聖書からのメッセージ


【礼拝説教要旨】

「希望のしるし」


2011年12月25日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 イエス・キリストの誕生は、平和の王としての誕生であり、誕生の日には「地には平和」(ルカ2:14)と天の軍勢による賛美がありました。しかし主は「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません」(マタイ10:34)と言われました。では、どのような平和なのでしょうか。

第一に、神との平和です。(ローマ書5:1~)
 人が思い願っている自分中心の平安ではなく、聖なる神の前に感謝して出られる神との平和です。人は今、神との間に戦争状態にあることに気付きません。神への不信、不従順、無知は、全ての人が神の怒りを引き起こすに十分なものです。そこに多くの不幸が生れ、混乱が生じ、戦いが起こるのです。キリストはその戦いの仲裁者として世に来られ、自らの犠牲をもってとりなしをされました。神との平和あってこそ人に平安がもたらされます。

第二に、希望によってもたらされる平和です。(第一ペテロ1:3~5)
 明日への希望のない人は、毎日が砂をかむような日々でしょう。人は明日への希望を失えば、生きていても生ける屍です。キリストは復活をもって、人の最後の敵を滅ぼされました。肉体の死のむこうに栄光のみ国があることを実証されたのです。その約束の確かさの故に平和、平安がもたらされます。

 イエス・キリストのご降誕は、人の心に本当の平安をもたらすために来られた、類ない誕生である事を覚えて、心から賛美しましょう。



<聖書のことば>
神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
コロサイ人への手紙 1章27節






「神の子の確信」
ヨハネの手紙第一4章4~6節

2011年12月18日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 偽りの教えや悪しき霊から身を守る、判別方法として「イエスをキリストと告白」する事を示したヨハネは、正しい霊即ち聖霊によって導かれて神の子とされた者が、確信をもって歩むように訴えます。

 先ず、神から出た者は、悪しき教えと霊に勝ったのです。(4)
「なぜなら、神によって生れた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」(5:4)。この世は悪しき霊の支配下にあり、最後の神の審判が下るまで力ある働きをし、人心を混乱させます。人の欲望を満たすために、世の人に受け入れられ、多くの人達が迷いの霊に誘いこまれるのです。しかし彼等の最後は滅びである事は、多くの例が証明するものですが、キリストの生涯と十字架と復活は、悪しき霊への完全な勝利をあかししました。故にキリストにつく者は、罪と死そして悪しき霊に完全に勝利したのです。この確信をしっかり持つべきです。

 次に、神から出た者は、神の子として、生れた者です。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(第2コリント5:17) 新生こそ聖い霊に導かれているしるしです。

 最後に、神によって生れた者は、神のことばに従います。(6)
羊は羊飼いの声を聞き分け、羊飼いに従います。悪しきものに従うことはありません。救われた神の子としての確信を深め、惑わされず歩みましょう。


<聖書のことば>
子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。
ヨハネの手紙第一 4章4節






「聖い霊と汚れた霊」
ヨハネの手紙第一4章1~3節

2011年12月11日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 霊には、神からのものとそうでない悪しき者から出る霊とがあります。悪霊は、聖霊とは正反対の働きをすることは、既に見てきました(3:8)。ここでは、その見分け方が教えられています。即ちイエスをキリストを告白しない霊はすべて正しい霊ではありません。
 間近に主キリストのご降誕祭(クリスマス)を迎えますが、このご降誕の最大の意義は、神が人となられたところにあります。人となられたイエスを、我が神、我が主と告白することは、即ち神を告白することですから、当然聖霊のお働きによることです。受肉の大いなる意味を悟らせてくれます。
 第二に、イエスをキリストと告白する霊です。イエスは、ヨシュア即ち、「主は救い」との意味であり、キリストは「油注がれた者」メシヤのギリシャ訳です。油が注がれた者は、預言者、祭司、王でした。キリストは、この三つの立場の全てを満すお方であると告白させるのは、聖い霊の他ありません。
 そして最後に、聖い霊は信じる人に働いて、道徳的な実を結ぶように働くのです。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。なんと素晴らしい実ではありませんか。汚れた霊も人を驚かす超自然の力を現わして惑わすでしょうが、決してイエスを主と告白させませんし聖い道徳的実を結ばせはしないので、悪しき霊は人の欲望は満してもその最後は破滅です。


<聖書のことば>
人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
ヨハネの手紙第一 4章2節






「真の愛がもたらすもの」
ヨハネの手紙第一3章18~24節

2011年12月4日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 理屈や言葉だけの愛でなく、キリストからいただいた行いと真実の愛を誠実に行うなら次のような幸いな実を得ることができます。

第一に、自分が義の道にあることを知ることができます。(19)
 誤りの道、不正の道へ迷いこむ弱い私達ですが、キリストの愛の実践者であれば、間違いなく正しい道を歩んでいることが判ります。何故なら罪の道には、キリストの愛を実践することがないからです。

第二に、神の前に平安を持つことができます。(19)
 愛に貧しく、冷たい人間であった自分が、変えられた時、たとえ不足の自分に痛むことがあっても、神の前に喜びと平安をもつことができます。キリストの愛を知って救われた者は、その愛を実行する時、本当の平安を持つことができ、その平安は、長続きします。幸いな安心感を持てるのです。

第三に、大胆になることができます。(21)
 自分の弱さや愚かさに目を注いでいる間は、平安と喜びをもって大胆に生きることはできません。神に愛されている事実を知り、その愛を人々にも分け与えようとする者は、大胆にその喜びを伝えることができるようになります。

最後に、祈りが開かれるようになります。
 人を愛することは、キリストの命令であり、みこころです。みこころにかなう者とみこころにかなう事を求めれば祈りは開かれます。


<聖書のことば>
それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。
ヨハネの手紙第一 3章19節






「愛が判った」
ヨハネの手紙第一3章16~18節

2011年11月27日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 罪は自分をかばい、正しい者を殺し、愛は自分を捨てて、悪い者を愛します。この愛は、カルバリーで示されたキリストの愛によってのみ理解できる愛です。
 先ず、真の愛は、キリストによって明らかにされました。(16)
 愛とは何かという具体的な答えは、キリストの生涯とその最後の十字架によって、明らかにされました。この愛は、自己犠牲の愛、与える愛、偏らない愛、終らない愛です。人には持ち合わせない愛なのです。私達は時代がかわっても、今も尚カルバリーの丘で示された主の愛によって、本当の愛の何たるかを知るのです。それは、驚くべき深い高い愛で、類ない愛です。
 この愛は、兄弟に示される愛です。
 キリストが示された愛は身近な兄弟に示される愛としてあらわされます。親しく、よく見て、何が必要であるかを、あたかも自分に必要である者を与えるかのように、日常的に示されるものであって大きなものではありません。あのサマリヤ人のような、必要を見るあわれみの愛です。
 しかし、真実な愛なのです。みせかけの、一時的な愛ではありません。移りゆく気まぐれなものではなく、身についた不自然なものでもありません。人の持ち合わせていない本当の愛を知った時、私達は驚きと共に、キリストを心に迎え入れる時、不完全ながらもその愛の持ち主になれます。


<聖書のことば>
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。
ヨハネの手紙第一 3章16節






「敬虔に生きる苦しみ」
ヨハネの手紙第一3章13~15節


2011年11月20日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 このおことばの背景には、カインとアベルの事件が想定されます。カインは、たしかにこの世を代表する悪しき者であり、それは又神に背反する全ての罪人の姿でもあります。どうして神を敬い敬虔に生きる者が、迫害を受けるのでしょうか。

第一に、キリスト教徒の基準は、キリストにあるからです。(12)
 キリストの十字架の死は、私達罪人の身代りでした。しかし直接の原因は、当時の指導者達の妬みであり、それはカインの道です。主は正しく、彼等が悪かった故に苦しみを受けたのです。いつの時代でも、この世の流れに同調しない者は、迫害されます(第二テモテ3:12)。

第二に、キリスト教徒のしるしは、愛だからです。
 目には目、歯には歯という律法で認められた教えでも(同態復讐法)、キリストは、悪い者に手向うことを禁じ、愛をもってのぞむことを教えられました(マタイ5:44)。自己犠牲こそ愛の本質なのです。剣をかざして戦うことの中に真の平和はありません。

第三に、キリスト教徒の最後は、勝利だからです。(16)
 自己犠牲の心をキリストは、信じる者の内に植えつけられました。それは、決して失望や痛みで終るものではなく、勝利と栄光に輝く将来があります。それをあかしされたのは、メシヤなるイエス・キリストです。


<聖書のことば>
兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。
ヨハネの手紙第一 3章13節






「カインの末裔」
ヨハネの第一の手紙3章10~12節

2011年11月13日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 キリストを信じて義とされた者は、たとえ罪を犯す事があったとしても、罪を犯しつづけることはない。更には、あらゆる悪の背後で働くサタンにも既に勝利を得ているので、この世にある間は、サタンの誘惑に陥らないように目を覚まし、神から与えられた武器をもって闘うようにと勧められました。
 ヨハネは、更に義とされた者と、そうでない者との違いを示します。
 第一に、義を行う者は、神の子です。(7, 10)
 義とは、神と人との正しい関係を指し、それはキリストによって可能とされた関係で、十字架の贖いによって実現したものです。そしてそのあかしは、愛にあります。これは、キリストによって命じられた新しい戒めですが、旧約の律法のように、人を苦しめるものではなく、いのちから生れる自然な愛であり、キリストを信じた者には、誰でもが持っている素晴らしい神の賜物です。
 第二に、義を行わない者は、神の子ではありません。即ち救われていないのです。それは、カインの罪の道を歩む者であり、妬みと憎しみの果てに、殺人を犯す滅びの道を歩む者です。キリストの救いを受けない者は、カインの末裔なのです。私達の生涯のあらゆる場面で必要とされるものは、神からの愛を知り、その愛にあずかり、神に赦しをいただく事に他なりません。キリストの愛こそ、人生のあらゆる場面に救いを与える最大の救いの道です。


<聖書のことば>
カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。
ヨハネの第一の手紙 3章12節






「悪魔を砕いたキリスト」
ヨハネの手紙第一3章8~10節

2011年11月6日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 キリストを信じて罪赦され救われた者は、神によって生れた神の子ですから、的外れな滅びに向う者ではなく、み国に入る資格をいただいたものですから、再び滅びの道を歩むことはありませんが、神の子ではあっても、その歩みにおいて失敗も、躓きもないとは言えません。その背後で働く悪の力に余程目を覚まして気をつけていないと、救いは奪われることはないとしても、折角いただいた救いの祝福から外れ、妬みと争いの中に迷いこみ、平安と喜びを失うことになってしまいます。その悪の力の根源こそ悪魔とよばれる悪しき霊の頭目です。
 悪魔のしわざとは何でしょうか。(8)
 敵対者であり、誘惑者である力ある存在者は、人を神に近づけず、福音が伝えられることを妨害し、喜びと感謝の内にある聖徒を落胆と失意に追い込む知恵者です。その最終武器は、死なのです。サタンは、ユダに入り、メシヤなるキリストを死にむかわせ、あたかも勝利を得たかのように思われました。
 しかし、キリストは、そのしわざを打ち砕きました。
 キリストの生涯そのものも実は、サタンの力に常に勝利しているものでしたが、その決定的な勝利は、サタンの勝ち誇った死に、復活をもって完全に打ち勝った瞬間でした。「死よ。おまえの勝利はどこにあるか」とのことばは、まさしくサタンにも向けられたものです。聖徒は、この勝利の内にあります。


<聖書のことば>
罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。
ヨハネ第一の手紙 3章8節






「共に集る意義」
使徒の働き2章40~47節

2011年10月30日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 キリストを救主と信じた群れは、共に集まり共同生活をしたと記されています。彼等は、神の羊の群れである事を、共に集ることによってあかししたのです。羊飼いである主のもとに集められて養われるのは、当然なことなのです。最も危険なのは、群れから外れて歩むことで、実際は不可能でありましょう。

 私達が、聖日を中心として教会の一部として共に集り、礼拝を守り、主に仕えるのは、自分自身の為ばかりでなく、キリストの体の一部として、他に仕える働きがある事を心に留めるべきです。聖日をしっかり守ることは、自分に課せられた務めであるとともに、他の多くの兄姉の励ましや教えとなるものです。礼拝にのぞむ姿勢も、自分の為ばかりでなく他の方々への影響を考えて礼拝することも、共に集る者の一人として大切な心構えです。信仰の先輩達の態度が、来会者にどのような感化を与えるかを意識してのぞむ人は他への愛を持つ人でありましょう。礼拝者の中には子供達もいます。大人の聖徒が、不真面目な態度で礼拝をしていたら、それで良いのだと思うでしょう。最近の学校のクラスでは、教師の話しをほとんど聞かず、勝手な話しをしたり、遊んだりする生徒が多いと聞きました。そうゆう雰囲気をつくり出すのも、他からの影響でしょう。結局は自分自身に、そのつけはまわってきます。互いによいものを分けあって、より良く成長する事を期待しましょう。


<聖書のことば>
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
使徒の働き 2章42節






「罪の道を歩めない幸い」
ヨハネの手紙第一3章4~6節

2011年10月23日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 クリスチャンの悩みの一つは、クリスチャンなのに罪を犯してしまう悩みでしょう。サタンは囁くのです、「それでもお前はクリスチャンか」と。しかし、みことばは、クリスチャンが罪を犯さないというなら、自分を欺くことであり偽人であると言います(1:8-10)。ヨハネは、救われた者でも罪を犯すことがある未完成な者であるけれど、決して罪を犯しつづけることはないと教えます。ここには三つの事実が示されています。

第一に、罪を犯さないキリスト者(6)
 この箇所は「歩まない」と訳されています。口語体の聖書では「犯さない」で、救われた者は、いのちに移され、罪から解放されているので、罪の道を歩む者ではないし、たとえ道を踏み外すことはあっても、罪の道を平然と歩み続けることはないという意味で、罪を犯すことはありません。

第二に、罪を犯すキリスト者(1:9)
 キリストを信じ、神の子とされた者であってもその未熟さの故に、迷いの道へ入り、世の誘惑にかかる事はあります。この点で目を覚まし注意しなければなりません。ですから聖書は度々強く勧めているのです。(1ペテ5:8)

第三に、罪を犯せないキリスト者
 神の種即ちみことばといのちが宿っているので、キリスト者は、罪を犯せなくなります。そしてキリストの性質にあずかるのです。幸いですね。


<聖書のことば>
だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。
ヨハネの手紙第一 3章6節






「何という愛だろう」
ヨハネの手紙第一3章1~3節

2011年10月16日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 キリスト者としてのあかし(証明)は、キリストの内にとどまり、道徳的な実を結ぶことと教えられましたが、ただ自分の力でできることではなく、油そそぎ(聖霊)の助けをもってできることだと示されました。更に三章以降では、神の子として生れることによって、キリスト者の生涯は成り立つ事が教えられています。
 まず第一に、私達が神の子とされた大きな愛が驚きをもってあげられています。かつて創造のみわざの中では、生きるものの内、唯一神と交わることのできるものとして創造された人間は、神への反逆によって神の子としての立場を失い、失われた迷子となりました。神はその失われた者を捜し出して救うために、キリストとなって世に来り、自らのいのちをもって神と人との橋渡しとなって下さいました。何という愛、何という憐みでしょう。このおことばの冒頭には、「視よ」ということばがあります(文)。十字架に神の愛を視る人は、当然の事ながら、罪の内を歩もうとはしません。
 第二に、このお方を知る者は、自らを清くしようとします。やがて神の前に立ち、主イエスにお会いする者として、自分自身を清くしようと自らを整えるのです。神の子が神の前に立つ時、どうして罪に汚れたままで立つことができましょうか。花嫁が花婿を迎えるように、自らを美しく着飾って迎えようとするのです。キリスト者の生き方がここに示されています。


<聖書のことば>
私たちが神の子どもと呼ばれるために--事実、いま私たちは神の子どもです。--御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。
(ヨハネの第一の手紙3:1)






「信じる者を支える力」
ヨハネの手紙第一2章27~29節

2011年10月9日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 キリストによって神にたちかえる救いをいただいた者の救いのしるしは、行いによって証明されること、救われた者は、キリストの内にとどまる事を示したヨハネは、その全てを支えるのは、キリストの霊、即ち聖霊なるお方の力である事を伝えます。ここでは二つの点を心に留めましょう。

第一は、聖霊は、信じる者を支えて下さること。(27)
 油注ぎとは、聖霊の事です。旧約の時代には、預言者、王、祭司は油そそぎによって、上よりの権威をさずけられました。今私達はキリスト(油そそがれた者)によって救いに入れられた瞬間に、聖霊は与えられ(エペソ1:13)、そのお方によって、信者の生活は支えられ守られてゆきます。従ってクリスチャンは自分の力で生活してゆくというよりも、聖霊の支えと導きの中で支えられて、神の子として成長をとげていくのです。それは丁度いのちを得た幼子のように、家庭である教会の中で指導者の導きによって守りと糧を与えられつつ成長しますが、その力はいのちにあるように、聖霊は信じる者を支え助けて下さるのです。

第二は、聖霊は、信じる者を完成に導いて下さること。(28)
 助け手としての聖霊は、信じる者を保証し、力を与え、実を満たし、やがて天に於て大胆に聖なる神の前に立つことができるようにして下さるのです。これらは、とりもなおさずキリストを信じとどまる者に与えられます。


<聖書のことば>
そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということがないためです。
ヨハネの手紙第一 2章28節






「あなたがたは力を受けます」
使徒の働き1章8節

2011年10月2日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 使徒の時代のめざましい福音の伝播は、使徒達の力ではなく、聖霊がのぞんだことによるものだという事が明白です。無学で普通のガリラヤの猟師が何千という群集の前で臆することなくキリストの福音を語り、多くの魂が救いに導かれた(41)事実は、生まれつきのままなる人の力によるものでも、努力や一時的な興奮状態でできるものではありません。そこには、確かな上よりの力が注がれた結果です。

 聖霊は、キリスト昇天後信者の内に働くお方として、信仰告白の時に与えられる大きな神の賜物です(エペソ1:13)。このお方は神の第3位格として、助け主となって現在働いて下さっています(ヨハネ14:16)。イエス・キリストを信じる者の全てに、聖霊は内住され、人として持つべき徳を育て、養い、良い実をみのらせて下さると共に、あらゆる面で信じる者を助けて下さるのです。
 このお方が十分に働いて下さる為に私達は何が必要でしょうか。

第一に、古い罪人である私が十字架につけられて死んだことをしっかり確認することです。(ローマ6:11)

第二に、自分の思いではなく、みことばに従って物事を判断し行動する習慣を身につけることです。何故なら聖霊は、聖書に導き聖書を理解させるように働くからです。そして、自力でなく、聖霊のお働きを真剣に求めましょう。


<聖書のことば>
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。
使徒の働き 1章8節






「キリストのうちにとどまりなさい」
ヨハネの手紙第一2章18~26節

2011年9月25日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 キリスト者の立場への確信とこの世の誘惑への警戒を勧めた後、ここではキリストにとどまることを教えています。とどまるとはいのちのつながりのあるキリストの体、即ち教会にしっかりとどまる事を意味しています。一時的なものは本物ではありません。当時の異端への警戒と共に、本物と偽物の違いがはっきりと示されています。

第一に、正しい聖徒はキリストにとどまります。(24~25)
 世の終りの時代は多くの誘惑と迫害、特に偽キリストが出現します。認罪と赦しという救いの門を通らないものは全て偽物です。本当に救われた聖徒は、自分の罪を認め、キリストを罪の赦しと永遠のいのちをお与え下さるメシヤと告白した者であり、日々感謝と喜びの内に希望を持って生きます。
正しい聖徒は、困難や苦しみにも負けることなく、しっかり教会にとどまるのです。(24)

第二に、偽りの聖徒はキリストにとどまる事をしません。(19)
 共に重荷を負いあう等という事は偽物にはできないのです。麦と毒麦とはよく似ていますが、一方は何の益にもならないばかりが、周囲に害を与えるのです。彼等は教会にとどまることをしません。

 正しい聖徒は、迫害されても決して教会から離れませんし、そこで養い育てられ、キリストの愛の大きさを知り、成長をとげるのです。


<聖書のことば>
だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。
ヨハネ第一の手紙 2章23節







「世にあるものを愛してはなりません」
ヨハネの手紙第一2章12~17節

2011年9月18日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 ヨハネは、信仰者の立場について彼らが各々確信をもって歩むように願って三つの立場に分けて勧めと警告を与えています。

第一は、子と若者と父の信仰的立場です。(12~)
 この勧めは、「わたしがあなたがたに書き送るのは」と記して、ヨハネの心を先ず伝え、その後二度重複して記しています。子には罪が赦されていること、若者にはみことばによる勝利を得ていること、父には神を経験的に体験し、神を知る者になっている事を示します。
 私達キリスト教徒にとって大切な事は、常に自分がキリストにあってどのような者とされているかを自覚している事です。即ち初めに与えられた神の愛とそのお方に対する純粋な心、それにその時に与えられた救いの賜の大きさをいつも忘れてはなりません。

第二に、世と世にある者を愛してはなりません。(15~)
 何故ならば、この世のものは滅びさるからです。この世を支配される神に目を留めるべきなのです(ヤコブ1:13~17)。もしこの世のものを愛せば、私達は、神を敵にまわすことになると教えられています(ヤコブ4:4)。肉の欲とは、人の内にあるあらゆる制御できない欲望です。目の欲とは、外から入ってくる誘惑、暮しむきの自慢は、人との比較から生じる誘惑です。

 神の民、光の子とされたのですから誘惑に負けてはなりません。


<聖書のことば>
世と世の欲は滅び去ります。しかし神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。
ヨハネの手紙第一 2章17節






「愛のうちを歩みなさい」
ヨハネの手紙第一2章7~11節

2011年9月11日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 キリスト者であることの証明は、救主なるキリストの命令に従う者であって、その命令は重荷とはならないと教えられました。更にヨハネは、社会の一員として、光のうちを歩み続けるようにと勧めます。即ちキリストが歩まれたように歩むこと、それは人を愛し、兄弟を愛して歩むならば、闇のうちを歩むことなく、光のうちを歩むのだと勧めます。

第一に、人を愛することは、光のうちを歩むことです。(9)
 この戒めは新しい戒めですが決しても旧約で与えられた古い戒めに相反するものでなく、キリストに於て真理となり、より徹底したものです。即ち拡大し質的にも具体化したものとなりました。罪人さえ愛し敵さえも愛するとの戒めを与えられただけでなく、神ご自身が身をもってキリストに於いて示された判る愛となったのです(4:9-10)。この愛の内にある者は、光のうちを歩む者です。光のうちを歩めば決して躓くことなどありません。それによって自分自身も光の恵みにあずかり、神の愛がよく判るのです。

第二に、人を愛さないことは、闇のうちを歩むことです。(9, 11)
 闇の中を歩む者は、進む道も判らず、自分の存在も判らず、自らは成長もしないばかりか、他によい影響も与えられません。たとえキリストを知っていても、愛することを知らない人は、光を経験していない人なのです。キリストに従う道は、人を愛する道であり、光のうちを歩むことのできる人です。


<聖書のことば>
兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。
ヨハネの手紙第一 2章10節






「キリスト者の証明」
ヨハネの手紙第一2章3~6節

2011年9月4日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 神を知っているという事がどこで判るかという事が2章からのテーマです。その中心のおことばは、「それによって、私たちは神を知っている事がわかります。」(3) 即ち、神を信じた者、キリストを知った者は、主の命令を守っている事によって、神を知っているという事がわかるというのです。信じている事は、必ず外にあらわれるものなのです。

第一に、キリストによる救いは、必ずよい実を結ぶのです。(5)
 その良い実とは、愛しなさいという命令に従うことです。完全に命令を守れる人はいないでしょう。このおことばは「命令を守ろうとして生きる」従順さが求められていると解してよいでしょう。守るとは、注意深く目を覚まして防備することを意味しています。

第二に、キリストが歩まれたように歩むことです。(6)
 聖書の教えを知識的にたくわえ、知るだけでは不十分です。キリストと共に歩むことが必要です。キリストにとどまり続け、み足の跡に従い、教えを守ろうとする心を持って従うことです。

第三に、私達は、光の子として世に遣わされた者です。(ヨハネ12:35)
 世の人は私達を通してキリストを見ます。パウロは私たちは手紙だと言います(第2コリ3:3)。世の人達は、どのように私達を見るでしょうか。私たちの内にキリストを見るでしょうか。神を知ることができるでしょうか。


<聖書のことば>
神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。
ヨハネの手紙第一 2章6節






「最高の弁護士がついています」
ヨハネの手紙第一2章1~2節

2011年8月28日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 罪はないと言う者、罪は犯していないと言う者に厳しく叱ったヨハネは、具体的な悔い改めを求めるとともに、きよめを可能にされたキリストの贖いを示し、更に罪を犯してしまった者をとりなす弁護者としてのキリストの存在を示します。これは何と恵みに満ちた神のお取り扱いでしょうか。

まず、ヨハネは、牧者としての愛をあらわします。
 「私の子供達よ」と呼びかけるヨハネは、年老いた長老としての自分を示し、霊の子供達への愛を示します。これらの勧めは、彼等が罪を犯さなくなる為だと、その厳しい指摘の真意を示すと共に、罪を犯してしまった者への解決を与えるのです。それは、弁護者としてのイエス・キリストの働きです。

弁護者としてのイエス・キリストの愛
 主は、今も働き続けておいでです。それは罪を犯す者へのとりなしです。それを可能にするのはなだめの供物としてなされたキリストの犠牲の死です。なだめるという言葉は、怒る者を静める行為ですが、これは難解です。たしかに神は、人の反抗、無関心、不信仰にお怒りになるお方です(ヨハネ3:36)。しかし、放蕩息子の父の姿は、息子の為に帰りを待ち望む忍耐の愛の姿しかありません。しかし神の義と聖は守られねばなりません。御自身が人の罪を背負い、罪のつぐないをすることによって、神の義と愛は全うされました。それこそがキリストの十字架の死です。ここに最高の弁護者の姿を見ます。


<聖書のことば>
もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。
ヨハネの手紙第一 2章1節b






「二つの偽りからの清め」
ヨハネの手紙第一1章8~10節

2011年8月21日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 クリスチャンの陥る罠は沢山ありますが、特に恵みの中に育ったクリスチャン2世が陥る二つの罠がここに示されています。又これは当時の誤った教えも同様な考え方をしていた為、ヨハネははっきりとそれを否定します。

第一の誤りは、キリストを信じた者は罪はないという偽りです。(8)
 救い主が信じる者に与える救いは罪の赦しですが、この地上に肉体をもって生きている私達が、全く罪がなくなってしまう救いではありません。たしかに神に逆らっていた状態から、神の側に移され神の子とはされましたが、未だ罪の根が肉体の中には残っていて、雑草のように機があれば次々と悪しき芽が出てくるのです。罪がないとは、罪人の最大の言訳です。それは自分を欺いているのです。外には装い、内には偽る偽善的な生活を送らねばなりません。

第二の偽りは、罪を犯していないという偽りです。(10)
 神は、私達の全てが罪を犯している、罪人だと宣告しておいでです。赦された者であっても、罪は犯す者だと言われます。もし罪は犯していないと言うなら、それは神を偽り者とする事だということです。真実なお方がどうして偽る必要がありましょうか。神は偽ることのないお方です。

 この偽りから、欺瞞の生活から清められた道は、その一つ一つの罪を口に言い表わして告白する事です。そうすればキリストのきよめを体験します。


<聖書のことば>
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
ヨハネの手紙第一 1章8節






「光の中を歩みなさい」
ヨハネの手紙第一1章5-7節

2011年8月14日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 ヨハネの手紙の目的の一つは、誤った知識(グノーシス)に対する反論でした。何の暗いところのない神の交わりの中に入れられた聖徒は真の真理であるキリストを知ったのだから、言葉だけで行動と生活のともなわない偽りの知識者とは違うのだと語ります。
 ですから第一に、救われた者は、闇の中を歩かないのです。(6)
闇の中とはどういう事なのでしょうか。それは神なるキリストを心と生活の中心に置くことをしないことです。闇の中に歩む者は、光に来ようとしません。先の見えない、周囲も見えず自己中心の生活で、混乱と躓きがつきものです。しかもその生活に神の恵みの実を見る事はないのです。周囲の人と愛と喜びの関係を保つことができず、その背後に暗闇の世の主権者なるサタンの支配にまどわされ、平安と喜びを失います。
 第二に、光の中を歩むなら交わりを保つことができます。(7)
真の神との親しい交わりを持つことが出来、神の子としての保護と守り、祈りに答えていただける幸いを得ます。しかし光の中を歩む者は、周囲や将来を明るく照らされ、希望と平安を得ますが、同時に自分自身の内面も照し出され、一時苦しむこともありましょう。しかし光の中を歩むならその罪や汚れが判り、その都度悔い改めて十字架の主を見上げ、清めていただくことができ、次第にできない事も出来るようになり、変えられるのです。幸いです。


<聖書のことば>
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
ヨハネの手紙第一 1章7節






「完全な喜びへ」
ヨハネ第一の手紙1章3-4節

2011年8月7日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 本書が書かれた理由が三ヶ所で示されています。先ず喜びが完全になること(4)、次に罪を犯すことのないように(2:1)、最後に永遠のいのちを持っていることを確信すること(5:13)。ヨハネはクリスチャン2世に、信仰を持っている事の意味を確認しようとしています。
 その第一は、私達の喜びが完全なものになることを知ることです。その為には、キリストを信じた者は、交わりに入れられたのだと教えます。この交わりは、単なる人のおつき合いという意味ではありません。父並に御子イエス・キリストとの交わりこそ真の交わりであり、キリスト教徒は、この交わりの中に入れられ、それを土台としてお互いの交わりがある事を強調しています。
 第二に、その交わりは、完全な喜びへ向う交わりです。
人の欠点や不足を見ては、躓く多くの聖徒達は、この交わりの真意を悟る必要があります。互いの交わりは、エマオの途上の弟子の心が内に燃えたような交わりであり、それこそがキリストの内に入れられた聖徒の交わりです。完全な喜びは、この地上に於いては完成されないでしょう。たとえそのように見え、感じたとしてもそれは完全な喜びではありません。やがて完成される御国に於いてこそ、私達聖徒の喜びは完全となります。この地上に於いて、その喜びにあずかっていることを確認し、罪を赦して下さった心をもって交わりたいものです。


<聖書のことば>
私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。
ヨハネの手紙第一 1章4節






「永遠のいのちをあかしする」
ヨハネの手紙第一1章2節


2011年7月31日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 いのちが現れたという表現は不思議な言い表わし方です。かつてあったものが形をなしてあらわれたという事になりますが、この言語に絶する驚くべき事実を見て触れた者がヨハネであり、この体験を私たちに伝えることこそヨハネの使命だと言います。それは「私たちの喜びが全きものとなるため」(1:4)なのです。では、その内容はどのようなものでしょうか。

第一に、いのちです。
 ここに3度も繰り返されているいのちは、肉体のいのちではありません。神との交流のできる霊のいのちであり、それはアダム以来失われ、死んでいたものです(エペソ2:1)。そのいのちを持つお方こそ神の御子イエス・キリストであり、そのいのちであるお方を体験した者がヨハネでありました。

第二に、あらわれたいのちです。
 目に見えない霊なるものが、人の形をとって世に現わされたその方こそ、イエス・キリストです。当時のユダヤ人やキリストを偉大な教師と見てついてきた弟子達は、キリストが永遠のいのちであることを聞いて反対し離れ去っていきます(ヨハネ6:66)。しかし主はその生涯とみわざをもってご自分がいのちを与えることのできる真の救い主であることをあかしされました。

第三に、それは永遠のいのちです。
 み国に続く永遠のいのちであり、ヨハネはその体験者としてあかしします。


<聖書のことば>
このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。
ヨハネの手紙第一 1章2節a






「聞いたもの、見たもの、ふれたもの」
ヨハネの手紙第一1章1節

2011年7月24日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 礼拝におけるメッセージがローマ人への手紙の講解説教が終了した段階で、さて、次のおことばをどれにしようかとしばらく祈り、思い悩みましたが、これまでに講解していない書、今の私達に必要な教え、そして短い書を考えた時、信じて救われた者がその救いをしっかり確信する必要を、第二世代の聖徒に書き送ったヨハネの手紙が最もふさわしいものである事を知って、本書を取り組むことにしました。愛兄姉も是非ヨハネの手紙に親しんで下さい。緒論的な事を知った上で、第一節のおことばに目を注いで見ましょう。ヨハネの福音書に類似したおことばですが、いのちを親しく知る事が強調されています。

第一に、いのちは、初めからあったもの
このいのちは、霊のいのち、即ちイエス・キリストご自身をさしています。不変の福音であり、既にあったもので、全てのことの初めであるものです。

第二に、聞いて、見て、触れたもの
現実に、この世にあって、人が聞いたり見たり触れたりすることのできる形で神はいのちを示して下さいました。

第三に、それは、いのちのことばです
キリストにあるいのちの喜びの知らせ、即ち福音、それを誰でもが聞き、知ることのできるようにされた神の恵みを自分のものにできますように。


<聖書のことば>
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
ヨハネの手紙第一 1章1節






「神の栄光を喜ぶ」
ローマ人への手紙5章1~3節

2011年7月17日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 「義人は信仰によって生きる」(1:17) 信仰によってのみ人は神の前に義(正しい者)とされることを説いたパウロは、次に義とされた者の大いなる平安と喜びを示します。
 神との和解と平和をいただいた聖徒(クリスチャン)は、神の大いなる力と愛を体現して、その栄光を喜び感謝するのです。そればかりでなく、患難さえ喜ぶと言います。患難とは、普通の苦しみ以上の耐えがたい苦しみを指しますが、実はその患難の中にこそ大いなる神のあわれみとみこころが示されていて、患難は失望ではなく、そこから希望が生み出され、その希望は失望に終ることがない大いなる望みに至る幸いが教えられています。何故かと言うと、その全てに神の愛が注がれているからです。キリストを信じる者にとって、もはや罪も死も禍いと思えることも敵ではありません。
 私達の人生には、悲しみや苦しみは数え切れない程あります。しかしどんな時にも、慈愛に富む全能の神なるキリストが共にいて下さることは、いかなる事も最良、最善にして下さる事により、将来に希望を持つことができ、その希望は決して裏切られないものと判ればなんと平安で心強いことでしょうか。
 イエス・キリストは疑い深いトマスに「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と言われました。見ずに信じる者は幸いです。


<聖書のことば>
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
ローマ人への手紙 5章2節






「義人は信仰によって」
ローマ人への手紙 総まとめ

2011年7月10日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 ローマ人への手紙の講解メッセージが終了しました。2009年2月から始められた講解説教が皆さんにどのように受けとめられ、実を結んだでしょうか。最後に本書の中心的教えをかかげてまとめとしたく思います。
 キリスト教信仰の中心主題をローマ教会に書き送ったパウロは、自分の人生の終わりを自覚しての事であったでしょう。パウロの福音への理解は、私達信仰者の襟を正すに十分なもので、尚学びとれない多くの事があることを認めつつ更なる研鑽を重ねたく思います。

第一に、神の前に正しくされる義人は、行いによらず信仰によります。
 これこそパウロが全てのユダヤ人に強く訴えたい事であり、私達にも明確に知ってもらいたい本書のテーマと言えるものです。この義は、福音によって示されたもので、私達が神の標準に達しない罪をキリスト(救主)ご自身が私達の身代りに償って下さったこの事実を信じ受け入れる時、人は義とされます。この福音の中に神の愛が示され、約束と力の全てがあります。

第二に、神の前に正しくされた義人は、信仰によって行いの実を結びます。
 福音は、罪と死ののろいから解放し、信じる者に平安と喜び希望を与え、かつ聖霊の内住(エペソ1:13~14)により、助けと保証とキリストのご性質の実を結ばせてくれます。キリストを信じる者がいかに豊かな富をいただいたかを知って、勝利の叫び声をあげつつ良い実を結ぶ人生が約束されるのです。


<聖書のことば>
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
ローマ人への手紙 1章17節






「神に栄光あれ」
ローマ人への手紙16章25~27節

2011年7月3日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 いよいよローマ人への手紙の最後の言葉です。パウロのローマへの手紙にこめられた心の全てがここにあらわされているようです。神にみ栄えあれという頌栄には、三つの中心思想があります。

第一に、力を持ち給う方に栄光あれ。(26)
 信仰は人の力で強くすることはできないものです。それは福音の力(ロマ1:16)により、イエス・キリストの力によってのみ、信仰は成長し、強くされます。パウロは私の福音と言いますが、パウロの福音ではありません。パウロに救いを与えた福音であり、パウロの内に生き生きと働くイエス・キリストの喜びのおとずれ、それこそがパウロを力づけ、勇気を与え、前進させる力なのです。それは、奥義(ミステリー)です。

第二に、唯一の賢い神に栄光あれ。(27)
 神は唯一であり、偶像ではなく、知恵と力に富む生ける神です。全ては、神から発し、神によって成り、神に帰するのです(11:36)。全てを支配される全能の神に栄光が帰せられ、人は、ただ膝をかがめて拝するのみです。

第三に、イエス・キリストにあって栄光あれ。
 罪人である私達を愛し、その罪を自ら負われて我々を赦して下さった救い主に栄光が帰せられるべきです。私達は、全ての事に於いてそれは主ですと告白すべきです。


<聖書のことば>
知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように、アーメン。
ローマ人への手紙 16章27節






「共にある者からもよろしく」
ローマ人への手紙16章21~23節

2011年6月26日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 ローマ教会の方々へのあいさつと、勧告を記したパウロは、コリントにあるパウロと共にいる者からのあいさつを書き送ります。その筆頭にテモテが挙げられている事は、いかにパウロがテモテという若い聖徒を愛していたかが判ります。ピリピの教会への紹介には、テモテの成長ぶりが記されています(ピリピ2:22)。又、本書の代筆者テルテオのあいさつも興味あることです。当時手紙は、代筆を頼む事が多かったと言われていますが、パウロは眼病であったと思われるので、代筆は他の手紙からも推察されます。このあいさつから何を学ぶ事ができるでしょうか。

第一に、パウロは、礼儀を大切にしました。(第1コリント13:5)
 人への尊敬と感謝を忘れず、常に心に置いて接していたことが判ります。これは、愛のあらわれであり、キリストご自身から受けた教えへの忠実さでもあります。利己的な生活から変えられた、他の人をかえりみる大切な聖徒の証です。

第二に、パウロは、教会を大切にしました。
 自分だけのあいさつではなく、今ある同労の方々をもあいさつに加え、共にあいさつを送るという事は、常にパウロの働きは教会を通しであったことが判ります(コロサイ1:25)。

第三に、パウロは、人との係りを大切にしました。
 伝道は一人ではできません。祈りと協力が必要です。その事を自覚してました。


<聖書のことば>
私の同労者テモテが、あなたがたによろしくと言っています。また私の同国人ルキオとヤソンとソシパテロがよろしくと言っています。
ローマ人への手紙16章21節






「最後に残るもの」
テモテへの手紙第一 6章19節

2011年6月19日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 私達の人生には、生れる時から始まりやがて終りの時がやってきます。生れも死も人に左右されない神のみこころによる事は、クリスチャンでなくても、多くの人が認めるところではないでしょうか。
 人の一生を聖書は、「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る」(第一ペテロ1:24) 又「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。主のみこころなら、私たちは生きていて、このことも、また、あのこともしよう。」(ヤコブ4:14~15)
 しかし、この短い霧のような人生を与えられた人を、神は限りない愛をもって愛して下さいました。裸で生れ、裸で死んでいく私達にとって、本当に必要なもの、そして、最後まで残るものは何なのでしょうか。
 昔ある国の王は、遺言に棺に二つの穴をあけ、両手をそこから出して納めてくれと言ったそうです。それは自分が何も持たないで死んでいくのだということを皆に知ってもらうためだという事でした。
 これからの事を考えると混乱は否めませんが、聖書には私達の人生に大切な、しかもいつまでも残るものがある事が教えられています。


<聖書のことば>
まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために
築き上げるように。
テモテへの手紙第一 6章19節






「善にさとく、悪にうとく」
ローマ人への手紙16章17~20節


2011年6月12日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 あいさつの後に、パウロはこれだけを言っておかなければとばかり、最後の強い勧めをします。その主旨は、教会の一致への勧めです。

第一に、分裂や躓きをもたらす者を警戒せよとの勧めです。(17)
 分裂とは、調和や一致を破壊する行為で、キリストの体としてはその使命や働きを妨げる大きな問題です。たしかに正しいものが明らかにされる為には、分離が必要です。しかし小さな集りの中で分裂があれば成長も拡大も期待できません。分裂には外部からのものと内部からのものとが考えられるでしょう。異端的教え、極端な信仰理解等常に教会が闘ってきたものです。躓きは肉的性質の残骸が引き起すもので、躓く者も躓かせる者もあります。その特徴は、躓きという自覚がないか又は、薄いことにあります。人や出来事を見たり聞いたりして嫌気がさし、落胆し喜びを失うのです。パウロは、警戒せよと強く勧めます。知らず知らずに躓きを与えていることもあります。

第二に、善にさとく、悪にうとくあれと勧めます。(19)
 よい事に心を用い、その点で聡明であれと勧めます。主は、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおであれと教えられました。(マタイ10:16)

第三に、分裂や躓きを起す者の結末(20)
 平和の神、秩序の神は、混乱をそのままにしておかず、最終的には、悪の背後に働くサタンもろとも完全に審き、正しい者に勝利をもたらされます。


<聖書のことば>
あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。
ローマ人への手紙 16章19節






「フレンドシップ伝道を考えてみませんか」
使徒の働き5章13~14節

2011年6月5日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 フレンドシップを訳すと、友との交わり、友交、友愛、友情、和睦等となり、フェローシップとは、仲間、親交、協力、分かち合う等となります。フレンドシップは、まず仲良く親しくなる積極的な姿勢を持つことがなければ仲良くなれませんし、フェローシップの前段階とも言えるでしょう。昔母の日は、「フレンドシップ・サンデー」と言ったそうです。人と人との和、親しみ、信頼こそが、キリストの福音を伝える土台であると共に、神に従う者の在るべき姿ではないでしょうか。伝道する為の大切な係りは、親しくなる事です。新約の時代のクリスチャン達は、人々の尊敬をかちとり、一人又一人とキリストを信じる者、即ち仲間に加えられて、みるみる多くの人達がクリスチャンとなっていったのです。もし聖徒達が反社会的集団となって、人々から忌み嫌われていたら、その群に加わる人はいなかったでしょう。
 フレンドシップ、即ち親しみの心を私達は発揮する事が必要です。無関心であれば誰とも仲良くなる事はありません。フレンドシップを身につける事によって多くの人を救いに導く事ができれば主も自分も喜ぶことができます。その為に、第一に、歓迎の心を示しましょう。表情と態度で表わす事です。
 第二に、自分の方から近づくようにしましょう。親しさは、自分の方から声をかけ近づかなければ、その距離はちぢまらないでしょう。
 第三に、礼儀を守りましょう。非礼はフレンドシップとは無関係です。


<聖書のことば>
善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
ガラテヤ書 6章9節






「主にあって交すあいさつ」
ローマ人への手紙16章5~16節

2011年5月29日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 紹介、依頼に続いてローマ教会の兄姉に主にあってあいさつを送ります。長い長いあいさつですが、パウロの伝道者としての魂への配慮がよくあらわされていて教えられます。

第一に、名を挙げてあいさつをしています。
 この中には、ローマ人をはじめユダヤ人その他背景の判らない方々が25名もあげられ、しかも名だけでなくパウロの思いと感謝がつけ加えられています。勿論ここで名をあげてあいさつをされた人達以外に、ローマには多くの聖徒達がいたのでしょう。あいさつをされた人達は喜びと誉れを覚えたでしょうが、そのほかの人達も同様に主に在る兄姉、同教会人として喜びを覚えたに相違ありません。パウロの記したその人達のあかしが確かであったからです。

第二に、キリストにあってあいさつをしています。
 聖徒の交わりは、キリストによって与えられた交わりであり、キリストを仲立ちとする交わりです。口づけは当時の習慣でした。頬や額、手や足、髪などへの愛と信頼、尊敬をあらわす行為です(第1コリント16:20)。私達に今この習慣はありませんが、礼拝最後の握手等もこれを踏襲するものです。

第三に、愛と感謝をもってあいさつをしています。
 愛する心と感謝の心をもってあいさつを交すことこそあいさつの在るべき姿です。柔和と謙遜の主の模範にならう私達も、良いあいさつを保ちましょう。


<聖書のことば>
あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。
ローマ人への手紙 16章16節a






「神に用いられた夫婦」
ローマ人への手紙16章3~4節

2011年5月22日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 フィベの次にあいさつを送るのは、プリスカとアクラです。パウロは、この夫婦を同労者と記しています。一信徒でありながら福音のために生涯と生活の全てを献げて仕えた夫婦像に感動を覚えます。教えられましょう。

第一に、キリストによって合わせられた仲睦まじい夫婦です。
 プリスカは貴族出身のローマ人と思われ、夫アクラは小アジア出身のユダヤ人で、天幕作りを生業とする者です。生い立ちも生活も全く異なる二人が救いをいただき、その上神が合わせられた事により、ただ二人の幸福のみを追求する結婚生活ではなく、共に主に喜ばれる生き方をした仲睦まじい夫婦として、聖書の各所に登場します。(使徒18:1~)

第二に、夫婦で共に主に仕えた夫婦です。
 二人は必ず二人の名で聖書に記録され、しかもパウロは「いのちを守ってくれた」と言います。協力して伝道の為に誠心誠意働いた夫婦です。福音の真理をしっかりとらえ、その恵みをいのちがけで守り実践し、導いた魂を自分の家を開放して集いを持つ程の、生きることはキリストと言える夫婦です。

第三に、最後まで共に歩んだ夫婦です。
 パウロはエペソにいた夫妻に殉教真近な自分を自覚してあいさつを送ります(第2テモテ4:19)。信仰を最後までしっかりと守り通し、伝説によれば二人とも殉教死をとげたと言われています。目的を持った夫婦は幸いです。


<聖書のことば>
キリスト・イエスにあって私の同労者プリスカとアクラによろしく伝えて下さい。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。
ローマ人への手紙 16章3~4節a






「援助者フィベに、倣う」
ローマ人への手紙16章1~2節

2011年5月15日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 16章全体が個人宛のあいさつで、その筆頭に女執事フィベの紹介と依頼が記されます。これはこの手紙をフィベに託したからでしょうが、このフィベという方から幸いな学びをする事ができます。

第一に、フィベは、イエス・キリストに仕える人でした。
 ケンクレヤの教会で執事として女性が選ばれた事は珍しい事ですが、余程その働きは尊敬と信頼を得ていたからでしょう。執事とは仕える事が働きでした。フィベがどうして、仕えられる人でなく仕える人になったかは、主が仕える方だったからです(マルコ10:45)。このお方を主と仰ぐ者は、皆自分を仕える人とします。彼女の最大の仕え人は、主イエス・キリストでした。

第二に、フィベは、教会に仕える人でした。
 キリストのお体としての教会で、まずフィベの主への信仰は証明(あかし)されました。キリストの性質はフィベの中に形をとって、あらわされたのです。彼女の教会生活は、同信の兄弟姉妹に尊敬と信頼をもたらしたのです。

第三に、フィベは、神の器に仕えた人でした。
 キリストによって立てられた宣教師や牧師に深い尊敬と愛をもって接したのでしょう。パウロ自身も助けられたとあかししています。フィベは、二倍の尊敬をもって(第一テモテ5:7)働き人を敬い助けたに相違ありません。このような人によって教会は、建てあげられ、豊かにされてゆきます。


<聖書のことば>
この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。
ローマ人への手紙 16章2節b






「なくてならぬもの(母の日礼拝)」
コリント人への手紙第13章12~13節

2011年5月8日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 大きな震災を経験する時、一瞬の内に全てのものが無に帰するのを見る時私達は、人にとって何が本当に必要なものなのかを考えさせられます。人が全世界をもうけても、自分のいのちを損したら何の得になるか(マルコ8:36)と、キリストは語られました。そしていつまでも残るものは、信仰と希望と愛だと教えられています。

 第一に、信仰とは、天地万物を創造し、それを支配されている、真の生ける唯一の神の存在を信じる信仰です。神は目的もなく天地を創造し、人をお造りにはなりませんでした。被造物を神のすばらしさをあらわす為に創造し、それをこよなく愛し、治められる神への信仰は、永遠に残ります。

 第二に、希望とは、肉体の死の向うにあるいのちの望みであり、人の故郷(ふるさと)への望みです。このいのちは、キリストによって与えられるいのちであり、そのいのちは決して失われることはありません(ロマ5:5)。神は信じる者に決して消えてしまわない永遠の望みを与えて、私達に生きる望みを与えて下さいます。(第1ペテロ1:3)

 第三に、愛とは、言葉だけでなく、イエス・キリストのみわざを通して形として示された、神の愛であって、私達はこのお方によって愛の何たるかを知ることが出来るのです。あなたにとってなくてならぬもの、そしていつまでも残るものはなんでしょうか。キリストがそれをお与え下さいます。


<聖書のことば>
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
コリント人への手紙第一 13章13節






「私のために、祈って下さい」
ローマ人への手紙15章30~33節

2011年5月1日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 手紙の結びにあたってパウロは、祈りの要請をします。パウロは、何よりも祈りに力がある事を知っていたのです。

第一に、祈って下さいと要請します。(30)
 私と共には、私の味方になって、力を尽くしてとは、共に戦ってという事です。祈りは強敵に対する最大の武器ですから、サタンは、聖徒の祈りをやめさせ、忘れさせ、形ばかりの祈りにさせてしまいます。どんな時でも、絶えず祈ることを教え(エペソ6:18)、特に聖徒のために忍耐の限りを尽くして祈りなさいと命じています。

第二に、パウロは、具体的に祈りの要請をします。(31)
 不信仰な人達とは、創造の神は知っていても、メシヤとして人の姿をとってこられたキリストを信ぜず、かつての仲間パウロを裏切り者として殺そうとしている人達から守られるように、又異邦人からの醵金をエルサレムの聖徒達が喜んで受け入れてくれるようにと、具体的に祈りの要請をします。

第三に、祈りの実として、喜びをもってローマに行く事ができるように。
 ローマ行きは、かつて飢饉を予言したアガボが、エルサレムでのパウロの危険を予告した通り、騒動となり、結局ローマ市民権を持つパウロは、ローマに囚人として裁判を受ける為に行く事になりますが、それは囚人のようではなく、神から遣わされた大使のようにふるまい、その祈りの実をみたのです。


<聖書のことば>
兄弟たち、私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈って下さい。
ローマ人への手紙 15章30節






「永遠のいのちの望み」
ペテロの手紙第一1章3~9節

2011年4月24日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 イエス・キリストの復活は、キリスト教の根幹をなす最重要な出来事であり、信徒にとっても信仰の土台でもあります。もしキリストが甦らなかったならその信仰は空しいとも記されています(第一コリント15:17)。そしてクリスチャンの望みと喜びは、この復活にあることを知れば、昔の聖徒と共に喜び踊る日々を送ることができるでしょう。
 信じる者が喜び踊る第一の理由は、キリストが新しく生れさせて下さった事によります(3)。肉体の誕生と同様、霊の誕生がキリストを受け入れたその時に実現します(ヨハネ1:12-13)。活ける神との正しい関係は、当然の事ながら、その心と肉体にも影響をおよぼし、新しい人生が開かれます。
 第二は、生きる望みを持たせていただいた事によります。生きている生涯、将来に望みのある生き方は、死への勝利とその向うへの確実な約束によらなければ持つことはできません。イエス・キリストは、罪の身代りの死のみならず、死に打ち勝つ復活によって、信じる者に確実な保証をお与えになりました。私達の周囲には、何と生きる望みを絶やした人が多い事でしょう。
 第三に、キリストへの信仰によって神に守られている事によります。主は活きておられます。死せる者がどうして人を守り助ける事ができましょうか。目に見えませんが、たえず信じる者と共にあって、守り、導き、助け養って下さいます。ですから安心であり、恐れる事はないのです。


<聖書のことば>
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない栄えに満ちた喜びにおどっています。
ペテロの手紙第一 1章8節






「パウロの働きへの使命」
ローマ人への手紙15章15~29節

2011年4月17日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 手紙の結びとして、ローマ教会の聖徒の皆さんへの信仰への確信とパウロの主に在る誇りを記した後、与えられている使命について記します。

その第一は、仕える働きへの使命です。(25)
 この聖徒達への奉仕の働きは、具体的にはエルサレム教会の飢饉の窮乏を補うための、醵金を届ける働きです。この醵金は、寄金とも恵みとも記されて、聖徒の聖なる義務としての十分の一の献金とささげものとは別のものです。パウロに預けられたこの醵金は、マケドニヤ地方の聖徒達のもので彼等がどんなに「与える」主の教えに忠実であったかがあかしされています(第二コリント8:1~5)。この血の出るような醵金を確実にエルサレム教会に届ける事こそが、今のパウロに与えられている使命でした。

第二は、福音宣教への使命です。(23~24)
 もうこの地方には私の働くべき所がなくなったと言える程、福音宣教の使徒として、又キリストの名による商人のように、そのメッセージの全体をあますところなく、又もれることなくその地方全てに伝えたと言うのです(使徒20:19~27)。伝道者にとっては、心さぐられることばです。しかもローマが終着点でなくイスパニヤへ行く時の寄り道に過ぎません。祝福を持ってお寄りし、喜びに満たされて送りだされたい、できればローマの聖徒の皆さんにも、この醵金に協力をお願いしたいと願っていたのでしょう。


<聖書のことば>
ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。
ローマ人への手紙 15章25節






「パウロの働きへの誇り」
ローマ人への手紙15章15~21節

2011年4月10日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 ローマ教会の信徒がバランスのとれた成長した聖徒である事を確信したパウロは、次に、自分の働きに対する主に在る誇りを語ります。

第一に、活ける真の神に仕える誇りです。(17)
 パウロは「私はキリストの仕え人だ」と言います。まさしく使徒であり、キリストから遣わされ、キリストに仕える事の誇りに溢れています。人は仕えるものによって人生が決まります。私達は今何に仕えているかを考えてみる必要があるのではないでしょうか。更にパウロは、異邦人の為に祭司の務めを果していると、新しく聖められた魂を主におささげする仲保者としての務めを果している喜びと誇りを語ります。まさしくキリストの為された働きと同質のものです。

第二に、福音をくまなく伝えることのできた誇りです。(18)
 エルサレムは福音の発祥地、イルリコは当時の西の限界即ちあまねくと言って良いでしょう。更にイスパニヤへ(23)と言います。なんという熱情、なんというビジョンでしょう。その力はキリストご自身からでした。

第三に、他人の建てた土台の上に建てない誇りです。(20)
 これは、福音が伝えられていない所という事です。パウロの行動の原理は「福音を知らない人へ伝える」ことでした。よい知らせは誰にでも伝えたいし、知っている人にではなく、知らない人へ伝える事を第一とします。


<聖書のことば>
それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。
ローマ人への手紙 15章17節






「パウロの確信」
ローマ人への手紙15章14節

2011年4月3日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 本書をしたためた動機と結びのあいさつです。未だ行ったことも会ったこともないローマの教会への礼に満ちた丁寧なあいさつは、伝道者としての在り方を示してくれています。
 まず、ローマ教会の信徒の皆さんに対するパウロの洞察力から生れた確信が記されます。教会にとっては嬉しいことばであったに相違ありません。

第一に、善意にあふれている事。
 善意とは、物事を頭から悪くとらない歓迎する態度で、「互いに受け入れる」(7)ことに他なりません。批判的、反抗的、敵対的であれば、そこに良い交わりは生れません。しかも溢れているという事は、善意の態度が表にあらわれているということでもあります。柔和でへりくだった主の姿でもあります。(マタイ11:28)

第二に、すべての知恵に満たされている事。
 知識と知恵とは異なるものです。すべての知識を何の目的で、如何なる動機で、どのようにして用いるかが知恵です。それは、神をおそれるところから即ち、上より与えられる能力をもってしか正しい知恵は持てません。

第三に、互いに訓戒しあうことができる事。
 審き合い、足のひっぱり合いでなく、互いに不足を学びあう事ができる係りは、信仰者のあるべき姿です。たしかにパウロの確信通りでしたでしょう。


<聖書のことば>
私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。
ローマ人への手紙 15章14節






「互いに受け入れなさい」
ローマ人への手紙15章7~13節

2011年3月27日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 パウロは、ローマの教会に行った事がないにもかかわらず、教会内一致について、大変強く書き送っています。それはローマ教会が異邦の民の中に建てられた多くの人の混在した教会であったからでしょう。
 最後の勧めとして、「互いに受け入れなさい」と勧めます。教会の一致は、現在の教会にも、とても大切な事です。教会に主に在る一致があれば、そこにみ国の祝福があらわれますが、一致のない所には悪しき力が働くからです。
 第一に、教会は、様々な異なる方々の集合体である事を覚えましょう。
 年令、性別、生いたち、環境、性格、これらの違いのある者達が多く集れば集る程、そこに一致を見出すのは難しくなります。しかし教会には、この世の集まりと異なるところがあります。それこそがキリストにあってなのです。キリストに在ってとは、キリストに救われた者として、信じる者としてキリストに従い、主と仰ぐ者として、み国をめざす者としてという事です。不可能を可能とする秘訣は、このキリストに在ってなのです。
 第二に、キリストに受け入れられたように、互いに受け入れる事です。
 キリストに在ってという点で最も大切な事は、私のような者を受け入れ、歓迎してくれたキリストです。この事を自覚している人がどうして他の人を受け入れないわけがありましょうか。それが実行される時、キリスト教徒の印とも言える、喜びと平和が信徒にも、教会にも満ちあふれるのです。


<聖書のことば>
こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。
ローマ人への手紙 15章7節






「自分の家としての教会」
テモテへの手紙第一3章14~16節

2011年3月20日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 パウロは若く未経験なテモテに、教会の指導者としていかに行動すべきかを、特にこの3章に於いて具体的に述べています。急速にふえた教会にとって必要なのは、良い指導者でした。教会は聖徒の集りであると共に、キリストの目に見える体であり(エペソ1:23)神の家、神の宮でもありました。その群れを飼い、養い、牧する働きは、キリストによって召された牧師の働きでした。即ちテモテのような指導者は、群れの羊飼いであり、監督であり(使徒20:28)一家のあるじでもあったのです。
 一つの家が幸せになるか、不幸になるかは、その家の主人の在り方で決まると言って過言ではないでしょう。神の家たる教会の幸、不幸の大きな責任は、その群れの指導者にかかっているわけです。ですから今、私達は、後継者の為に祈り深くあらねばなりません。
 しかし、神の家のもう一面は、そこにある家族にもあります。無責任な指導者が教会を不幸にすると同様、無責任な家族が教会を破壊します。キリストの体につらなった神の家族の一員とされたものとしての明確な意識が必要です。私達は、神の家族とされたという意識をどれ程持っているでしょうか。教会を自分の家としてどれ程意識しているでしょうか。兄弟姉妹と呼び合う中にどれ程神の家族としての責任と重荷を負っているでしょうか。教会の祝福は、つらなる全ての方々の幸せに通ずる事を覚え自分の家を築きましょう。


<聖書のことば>
神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。
テモテへの手紙第一 3章15節






「忍耐と励ましの神」
ローマ人への手紙15章4~6節

2011年3月13日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 教会の一致こそキリストご自身が願い祈られたことでした(ヨハネ17:21~22)。パウロは、ローマの教会が、多くの異なる人達の集合体であっても、キリストにあって、その模範に従う時に一つとなれる奇蹟の集りである事を強調します。それはどのような事で可能かと言いますと、忍耐と励ましの神によってなのです。このお方により一つ心となれると教えます。

第一に、イエス・キリストは、信じる者に、忍耐をお与えになります。
 忍耐ということは、辛抱強さということです。現代は、辛抱強さが薄らぎつつある時代ではないでしょうか。聖書の教える忍耐は、ただ我慢しているだけの忍耐ではありません。やがてその忍耐の向うに勝利の約束された忍耐であり、忍耐しがいのある忍耐です。イエス・キリストの十字架の忍耐が、その事をはっきり教えてくれています。

第二に、イエス・キリストは、信じる者に、励ましをお与えになります。
 常に主に受け入れられ愛されている事は、どんなに大きな励ましとなることでしょう。主は弟子達を最後まで愛されました(ヨハネ13:1)。私達にも同様にして下さいます。たとえ弱くても、失敗があっても受け入れ愛して下さる主に、励ましをいただかないわけがありません。
 この忍耐と励ましこそ、信じる者の間に、一つ心一つ思いをもたらす大きな力であり、この世が与える事のできない奇跡の一致なのです。


<聖書のことば>
どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。
ローマ人への手紙 15章5節






「人の弱さを荷うまでに」
ローマ人への手紙15章1~6節

2011年3月6日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 パウロは、教会に於ける人間関係と一致について多くをさいて書き送っています。それだけ、私達現在に於ても、人と人との関係は、細心の注意とキリスト教徒としてのしっかりとした心構えが必要である事を示すものなのでしょう。
 14章では、隣人の前に躓きとなるものを置かない、もう一歩の愛が教えられました。ここでは更に、強い人は弱い人の弱さを荷うべきだと教えます。ここでの強い人とは単に知識のある人に限らず、あらゆる面で強く自立している人を指しています。そこにはパウロを含めた“私たち”がいます。当時は、多くの面で強い人と弱い人が教会の中に混在していました。世と同じように権力のある者が威張り、地位のある人が尊ばれ、貧しい人や知識のない人が軽んじられるような事があってはならなかったのです。
 キリストの救いと愛を知った者は、自分を喜ばせるのではなく、人を喜ばせるべきでした。人を喜ばせるには、その人の立場に自分を置かなければ喜ばせる事はできませんし、自分の事を考えていたらできません。パウロという人は、徹底して自分の弱さを教えられ、自分を解放することのできた人だったのでしょう。主の教えである“己れを捨てる”事のできた人でした。しかし、ここでも私達の模範は、イエス・キリストご自身です。その教えではなく、その存在です。キリストさえご自分を喜ばせる事をなさらなかったその生涯は、私達への励ましであり、希望です。


<聖書のことば>
私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。
ローマ人への手紙 15章1節






「もう一歩の愛」
ローマ人への手紙14章13~23節

2011年2月27日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 この世におけるキリスト教徒の生き方として、愛によって生きることが教えられています。互いに審きあう事がいましめられているだけでなく、相手を思いやり、躓きや妨げとなるものを置かないようにすることが求められているのです。

ここには、もう一歩踏みこんだ愛が教えられています。
 正しいか、正しくないかと判定し合うところには常にさばきがつきまとうものであり、自分を第一に考えているところにも他への愛の姿勢をみつけることはできません。他の人の事をかえりみて、自分の力や自由を束縛する事のできる自由を持つ事ができれば、それこそキリストの愛に近づいたものと言えましょう。人を躓かせない配慮と共に、躓きや妨げとなるものを人の前に置かないことができるようになれば、即ちもう一歩踏みこんだ愛の心遣いができれば、キリスト教徒の幸いな交わりが生ずることになるでしょう。

このような愛は、主が喜んで下さるものであり、又多くの人にも認められるものです。
 全ての事を神との関係、キリストとの関係で判断したり、行動したりすることこそ、信仰によることであり、もしそうでなければ的外れな罪となるでありましょう。私達には、愛の完全な実践者としての主イエス・キリストなるお方が模範として、いて下さる事を大いに感謝しようではありませんか。


<聖書のことば>
ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまづきになるものを置かないように決心しなさい。
ローマ人への手紙 14章13節






「イエス・キリストにかけた生涯」
ピリピ人への手紙1章20~21節

2011年2月20日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 イエス・キリストを知ったパウロの生涯は、自分のいのちをかけるものを得たすごい生涯であったことが判ります。回心が30歳前後であったとすれば殉教死までの30年は、一人の人が真理を知った時、いかに多くの価値ある働きがなされるかの生きたあかしです。
 その第一は、パウロの宣教へのあくなき熱意です。
 救いを経験したパウロの第一の願いと行動は、キリストを伝えることでした。彼は言うのです。同胞イスラエルの為の救いの為には、自分自身はのろわれた者となっても構わない、自分にとって生きることはキリストであり、キリストの為に死ぬ事も益だと、自分をキリストの為に使い尽くしたいと。パウロは、各地に多くの教会を設立し、その生涯の内に三回の広範囲に及ぶ伝道旅行を行い、価値ある聖書を書き残し、言葉にあらわせない程の大きな影響を後世に残しました。
 パウロの生涯を変え、かつ熱くさせたものは何だったのでしょうか。名誉でも富でもないもので彼をかくまで熱くさせたものは、真理でした。彼はキリストの内に本当のものを見出し、心から仕えるお方を見つけ、本当の愛を見出したからです。
 私達は今、何を大切にしているでしょうか。自分の生涯をかけられるものを持っているでしょうか。その為に死ねるものを持っているでしょうか。


<聖書のことば>
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
ピリピ人への手紙 1章21節






「目を覚ましていなさい」
マタイ福音書25章1節~13節

2011年2月13日 第2聖日 執事 中島知三

 弟子たちは、イエス様に「あなたの来られる時や世の終りには、どんな前兆があるのでしょう」と尋ねました。するとイエス様は「たとえ話」を用いて、この世に生きている間に目をさまして、「死とさばき」に対して十分な備えをしなさいと警告を与えられました。ここから二つの事について学びましょう。

1.今、備えなさい。
 この十人の娘のたとえ話に出てくる「花婿」はイエス・キリスト。「十人の娘」は教会に集う私たち。「ともしび」はクリスチャンの証しの生活、「油」はご聖霊であります。花婿が来るということは、イエス・キリストの再臨を意味します。特に「油」は絶やすことがないよう、聖書から教えをいただき、祈り、求めることが重要となるでしょう。

2.目をさましなさい。
 この目は、心の目、霊の目であります。私たちは、何時どんなことが起きるか判らない時代に生きているものとして、常に用心しつつ、目をさましていなければなりません。
  1. 眠る者は、チャンスを失います。また、すぐに正しい行動をすることができません。
  2. 眠る者は、無感覚となって主の恵みを得ることができません。
  3. 眠る者は、神のしもべとして、良き証しを立てることができません。
  4. 眠る者は、やがて目をさました時、後悔しなければなりません。
ですから、目をさまして真理の道を歩む者となりましょう。


<聖書のことば>
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
マタイ福音書 25章13節






「教会は祈り続けていた」
使徒の働き12章1節~5節

2011年2月6日 第1聖日 執事 梅田信一

 本日の聖句、使徒の働き12章が書かれたこの時、教会は大きな困難の中にありました。そのわけは指導者の一人であったヤコブが処刑されて、使徒で最初の殉教の死を遂げて、さらにもう一人の指導者であるペテロさえも捕えられて、厳重な警戒の中で処刑の時が迫っていたからです。
 この緊急事態の中で教会が行っていたことが5節に記されています。この聖句から3つの事を通して主のみ心を学びましょう。
  1. 祈りは聞かれ、必ず答えが与えられるという事です。
    主は祈りを聞かれ、答えを与えて下さるのです。失望せずに祈る様にとお言葉は私たちを励まします。しかし祈りが答えられるということと、願いが聞かれるということとを一緒にしてはなりません。ヤコブの殉教とペテロの救出という2つの事実がそれを教えています。

  2. 祈りは教会の力、信じる者の力だという事です。
    完璧と思える監禁状態の中に置かれていたペテロは処刑前夜にも関わらず熟睡という平安の中で夜をすごします。現在この世に置かれている私たちに迫ってくる様々な困難、圧力に同様の平安をキリストはお与え下さっています。

  3. 祈りは大きな驚きを与えて下さるという事です。
    初代教会の兄弟姉妹の祈りは、信仰の勇者たちの祈りではありませんでした。とまどいや、疑いもあった中での祈りでした。しかし彼らは祈り続けました。その結果教会は大きな驚きに満たされました。


<聖書のことば>
教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。
使徒の働き 12章5節






「神に生きる」
ローマ人への手紙14章1~12節

2011年1月30日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 救いをいただいたキリスト者への実践的勧めは、献身から始まって、謙遜、服従等かつて神から離れていた時の生き方とは正反対の勧めがされつつ、この箇所では、審きについて教えられています。即ち周囲の未だ十分に知識の与えられていない信仰の弱い者を審いてはならない、兄弟を審いてはならないというのです。
 ここで言う信仰の弱い人(1)とは、肉を食べることと、特定の日を守ることとが例に出されているので、コリントの教会でも問題となっていた偶像に供えられた肉を市場で買って食べるのは、いけない事だと考えた者と、偶像は神ではないので食べても構わないと考えた者が互いに審き合っていた事が背景にあったのでしょう。信仰の根幹にかかわる事でない,末梢の事で審き合う事がいましめられています。私達の信仰生活でも細かな事で侮ったり、審いたりする事が、互いの交わりをぎこちなくしている事がないとは言えません。
 私達を正しく審かれるのは、主ご自身、神ご自身です。各々が神の前に救われた者として、神に喜ばれるように生きる事こそが重要なことであり、生きるにも死ぬにも主のためにと願う者にとって、兄弟を審く事がいかに愚かで、主のみ旨を痛めることであるかを知らねばなりません。あらゆる事を神の前に持ち出し判断させていただく事、そこに聖徒の生き方があります。


<聖書のことば>
もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
ローマ人への手紙 14章8節






「ビジョンを語る会の意義」


2011年1月23日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 初期から数えて第三回目のビジョンを語る会を先聖日より行なっています。「幻のない民は滅びる」(箴29:18)の教えのごとく、信仰とみことばに基づいたビジョンは、み国の祝福をいただく大切な要素です。そこでこの会の意義を考えましょう。
 第一に、当教会の後継者を迎える必要をしっかり認識するためです。現牧師が元気だからまだ必要ない、急がなくて良いと考えてはなりません。何かがあってからあわてて後継者を求めるのでは、真の祝福をいただく事にはならないのです。招聘委員会は既に三年前から活動を開始しています。ですから教会全体が、次期牧師招聘への重荷を持たねばなりません。
 第二に、当教会がどのような姿勢で後継者を迎えるべきか共通した姿勢を持つためです。牧師と信徒の在り方も当然の事として語り合われるでしょう。牧師の力量や資格も無視できません。この点は招聘委員会に委ね、教会として、どのような指導者が与えられようが、一致した、聖書的な姿勢を持つ事によって、交替時におけるサタンの働きかけを防ぐ事ができるのです。
 第三に、長く教会生活をしている方と、未だ教会生活が浅い方々が両方共よい一致をつくり出すためです。古い人は「以前はそうではなかった」と言ってはならないし、新しい人は「判らないから何でも良い」と言ってはならないのです。この会が主と教会を愛する人達によって建設的に語られますように。


<聖書のことば>
あなたはすぐれた指揮のもとに戦いを交え、多くの助言者によって勝利を得る。
箴言 24章6節






「愛の借財の返済」
ローマ人への手紙13章8~10節

2011年1月16日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 社会的義務を果すべき事についで、道徳的義務を果すべき事が教えられています。勿論これもキリストによる愛を知った、救いを体験した者への勧めであることに変りはありません。

第一に、借りのない生活が勧められています。(8)
 ここには、一個の人格を持つ者として、独立した責任ある生き方をすべき事が根底にあります。借りをつくらない生き方は、真面目に歩む者の正常な結果でもあり、目的でもあります。混乱と放縦、怠惰と過度の欲望のもたらす実は、物質的、精神的多大な負債でありましょう。負債から生れる様々な弊害は、人生を狂わせ、人格を破壊し、平安と生きる望みを失わせる程のものにふくらんでしまい易いものです。

第二に、互いに愛し合う借りが勧められています。
 ここで教えられている愛は、当然キリストによって示された神の愛です。この愛の借りを誰が払い切れましょうか。目に見える隣人への愛をもって、その幾分かをお返しできるとしても尚、この借りは返済不能です。神に愛されている事を知る者は、人を愛する事を学び、そこに律法の完成があります。(8, 10)

 愛は隣人に害を与えません。愛は人を完成に導きます。愛されたいと思うのではなく、愛したいと思うところに神の愛の本質があります。


<聖書のことば>
だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
ローマ人への手紙13章8節






「この世の責任を果す聖徒」
ローマ人への手紙13章1~7節

2011年1月9日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 キリスト者は、この世に生かされている者として、この世に調子を合わせる事なく、同化することなく歩むとしても、社会の一員としての責任と義務を果さなくてよいものではありません。逆に如何なる横暴な支配者であってもその支配に従うことが命じられています。

第一に、この世にたてられた権威に従うべき事。(1)
 何故なら、この世にたてられた支配者の持つ権威も神によって与えられた権威だからです。当時はローマの国家的支配であったでしょうが、今も私達の社会を構成する多方面の上に立つ秩序に従い、神のしもべとしてのあかしをたてるべきなのです。たとえ厳しく横暴な者であっても、反社会的行動をとれば審かれます。「カイザルのものはカイザルに。神のものは神に。」(マルコ12:17)と教えられたように、税も忠実に納めるべきであり、世の規則にも従う、良い市民であるべきなのです。キリストにあって従う時に受ける苦しみを甘んじて受ける事になるでしょう。しかしそれこそが信者の責務であると心得る必要があります。そこに尊敬と信頼が生れる事になります。

第二に、この世にたてられた権威に従わざる事。(使徒5:29)
 しかし、なんでも従うべきかと言うとそうでもありません。聖徒としての信仰の放棄、神の代りに世の支配者を礼拝する事、異教的習慣への強要等があった場合は、信仰の良心の故に従う事はできません。


<聖書のことば>
あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。
ローマ人への手紙 13章7節






「実を結ぶ生涯」
ヨハネの福音書15章1~8節

2011年1月2日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 年の暮れにこの一年自分は何をしたのかと振り返り、新しい年を迎えて又新たな気持で歩み出す。そんな事を何十年も続けてきました。一体自分の生涯は何なのかと考える時でもあります。
 聖書は、実を結ぶ生涯であれと勧めています。一体実を結ぶとはどのようなことをいうのでしょうか。

第一に、互いに愛し合うことです。(12)
 この愛は、誰でもが持っている人の愛と違い、キリストによってあらわされた神の愛を指しています。その愛はキリストを知らなければ決して判らない愛であって、人の生まれながらに持つ愛と混同され易いものですから注意しなければなりません。人がこの愛を知り、内に持つ事によって人としての豊かな実を結ぶことが出来ます。

第二に、神の栄光をあらわすことです。(8)
 栄光とは神が喜んでくださる事に他なりません。食べるにも飲むにも日常生活の全てが、神の喜びとなることこそ、実を結ぶことにほかなりません。

第三に、しっかりキリストにとどまることです。(4、6)
 枝が幹にとどまらなければ実は結びません。実を結ぶ努力より、とどまる努力をすべきです。そこにいのちの養いがあり、成長があります。あなたはどこにとどまり、何をめざし、誰の喜びとなる生涯を歩んでいますか。


<聖書のことば>
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
ヨハネの福音書 15章8節