があるのと同様に、未だ見ぬ世界の魂の救いの為の責任があります。
 この責任を果たすために私達は何をしましょうか。先ず、祈りましょう。本日配られた祈りの冊子に目を通し、宣教地の必要のために祈りましょう。献げましょう。外食一食分を抑えて献げるなら、宣教師の働きを助ける事ができます。魂への重荷を増し、先ず周囲の魂の救いの為に、そして同様に海外、国内の魂への働きかけをしましょう。

<聖書のことば>
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
マルコの福音書 16章15節






「銀貨30枚」
ルカの福音書22章3~6節


2013年2月10日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 受難週第3日目の火曜日は、主にとってとても多忙な日であったようです。パリサイ人への厳しい譴責、終わりの日の予告。天のみ国のたとえ等多くの話しを語られ、その後ご自分が十字架につけられる事を予告されました(マタイ26:1-2)。一方ねたみに燃えた祭司や長老達は、大祭司カヤパの家に集まり、キリスト殺害の謀議をこらしていたのです。サタンは、この時ユダの中に入ります(ルカ22:3)。彼は当時奴隷1人の値銀30枚でキリストを売る事にしました。おそろしくつらい事ですが、ユダの裏切りこそキリストの苦しみの根底にある事ですので、ここからしっかり学びましょう。

第一に神への裏切りの可能性です。
 ユダは、優秀な人物でガリラヤ出の漁師ではなく、弟子内でも会計をあずかる信頼された人物です。しかし人の内側には処理されていない罪の性質があり、ユダの場合貪欲が、サタンの狙いどころとなりました。人は誰でも神への裏切りの可能性がある事を覚え、目を覚ましていなければなりません。

第二に、悔い改めの大切さです。
 悔い改めの機会はあったでしょうが、できなかったユダの最後は、極めてみじめなものとなりました。(使徒1:18)

第三に、神の摂理です。人の思いを越えた神のご計画の深遠さを、このユダの裏切りを通して学ぶことです。神は悪しき事も、栄光の為に用いられます。

<聖書のことば>
こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
マタイの福音書 26章15節






「潔められた神の家」
マタイの福音書21章12~17節


2013年2月3日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 マルコによれば、エルサレムへの入場の翌日でした。過越しの祭りのためにごったがえすエルサレムと神殿の周囲、特に異邦人の庭での売店の喧騒はひどいものだったのでしょう。主は屋台をひっくりかえし、売人を追い出し「神の家である神殿は、祈りの家とすべきだ」と激しく怒られました。これは、二度目であったとすれば(ヨハネ2:13~)、いかに神の宮である教会が聖別された祈りの家即ち神との交りの場でなければならないかが判ります。

先ず、第一に、教会は、祈りの家であるべきです。
 教会は、神の家すなわち神殿です(第一テモテ3:15)。神殿でなされる事は礼拝でした。そこは聖なる場所であり、神との交りの場なのです。従って共に集められる私達ではありますが、人と向きあう以上に主と向き合うことこそ優先されるべきなのです。

第二に、あわれみといつくしみの家であるべきです。(マタイ21:14)
 主は、盲人や足なえをいやされました。主の目は常に弱い者に注がれていたのです。ある意味で人は全て弱者ですが、社会的に疎外されていた者への優しい思いは、常に教会の中にあるべきなのです。即ち暖かさがあるべきです。

第三に、キリストをほめたたえる賛美があるべきです。(マタイ21:16)
 幼児と乳飲み子の口に賛美をさずけられた主は、教会に於て常に神をほめたたえる賛美があるべき事を示されました。私達の教会はどうでしょうか。

<聖書のことば>
そして彼らに言われた。「『私の家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
マタイの福音書 21章13節






「真のホサナ」
マタイの福音書21章1~11節


2013年1月27日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 受難週の第一日は、週の始め即ち日曜日で、主が十字架におかかりになる五日前です。人々は、イエス・キリストを棕梠の枝を打ち振り、上着を敷いてホサナ、祝福あれ」(マルコ11:9)と、凱旋将軍や王を迎えるごとくに歓呼して迎えます。主が公けにご自分をメシヤとして、王としてあらわされた瞬間でした。しかしこの王は、群集が期待する王とは異なる真の王であられました。この王の姿を学びましょう。
第一に、このお方は予告された王でした。(ゼカリヤ9:9)
 かつてあらかじめ王となるために予告された者があったでしょうか。しかも権力で民を治める王ではなく、人を罪と死から救う救主としての王として、神は、私達の救いのために、あらかじめ計画を持ちそれを実行されました。
第二に、このお方は、全知全能の真の王でした。
 繋がれたろばとろばの子の真の持ち主であり、そのろばがいることとその主人が「主がお入用なのです。」との言葉に従うこともご存知でした。全知全能の支配者としての力をお見せになりました。
第三に、子ろばに乗って凱旋する柔和な王でした。
 荷物運搬用のろばに乗って人々の歓呼を受けるキリストは、やがて人々からののしりとあざけりを受けるしるしでもあります。予告された不思議な王、全てを知る真の支配者、謙遜にしてしもべとして来られた真の王にホサナ。

<聖書のことば>
シオンの娘に伝えなさい。「見よ。あなたの王が、あなたのところに、来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。」
マタイの福音書 21章5節






「苦しみの道を選ぶ」
使徒の働き9章10~20節


2013年1月20日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 主のみこころと自分の心とは、いつもぶつかるのではないかと思われます。何故ならば、私は罪人の弱さを持ち、主は完全にして全知なるお方だからです。私達は、明日の事は判りませんが、主は明日の事も、物事の全てをご存知の上で計画をおたてになります。
 「アブラハムとロトの分かれは、象徴的です。富の増し加わって共に行動が、できなくなった時、ロトは豊かに見えたソドムを選び、アブラハムは荒れ果てた山岳地帯を選んだのです。その結果は明らかでした。私達は安易な道、都合の良い道、繁栄の道を選び易いのですが、救主イエス様は反対でした。困難と苦しみの道を選ばれました。
 将来を宿望されたパウロは、当時のユダヤの世界で一格の人物になった器だったでしょうが、復活のキリストにお会いするや、彼の人生は闘いと苦しみの人生に変わりました(使徒9:16)。しかしそれこそが、パウロという人物を偉大ならしめた最大の理由です。自分のおもいを第一にせず、キリストに従う事によって起こる不都合や困難を甘んじて受ける姿勢、それは、あの偉大な指導者モーセもパロの娘の子と呼ばれることよりも、むしろ神の民とともに苦しむ事を選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と考え、目に見えない方を見るようにして、忍び通して苦しみの道を選びました。もしそうでなければ彼には何も残らなかったでしょう。

<聖書のことば>
心を尽くして主に拠り頼め、自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
箴言 3章5~6節






「マリヤによる葬りの備え」 (受難週前日)
マルコの福音書14章3~9節


2013年1月13日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 受難週又は聖週間と呼ばれる一週のひとめぐりは、週のはじめから次の復活の日の前日までを指し、復活の日の一週前の聖日を「棕梠の聖日」と呼んでいます。ベタニヤにおけるマリヤの香油注ぎは、一週前の安息日でしたので、受難週の始まる一日前ということになりますが、マリヤの行為は、主のお語りになった「葬りの日の備え」という意味では、大変重要な出来事ですので、先ずここから受難週の学びの第一回目といたしましょう。

 先ず、マリヤの主イエス様への接待から学びましょう。
ナルドの香油は当時高価なもので、弟子の言葉では、300デナリ即ち300日分の給料で売れるものでした。マリヤは壺ごと割って(マルコ14:3)おしげもなく注ぎます。キリストへの真実な愛と信仰は、犠牲をいといません。ユダや弟子達の反応は、私達の心にもひそむ思いであり、部屋一杯に満ちたかぐわしい香りとは、全く異なるものです。

 主の、私達への教えから学びましょう。
第一に、マリヤの行為を「立派」とおほめになりました。無駄に思えるキリストへの行為を主は立派とおほめになったのです。
第二に、葬りの備えをしたのだと言われました。マリヤがそれを知っていたとしたら、なんとすごい洞察力でしょう。み傍近く仕える者の恵みです。
第三に、福音が伝えられるところでは、この行為も伝えられる誉れを得ました。

<聖書のことば>
まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。
マルコの福音書 14章9節






「前進しつづけよ」
使徒の働き9章31節


2013年1月6日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 使徒の働きは、教会がどのように進展していったかを記すのが一つの目的で、2:42、9:31、16:5にそれぞれその区切りがあります。この9:31は、異邦人への使徒パウロの回心があって異邦人伝道への準備ができた一区切りの時です。この時の教会の状態がきわめて印象深いことばで記されています。

第一に、築きあげられたです。
 教会は神の家として築きあげられる必要があります。築きあげる為には、どうしても基礎がしっかりしていないと築くことはできません。地中深く基礎がしっかりと据えられ、その上に柱がたてられ壁や屋根が築かれるのです。教会もキリストを土台として、各々の結びつきが確かなものとされ、完成をめざす必要があります。

第二に、前進しつづけることです。
 前に向って歩みつづけることです。とどまってはなりません。たとえ歩みは遅くとも前進しつづけるところに成長があります。教会は目標に向って常に前進しつづけることです。

第三に、信徒の数が増したのです。
 それは、しっかりした土台が築かれ、前に向って前進しつづけた結果です。信徒が数が増すことにより、教会は力を得て益々主の働きに邁進できます。

<聖書のことば>
こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。
使徒の働き 9:31