聖書からのメッセージ


【礼拝説教要旨】

「感謝する為に戻った癒された人」
ルカの福音書17章11~19節

2012年12月30日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 ライ病人を聖書は、ツァラアトと記しています。生きながら体の一部が腐敗してゆく恐ろしい病気は、当時治療の手立てのない、世間から隔離された病でした。彼等は互いに助け合いながら集団生活をしていたのでしょう。ここに10人の病人が主のあわれみを求め、遠く離れて「イエスさま、先生」と大声で叫びます。
 主は、当時の規定に従い、「祭司に見せなさい」「行きなさい」と言われ、それに従って行く途中で病はいやされます。彼等の喜びと驚きは、いかばかりであったでしょう。キリストのことばに従った彼等の信仰が、主の力をいただく恵みをひき出します。彼等はたしかに病はいやされ、健康な状態に戻され、大きな喜びに満たされました。しかし、いやし主であるキリストのもとに戻って、ひれ伏して感謝した者は、ただ一人でした。私達は、主の恵みの数々をいただきながら、このいやされた病人のように、主の前にひれ伏して感謝する事がいく度あったでしょうか。
 主は、戻ってきたサマリヤ人に「あなたの信仰が、あなたをなおしたのです」と言われました。たしかに10人全てが直されました。しかしこの戻ってきた者は、体のいやしだけでなく、その心も健全になったのです。神をあがめ感謝するという方法で、自分になされた主のお恵みをあらわす事ができた彼は、これから後、決してその心を忘れる事がなかったでしょう。

<聖書のことば>
「神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
ルカの福音書 17章18節






「光は暗闇の中に輝く」
イザヤ書9章1~7節

2012年12月23日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 メシヤは、光としてこの世に来られ、「わたしは、世の光」であると言われました。暗闇の中に輝く光として世に来られたイエス・キリストは、私達に何をもたらしたのでしょうか。光は多くの意味を持つものですが、その中の一つは、安らぎでしょう。光は明るさをもたらし、人の心に安心感を与えます。メシヤのもたらした安らぎは、どのような安らぎでしょうか。

第一は、赦しの安らぎです。(エペソ1:7)
 キリストの十字架の死は、ご自身の罪のためではなく私達罪人の身代りの刑罰でした。それにより私達の全ての罪は、聖なる神の前に義とされ、いかなる者も大胆に神の前に立つことができるようにして下さったのです。赦しのないところに安らぎもありません。弱さや足りなさをもちながらも神に赦されている人は、良心のとがめをすすがれ安らぎを得ます。

第二に、愛されている安らぎです。(ヨハネ3:16)
 罪人の為に命をも投げ出す程の大きな愛を知る者は、愛されている喜びと共に、心の安らぎを得ます。愛されている事を知らない人は、不幸です。しかし、いかなる人をも等しく愛されたキリストの愛を知る人は平安です。

第三に、永遠に守られている安らぎです。(マタイ28:29)
 メシヤなるキリストは、信じ従う者を世の終りまで共にいて守って下さると約束なさいました。常に守られている者は安全で、安らぎを得ます。

<聖書のことば>
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に、光が照った。
イザヤ書 9章2節






「満ち足りる心を持つ幸い」
ピリピ人への手紙4章11~13節

2012年12月16日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 常に満足のない不満だらけの生活は、不幸です。かと言って満足してしまうと、それ以上の進歩も成長も人間として期待できないかもしれません。パウロは、獄中という状況の中で、「満ち足りる心を学んだ」と言うのです。富むことにも乏しいことにも、飽くことにも飢えることにも、あらゆる境遇に処する秘訣を心得ているとあかしします。この秘訣を私達も持たせていただきたいものです。パウロは、どのようにしてこの秘訣を自分のものにしたのでしょう。

第一に、神の視点で全ての事を見ることです。
 自分を中心に物事を考えれば、これ程不幸で不満足な状況はありません。しかし、ヨブのように「さいわいを神からいただくのだから、禍いをも受けるべきだ」と信じれば、そこに神の摂理を信じることができたら、ヨセフのように、あらゆる苦難に耐えることができるだけでなく、そこに充足した満足を経験できるに違いありません。

第二に、パウロは、イエス・キリストを常に思っていました。
 それは、彼にとって福音でした(第2テモテ2:8)。キリストを見ている生涯は、あらゆることに満足をもたらす秘訣であるとともに、更に自分自身を向上させる大きな力ともなります。十字架のキリストを見つづけるところに「何事でもすることができる」心が与えられ、ここに最高の価値が生れる秘訣があります。キリストの内にこそ人を満足させる全てがあると言うのです。

<聖書のことば>
私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
ピリピ人への手紙 4章12節






「神に栄光あれ」
ユダの手紙25節

2012年12月9日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 ユダの手紙講解説教の最終回に相応しい、神の栄光をたたえる結びのおことばです。
 混乱と迷いの世から人が目を天にむける事ができれば、そこには神の栄光と賛美があります。いかなる時にも、そこには不変なる真理、栄光の主が、手をひろげて待っていて下さる、ユダは、純真な神の子達に、あたかも子が親のふところで安心するように、又親の顔を見て安心するように、最後に目を天に向けさせています。
 そのお方は、栄光、尊厳、支配、権威に満ちた方で、これらは全て神ご自身のものであって、人のものではありません。罪の世は、神のものを神のものとすることができず、神のものを己れのものとします。ユダの頌栄は、神のものを神のものとしてほめたたえ、栄光をほめたたえるのです。
 ここには、神が救い主とたたえられています。唯一の創造の神は、又私達の救い主でもあります。このお方を通し私達は、栄光、尊厳、支配、権威を形として知ることができます。私達は、この月、イエス・キリストのご降誕をお祝いするわけですが、栄光に満ちたメシヤの誕生を、「いと高き所に、栄光が、神があるように」(ルカ2:14)と賛美できますように。そして、心の底から、アーメン、真なり、と栄光の主、アーメンなるお方をほめたたえることができますように。守り通してよかったと御名をほめたたえるでしょう。

<聖書のことば>
すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。
ユダの手紙 25節






「躓から守る神」
ユダの手紙24節

2012年12月2日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 厳しい偽りへの警戒と訓戒を続けたユダは、最後に壮大な神への賛美をもって手紙を締めくくっています。この世の混乱から目を上に向ければ、そこには大いなる神のいつくしみがあります。

第一に、真の神は、信じる者を躓かないように守って下さいます。(24)
 主は、躓きは避けられない(ルカ17:1)と言われました。この世には、信仰者を躓かせる沢山の誘惑で満ちています。余程目を覚まし、注意していないと、尊い信仰を失います。しかし丁度幼子を見守る親のように、危険から私達を守って下さろうとしています。たとえ躓いても手を差しのばして起ち上がらせて下さいます。ですからその手を振り払ってはなりません。

第二に、傷のない者としてみ前に立たせて下さいます。
 キリストの十字架の死は、信じる者の罪を赦して下さるだけでなく、罪の傷をもいやして下さるのです(エペソ1:4)。罪の傷は、時にうずき、いつまでも忘れないものです。主は私達以上に傷を受けて、お赦し下さいました。その流された血は、人の心の傷をもいやして下さいます。

第三に、大いなる喜びを持つ者としてみ前に立たせて下さいます。
 それは、栄えに満ちた喜びで、言葉に尽くすことはできません。やがて主にお会いする時、信じて救われた者は、救われていてよかった、キリストを信じてよかった、信仰を守り通してよかったと御名をほめたたえるでしょう。

<聖書のことば>
あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、
ユダの手紙 24節






「火の中からの救出」
ユダの手紙22~23節

2012年11月25日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 聖い信仰の上に自分自身を築き上げることを勧めた後に、罪の迷いに陥った者への姿勢を教えます。

第一に、迷い出した者を救い出せと教えます。
 群れから迷い出たものを審き、切り捨ててしまい易いものですが、あわれみをもって、あたかも火事場から救出するかのように、つかみ出して救えと勧められています。火は罪の火、審きの火です。一時も猶予はありません。ぐずぐずしていれば焼け死んでしまいます。迷う者、疑いを持ちはじめた者へは、はっきりとした確信をもって助けの手をのばすべきです。

第二に、不信、不従順、汚れの衣は、忌み嫌えと教えます。
 下着は、肌に直接触れ汚れを吸うものです。罪の汚れは神が最も嫌われるものですから、一つも残さず洗い清められなければなりません。キリストの十字架の痛みと苦しみと死は、神がいかに罪を憎まれるかのあかしです。罪への一歩は、永遠の滅びへの一歩であることを忘れてはなりません。

第三に、神を恐れつつ自分を守って救出の助けをせよと教えます。
 自分自身も誘惑に陥ることのないように、十分に罪の力に用心して、火の中から助け出さねばなりません。罪の力をあなどることなく、力をいただいて愛する兄弟姉妹が迷いと滅びの道からたちかえることができるように働くことのできる人は、主より大きな報いをいただくことができるでしょう。

<聖書のことば>
疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。
ユダの手紙 22~23節






「聖い信仰の上に自らを築け」
ユダの手紙14~21節

2012年11月18日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 偽者や不敬虔な者は、やがて大いなる審きを受けるべき事が教えられています。彼等の外面的不信の実だけでなく、内面的な不純は、彼等の日常生活のあらゆるところにあらわれていて、教会内に肉的影響を与えるので注意するようにとの使徒達の教えを思い起こすべきことを伝えます(17)。しかし、大切な事は、聖徒達が聖い信仰の上に自分自身を築き上げてゆくことです。
 ここには、4つの勧めがみられます。

第一は、信仰によって自分自身を築くことです。
 信仰とは神と自分との関係であり、不純な係りでなく正しい関係によって自分自身を築くことです。周囲に惑わされない事です。

第二は、祈りによって整えられることです。
 人と話すことによる影響ではなく、主と語ることによる感化こそ自らを養う大きな力です。祈りは神からの恵みをいただく管です。

第三は、キリストの愛のうちに自らを保つことです。
 キリストの愛のうちに自分を置くことは、平安と喜びの源を内に持つことに他なりません。何ものにも動かされない力を主よりいただくでしょう。

第四に、主のあわれみを待ち望む希望を持つことです。
 死の向うへの永遠の望みの内に、日々の困難に常に助けを賜う望みを持てる確信は、周囲の不信による雑音に惑わされない大いなる力となります。

<聖書のことば>
しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ・・・
ユダの手紙 20節






「実らない秋の木」
ユダの手紙11~13節

2012年11月11日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 教会を混乱させる偽りの教師への厳しい警告が旧約の出来事の例証と、たとえをもって教えられます。

第一に、旧約の例証と偽教師の働きです。
 その一つは、カインの道です。カインは、ねたみと憎しみの故に弟アベルを殺し、人類最初の殺人者となります。次にバラムの迷いです。モアブの王バラクの要請でイスラエルを呪うように求められた預言者バラムは、神のみこころを求めて正しそうに見えますが、沢山の賂(まいない)によってバラクに加担した貪欲者です。三つ目は、レビ人コラの一族のモーセとアロンへの反逆です。彼等は、上に立つモーセを憎み、多くを煽動して指導者モーセとアロンに反逆し結局神罰を受け、一万人以上の者が神の怒りに触れて死にました。偽者の内に同じ性質が宿っている事が教えられています。

第二に、いくつかのたとえと偽教師の姿です。
 自分だけを楽しませ満足させる者であり、雨を降らせる雲でありながら、空しく風にふきとばされる無益な雲であり、根から抜きさられて実ることのない秋の木のように、収穫を期待されながらも、正しいところに根ざしていない為に良い実を結ぶことのない木であり、常に動揺して泡だつ海の波のようで、その泡は、風に吹きとばされる空しいものです。又、一瞬に消える道を外した流星のようです。偽者にだまされてはいけません。

<聖書のことば>
・・・水のない雲、実を結ばない、枯れに枯れて、根こそぎにされた秋の木、自分の恥のあわをわきた立たせる海の荒波、さまよう星です。
ユダの手紙 12節b~13節a






「約束の地での戦い」
ヨシュア記1章1~3節

2012年11月4日 第1聖日 執事 梅田信一

 エジプト脱出、荒野の困難な旅、モーセの召天、一つの時代を経て選民イスラエルは、ヨシュアの指導の下に、新たな出発をします。そこは約束の地であり、乳と蜜の流れる地でした。しかし同時に戦いの地でもあったのです。ヨルダン川を渡った彼等を待っていたものは堅固な城砦エリコでした。新世代に課せられたものは何だったのでしょうか。

第一に、新たな指導者ヨシュアに従うことでした。
 ヨシュアは、神によって立てられた後継者であり、モーセのもとで訓練を受けた信仰者です。カレブと共に神への信頼の強さは証明済みでした。しかし、モーセではありません。世代交替した民は新たな指導者に新たな思いをもって従う決意をする必要がありました(ヨシュア1:16)。

第二に、約束の地は、戦いの地である事を覚悟する必要がありました。
 エリコでの勝利が、主の戦いである事を経験したにもかかわらず、アイでの戦いにおいて、主の命に従わなかったために大敗を契します。戦いに於いて油断があってはならず、主のおことばに忠実に従うことによってのみ勝利があることをしっかり心に留めるべきでした。

第三に、聖絶が命じられたものは、徹底して聖絶すべきことでした。
 残したものは、やがて彼等の罠になったのです。私達の信仰生活に於ても罪と肉の処理は、しっかりする必要がある事が教えられます。

<聖書のことば>
強くあれ、雄雄しくあれ、わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。
ヨシュア記 1章6節






「赦されて生きる幸い」
ルカの福音書7章36~50節

2012年10月28日 第4聖日 伝道師 福田敬三

 目の前に起こる出来事を通して何を見、どう受けとめるかによって、その後の歩みが大きく変わるという大変重要な岐路が人生にあります。パリサイ人シモンがそれを経験します。彼はイエス様をお食事に招きます。その席に罪深い女性が入ってきて、涙を流しながらイエス様に香油を塗ります。この大胆な行為を通して大切なことを教えようと、イエス様は「この女を見ましたか」とシモンに問われました。それは何でしょうか。
 その第一は、この女性の「罪の赦しとそれに対する感謝、救い主キリストへの信仰」です。高価な香油を惜しげもなく注ぎ、罪の赦しへの感謝とキリストへの愛の故に、この勇気ある行動も留める事が出来なかったのでしょう。これを迷惑と思っていたであろうシモンを主は導かれます。
 第二は、その女性の行為を見たシモンの心の動きからあぶり出される彼の罪、「自己義認の罪」です。シモンのうちにある罪を示し、「自分には関係ない。罪はない」という思いを導き、たとえを用いて真の姿を気付かそうと導かれます。
 第三に、罪赦されて生きる幸いな人生への招きです。シモンが見ていない最も大切なこと、それは私たちにも該当します。罪人が罪を認め悔改め、身代わりの十字架を通してあらわされたキリストの愛を受け入れて罪赦され、神に感謝し喜びつつ生きる人生へと主は招いておられます。

<聖書のことば>
しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
ルカの福音書 7章50節






「夢見る者への警戒」
ユダの手紙8~10節

2012年10月21日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 先に、神の審きがくだった三つの例を示し、神はいかなる罪をも見過ごしにされるお方ではなく、罪には、必ず罰がともなう事を教えたユダは、更に夢見る者への警戒を伝えようと、その内容を展開します。この人たちは夢見る者と言われていますが、旧約では偽りの預言者を指しており、この時には、福音を正しく語る事をせず、神のことば聖書を正しく語ることをしないニセ教師を指していると思われます。彼等は如何なる者でしょうか。

第一に、権威ある者を軽んじる者です。(8)
 神の大いなる権威とその権威をさずけられた者を軽んじ、簡単にそしるのです。そこには、神への恐れがありません。己を正しいとする高ぶりの心に支配されていて、みことばに立つ伝道者を軽んずるのです。

第二に、潔められる事を求めない者です。
 潔められる事を求めない者は、単に不道徳だけでなく、心の動機や思いに於いて神の前に清くなろうとする努力が希薄である為、その症状がいたるところに出てきて、周囲を汚すのです。又自分の状態を正当化します。

第三に、正しい理解もせずに人を審く者です。
 福音の真意とキリストのみこころを正しく知らない者は、霊的な成長とキリストの心を持ち合わせていません。しかしキリストを学ぶ者は、優しさと思いやりと赦しの心を持つことができ、成長します。

<聖書のことば>
それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。
ユダの手紙 8節






「神の慈愛と峻厳」
ユダの手紙6~7節

2012年10月14日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 神の厳しさは、旧約聖書にはっきりと示されています。厳しさというより聖さと解した方が判り易いかもしれません。神の聖さは、汚れを決して受けつけることがないからです。丁度、光が暗やみを残す事がないように、神の聖なるご性質は、たとえわずかな罪をも、放置する事はないのです。しかし一方愛なる神は、罪にまみれた私達を近づけ、受け入れ、赦そうとされます。しかし潔さはそれをゆるしません。この二つの相克が、神自ら罪の解決をされた十字架にあらわされたのです。その条件は、罪のない人でなければ罪人の身代りになれませんから、完全な聖であられる神が人となられて、罪人の身代りの刑罰を受けることによって、神の聖さと愛がそこに相入れるものになったところに救いの道が開かれたわけです。
 ユダは、その神の聖さを三つの例を挙げて教えようとしています。
 一つは、出エジプトをしたイスラエルの民の不信に対する神の厳しいお取り扱いです。呟きと試み、不平と不満に対して神は厳しく罰せられました。
 二つ目は、天使に対する審きです。仕える霊として創造されたみ使いが、自分の立場を守らない高ぶりに対して審きをくだされました。
 三つ目は、ソドムとゴモラにおける不道徳と制御できない人間の欲望に対する厳しい審きです。不信・高慢・不道徳に神は決して放置されません。赦されていない者は勿論の事、救われている者にも神の怒りは矯正として下ります。

<聖書のことば>
また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。
ユダの手紙 6節






「新しい人生の出発」
使徒の働き9章1~22節

2012年10月7日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 宣教者パウロの人生は、復活されたキリストにお会いすることによって変りました。当時の最高の教育を受けたパウロは、あらゆる点で優秀な人物であり、自分の栄光をあらわす為の条件のそろった器でしたが(ピリピ3:4-6)積み上げた自分の為に有利になる全てのものをちりあくたと思える程に変えられたのです。一体彼の何が変ったのでしょうか。

第一に、仕えるお方が変りました。
 ユダヤ人であった彼は、誰よりも神を敬い仕える者でした。しかし復活のキリストの中に活ける真の神の具体的な姿を見、このお方こそ真の神であることを悟った事により、彼の人生は一変しました。その経験は突然であり、打ち砕かれる事によって起こりました。それは又未曾有の経験でした。この時以来パウロの仕える方が変ったのです。

第二に、働きが変りました。
 キリストによるはっきりとした使命、しかも異邦人への使徒という思ってもいなかった世界的使命、そしてそれに伴う苦しみは、キリストによる賜物としての苦しみでした。自分の栄光の為の働きでなくキリストの栄光の為の働きに変えられたのです。全ての事がキリストに仕える心によって行われました。

第三に、人間関係が変りました。
 キリストにある人間関係こそ大切になったのです。(ローマ書16章)

<聖書のことば>
彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。
使徒の働き 9章16節






「思い出させたいことがある」
ユダの手紙5節

2012年9月30日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 忘れてはならない事は、時々思い出す必要があります。事実は忘れる事がなくても、その時の決心や感動の心は、次第に薄らぎ、形を変えてしまうものです。ユダは、私達が当然判っている事をもう一度思い出させたいと言います。

第一に、それは、すっかり知っている事です。
 これは、当然の事ながら福音であり、信じた事によって与えられた救いの事です。しかし、ユダは救いという事は、とりもなおさず、滅びから救われた事を思い出すように強調しています。救われたという事は、滅びないということであり、神に審かれないという事だという事を思い出すよう勧めるのです。(ヨハネ3:18)

第二に、思い出すことです。
 すっかり知っているつもりでも、いつの間にか忘れ、薄れてしまう人の弱さがあります。イスラエルの民が、エジプト脱出という未曾有の神の救いと恵みを体験し、神の力と守りを知ったにもかかわらず、3日後には呟いてモーセに反抗したように、目前の苦しみに神の恵みを忘れるのです。あの時の感動や決心を忘れてはなりません。

第三に、救われなければ、滅びる事を知ることです。

 救いの双極に、永遠の滅びがあることを決して忘れてはならないのです。

<聖書のことば>
あなたがたは、すべてのことをすっかり知っているにしても、私はあなたがたに思い出させたいことがあるのです。
ユダの手紙 5節






「ある人々」
ユダの手紙4節

2012年9月23日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 「ひとたび伝えられた福音のために戦う」ように勧めたユダは、その相手がどのような者であるかを示します。それは極めて具体的で厳しいものです。霊の指導者として、このようにはっきりと示すことのできたユダの霊性の高さと、真の愛に教えられます。
 まず、ある人々とは誰なのでしょうか。これは偽教師であり、当時は巡回伝道者でしょう。彼等の危険性は、美しく正しいような姿でひそかに忍び込み、純粋な信仰者を、疑いと混乱に導いてしまうことです。彼等は、自分が間違っているとは考えてはいません。熱心で魅力的です。しかし、最初伝えられた純粋にして、単純な福音の恵みを異なったものに変えてしまうのです。
 ある人々とは、どんな者なのでしょうか。ここには、三つの姿が示されています。
 第一に、不敬虔な者です。不敬虔とは、神への恐れの欠如であって、神を信じていると言いながら、一向にその生活が変らない者です。
 第二に、神の恵みを放縦に変える者です。神の愛と赦しといつくしみを良いことに、抑制されない欲望を果す口実にする者です。即ち、神は何をしても赦して下さる、だから大丈夫だと自分の放縦を肯定する者です。
 第三に、イエスが神である事を否定する者です。彼等の中心は自分なのです。この危険に目を覚まして立ち向わねばなりません。

<聖書のことば>
というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。
ユダの手紙 4節






「内なる人は日々新たに」
コリント人への手紙4章5~18節

2012年9月16日 第3聖日 伝道師 安藤修司

 本日は敬老感謝礼拝、人生の先輩を大勢迎えることのできる恵みを、主に感謝しましょう。

第一に、主は、人生の先達を通して豊かに教えて下さいました。(5‐7)
 学び受け継ぐ営みは、神が私たち人類だけに下さった賜物です。そして一番大切な「栄光の福音」を、主は信仰の父祖たちを通して私たちに伝えて下さいました。信仰の先達に感謝し、祝福を確かに受け継ぎましょう。

第二に、主は人生を最後まで守り導いて下さいます。(8‐12)
 どんな困難にあっても主にあって窮することはないと、パウロは身をもって証しました。自分に失望し自分に死ぬ中で、イエスのいのちが生きて支えることを、クリスチャンは経験します。主は私たちを見捨てることはなさいません。守られてきた先輩達は、主の真実の守りの生き証人です。

第三に、主は地上の生涯を終えて凱旋する恵みを下さいました。(14-18)
 聖徒の生涯は地上で終わりません。十字架と復活は、信じる者がやがて朽ちないからだによみがえり、天国で永遠に主と共に住むことの証明です。生まれつきのいのちが歳とともに衰えても、永遠のいのちが信じる者の内に働いてますます希望にあふれ、幼子のように純真できよく変えられてゆきます。老いの試練は私たちを世への執着から解放し、いつまでも続く天の祝福に目を注がせるように導くかけがえのない恵みでもあるのです。

<聖書のことば>
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
第二コリント 4章16節






「信仰のための戦い」
ユダの手紙3節

2012年9月9日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 信仰者を競技場で闘う競技者にたとえ、戦場で戦う兵士にもたとえられています。ユダは与えられた救いを正しく、純粋に保つために戦うことを勧めています。その理由が4節以降に示されていますが、先ずここでは戦いの必要を学びましょう。

第一に、ここでは、勧めがされています。
 これこそユダのしなければならない事でした。他に書き送る事があったようですが、それ以上に緊急に手紙を書く必要が生まれました。指導者の務めをここに見ます。群の危険をいち早く察知し、警告を与え導く務めが伝道者にはあります。何故なら教会に立てられた牧師は、見張り人であり、監督であり、羊飼いだからです。(エゼキエル書3:17)

第二に、伝えられた救いの為です。
 救いに必要な福音が伝えられ、その単純にして純粋な信仰をゆるがすような誤った働きかけがあったからです。救いを体験した頃の喜びや平安、謙遜や純心さが、やがて薄らいでゆくのは何故なのでしょうか。しっかりと良いものを守る心構えの必要を学ばねばなりません。ここに戦いがあります。

第三に、戦うことが勧められています。
 どうして信仰には戦いが必要なのかを確認しましょう。正しく保ち、純粋に保ち、失わないように保つことをやめさせる力が働いているからです。

<聖書のことば>
聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
ユダの手紙 3節






「イエス・キリストの為に守られている方々へ」
ユダの手紙1~2節

2012年9月2日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 ユダの手紙も1章だけの短い手紙で内容的にもヨハネの手紙やペテロの手紙と類似しているものです。ユダは、選民の中では親しみ深い多い名で、聖書の中には多くのユダが登場しますが、この手紙は主の兄弟ユダによって書かれ、ヤコブ書と共にイエスの肉の兄弟の一人であった事は意味深いものがあります。
 先ず、本書が書かれた目的を見てみましょう。初代教会は既に大勢の聖徒が集り、特にエルサレム教会の指導者であったと思われるヤコブの下で仕えたユダにとって、教会の中に混る毒麦に心を痛め、諸兄姉に注意をうながす必要がありました。特に妥協的福音と信仰、敬虔を放縦に変えてしまう誘惑、教会の中に混乱を持ち込むいまわしい者の存在は、やがて主の審きの対象となる事を伝える必要がありました。(15)
 あいさつの中にユダの謙虚さと信仰があかしされています。
 第一に、自分をキリストの奴隷と言い、ヤコブの兄弟と言います。決してイエスの兄弟とは言いません。それはヤコブも同様です(ヤコブ1:1)。復活のキリストにお会いして彼等は完全に変えられ、深いへりくだりの霊に満たされました。イエスは彼等にとってもはや肉の兄弟ではありませんでした。
 第二に、キリストの為に守られている方々と言います。守る方も守られている者も、キリストにあってなのです。主は主の為に信じる者を守られます。

<聖書のことば>
イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。
ユダの手紙 1節






「平安がありますように」
ヨハネの手紙第三 13~15節

2012年8月26日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 手紙の最後の結びです。
 第2の手紙の結びと比較してみましょう。大体同じですが若干違います。
 書くという言葉が、時制の違いで書くと解するところが、書き送りたかったこととなり、筆と墨が紙と墨となり、姉妹の子がよろしくが、友人達がよろしくとなり、喜びが全きものとなるが、平安があるようにと変っています。この変化の中にヨハネの心情を読みとることができます。
 まず、友人たちという言葉に注目すれば、これは兄弟姉妹と通常呼ぶところを友人と呼ぶのは珍しい呼び方です。友とは仲間、親しい関係をあらわす言い方ですが、詩41:9の友は、人という言葉と平和ということばが結びついた表現で、友とは常に平和な関係、平和をいつも共有する者の意味がありヨハネは、困難の中にあるガイオに、多くの平安を共有する仲間がいることを伝えたかったのでしょう。あえて友という言葉を使っています。
 そして、平安を祈ります。これこそガイオには必要であったと思われます。平和の根源は神にあります。神との平和こそ人のあるべき姿であり、キリストご自身が十字架の贖いによって私達にもたらして下さった救いです。ガイオは、この平安を勿論持っていました。しかし平和をおびやかすことが起こった時にこそ平安が必要です。信じる者には、この世が与えることのできない平安が、キリストによって与えられている事は、何と幸いでしょう。

<聖書のことば>
平安があなたにありますように。友人たちが、あなたによろしくと言っています。そちらの友人たちひとりひとりによろしく言ってください。
ヨハネの手紙第三 15節






「見よ、わたしは新しい事をする」
イザヤ書43章19節

2012年8月19日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 教会における牧師の存在は、主が召し出された器であるというだけでなく、実際に多くの魂を養い育てる為に非常に重要な責任のある存在です。牧師の働き如何によって教会の祝福は変ります。成長も、低迷も、後退も群を導く羊飼いによる事が多いのです。この重大な決定が私達に委ねられて、私達は、この5年間、招聘委員会を中心に現牧師が牧会できなくなる前に後継牧師が与えられるように祈り働いてきました。しかし昨年とうとう恐れていた牧師の癌発症によって、早急に次期牧師の必要が生まれ、より真剣に祈りに迫られました。これも主のなされた不思議なみわざであったのでしょう。教会の今後の祝福を左右する指導者の導きは、そう簡単にしてはならないしそう簡単にはいかないのです。祈り深く、注意深く主のみこころを求め忍耐深く、知恵深くなくてはなりません。事は、主によるのですから。
 導かれるお器と新しい指導者を迎える教会とが各々主に在る確信をいただき、人の思いを越えた霊の一致をいただく時、教会にとって危機的な状況を祝福に変えていただくことができるでしょう。これから後の教会は、これまで以上の祝福をもって主はおのぞみ下さるに相違ありません。人間的ないっさいの念をとりこにして、この時こそ日頃養われてきた信仰を働かせる時なのです。主がして下さる新しい事に期待し、後継牧師の為に熱い祈りを積んで待ち望みたく思います。

<聖書のことば>
見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ろうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
イザヤ書 43章19節






「善を見習いなさい」
ヨハネの手紙第三 11~12節

2012年8月12日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 ガイオへの勧告をしたヨハネは、励ましと教えの為にデメテリオを推奨する、この人物は、ヨハネの手紙の持参人なのか、又はデオテレペスの悪意あるゴシップの被害者の一人なのか不明ですが、ガイオは、この人物のあかしに励ましを受けることが出来たのでしょう。
 デメテリオに関するあかしは、すばらしいものでした。
 多くの人からデメテリオの正しさと良さが証しされつづけられていて、たとえ偽りの悪口を受けていたとしても、彼はそのような人物ではないし、意地悪い仕打ちに負けるような人ではないことは、皆がこぞってあかしするだけではなく、彼の生活ぶりは、聖書の教えにかなっているものでした。
 ヨハネをはじめ使徒達もその立派さはあかしするし、ガイオ自身もその事はよく知っている人物でした。人々からこのような評価を受けている事は、ほんとうのあかしでなくてなんでしょうか。
 よいものを見習って下さい。とヨハネは勧めます。
 善とは、神との正しい関係から生れる上よりの良いものです。それはキリストへの信仰によって与えられます(エペソ2:10)。デメテリオには、キリストへの信頼により、その良きものが具体的にあらわされていたのでしょう。見習いなさいと勧められます。見て真似をすることです。机の上の知識は、実際生活にあらわされて具体化する必要があるのです。見習いましょう。

<聖書のことば>
愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行う者は、神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者です。
ヨハネの手紙第三 11節






「権威欲のとりこ」
ヨハネの手紙第三 9~10節

2012年8月5日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 模範的なガイオの次は、厄介な人物デオテレペスです。名から推測できる身分は、貴族の出かもしれません。この人も確かにキリストを信じた信者であり、しかも教会の中では指導的立場に立つ者でした。なにしろ使徒の勧めにも耳を貸そうとしない人物でしたから。同じキリスト教徒でも大きく異なる人物から何を学ぶことができるでしょうか。
 まず、デオテレペスの人物像をみことばの示す通り観察してみましょう。彼は、頭になりたがっていました。群の中には指導的立場で仕える者が必要ですが、彼は皆から推されて指導者になるのではなく、自分が指導者になりたがる人物でした。彼の生いたちがそうしたのかもしれませんが、キリスト者としての謙遜や愛を十分に身につけていない、霊的には極めて未熟な人物です。この種の人は、自分が一番でないと気がすまないですし、少しでも反対したり、意見が合わないと、中傷したり悪口を言って排除しようとするお山の大将です。主のお取り扱いが必要な人です。
 次に、デオテレペスの中にある問題は何だったのでしょう。それは、聖霊によって潔められていない罪の性質です。信仰は持っていても生まれながら持つ肉の性質がキリストによって取り扱われて潔められていないために、デオテレペスのような人物が存在するようになります。おことばと聖霊のお働きの中で、キリストの徳の高さにまで成長できたら幸いです。

<聖書のことば>
私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。
ヨハネの手紙第三 9節






「真理のための同労者」
ヨハネの手紙第三 5~8節

2012年7月29日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 忠実で愛するしもべガイオへの勧めがこの節の主旨です。即ち、これまで通り巡回伝道者への支援を続けるように、偽教師の横行で失望や批判があったのかもしれません。しかし公の集会でもあかしされるガイオのりっぱな行為は、続けられるべきでした。何故ならば、彼等は御名のために働く者で、全てを捨ててキリストに従った者だからです(マタイ19:27)。後の橋を焼き捨てて、前に向ってのみ与えられた使命を果そうとする者だからです。
 この弟子を受け入れる者は、キリストご自身を受け入れることになるからであり、真実な神の働人へのたとえ一杯の水でも報いからもれることはないと、主は教えられたからです。
 現在、巡回伝道者がやってくる事はなくても、特別な説教者や宣教師のファロー等もあります。あらかじめ教会としての選択があるので安心ではあっても、十分に心すべき事にかわりはありません。それよりも、主に召された働人へのガイオのようなりっぱさをもって、あかしある対応が必要でしょう。特に、牧師の後継者を祈る私達にとっては、働人と同じ心をもって主に仕える必要があります。その為には、2倍の尊敬をもって、牧師のよき理解者となり、支え助ける事が必要です。牧師が喜んで、その働きに励むことができなければ、教会の益とならず、各自の祝福にもならないのです。
 ガイオへの勧めは、今の私達への勧めでもあります。


<聖書のことば>
ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです。
ヨハネの手紙第三 8節






「牧者の喜び」
ヨハネ第3の手紙3~4節

2012年7月22日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 長老(牧者)の喜びは何でしょうか。主の教会を建てあげるために召し出された伝道者にとって、最大の喜びは、委ねられた魂の救いと成長の姿を見る事で、これ以上の大きな喜びはありません。ヨハネは、ガイオのうわさを耳にする度に喜びに満たされたのです。このような聖徒を持つ牧者は幸いです。ヨハネの大きな喜びを学びましょう。

第一に、このニュースは、度々兄弟達によってもたらされました。(3)
 ヨハネのもとに訪ねて来る兄弟達(同信の友)が、1度ならず度々、ガイオの評判を語ってくれるのです。それは人の口を通して語られる良い証言でした。人の評判の多くは悪いうわさとなって伝わる事が多いのですが、ガイオの場合は違っていました。これこそ幸いなあかしです。私達はどのような評価がされているでしょうか。あかしをたてるとはこのようなことなのです。

第二に、真理と愛のうちに歩んでいるという幸いなニュースでした。
 ガイオの信仰は真理の内を誠実に歩む、純粋な信仰でした。誤った教えや感情にとらわれず、キリストへの信仰と実践に生きる聖徒である事が、周囲の人達にも伝わるもので、知識だけにとどまるキリスト教徒ではなく、行いに於て、生活に於て教えられた事を実行する聖徒でした。ヨハネは、このガイオの成長ぶり、充実ぶりを耳にする度に、大きな喜びにみたされたのです。伝道者の誉れは、共にある聖徒であり、その群である教会です。


<聖書のことば>
私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって、大きな喜びはありません。
ヨハネの手紙第三 4節






「魂の幸い」
ヨハネの手紙第三 1~2節

2012年7月15日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 ヨハネの第3の手紙の学びに入ります。内容的には、ほぼ第2の手紙と同じですが、第3の手紙の方がより具体的です。ここには三名の名が出てきて各々特徴的です。まず手紙のあいさつの部分から学びましょう。
 ヨハネは、ここで宛先ガイオへの愛と祈りを記します。
 第一に、ガイオへの愛。愛するガイオと言うだけでなく、「ほんとうに愛しています」と愛の真実さを伝えます。それは形ばかりのあいさつや愛ではなくヨハネが、いかにガイオという人物と親しい間柄であったかを想像させられます。もしかしたらヨハネが霊的に生んだ子かもしれません。聖書中にガイオという人物は三名登場しますが、当時ガイオという名は多かったのでしょう。キリストにあって信仰的な係りが真実な愛をもってつながっているという事は幸いなことではありませんか。
 第二に、ガイオへの祈り。ヨハネはガイオの魂の幸いとすべての点での幸いを祈ります。生活上のあらゆる祝福は勿論の事ですが、全ての源は、魂の健全さによります。それは神との平和からです。主なる神との間に正しい交わりがない限り私達の生活のあらゆる面での真の幸いはありません。聖なる神との間の仲保となってとりなされたメシヤなるキリストによってのみ、神との平和は、実現します。その時人は、苦しみや困難があっても、又不幸に見えるような境遇でも、その中にあって勝利と平安を得る事ができるのです。


<聖書のことば>
愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。
ヨハネの手紙第三 2節






「顔を合わせて」
ヨハネの手紙第二 12~13節

2012年7月8日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 ヨハネの手紙第2の結びです。当時は、現在のように一寸行ってくるというわけにはいかなかったし、この手紙は回状の性質を持っていたと思われるので、文字という形にならざるをえなかったのでしょう。文字は、正確に伝える点で、又多くの人が読め記録として残る点で有益ですが、相互の交流や本当の気持が伝わりにくい欠点があります。ヨハネは、顔を合わせて語り合いたいと言います。どうして顔を合わせて語り合いたいというのでしょうか。

第一に、ヨハネが伝えたい事が極めて難しい問題だからです。
 旅人をもてなす優しいクリスチャンの寛容の精神に、真向から反対の厳しい勧めは、文字だけでは少々理解が困難であり、まして巡回の伝道者の良し悪しを見定める事は、聖徒として教会として難しい事であったからです。しかし事が難しければ難しい程、直接顔を合わせて語り合い、理解し合う事は大切な事です。私達の生活上起る様々な問題に於ても、顔を合わせて語り合う事を心がけたいものです。

第二に、それは、私たちの喜びが完全になるためです。
 同質、同上であれば、そこに一致の喜びと、同じ志をもって歩む者の兄弟姉妹としての喜びが生れます。姉妹教会であれば尚更のこと、会って語り合う事の喜びは大きいのです。私達は、時々同じ道を歩む兄弟姉妹と顔を合わせて語り合うことが必要です。そうすれば、喜びが豊かに与えられるでしょう。


<聖書のことば>
あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。
ヨハネの手紙第二 12節






「早期発見」
ヨハネの手紙第二 10~11節

2012年7月1日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 教会はキリストの目に見える体ですので、当然私達が健康でいる事を願っているにもかかわらず、時に病気にかかるように、教会も、この世にある限り様々な危険にさらされることになります。大事に至らない為の予防策は、早期発見です。ヨハネは、誤った教えを持ち込む教師にはどう対処したらよいかを教えます。偽教師に対する対処の仕方です。

第一に、家に受け入れてはいけません。(10)
 歓迎し、援助することを意味します。キリスト者の寛容、旅人をもてなす教えと習慣に反する厳しい処置のように思われますが、反キリストの教えをもって入り込む者の影響は甚大であったと思われますし、巧妙な手段と、受け入れ易い教会側の体質から考えたら、なるべく早い時期に対処する事が鉄則なのでしょう。病気の予防は、早期発見こそ大切である事を心に置きたいものだと思います。

第二に、あいさつのことばをかけてもいけません。
 私達の感覚では、エッ、あいさつもいけないの、という事でしょうが、このあいさつは、神の平安と祝福がありますようにとのあいさつです。害をもたらす病原菌に、どうして祝福を祈り願うことができましょうか。

 与えられた純粋な信仰を守る為に目を覚ましているのは、個々の聖徒と共に、牧師でもあります。その指導にしっかり従う心構えを持ちましょう。


<聖書のことば>
あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。
ヨハネの手紙第ニ 10節






「キリストにとどまりなさい」
ヨハネの手紙第二 9節

2012年6月24日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 キリストの教えを通りすぎて、誤った、極端な教えをする教師への警戒がヨハネの主旨です。「行き過ぎ」は満足しない事で、更に主の教えから勝手に遠くまで走ることです。その結果は、より高度で深い教えになるのではなく、誤りであり、わき道にそれてしまう事になります。
 十字架の福音は、世の人にとっては愚かに思える事です(第一コリント1:17-21)。世の教えに従えば、まさしく福音は、幼稚で単純で愚かしいものであるに違いありません。この世に迎合しようとすれば、全く反対方向へ進んでしまうのが福音の原点です。しかしこの原点にとどまらない限り、救いはなく、力も生れません。まさしく福音は、ダイナマイトなのですから(ローマ1:16)。キリストにとどまる事の重要性を覚えましょう。
 主は、とどまりなさいと教えました。(ヨハネ15:4)
(1)これは、イエス・キリストの命令です。(4)
(2)キリストの福音にとどまれば、実を結びます。(5)
(3)キリストにとどまれば、その人の祈りはこたえられます。(7)
(4)キリストにとどまれば、父なる神は栄光をお受けになります。(8)
(5)キリストにとどまる者は、キリストの愛の内に喜びが満たされます。(11)
 もし、キリストにとどまらなければ、実を結ばないばかりか、枯れて生気を失い、世の人の不信に役立ち、サタンを喜こばせることとなります。(6)


<聖書のことば>
だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも、御子をも持っています。
ヨハネの手紙第二 9節






「信仰の父となれ」
ローマ人への手紙4章16~25節

2012 年6月17日第3聖日牧師山宮利忠

 今日は、父の日、選民イスラエルの祖アブラハムから学びましょう。彼は、たしかにイスラエルの祖ではありましたが、その信仰の故に万民の父といわれるようになりました。この人から学ぶ事は数多くあります。

第一に、彼は、神より子供を預けられました。(創21:1-3)
 子供が与えられていなかった夫婦に神はイサクを与えられ、子孫の繁栄を約束されたのです。しかし、神は愛情を増した夫婦に、その愛する子をいけにえとして献げる事を命じるのです。アブラハムは、この厳しい神の命に従います。妻より、子より神の命に従うことこそ、アブラハムのなすべき事でした。子供は、神からの預かりものですから。

第二に、彼は、自分の家をしっかり治めました。(第一テモテ3:4-5)
 アブラハムに与えられた命令に妻サラはどのような反応を示したのでしょうか。何も語らずにモリヤの山(エルサレム)へ出かけたのでしょうか。もしサラに告げたとすれば、サラの声が耳に響きます。イサクも親に逆らえる程に成長していたでしょう。しかしアブラハムは、しっかり家を治めます。

第三に、彼は、神の豊かな備えを得ます。(創22:14)
 真の神がなさる事は、従う者への祝福です。主の山に備えがあるのです。イサクのかわりに雄羊が備えられ、独子を献げた彼は、大いに祝福を受けることとなりました。主の山、信仰の山に備えがあります。信仰の父となれ!!


<聖書のことば>
「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。
ローマ人への手紙 4章16節b






「警戒しなさい」
ヨハネの手紙第二 7~8節

2012年6月10日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 主に在る救われたクリスチャン同志の愛の確認をした上で、ヨハネは、兄弟姉妹達が互いに愛し合う神の恵みの命令を利用して、巡回伝道者になりすまして教会の援助にあずかろうとする者への警戒を勧めます。

第一に、偽教師を警戒することです。(7)
 偽教師とは、ラビの資格をもって巡回してくる教師であっても、イエスがキリストであり、神が人となって世に来られたことを否定する教師であれば、真の神を信じていたとしても、人の罪の赦しと永遠のいのちの為に来られたメシヤなるお方を否定する事となり、そこに救いはなく、キリスト反対者となります。

第二に、出て行った者を警戒することです。
 出て行ったということばは、かつては共にいたが、そこから出て行ったことで(第一2:19)、出て来た(4:1)、通り過ぎた(9)ともとれることばです。いずれにしても群の事、内情を良く知る者のことです。クリスチャンの純朴な愛を利用する者ですから、特に警戒が必要です。

第三に、豊かな報いを失わないように警戒することです。
 イエス・キリストへの信仰によっていただいたすばらしい賜と、教会に与えられた祝福とを、わずかな、人を惑わす者によって失ってはならないのです。特に信仰の純真さ、純粋さを失ってはなりません。失望や疑いは、私達を高める為に役立つものではありません。注意深く与えられたものを守りましょう。


<聖書のことば>
よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。
ヨハネの手紙第二 8節






「祝福の継承の為に」
テモテへの手紙第二 2章2節

2012年6月3日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 創立50周年を越えた教会の次の大きな仕事は、牧師の交替です。イスラエルの王の歴史を見ても判るように、一つの群の繁栄は、そこに立てられる指導者によるところが大きいことが判ります。今、私達は、この転機にかかっている事を教会全体が認識しなければなりません。主は、既に次の指導者を定めて下さっている事は確かでありますが、それを教会にお与え下さる時は、全ての事が満ちなければなりません。現牧師の牧会の可否のみならず、教会そのものが整えられたその時こそ、主は次の指導者をお与え下さるに相違ありません。

 第一に、当教会に最も相応しい神の器が与えられるように祈らねばなりません。よく祈り、よく準備されてこそ主は最良の器を備えて下さいます。群の将来の祝福がかかった牧師の招聘は、簡単ではないのです。もし安易にこの事が運ばれれば、サタンは、ここぞと働き多くの魂が傷つくことになります。サウルの結末とダビデの始まり、モーセの終りとヨシュアの出発から学ばねばなりません。

 第二に、教会に御霊による一致がなければなりません。牧師の招聘には、全教会の完全な一致が必要です。反対者や不安者のある所に主は大切な器を与えようとはなさいません。モーセの霊を受けたヨシュアに民全員が従う誓いをしたように、教会に従順の霊が満ちる必要があります。


<聖書のことば>
多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。
テモテへの手紙第ニ 2章2節






「長老ヨハネの願い」
ヨハネの手紙第二 5~6節

2012年5月27日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 4節から5節にかけて、命令ということばが4回も記されています。命令というと厳しく思われますが、訓示とか指図という程の意味あいととらえてよいでしょう。ヨハネは先に、大いに喜こびをあらわしましたが、次にお願いをしています。教会の中に異端による混乱をきたさない為に、彼等の愛がキリストにあって強められることを願ってのことです。

第一に、この命令は、初めから持っていたものです。(第2テサロニケ1:3)
 ヨハネがここで初めて命令するのではなく、ヨハネにとっても、教会の兄弟姉妹にとっても、救いの初め、信仰の初めから持っていたもの、即ちキリストにあって互いに愛し合うということです。キリストを救主と信じるという事は、キリストの愛を知り、その愛を受け入れ、愛の内に生きることに外なりません。愛し合うという事は聖徒の本質的な性質なのです。(第1ヨハネ5:1)

第二に、この命令は、父なる神に従うことです。(第1ヨハネ5:3)
 信仰は、従順を生み、それが愛のあかしとなるものです。信じているけれども従わないという事は、信じている事になりません。

第三に、この命令は、愛のうちを歩みつづけることです。(へブル12:2)
 愛されているのですから愛の内を歩みつづけることを忘れてはならないのです。放蕩息子が家をとび出したのは、父の愛を受けながらその愛の大きさを悟らなかったからです。主の愛から目をそらしてはなりません。


<聖書のことば>
愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。
ヨハネの手紙第二 6節






「長老ヨハネの喜び」
ヨハネの手紙第二4節

2012年5月20日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 ヨハネは小アジア諸教会に信仰を守り続けている聖徒達がいる事を非常に喜んでいます。ヨハネの喜びを私達も共にしましょう。
 先ず、霊的な子供達がいる事を喜んでいます。第一の書に於いても「私の子どもたち」(2:1)と呼びかけ、度々「愛する者たち」(4:1)と記します。新生して、神の子とされた者、神の家族とされた者が、しっかりと信仰に立ち、成長しつつある事は、伝道者にとってこの上もない喜びなのです。
 第二に、彼等が神の命令に従っている事を喜んでいます。神の命令とは、イエスを信じて救われることと、互いに愛し合うことでした(ヨハネ第一 3:23)。真の神に立ち返った者は、神の愛の内に互いに愛し合うことです。使徒からの教えを忠実に守った初代教会の聖徒達(使徒2:42)は、現在の私達への模範です。神のことばとして聖書が与えられている私達が、その教えを彼等のように忠実に守っているかどうかを反省する必要があるのではないでしょうか。
 第三に、真理を歩んでいる事を喜んでいます。真理とは先に学んだ通りです。昨日も今日もいつまでも変らないキリストご自身に従って歩む道は、安全で正しい道です。歩むということばは、歩み続け、しっかりとどまり、それによって生きているという意味です。それたり、とどこおったりせず、歩みつづける先に豊かな実を結ぶ生涯が待っています。(ヨハネ15:5)


<聖書のことば>
あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理の内を歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。
ヨハネの手紙第二 4節






「母を託したキリスト」
ヨハネの福音書19章23~27節

2012年5月13日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 主イエス・キリストは、あらゆる点で私達が生きる為の道を示して下さいます。このお方の示す道は、真理の道です。
 今日は、教会から始まった母の日です。両親への敬いは神の戒めなのです。神がお与え下さった母としての考え方を学ぶ事にしましょう。
 主は、最後まで母マリヤへの心遣いをお捨てになりませんでした。生涯の最後の最も困難で苦しい時に、母に対する心遣いをあらわされ、十字架の下で悲嘆にくれる母マリヤを弟子に託すのです。この時の主は、たとえ親であろうと他の人の事を思いやれるような状態ではなかったでしょう。弟子に裏切られ、否まれ、逃げられ、ご自身は不当な裁判のあげく激しいムチ打ちとあざけりの中を自ら重い十字架を背負い刑場に引かれ、手足を釘で打ち貫かれて十字架にかけられ、人々の罵声の中で耐え忍ばれている中で、母への思いやりどころかご自分への助けが必要な時でした。
 主は、母マリヤをヨハネに託されました。ヨハネは弟子の中では最も若くキリストに愛され、自らも愛されている事を自覚していた弟子でしたが、勿論彼にも肉の親がいたにも係らず、主は、このヨハネにもう一人の母をお与えになったのです。これは、キリストによって与えられた母でした。私達にはヨハネのような状態で母マリヤを示されてはいません。しかし、肉の母を主が与えた母として受けとめる事はできます。今日がその日となります様に。


<聖書のことば>
それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
ヨハネの福音書 19章27節






「真理を知っている人々」
ヨハネの手紙第二 1~3節

2012年5月6日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 ヨハネの第2の手紙は新約聖書中最も短い書簡で、記者は、ヨハネであるとする事は妥当であり、ここに宛先として記された夫人とその子どもたちは、教会とそこにある聖徒達ととらえる事も正しいでしょう。この書簡のテーマは、「本当のキリストによって遣わされた働人を敬い愛しなさい」という事です。と言うのは、偽りの教師達が多数あらわれたからです(7)。ヨハネは純朴な若い聖徒達をキリストにある愛の故に、誤った道へ足を踏み入れ、まどわしの悪しきさそいに乗ってほしくなかったのです。そこでヨハネは、真理ということばをあいさつの中で語ります。真理とはなんでしょうか。
 第1に、真理とは、義であり正しいものでなければなりません。全ての人に共通した基準であり、いつの時代にも決して変ることのないものです。
 第2に、真理とは、変らないものでなければなりません。時代や人や環境によって変ってしまうものは真理とは言えません。
 第3に、真理とは、本当のものでなければなりません。偽りのものは真理とは言えません。真理とは、まさしくイエス・キリストご自身です。(ヨハネ14:6)
 ヨハネの心配は、福音によって真理を知った若者達が、偽りの教師のまどわしによって誤った道へ迷いこんでしまうことでした。人となられた神イエス・キリストを否定する教師がやってきたら、「神の平安があるよう」等とあいさつもしてはならないと、厳しくさとすのです。


<聖書のことば>
長老から、選ばれた夫人とその子どもたちへ。私はあなたがたをほんとうに愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々がみな、そうです。
ヨハネの手紙第ニ 1節






「偶像を警戒しなさい」
ヨハネの手紙第一 15章21節

2012年4月29日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 子どもたちよ。と親しく呼びかけて偶像を警戒するように勧めます。偶像とは、神の座に神でないものを置くものの全てを指します。勿論当時エペソの町は、偶像神アルテミス礼拝で有名で、人の手で作られた偶像を拝む為に各地から人が集まり、大いに栄えた事が背景にあるに違いありません。しかし、ヨハネがここで勧告する「警戒しなさい」は、単に目に見える像だけではありません。警戒とは、見張る、守るという意味があり、本書で示してきた信仰者の持つ恵み豊かな神からの賜と立場を守るようにとの勧めです。

第一に、聖書に教えられている偶像とは何かを学びましょう。
 人の手で神を形にあらわす事を厳しく禁じています(出エジプト20:4)。それは、神は人の手で造ることや形にあらわすことができないからです。それは永遠にして霊であるお方を物質化してしまう事であり、制限してしまうことになり、人に迷いと混乱を起す因となるからです。又、像として目に見える形にあらわす事だけでなく、人の内に生じる強情や貪欲も偶像礼拝と教えられ(コロサイ3:5)これを避けるように命じられています。

第二に、聖書に命じられている偶像礼拝を警戒しましょう。
 これまで本書で教えられてきた、キリストを信じる事の意味と確信をしっかり守ることに他なりません。真の神がキリストによってお与え下さった永遠のいのちと神に属し、キリストのうちにいる事の確信を守ることです。


<聖書のことば>
子供たちよ。偶像を警戒しなさい。
ヨハネの手紙第一 5章21節






「キリストの内にいる聖徒」
ヨハネの手紙第一5章20節

2012年4月22日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 ヨハネの第一の手紙のむすびとしての三つの確信の最後です。キリストを救主と信じた者は、キリストのうちにいる事、この方こそまことの神、永遠のいのちであるという、異端やこの世に対して決定的な断言です。
 キリストが私の内にいます(ガラテヤ2:20)だけでなく、聖徒は、キリストの内にいることを堅く信じる事が大切です。それは何を意味するかと言うと、第一に、救主なるキリストを常に親しく知り続けることです。
 神のかたち、真のみ姿であるキリストを知れば知る程、神のまことのお姿を知ることができ、知れば知る程主の偉大さとすばらしさを知り、神を崇め信じた事の感謝を深めることができるのです。
 第二に、それは、聖徒がイエス・キリストに似てくるということです。いのちは、内に持つことにより性質をあらわすものですし、最も近くあるものに感化を受けるのは、人の常です。パウロは、キリストの形が聖徒の内につくられる事に専念しました(ガラテヤ4:19)。そしてキリストに倣って生きるようになります。
 第三に、キリストの内にあるということは、常にキリストの側にあるということです。主が味方であれば誰が敵対できるでしょう。私達の助けは、天地を造られた主から来るのです。目や耳や口があっても何もできない偶像の神ではなく、全てを創造された全能の神の内にある事の感謝を新たにしましょう。


<聖書のことば>
それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
ヨハネの手紙第一 5章20節b






「二つの支配」
ヨハネ第の手紙第一 5章19節

2012年4月15日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 三つのまとめによる確信の二つ目で、主キリストを信じた聖徒は、悪の支配の中にいない事が確認されています。

 先ず、この世は、悪の支配の下にある事を知る必要があります。支配下にあるとは、無意識の内に静かに横たわっている事をあらわしています。悪のふところの中に安らかにいだかれている状態で、完全にコントロールされていて、それに気付いてもその状態から脱出できない無力の中にあり、パウロが「自分でしたいと思う善は行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています」(ローマ7:19)という状態のことを指しています。この世は、良くなってゆくのではなくますます悪くなってゆき、破滅に向って一歩一歩近づいているというのが聖書の教えであり、現実です。

 次に、キリストを信じた聖徒は、神の支配の中にある事を知る必要があります(コロサイ1:13)。罪の奴隷から義のしもべへ移されたクリスチャンは、悪と罪から解放されただけではなく、キリストの愛と見守りの中を、永遠のいのちをいただいて肉体の死のむこうに天のみ国へ入る資格をいただき、希望と平安と喜びをもって歩むことができるようにされています。この世に於いては寄留者として真の住いは天にあり、勝利者なるキリストのみ守りの中を日々歩める事は何と幸いでしょう。人は何かの支配の下にありますが良い支配をうけましょう。


<聖書のことば>
だれでも私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
ヨハネの手紙第一 5章19節






「活ける勝利のメシヤ」
コリント人への手紙第一 15章50~58節

2012年4月8日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 イエス・キリストは勝利者と記されています(黙示録5:20~21)。キリストの勝利とはいかなる勝利なのでしょうか。

第一に、キリストは、この世に勝利されました。(第一ヨハネ5:5)
 神に敵対するこの世の思想、この世にはびこる人間の欲望や偽りの教えや宗教に対して、主の生涯と死と復活、そしてそのみわざと教えは、この世のいかなるものよりも偉大にして正しく、信じるにあたいする真理なのです。人がキリストに従う時、人としての正しい道を歩むことができます。

第二に、キリストは、死に勝利されました。(第一コリント15:55)
 かつてこの世で死に勝利した者は一人もありません。人生の最後にやってくる死こそ人がいかに力を尽くしても解決できないものでした。人は喜ばれて生れ、悲しまれて死ぬのです。しかし、イエス・キリストは最も醜い死を経験され、最も栄光に富んだ復活をされて、死後への希望をもたらして下さいました。もはや死は終りではなく、永遠の御国への凱旋です。イエス・キリストを通して天の御国へ導かれ、再会の恵みと喜びが約束されています。

第三に、この世を支配する悪しき者、サタンへの勝利です。(へブル2:15)
 死を武器とするサタンは、復活によって敗北し、活けるキリストのもとにある者に手を触れることはありません。やがて最後の審判に於いて完全に悪魔は滅ぼされます。世の力に惑わされる事なく勝利の道を歩んで下さい。


<聖書のことば>
死よ。おまえの勝利はどこにあるのか、死よ。おまえのとげは、どこにあるのか。
コリント人への手紙第一 15章55節






「神によって生れた者は、罪の中に生きません」
ヨハネの手紙第一5章18節

2012年4月1日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 最後のまとめです。三つの確信は、「知っています」ということばでまとめられていて、その第一の確信は、神によって生れた者は罪を犯さないというものです。キリストを信じて霊的新生を経験した者は、罪の中に生きないということです。(3:9)
 罪を犯さないという事は、罪を犯し続けないという意味であり、それはまさしく罪の中に生きずに、神のいのちの内を歩む者であり、たとえ罪を犯すことがあったとしても、その内にとどまりつづける事はないという事に他なりません。何故なら神の種がとどまっているからであり、神のことばは生きていて、信じる者の内に常に働き、罪を犯せなくしてくださるからです。
第二は、神から生れた方、即ちキリストが守っていて下さるからです。
 神によって生れた者と神から生れた方とは、同質です。キリストを信じた者は、キリストのいのちを内に持つ者であり、パウロが「キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)という事と同じなのです。自分の内に永遠のいのちをいただいた者は、もはやこの世のいかなるものによっても、そのいのちを奪われることはありません。キリストご自身が守っていて下さるからです。この世の支配者がたとえ悪さをしようとも、決して倒される事はないのです。この確信を先ず持つ必要があります。


<聖書のことば>
神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。
ヨハネの手紙第一 5章18節






「とりなしの祈り」
ヨハネ第一の手紙5章16~17節

2012年3月25日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 みこころにかなう祈りが必ず聞かれることこそが、信じる者の確信である事を示した後に、自分の為だけの祈りでなく、他者の為のとりなしの祈りについて教えます。

第一に、死に至る罪を犯している者への祈り。
 罪とは、神との断絶の状態とそこから発生するあらゆる悪しき実ですが、「死に至る罪を犯している者」とは、どのような人のことを言うのでしょうか。いかなる人であっても主の御名を呼び求める者は、たとえ死の真際であっても救われます。主のもとへ来る者はこばまれる事はありません。しかし罪を認めず、己を義とし、キリスト(救い主)を否定しつづける者への祈り、又は、兄弟と言われる外面的クリスチャンが、キリストを捨てて背教するなら、そのような者の為に祈る事は勧められていません。かたくなにして、助け主の導きを拒否し、自ら救いの機会を閉ざしてしまうからです。

第二に、死に至らない罪を犯している者への祈り。
 実は、全ての人は罪を犯し、神の栄誉を受けられないのですが(ロマ3:23)、福音を聞いていない人や、明らかに拒否しない人は、救いの可能性がありますので祈ることが勧められています。

 とりなしの祈りは、主がお働き下さる。みこころにかなった祈りですので、家族や友人の為に熱心に祈り続けることが大切です。


<聖書のことば>
だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。
ヨハネの手紙第一 5章16節






「あなたの現状をよく考えよ」
ハガイ書1章1~8節

2012年3月18日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 バビロンへの70年の捕われの時が、ペルシャの時代となって解放され、荒廃した故郷を復興する初めの業として彼等が手をつけたのは、神殿の再建でした。しかし土着の周囲の民の反対により、基礎を築いただけで15年間その工事は中断しなければなりませんでした。ハガイは民を励まし、工事再開をうながします。ハガイの預言を学び、私達の現状を考えてみましょう。

第一に、民は、主の宮を建てる時は、まだ来ないと言っていました。(1:2)
 時期尚早であり、周囲の反対にも未だ解決がない、自分達の生活の建て直しも十分にできていない、未だ神殿を再建する時は来ていないと考えていたのです。

第二に、現状をよく考えよ、とハガイは預言します。(1:5,7)
 未だ、未だと言いながら、彼等は豪華な板張りの家に住んでいました。15年の間に彼等は十分に自分の生活を建て直したのです。問題は、自分の為には多くの犠牲を払うが、神の為には払わない心でした。そこに満足があるわけはありません。多くの労苦は、徒労に終り、実を結びませんでした。
第三に、山に登り、宮を建てよと励まします。(1:8)

 登り、切り出す労苦はあっても、主はともにいます。神の宮が建てられるなら、そこに栄光を満たすと、そしてこれからの栄光は、これまでより大きいと預言します。今の私達にこの預言はどのように響くでしょう。


<聖書のことば>
今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。
ハガイ書 1章5節






「私たちの確信」
ヨハネの手紙第一 5章14節

2012年3月11日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 福音を聞くこと、聞いて信じること、信じて生きること、そして永遠のいのちを持っていることを確信すること、そしてヨハネは、更に私たちの確信は、神の子とされた者の祈りが聞かれることを示しています。その祈りは、第一に、何事でも祈る祈りです。(エペソ6:16)
 私達が日頃親に何事でも話し、願うように、あらゆる場合に、絶えず、事々に祈る事が求められています。真に神の子とされた者であるなら、何事でも話し願うでしょう。
第二に、神のみこころにかなう祈りです。(ヤコブ4:3)
 自分勝手で我儘な祈りは聞かれません。主は十字架の死を前にして、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られ汗を血のしずくのように流しつつ「父よ、みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにして下さい。」(ルカ2:42)と祈られ模範を示して下さいました。父のみこころは、十字架上で死ぬ事でした。
第三に、必ず聞かれると信じて祈る祈りです。(ヤコブ1:6)
 神は必ず祈りにこたえて下さることのできるお方であり、みこころにかなえば、私のような罪深い者の祈りをも実現して下さると信じて祈る必要があります。主を信じることをせずにお願いをする祈りが、どんなに空しいものかは当然の事です。祈りが聞かれる立場にある者の幸いを感謝しましょう。


<聖書のことば>
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
ヨハネの手紙第一 5章14節






「永遠のいのちを持つあかし」
ヨハネの手紙第一 5章10~13節

2012年3月4日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 イエスが救い主である三つのあかしを受け入れる者は、神との交流のできる永遠のいのちをいただくことができます。この永遠のいのちこそ、イエスが真の救主であることのあかし(証明)となるものです。そこで永遠のいのちを持っている事をしっかり知る事が必要となり、ヨハネは、この書を書き送る目的がそこにあると言うのです。(13)(ヨハネ20:31)

先ず第一に、永遠のいのちは、キリストにあります。
 これこそがユダヤ人が躓いた理由です。「父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。」(ヨハネ6:40)「わたしはいのちのパンです」と語られた主は「このパンを食べる者は永遠に生きます。」(ヨハネ6:58)と、主ご自身こそがいのちであり、父と子は一つであり、かつそこにこそ神と人とをつなぐ永遠のいのちがあることを示されました。

第二に、永遠のいのちは、信じる者に与えられます。
 神の賜として(ヨハネ3:16)いただき、受け入れ、持つ者に与えられるのです。行いによりません。失った愛のいのちは、キリストの身代りの償いによって信じる者に回復されます。

第三に、永遠のいのちこそが、イエスがキリストであることをあかしします。キリストを信じた者の全てが、永遠のいのちの内に、救いの必要とその救いがキリストにあることをあかしするのです。あなたもその一人なのです。


<聖書のことば>
私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。
ヨハネの手紙第一 5章13節






「三つのあかし」
ヨハネの手紙第一 5章6~9節

2012年2月26日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 勝利の信仰は、イエスをキリストと信じるところにあります。救いをいただいた者が、日々あらゆることに勝利をもってのぞむためには、イエス・キリストとその約束にしっかりと目を注ぎ目を離してはならないのです。
 ヨハネは、当時の異端グノーシスを念頭においてでしょう。神であり、人であるキリストの証拠を三つ挙げています。これが何を意味するかは、古来論議されたところですが、最も妥当な解釈としては次のようなものです。
 第一に血とは、十字架上で流されたキリストの血をあらわします。これは、贖いの完成であり、これなくして救いはあり得ず、神の御子としてのみわざも成り立ちません。主は霊を父の御手に委ねられました。
 第二に、水は、イエスのバプテスマで、天より父の「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)とのみ声があり、御霊が鳩のように下った事をあらわしているのでしょう。
 第三に、聖霊です。「わたしが父のみもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来る時、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26)とあるように、誰でも御霊によらなければ、イエスを救主と信じる事はできません。信じにくいキリストの救いのみわざを信じられるようにして下さるのは、聖霊のお働きです。救われた者も、その集りである教会も、そして神が与えた聖霊も、イエスがメシヤである事を証明します。


<聖書のことば>
あかしするものが三つあります。御霊(みたま)と水と血です。この三つが一つとなるのです。
ヨハネの手紙第一 5章7~8節






「世に勝った勝利の信仰」
ヨハネの手紙第一 5章1~5節

2012年2月19日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 世とは、この場合神にそむいた背神の世、滅びに向うサタンの支配する世です。イエスをキリストと信じるクリスチャンの信仰がどうして世に打ち勝つことができ、罪の世で支配されていた弱さや人を愛せない心に勝利をもたらすことができるのでしょうか。

第一に、キリストご自身が、この世の勝利者だからです。
 主は、この世のあらゆる闘いに勝利を収められました。父からの大使命、自らを罪人の身代りとして刑罰を受けることも、人としての心の痛みやつらさにも、裏切りやののしりにも打ち勝ち、死にも、サタンにも勝利を収め、私達人間ができないもの全てに勝利を収められました。このお方の支配に身を置く全ての者は、この勝利をいただいているのです。

第二に、キリストを信じる者は、新しく生れて神のものとされるからです。
 滅びに定められていた者が、キリストのいのちに入れられ、霊の新生を持って勝利の行列に加えられて、神の子としての性質と力をいただいているからです。ですから、今までできなかった事ができるようになります。

第三に、キリストの勝利の力は、信仰によって与えられます。
 キリストを救主として信じる者は、神の前に義とされ、神の子の立場を得ます。しかし、キリストの勝利の力は、信仰によって与えられます。即ち信じ続けることによって与えられるのです。信仰の勝利者となる事こそ大切です。


<聖書のことば>
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
ヨハネの手紙第一 5章4節






「目をさましなさい」
ヨハネの黙示録3章2節

2012年2月12日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 サルデスの町は、自然の要害にあり豊かな町で難攻不落の安心感が過去度々思いがけない攻撃や自然の災害にあって、陥落した歴史を持つ町であったそうです。まさしくこの勧めにあるように、頼りにならない安心感が無気力を生み、教会も思いがけない突然の出来事に、あわてふためく事がないようにと、厳しく警告されています。
 目を覚ましていなさい。との勧めは、聖書に度々出てくる神からの警告です。特に世の終り、キリストの再臨は盗人のように突然であり、ノアの洪水の時のように人々が楽しんでいるその時にやってきたように、それは思いがけない時でした(マタイ24:35~51)。やがて来る終りの日の為に備えをしていなければいけません。世の終り、人生の終りは、いつやってくるか判らないのですが、必ずやってきます。ですからいつ来ても良いように準備していなければなりません。
 又、イエス・キリストは、十字架におかかりになる前夜、ゲッセマネの園で祈られました。父より与えられた大業を果すために血のごとき汗を流されて祈られたのです。その時3名の弟子は主より「わたしといっしょに目を覚ましていなさい」(マタイ26:38)と言われましたが眠りこけていたのです。
 私達も安心し、油断をして眠っていないでしょうか。サルデスの町が突然襲われて敗れたように、目をさましていないと。主の声をききましょう。


<聖書のことば>
目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
ヨハネの黙示録 3章2節






「重荷とならない愛」
ヨハネの手紙第一 4章20~21節

2012年2月5日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 聖徒の中にキリストの愛が成長すると、大胆さと兄弟(同信の友)への愛が実として結びます。神への愛は、目に見える兄弟への愛となってあらわされ、それが神の子、キリストの弟子としてのあかしとなるのです。
 主は私たち二つの大きな命令をおあたえになりました。一つは福音を全世界に伝えること(マルコ16:15)、もう一つは、兄弟を愛する事です。
 キリストは、互いに愛し合うことを命じました。(20)
 神を愛していると言う者が、目に見える目の前の兄弟を愛さず、憎んでいるなら、それは、いつわり者であり、神を愛しているというのは、言葉だけであって真実ではありません。兄弟を愛することは、キリストの戒めであり、互いに愛し合うことがキリストの命令です。(21)(3:23)
 キリスト教徒に命じられていることは、互いにであって、各々にお互いを愛し合うことが命じられています。ですから愛されたい、愛してくれないと思う者にも同様に、相手を愛する事が命じられているわけで、誰も愛を要求することはできません。ただキリストの愛は、一方的な愛である事を知る事は何という感謝なことでしょう。
 そして、このキリストの命令は私たちには、重荷とならないのです(5:3)。何故なら愛に基づくものだからです。喜びと感謝の実を結ぶからです。何よりも信仰があるからです。主は命令と共に実行する者をも助けて下さいます。


<聖書のことば>
神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。
ヨハネの手紙第一 4章21節






「恐れを除く愛」
ヨハネの手紙第一 4章17-19節

2012年1月29日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 神の愛の中に住み続ける者は、恐れを締め出すことができます。人は常に恐れをいだくものです。大切な決断をする時、大きな責任を負う時、未知なる道へ進む時、私達は大きな恐れを持ちつつ不安の中で自らの弱さを思い知らされます。
 この箇所での恐れは、最終的な神の審判に対する恐れです。神は最終的な審判者であって、善悪ともに正しい判定を下すお方ですが、人類への愛の故に、キリストとなって人の罪を自ら負い、私達の罪をお赦し下さいました。この愛が全うされる時、人は聖なる神の前に恐れることなく、大胆に近づくことができます。この大胆さはどこから生れる大胆さかと言うと・・・神に審かれないという大胆さです。

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。」(ヨハネ3:17)

 審かれない確信を持っている者は、平安と喜びと希望があります。キリストによって、信じる者は神の子とされ、天の御国の継承者とされます。日々キリストの愛の中に生きる者は、大胆に生き、かつ愛を与えることができるようになるのです。何と幸いなことでしょうか。ペテロは、「栄えに満ちた喜びにおどっています。」(第1ペテロ1:8)と言います。人生を確信をもって大胆に生きることができる秘訣がここにあります。


<聖書のことば>
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。
ヨハネの手紙第一 4章18節a






「愛のうちにいる者」
ヨハネの手紙第一 4章16節

2012年1月22日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 イエス・キリストの大いなる愛に、どのようにお応えしようか。これこそ本当に神の愛を知った者の心です。
 「愛のうちにいる者」というおことばは、愛のうちに住み続ける者という意味で、その人はまた神のうちに住み続けるという事です。私達は、このおことばから、自分が今、どれ程キリストを愛しているかが問われなければなりません。
 まず、私は神の愛に住み続けているかどうかを問うてみましょう。愛を知る…という事は、観察と経験によって知るということで、単に知識として知ったというだけのことではありません。常に神の愛を意識し、認める生活こそ、神の愛のうちに住む者です。あらゆることは神から発し、神によって成るのですから、その全ては神の愛によってなされます。とすれば、神の愛を知る者は、いかなる事にも神の愛を知り、見る事ができる筈です。
 そして、私がイエス・キリストを愛し続けているかどうかも問うてみましょう。愛されたい、恵まれたい、助けられたいと願う者であっても、主を愛しているかと問われると、具体的にその愛を数えられない者ではありませんか。主は、ペテロに「あなたは、この人達以上にわたしを愛していますか」(ヨハネ21:15)と問われました。心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして神を愛し、愛しつづける者こそ、真の大胆さを持つ事ができます。


<聖書のことば>
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
ヨハネの手紙第一 4章16節






「口に言い表わす恵み」
ヨハネ第の手紙第一 4章13~15節

2012年1月15日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 心で信じていればそれで良いのではないか、という思いに聖書ははっきりと口で言い表わす告白を求めています。
 告白するという事は、同意するという事であると共に、決意を言葉で言い表わすことを意味するもので、この告白は、クリスチャン生涯の始めにただ一度決定的な告白であるだけでなく、生涯常にされ続けられるものです。
 イエスをキリストと告白する恵みを数えましょう。

第一に、この告白には、二つの大切な要素があります。
 その一つは、勿論イエスを救い主として信じる神への告白です。この告白により神は、大いなる救いをお与え下さいます。次は、人に対してで、クリスチャン生涯を勝利と確信へ導くものです。

第二に、告白することの重要さです。
 それは、主の命令だからです(ロマ10:9-10)。それは、又救いの条件です。告白は、周囲の人達に、自分がキリストを信じているクリスチャンであることをはっきりと示すことにより、多くの誘惑から守られると共に、あかしとなるものです。

 最後に、告白し続ける事こそ、キリスト教徒として明確な生き方を貫くことができ、常に上よりの祝福と力を注いでいただける秘訣なのです。うしろの橋を焼き捨てて、はっきりとした生き方をさせるのは、告白によります。


<聖書のことば>
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
ヨハネの手紙第一 4章15節






「愛は、神をあらわす」
ヨハネの手紙第一 4章7~12節

2012年1月8日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 イエス・キリストは、信じる者の内に神の愛をもって、互いに愛し合う心をお与えになりました。キリスト教徒が互いに深く愛し合うことは、生ける真の神を世に知らしむるあかしとなります。ここに、愛し合うことへの奨励と義務と完成が教えられています。

第一に、互いに愛し合いましょうと奨励されています。(7)
 愛は、神から出ており、神を起源としていて、神の本性であることが示されていて、神の性質の一部ではなく、あらゆる神のみわざが、愛に根ざしているものであることがわかります。その最高のあらわれが、御子イエス・キリストです。そのお方を知っている私達は、互いに愛し合いましょう。

第二に、互いに愛し合うべきだと、その義務を示しています。(11)
 神のキリストによってあらわされた愛は、最大の自己犠牲の愛でした。しかも、愛される価値のない罪人である私への愛でした。先ず神が私を愛して下さったのであれば、私達も互いに愛し合うべきではありませんか。

第三に、もし互いに愛し合うならば、それによって神があらわされます。(12)
 キリスト教徒の中に愛が完成すれば、そのことによって神は、私達を通して世にあかしされます(ヨハネ13:35)。昔の聖徒がクリスチャンとよばれた事は、世の人々が聖徒の中にキリストを見たという事です。現代、何と互いに愛し合うことが求められている事でしょうか。


<聖書のことば>
だから、神の国とその義とを先ず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
マタイの福音書 6章33節






「先ず第一に」
マタイの福音書6章29~34節

2012年1月1日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 心配や思い煩いは、心の乱れから始まります。毎日の生活に必要な事は山程ありますが、その全てに整理を施す秘訣は何でしょうか。

先ず、神の国と神の義を求めることです。(33)
 これは、上にあるものを求めよという事(コロサイ3:1~2)で地上のものに心を引かれてはならない。何故ならあらゆる良いものは、上から来るからです(ヤコブ3:17)。全ての事は、神のみこころとご支配によるからです。

そうすれば、私達の必要は満たされます。
 人が全てのものを満たすことができれば、神に求める必要はないでしょう。しかし、満したいと願いながらも満されずに生涯を終るのが人の常です。人が全てを満すことができない事を認める謙虚さの必要とともに、人の欲望だけを満たさない神の恵みを知って、感謝する心を持つことこそが大切であり、そこにこそ幸せがあるのです。心の貧しい人は、幸いなのです。(マタイ5:3)

先ず第一に、何をもとめるべきでしょうか。
 主への礼拝をもって神を崇めることを第一にすべきです。はじめに神が…(創世記1:1)、はじめにことばが…(ヨハネ1:1)。これこそ私達のはじめにあるべきことです。昔の聖徒は、先ず礼拝の為の祭壇を築き、神に犠牲をささげ、礼拝をもって天の祝福を祈り求めました。私達の生活の中心に礼拝を置く時、全ての事が整えられ、必要が満たされます。第一に何をしますか。


<聖書のことば>
だから、神の国とその義とを先ず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
マタイの福音書 6章33節