聖書からのメッセージ


【礼拝説教要旨】

「愛による聖徒の群」
 ローマ人への手紙12章9~21節

2010年12月26日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 神に赦され、御国の住民となった聖徒を結びつけるものは、新しい愛です。この愛は、イエス・キリストを救主と信じた者の内に宿るもので、キリストによって示されたものです(第一ヨハネ3:16)。献身し、謙遜を身につけた聖徒達の群れは、この愛によって結び着けられます。

 第一に、聖徒達は、キリストにある偽りのない愛をもって愛し合います。キリストにある偽りのない兄弟愛とは、みせかけのない、悪を嫌う家族としての永遠の愛です。それは互いに一つ心になる活力ある係りなのです。そこには争いや混乱はありません。平和をつくり出す、幸いな群れとなるのです。それこそが、神がキリストにあって願われる聖徒の群れです。

 第二に、聖徒達は、この世の人々との係りに於ても、愛を持って接します。たとえ敵対し、迫害する人に対しても、目には目、歯には歯ではなく、善をもって仕え、悪に勝つのです。もし悪をもって悪に対すれば、そこに平和はもたらされず、敵を友とすることができれば、そこに解決は生れることになります。それは大変難かしい事に違いありませんが、キリストご自身が私達に示して下さった事でした。敵対され被害をこうむった聖徒はどうすれば良いのでしょうか。善をもって報いれば彼の頭に炭火を積むことになると教えます。それは、いてもたってもいられない気持という事でしょう。しかし最終的には、神ご自身が善悪共に報復されます。


<聖書のことば>
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
ローマ人への手紙 12章21節






「光として来られたキリスト」
 ヨハネの福音書1章1~14節

2010年12月19日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 クリスマスは、史上最大の出来事を祝う時です。何故なら父なる神、天地創造の神ご自身が、人となって世に来られた未曾有の出来事を祝う時だからです。ですから全世界をあげて祝うのは当然の事です。それは光として来られたと記されています。(9)

光は、全てのものを明らかにします。
 闇の中に隠されているものも、様々なものでおおわれているものも全てを明るみに照し出ます。人は、このお方の前に自分の本当の姿を明らかにされ、あるべき姿を示され、この光によって将来に希望を持つことができるのです。

光は、安心を与えます。
 光は、行くべき道を照らし、正しい道へと導いてくれるだけでなく、周囲を明るく照らして、私達に安心感を与えてくれます。イエス・キリストを信じて歩むクリスチャンの生涯は、悪の力から守られ、誘惑を先だって見出し、それに勝つ力を与えるのです。不安を消し、永遠の光の内を平安を持って生きることが出来ます。

光は、回復させます。
 闇に輝く光は、人に希望を与えるだけでなく、勇気と力を与えてくれます。光のもとに集められた者は、人としての本来の姿をとり戻し、神の栄光をあらわす存在となり、神と人とに喜ばれる者と成長します。


<聖書のことば>
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまこととに満ちておられた。
ヨハネの福音書 1章14節






「与えられた恵みによって」
 ローマ人への手紙12章3~8節

2010年12月12日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 救いという事が本当に理解できたら自らをおささげするという事や、この世と調子を合わせない生活等が必然的にできると勧めたパウロは、次にキリスト者の生活の中心に教会があることや、その徳の第一が謙遜である事を教えます。

 まず、クリスチャンの生活の中心は、教会にあります。(4-5)
その出発点がバプテスマです。これから自分中心の生き方をやめ、キリスト中心の生活に入るあかしとして、キリストの体なる教会につながる事を証しするバプテスマは、多くの主に在る兄弟姉妹と一つ体の一部分として加わる事を意味します。今だかつて教会生活を忠実にしない聖徒が、満足のいく生涯を送れた例は、一つもありません。教会でこそ聖徒としての成長があります。自分の教会をもたないクリスチャンは、不幸です。

 次に、クリスチャンの徳として最も重要なものは、謙遜です。(3)
主も弟子達に、その事を度々教え(マタイ20:25~28)、主ご自身も謙遜を持ってご自分の重要な在り方と考えておられました。(マタイ11:28)

 謙遜とは、自らを低く評価する事ではありますが、私は何もできませんと、引っ込んでいる事ではありません。各々に与えられた賜を生かして、全体の為に存分に仕える事です。これは神からの恵みによってなされる事ですし、十分な慎みをもってなされる、真の謙遜です。


<聖書のことば>
私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。
ローマ人への手紙 12章3節






「献身の生涯」
 ローマ人への手紙12章1~2節

2010年12月5日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 教理に続く実践が教えられます。教理は、信仰生涯の土台、実践は、その上に建てられる家のようなものです。土台だけでも、土台なしの家だけでも、事は成り立ちません。人が神の前に義とされる方法について教えた後に、義とされた者の生活の仕方について語られます。その根底をなすものは、神への献身と神なきこの世のならわしに従わない、新しい基準に従って歩む歩みが勧められます。

 第一に、献身すること、自分自身を神におささげする事こそが、キリスト教徒としての当然な在り方であり、神に向う姿勢であり、新らしい生き方の土台です。それも、神に喜ばれる、聖い、生きた供え物としておささげする事が勧められています。カインとアベルの礼拝の仕方から、神に喜ばれる礼拝とそうでない礼拝が、どのようなものか示唆を与えられるでしょう。私達の毎週の礼拝の献げ方如何で、祝福に大きな違いが出ることも心に留めたいものです。

 第二に、聖別されることです。この世とは、神を除外した不信の世です。その世の考え方、ならわし、行動に同調しない事です。勿論クリスチャンは、この世に生かされていますから、この世に於て神の子としての生き方が必要です。しかし共有される世の営みの中にあっても、同化しない、はっきりとした基準に従った歩み方が求められます。献身の生涯を貫く人は幸いです。


<聖書のことば>
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
ローマ人への手紙 12章1節






「全ては、神によって」
 ローマ人への手紙11章34~36節

2010年11月28日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 パウロのキリストの福音の大団円です。神が人類の救いの為になされた、人の思いを越えるご計画は、まさしく奥義でした。
 救いの教えの最後に、全ては神から、そして神により、最後は神に帰すると告白し、いっさいは神のご支配にあることをあかしし、栄光を神に帰して、賛美します。ここから三つの事を学びとりましょう。

第一に、全ては、神からはじまりました。
「はじめに神が天地を創造した」ので、はじめに物あり、いのちありではありません。最初に神ありであり、その神が全知全能をもって計画的に全てのものを無から創造されました。人は、その被造物を利用しているにすぎません。人もその被造物の最高のものとして、神に似せて創造されました。全ては、神からなのです。

第二に、全ては、神によってなされます。
人が全てのことを動かし、支配しているように見えても、決してそうではありません。多くの事ができても、できない事は、沢山あり、その背後に神のご計画とご支配があって、全てはなりたっています。全ては神のご意思によります。

第三に、全ては、最終的には、神のご計画通りになります。
人がどんなに願い、働いたとしても、全ての事は神のご計画通りに、いっさいは神のものとなります。人の目的は神のみこころを知ることなのです。


<聖書のことば>
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
ローマ人への手紙 11章36節






「世に勝つ者とは」
 ヨハネの第一の手紙 5章1~5節

2010年11月21日第3聖日牧師山宮利忠

 ここでいわれている世とは、神から離れた反逆する世であり、益々悪に向う滅亡の世、悪の支配する世です。私達はそのような世に生れ、その感化を受け、しかも堕落したアダムの性質を受け継ぐ罪人です。この強力な世の力に誰が打ち勝つといえるのでしょうか。世の力と己の弱さに敗北し、混乱と失意の中に沈む人達が多いのです。
 ここに、世に勝つ者は、メシヤなるキリストを信じる者だと宣言されています。何故キリストを信じる者が世と己れに勝利するのでしょうか。

 第一に、イエス・キリストは、人の罪を赦す権威を持っておられるからです。
 罪は処罰されなければ赦されません。主は罪なきお方、神の御子として我々の罪の代わりに罰を受け、罪を赦して下さいました。このお方の側に立つことによって神の赦しを受けることができるのです。

 第二に、死に打ち勝ついのちをキリストは、お与え下さるからです。
 肉体の死は人の衣にすぎません。大切なものは霊魂です。ここにいのちを与える事ができる確証を、主は復活によってあかしされました。死後天のみ国へ入る約束をお与え下さって、信じる者に希望をもたらしてくださいます。

 第三に、日々信じる者を助けて下さる聖霊をお与え下さるからです。
 汚れた霊に支配されていた者を潔めて、神の子にふさわしく整え強くして下さるのは、聖霊なるお方です。世の力に打ち勝つ勝利は、ここにあります。


<聖書のことば>
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
ヨハネの第一の手紙 5章5節






「測りしれない神のみこころ」
 ローマ人への手紙11章25~33節

2010年11月14日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 イスラエルの躓きが、異邦人伝道に道を開き、これまで真の神のお取り扱いを受けてきた選民イスラエルが切りとられた事を、異邦人信者があなどってはならないことを訴えたパウロは、イスラエルへの厳しい審きが、異邦人にも同様、従わない者に及ぶことをおそれを持って宣言します。しかし、その不従順から生じる苦しみと痛みの中から、真のイスラエルの救いがもたらされるこれからの神のなされた方を思う時に、ただただ神をほめたたえる賛美に至ざるをえないパウロの感嘆をここに見ます。

 パウロは、ここで終末時における万民救済を教えているのではありません。キリストを信じて救いをいただく霊的イスラエル、神の民に加えられる聖徒の救いを教えています。その救いは、不従順と反逆の民の中から生れる不思議をここに示すのです。

 神の測りしれないみこころは、今の私達にも奥義として示されています。聖なる創造主なる神が、汚れ果てた不従順の我々の為に、痛み苦しみ、いのちまでも捨てて赦そうとされた事にも、神のはかりしれない愛と忍耐を見ますが、不従順におとしこまれた人類(罪の牢獄)が、その痛みの中で、真の救いを求めはじめる事も又、不思議な神の知恵にほかなりません。痛みの中から見出した神のあわれみと愛、救いの価値の大きさは、不従順と罪の実である苦しみを、感謝に変えて下さるミステリーを実現して下さるのです。


<聖書のことば>
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
ローマ人への手紙 11章33節






「神の厳しさと優しさ」
 ローマ人への手紙11章13~24節

2010年11月7日第1聖日牧師山宮利忠

 イエス・キリストの十字架刑を、神の愛のしるしとしてだけ見る事は誤りです。罪なき神の御子が恐ろしくも、いたましい十字架に御身をさらされたのは、義と聖なる神が、決して罪をお赦しにならず、罰しなければならない厳しいお方であるということのあかしに他なりません。

 パウロは、自らはユダヤ人でありつつも異邦人に遣わされた使徒として、神の厳しさと優しさを伝えようとしています。

 イスラエルの過去の歩みの中に示された神の厳しさは、モーセに導かれた民達の不信と不従順に対する神の処罰の中に見ることができます(へブル書3:16~19)。この不信のゆえに神の処罰を受けた者は、2万人以上にものぼり、成人の男子の内ヨシュアとカレブ以外は、全て荒野で死に絶え、約束の地へ入ることはできませんでした。そして今又、メシヤなるキリストを拒否した彼等は、永遠の生命への道から絶たれようとしているのです。しかしその事が異邦人への福音の伝播を早めたとすれば(11)それは、大いなる神の憐れみという他ありません。

 神の優しさは、十字架によって示された不信、不忠なる者への赦しの中にあらわされています。既に赦し、招き、約束して下さっている神は、神の赦しの福音を受け入れる者を無条件で赦して下さいます。私達は、この大いなる神の優しさの中にある事を受け入れ、平安と喜びを得たいものです。


<聖書のことば>
見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。
ローマ人への手紙 11章22節a






「キリストの証人」
 ヨハネの黙示録 3章15節

2010年10月31日 第5聖日 執事 須山茂良

 再臨の(空中)直前の教会の姿、それは現在の教会の姿であり、『黙示録35講』の著者、M.R.デハーンは「自己満足の中に自分を義とし、活動には熱心であるが、福音に対して冷たく無感心である。」と言っている。
  1. 救われた私たちクリスチャンの最大の為すべきことは、「他の人にキリストを証しする」ことである筈であるのに、その意識が薄れているものではないでしょうか。

  2. 時々、私たちは「別に言葉で伝えなくても、クリスチャンとして良い行ないをしていれば、それが証しになるのではないかと考える。しかし、良い行ないだけで言葉がなければ、それがキリストによるものであることがわからないのです。良い生活にキリストの証しが伴う時、人々はキリストを崇め、キリストに栄光を帰すことになります。

  3. 「キリスト以外に救いはない」(使徒4:12)と信じている私達が滅びの崖っぷちにいる人に「お元気ですか」と声をかけているだけなら、それは矛盾です。サタンはそれを矛盾と思わせないように働いています。

  4. 最大の愛の行為は、キリストをその人に紹介し、キリストを受け入れるように勧めること、キリストを証しすること自体が愛の行為であることを謙虚にもう1度心に銘記したいものです。牧師、伝道者だけでなく、私たち全員が伝道者であることを主は求めています。

<聖書のことば>
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」
ヨハネの黙示録 3章15節






「見ずに信じる者は幸いです」
 ヨハネの福音書20章24~31節

2010年10月24日 第4聖日 伝道師 安藤修司

 復活された主が弟子たちに姿を現わされた時、トマスだけは居合わせず、この祝福にあずかれませんでした。彼は見なければ決して信じないと主張し、仲間のあかしを受け入れませんでした。信仰のさらなる一歩を踏み出すために、何が大切であるか、この箇所から確かめましょう。

 第一に、自分で信じられないと理由をつけては進めません(:25)。
 彼は信じようとしませんでした。自分は仲間と同じ体験にあずかることができなかったことを、彼自身が信じない理由にし、主に求めることをしなかったのです。私たちはそのようにして主の恵みを拒んでいないでしょうか。

 第二に、信じさせて下さるのはイエス様です(:27)。
 八日後に主はトマスも同席していた中に立たれます。そして彼にもご自身を示して信じない理由を廃棄され、「信じる者になりなさい」と招いて下さいました。主が信じさせて下さり罪から救って下さるのです。

 第三に、見ずに信じることの方が幸いであることです(:29)。
 主はあえてトマスに問われます、「わたしを見たから信じたのですか」。このようにして使徒たちは、私たちが「見ないで信じることができるように」あかし人とされました(1ヨハネ1:1-2、1ペテロ1:8-9)。主は、信じたいと求める全ての人を救いへと導いて下さいます。あらゆる犠牲をも惜しまずに主は私たちが信仰に歩むように助けて下さいます。


<聖書のことば>
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
ヨハネの福音書 20章29節






「失敗を益として下さる神」
 ローマ人への手紙11章11~12節

2010年10月17日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 イスラエルの不信仰、不従順にもかかわらず神は彼等を退けてしまわれたのではなく、恵みの選びによって残された者がいた事を語ったパウロ自身が実は、生粋のユダヤ人であった事を考えると、確かに神はお見捨てにはならなかった事が判ります。しかもお見捨てにならなかっただけではなく、彼等の失敗を、異邦人伝道の為に益として下さったのだと語ります。
 先ず、イスラエルの不従順がどのように益とされたのかを見ましょう。

 第一に、彼等の違反によって、救いが異邦人に及んだのです(11)。
 選民イスラエルに拒まれたキリストの福音は、やむを得ず異邦人に伝わるようになり、アンテオケを始め、当時の世界へ急速に伝えられてゆきました。

 第二に、イスラエルを覚醒させて、ねたむ心を起こさせました。
 本来自分達のものであった真の神のことばが、彼等が嫌った異邦人に受け入れられてゆく事は、耐えられない事であったでしょう。その思いは、福音を考える力となったのです。

 第三に、イスラエルの捨てた福音は、全世界の大きな富となったのです。今、私達がその事実をあかしします。
 神は、人の失敗を益に変えて下さる愛のお方です。もしあなたが、このあわれみに富んだ真の神を信じ受け入れる事ができるなら、あなたの人生のあらゆる失敗をも、ただ倒れ、傷つくだけで終らせる事は、決してありません。


<聖書のことば>
では、尋ねましょう。彼らがつまづいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。
ローマ人への手紙 11章11節






「選ばれた残りの者」
 ローマ人への手紙11章1~10節

2010年10月10日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 選民イスラエルは、不信仰、不従順の故に神に見捨てられたのでしょうか。
 断じてそうではなく、大きな神の審きの中にも、恵みによって残された者がいるという事実が、この節の主旨です。パウロの心の痛みである、同胞イスラエルの不信の歴史を先ず振り返ってみましょう。

第一に、イスラエルの不信仰(8)
 10章21節では、神の大きな恵みと愛によって導かれてきたイスラエルは、その神の誠実さに対して報いる事なく、不従順で反抗する民でした。故に神は彼らの悔い改めの為に、大きな痛みをお与えになりました。しかし彼等は、その神のこらしめをこらしめとして受けとめる事さえしなかったのです。見えない目、聞こえない耳、悟らない心、神は、「なれ」「なれ」「なれ」と、恐ろしい程の不信仰、不従順への実の宣告をされます。しかしそれは彼等の悔い改めの為であって、彼等をお見捨てになったわけではありませんでした。

第二に、イスラエルに残された選びの民(4~5)
 エリヤへの神の励ましと同様、恵みによって不信の民の中から多くの選びの民を残して下さっています。それは又、今の時代に当てはめられる神の豊かな憐みです。火の中の燃えかすの中から新しい芽が出てくるようです。神はその民をお見捨てになったわけではありませんでした。


<聖書のことば>
「バアルにひざをかがめていない男子7千人が、私のために残してある。」それと同じように、今も、恵みの選びによって残されたものがいます。
ローマ人への手紙 11章4~5節






「差しのばされた手」
 ローマ人への手紙10章16~21節

2010年10月3日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 福音が語られ、それを聞いた人達がすべて救いに導かれたのでしょうか。そんな事はありません。旧約の時代からメシヤの到来を預言者を通して語られ、彼らには言い訳ができない程、福音は語られていたにもかかわらず、信じる者は、少なかったのです。何故でしょうか。

 第一に、人の心は、かたくなだからです。
 彼等は、福音を聞かなかったわけではありません。使徒達も真先に同胞イスラエルにメシヤの到来を伝えたのです。そしていくばくかの人は救われました。しかし大多数の者は、聞いても信じることをしませんでした。聞こえても、聞こうとしませんでした。知っても理解し、認めようとしませんでした。理解しても従おうとしなかったのです。
 私達はどうでしょうか。聞いても従うことがないとしたら、聞いたことにはなりません。神の恵みの救いは、私達の中に実現しないのです。聞くだけで行おうとしなければ、そこには何も起ることはありません。

 第二に、人のかたくなさにもかかわらず、神は忍耐をもって恵もうと手を伸ばしていて下さいます。
 イスラエルは不従順の故に他国に滅ぼされました。それは神の責任ではありません。彼等の不従順の結果でした。しかしその荒廃した切り株からメシヤは与えられ、全世界への救い主としてたてられ神の手は伸ばされたのです。


<聖書のことば>
またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」
ローマ人への手紙 10章21節






「宣ベ伝える人がいなくては、」
 ローマ人への手紙10章14~15節

2010年9月26日第4聖日牧師:山宮利忠

 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」(13) そこには、ユダヤ人もギリシャ人もない、全ての人にキリストの救いは、提供されていると示したパウロは、では、人はどのようにして救われるのか、どのようにして福音を聞き、どのようにして信じるのか、それは、宣べ伝える人がいなくては、誰も救われないと語るのです。まわりくどい表現がされていますが、要は、救われる為には、信じなくてはならない、信じる為には、聞かなければならない、聞く為には、福音を語る人がいなくてはならない、福音を語るためには、遣わされなくては語れないという事です。ここに福音を語ることの重要性が示されています。

 第一に、信仰は、聞くことから始まります(17)(14)。聞く事が必要です。
 全ての事は、見たり聞いたりするところから始まるという事が、私達の生活の基本です。弟子達は、自分の見たこと、聞いたこと、手で触れた事を伝え(第一ヨハネ1:1~3)、そこに信仰が生れました。

 第二に、聞くためには、語る人が必要です。
 良いニュースというものは、体験した人の喜びや感動の度合いによって異なりますが、口から出ることばによって伝えられる必要があるのです。

 第三に、語る人は、遣わされることが必要です。(15)
 全ての聖徒は主から遣わされたメッセンジャーだという意識が必要です。


<聖書のことば>
しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
ローマ人への手紙 10章14節






「福音を伝える責任」
 テモテへの第二の手紙 4章1~2節

2010年9月19日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 パウロは、若いテモテへ福音を伝える事を極めておごそかに命じています。それは、私達への命令でもあります。

 先ず、神のみ前で命じています。この命令は、神ご自身の命令であって、パウロの個人的、人間的な命令ではない事を意味するものに他なりません。

 第二に、やがて今度は、審き主としておいでになるキリスト・イエスのみ前で命じています。人はその時、神のみ前に赦されているかどうかが問われることになります。今は恵みの時、救いの日でありますが、やがてその時も閉じられ、誰でもがキリストにある救いを受けているかどうかが問われ、赦しをいただいていない者は、永遠の滅びに行かなければなりません。たとえどんなに真面目に、正直に生きたとしても、赦されていない者は、残念ながら滅びなければなりません。

 第三に、時が良くても悪くても伝えることが命じられています。昔と比べ今は、福音が伝えにくく信仰を持つ人が少ないのでしょうか。決してそうではありません。福音そのものはいかなる時代にも通用する良いニュースです。福音を伝えるのに多くの言訳をもって救われる人の少ない事を正当化してはならないのです。時が良くても悪くてもしっかりやらなければなりません。その為には人の力以上の主のお力が必要です。もし私達が言い訳せずに忠実に福音を伝えるならそこに主は働いて奇跡を起して下さいます。


<聖書のことば>
神のみ前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。
テモテへの第二の手紙 4章1~2節






「私の心の望みと願い」
 ローマ人への手紙10章1~13節

2010年9月12日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 同胞イスラエルの民の救いの為なら自分は呪われた者となっても良いと言う程の切なる願いを持つパウロが、どうして彼等が救いに導かれないかという理由を説こうとしています。

 その第一は、正しい知識に基づいていないからだと言います。極めて熱心ではあるけれども、かつて自分がそうであったように、神に義とされる道を信仰によらず行いにあるかのように考えていたところにあると指摘します。救いが行いによってもたらされるという考え方は、律法を授けられたイスラエルの民だけではありません。しかし人は、神の前に完全に破産者、失格者である事を証明したのは、彼等イスラエル自身でした。神は、誰でもが救いをいただく事ができるように、信じて受け取る方法をもって救いを提供して下さったのです。自力で救いを得ようとする道ではなく、神の提供された赦しの道を信じて歩むという最も簡単な方法です。

 それは、ただ心で信じて口で告白するだけです。
 人は、天国への壁を懸命によじ登る必要はないのです。神は創造の始めよりあらゆる恵みを人に賜ろうと愛を示して下さいました。ただ罪と死だけは、そのまま赦すわけには、神の聖なるご性質上できなかったのです。心で信じて口で告白する。メシヤなるキリストのみわざへの信仰が必要であり、それこそが誰でもが救いをいただける方法です。これがユダヤ人には躓きでした。


<聖書のことば>
兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。
ローマ人への手紙 10章1節






「躓きの石」
 ローマ人への手紙9章30~33節

2010年9月5日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 躓きという言葉は、ワナをかける時の道具の意味だそうですが、障害物にぶつかってしまうことを意味します。イスラエル民族が、神の特別な選びと使命をいただきつつも、メシヤなるキリストに躓いたのは、何故でしょうか。

 第一に、行いによって神の前に義とされるかのように考え、キリストによる救いの完成をただ信じるだけで受けられる事を理解しなかったからです。

 第二に、メシヤは、ダビデの再来と考え、国を復興する大いなる力を持った王こそが救世主と期待した事です。イエスは、貧しく弱々しく見え、見ばえのしない方でした。(イザヤ53:2)

 第三に、イエスは、当時の民達が考えた罪人達と交わり、食事を共にし、異邦人を助け、彼等の生活習慣を犯す方でした。

 第四に、イエスは、ご自分を父と同一と語り、自らを神とする、神を冒涜する者と考えました。(ヨハネ8:58) 選民イスラエルにとって、これらは我慢できない、躓きの石であったのです。

 今、私達はどうでしょうか。
 イエス・キリスト、メシヤなるお方をどのように考えているでしょうか。超自然的な誕生、超自然的な奇跡、超自然的な復活、このお方の生涯とその教えは、躓きとなっていないでしょうか。主は、「わたしに躓かない者は、幸いだ。」(マタイ11:6)と言われました。この方は失望させません。


<聖書のことば>
何故でしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまづきの石につまずいたのです。
ローマ人への手紙 9章32節






「あわれみの器として」
 ローマ人への手紙9章19~29節

2010年8月29日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 神が全てにご計画を持たれ選びを実行されるとしたら、人には責任がないのではないかという反論に対する解答です。

 第一に、神の選びは、神のあわれみに基づくものです。(22)
 神のあわれみの極みは、キリストの十字架に示された愛で、滅ぶべき人間をなんとか救おうとされ、ご自身が罪の刑罰を受けて赦しの道を開かれた所に集約されます。神のご計画は、人を滅ぼす事ではなく救おうとする最善の神のあわれみを前提とするものです。ですから私達は、当然失われ滅びても構わなかった怒りをこうむる器であった者でしたが、あわれみのゆえに救いを賜わった者であることを忘れてはなりません。

 第二に神の選びは創造主としての絶対的主権に基づくものです。(20~21)
 陶器師は、一つの粘土のかたまりから自由に器を形造ります。それは全く陶器師の手の中に委ねられたものであり、器がどうしてこんなものにつくったのだと文句を言うことはできません。造りあげ、又壊すのも陶器師なる神の意のままです。人は、このように神のみ手の内にあるものだという事を認め、最善のあわれみに満ちたお方のなされる事の全てを受け入れる信頼を身につける時、ヨブのように「主は与え、主は取られる、主の御名はほむべきかな」「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」(ヨブ2:10)と言える者になれるのです。


<聖書のことば>
神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
ローマ人への手紙 9章24節






「神は、あわれむものをあわれむ」
 ローマ人への手紙9章6~18節

2010年8月22日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 同胞イスラエルの為に深い真剣な愛を示したパウロは、イスラエル民族の選びについて語ります。

 先ず、神はアブラハムを選ばれました。(創世記12:1~)
 イスラエルは、アブラハムから始まる子孫です。アブラハムの召命に際して神は、三つの契約をします。一つはアブラハムの名を大いなるものとする。第二はアブラハムの子孫を祝福する。第三にその民を通して全世界を祝福するとの約束でした。確かに同じイスラエルの民が、そこにお生まれになったメシヤを十字架につける大罪を犯したわけですが、アブラハムの信仰を継承する信仰の民がいなくなったわけではありません。その信仰は、イエスを主と信じる異邦の民にも受けつがれ、神の選びが無効になったわけでも、変更されたわけでもないのです。イスラエルの民の不信仰がメシヤを十字架にかけて殺した事も、神のご計画の中にあったからこそ、人類に救いがもたらされたわけですから、神の選びとご計画は、人の思いを越えた絶対的なものだという事がわかります。

 そして、この神の絶対的な主権にもとづく選びこそ、神の愛とあわれみにもとづくものであることを知る時、私達の生涯に起るあらゆる事を感謝をもって受け入れる、より高度な信仰者として起つことができるわけです。まさしく全ての事は、神のみ手の内にあります。


<聖書のことば>
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
ローマ人への手紙 9章16節






「私には、大きな悲しみがある」
 ローマ人への手紙9章1~5節

2010年8月15日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 9章から11章までは、挿入された文章のような印象を与え、8章の終りから12章へ移っても不自然ではないようにも思えます。しかしパウロにとってたとえ異邦人への使徒として召された者といえども同胞イスラエルの民の救いは、重大な関心事でした。何故なら彼こそが生粋のユダヤ人であり、誰よりも民に与えられた律法の遵守者であったからです。同時に今は異邦人に福音を伝える、ユダヤ人にとっては裏切り者、背神者そしていのちをねらわれる立場にあって、同胞のうらみ憎しみを買う立場に立たされていたからです。ですからパウロは、私には大きな悲しみがあると言います。

 その悲しみとは何なのでしょうか。そこから何を学ぶべきでしょうか。

 第一に、パウロの真実な悲しみと苦しみを学ばねばなりません。
 選民イスラエルが長い間神のご計画の中におかれつつも、その実現に至った今、彼等は、イエスをキリストと認めることができず、依然として選民意識に固執して、かつてのパウロのようにメシヤ迫害者となっている事、キリストこそいのちとほろびの分れ道となるお方である事を思う時、彼の心はたえまのない、深い悲しみに襲われずにはいられないのです。

 第二に、私達もこの国の為、自分の周囲の魂の為に悲しみと苦しみを覚える必要があります。それは永遠の滅びに行ってほしくない、救われてほしい、信じてほしいという願いに含まれる悲しみや苦しみです。


<聖書のことば>
私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
ローマ人への手紙 9章2節






「圧倒的な勝利者」
 ローマ人への手紙8章35~39節

2010年8月8日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 とうとう感謝と賛美の大爆発をもって、前半の教えの部分が終了します。キリストによる救いの素晴らしさを、どんな言葉をもってしても表現できないでいるパウロの気持が、この「勝ち得て余りある」(文)ということばの中にあらわされています。

 先ず、パウロの勝利の確信がここには示されています。(38)
 生死も、霊も、この世の力も、時も又天も地も、どんな被造物もキリストの愛から引き離すことはできない、先の地上の患難(35)だけでなく、あらゆるものがどんなに信じる者へのキリストの愛から引き離そうとしても、引き離せないと確信するその確信は、パウロが復活のキリストに会い、見た経験が土台となっていることは確かでしょう。(使徒22:14)
 地上の生涯には、苦しみはある。しかし神の愛とキリストの苦しみを通してなされた人への救いの福音は、信じる者に勇気と力、希望を与えるのに十分です。いかなる時にもキリストを見続けるところに、勝利の秘訣があります。

 その勝利は、圧倒的な勝利です。(37)
 罪と死からの解放、み国に入る資格、この世のいかなるものにも負けない勝利の力は、全てイエス・キリストから注がれます。その勝利こそクリスチャンにゆとりと確信、希望と平安をもたらすものです。


<聖書のことば>
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
ローマ人への手紙 8章37節






「キリストの愛から離すものはない」
 ローマ人への手紙8章33~36節

2010年8月1日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 パウロはこの手紙の結論として、大いなる福音を通して神は救いに選び、赦し義とした者を罪に定めるものはいないだけでなく、信じる者の必要を満たして下さる。更には、神の愛から引き離すものは何もないと、キリストにある勝利を高々とほめたたえます。

 まず、キリストを信じる者を誰も断罪することはできないことを知りましょう。(33)
 神が義と認めて下さったという事は、最高の審判者であるお方が罪なしと宣言して下さったわけですから、たとえ赦された者が失敗したからといって取り消されることはないし、自分自身でもその罪の弱さの故に、救われていないのではないか、聖徒としての資格がないのではないかと、自分を罪に定め、訴える事があってはならないのです。イエスを主と告白したのは、自分の力ではなく神の霊のお働きです。新生は一度きりの経験であり、たとえサタンの惑わしの中でその確信が薄れようとも、キリストの約束と御霊の証印は消すことはできないのです。

 更に、キリストの愛からどんな事であっても離すものはないことを覚えましょう。
 これは、キリストの愛に支配されていることであり、逃れる事はできません。私の愛が冷えることがあっても主の愛は冷えることはありません。


<聖書のことば>
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
ローマ人への手紙 8章35節






「神が味方であるなら」
 ローマ人への手紙8章31~34節

2010年7月25日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 この箇所は、1章から8章までの結論であると共にロマ書全体の結論でもあります。召した者を義とし、義とした者をさらに栄光にあずからせて下さった神は、あらかじめ計画された上での救いであった事を知る時、それ程までに愛されている事の幸いと、救いの尊さとを思い知らされます。

 ここには6つの疑問がのべられていますが今日はその内の3つを学びましょう。第一はどう言えるでしょうか、これは次の「誰が敵対できるでしょうか」と関連してはいますが、これまでの全ての事から「次のように言えるのです」という事です。この疑問形は反語であって強い肯定を意味している事は明らかです。誰が敵対できるでしょうか、決して敵対できません、何故なら神が味方だからです。もし敵対するなら神ご自身が相手になるという事に他なりません。キリストのものとされた人は、神が常に味方となって下さるとは、何と心強い事ではありませんか。これ程頼りになる味方はありません。旧約の時代には、神が共にいて下さらなければ常に敗北でした。神が共にいて下さったからこそ勝利と繁栄がもたらされたのです。

 今、私達は世の終わりまで主イエスが共にいて下さるとの約束の中で、常に勝利の内を歩ませていただいている事を忘れてはなりません。御子をもおしまずに与えて下さったお方が、必要であれば万物をもお与え下さらない事はない、必ずお与え下さるとの約束は、なんと心強い約束でしょう。


<聖書のことば>
では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
ローマ人への手紙 8章31節






「あらかじめ定められた人達」
 ローマ人への手紙8章29~30節

2010年7月18日第3聖日牧師:山宮利忠

 全ての事を益として下さるという驚くべき約束の根拠は、救いにあると示されていますが、その救いに関してもあらかじめ計画され、定められていたという人の知識をはるかに越えた神のみこころが教えられています。ここには三度あらかじめ定められていたと記されていますから、そこから学ぶことにしましょう。

第一に、神は、あらかじめ知っている人を救いに導かれました。
この知っているという言葉は、人格的な結びつきを示し、神のみこころの中に救われるように定められ、選び分けられたという意味です。この選びは天地創造の初めから(エペソ1:3)と言われている事は、何と驚くべきことではありませんか。

第二に、救われた者を神は、御子と同じ姿にあらかじめ定められました。
罪が赦されることは第一歩であって、クリスチャン生涯はキリストのかたちを宿すことが、この地上での大切な在り方なのです。失った神のかたちが取り戻される為に、神はご聖霊を通してうめきをもって働いて下さいます。

第三に、神は、救われた者を栄光に導くためにあらかじめ定められました。
滅びからいのちへ召し出し、召した者を義とし、義とした者を栄光に導くことをあらかじめ定められた事を知る時、神の大いなるご計画と救われた事の意味深さに感動を覚えます。あなたも神の選びの内にあった事は確かです。


<聖書のことば>
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの長子となられるためです。
ローマ人への手紙 8章29節






「全てを益にして下さる神」
 ローマ人への手紙8章28節

2010年7月11日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 この一節だけで、十分学ぶ内容のあるおことばです。ご聖霊のとりなしだけでなく、キリストを信じて救われた者の為に、神はどんな事をも益に変えて下さるという素晴らしい約束こそが、クリスチャンを感謝と喜びに満たす原因です。

 第一に、私たちは、知っています。
 これは、クリスチャンであれば誰でも知っているという事です。しかも単なる知識としてではなく、体験的に判っているという意味です。私達は知識としては「あ、そうなんだ」と知っていても、自分にあてはめて判っているかと問われると案外判っていないのかもしれません。

 第二に、全てのことを働かせて益として下さる。
 全能の支配者なる神は、クリスチャンの生活に起こる全ての事をプラスに変えて下さるというのです。決して悪いようにはしない、最後には良かったと言えるようにして下さるのです。全てのこととは、何と驚くべきことではありませんか。

 第三に、神を愛する人、召された人の為にという条件がついています。
 神に背を向け、キリストを信じていない人には、神の怒りがその罪の故にとどまりますが、救われた人には特別な愛顧がはらわれるのは当然です。すなわち・・・というおことばは、私達にとって慰めではありませんか。


<聖書のことば>
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
ローマ人への手紙 8章28節






「深いうめきによって」
 ローマ人への手紙8章26~27節

2010年7月4日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 キリストを信じた者をこの地上に於いて最後まで助けようと手をのばして下さるお方は、聖霊なるお方だと教えられています。しかも信じる者の内にあって、言葉に言い表わすの出来ない程の切実な思いを持って、助けようとして下さっていると約束されています。クリスチャン生涯は、キリストの大いなる痛みと犠牲によって救われただけでなく、神の聖い霊によって助けられつつ歩む生涯なのです。

 まず、私達は弱い者です。神は私達がどんなに弱い者であるかをご存知なのです。勿論弱いままでいて良いわけがありません。あらゆる手段を用いて深いうめきをもって助けようとして下さる聖霊のお働きを認め、感謝しなければなりません。

 私達は、どのように祈ったらよいか判らない者です。祈ったとしても、神のみこころにかなった祈りをする事ができません。神のみこころは先ず、キリストを救主と信じて罪赦されることではありませんか。祈りや願いは、神のみ傍近くに行かれないと聞かれません。距離の問題ではなく心の問題です。心は遠くあって、願いだけは聞いて下さいというのは、余りにも身勝手な事ではありませんか。聖霊はそんな私であるにもかかわらず、深いうめきをもって、みこころにかなった祈りをする事ができるように、とりなしていて下さるのです。なんと幸いな事でしょうか。


<聖書のことば>
み霊も同じようにして、弱い私たちを助けて下さいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって私たちのためにとりなしてくださいます。
ローマ人への手紙 8章26節






「肉に属する人と霊に属する人」
 コリント人への手紙第一3章1~9節

2010年6月27日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 聖書は、人を三つのタイプに分けて教えています。神の前に赦されている人と赦されていない人ですが、赦されている人を更に二つの種類に分け、一方を肉に属する人、他方を霊に属する人と説明されています。

 生まれながらの人、未だキリストを救主と信じていず、己がままなる道を歩む人は肉の人であり、自分の罪を認めキリストの十字架の処罰が自分の罪の身代りの処罰であった事を信じた人は、神との交わりが回復した霊の人なのですが、霊の人となったクリスチャンにも二つのタイプがあり、一つは、救われて神の前に義とされ、聖霊の満たしの中で感謝と喜びをもって、キリストの心を持って日々生活している人と、もう一つは、救われたクリスチャンであっても、キリストの支配に服従せず、生れつきのままの性質がきよめられず処理されずに表に出てくる人のタイプです。

 この後者のタイプの人には主は常に内に働いて、その性質を改めさせようと聖書のことばや、教会生活、様々な出来事を通して教えようとされます。時に困難や痛みを通して自我を砕こうとされますので、常に平安や喜びからは遠い生活をしなければなりません。

 一方霊に属する人に主は、その人を通して働いて下さいます。天の恵み、キリストの愛、聖書のすばらしさを霊の人を通して明らかにして下さるのです。初代教会の信者が、クリスチャン(キリストに属する者)と言われたのは、この霊に属する人達のことであったのでしょう。


<聖書のことば>
さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって御霊(みたま)に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
コリント人への手紙第一 3章1節






【特別伝道集会】
「聖書に見る生き方」


2010年6月20日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 目に見えるものは、一時的です。
 目に見える全てのものは、やがてなくなり消えてゆきます。私達の生活の中のあらゆるものは、使用できなくなり、古び、捨てられてゆく定めにありこの自然さえ、やがてなくなると聖書は教えています(第2ペテロ3:10) 。エコの時代に再生がもとめられていますが、再生したものもやがてはなくなってゆくものにすぎないのです。

 しかし、目に見えないものは、いつまでも続きます。
 その中でもいつまでも残るものとして、信仰と希望と愛はいつまでも残ると教えられています(第1コリント13:13)。
 信仰とは目に見えない全てのものの創造者、愛のあらわれとしてのイエス・キリスト(救主)への信頼です。神との信頼関係は永遠に続くものです。
 希望は実現しなければ失望に終ります。しかし神の約束は失望に終るものではなく確実に実現します。キリストにある希望は信じる者の内に必ず実現するものであり、それは永遠です。

 愛はこれらの中で最も大いなるものであって、神と人との愛の関係は信頼と希望を包む全てのものの根源です。希望も信仰も愛も、「これです」とその実体を示すことのできない目にみえないものではありませんか。それらの全ては、真の生ける神から出ているものです。


<聖書のことば>
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
コリント人への第二の手紙 4章18節






「この望みによって、」
 ローマ人への手紙8章18~25節

2010年6月13日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 キリストの救いは、神との交わりの回復をもたらしますが、それは同時に信じる者の将来に希望が与えられた事に他なりません。神の子とされ、み国の相続権をいただいたクリスチャン達は、この世が与えることのできない平安を持って人生の最後を迎える事ができるのです。

 しかし、今のこの時は苦難の時です。主が苦難とそれに続く栄光を身をもって示して下さったように、肉と世とそれを支配するサタンとの闘いを日々経験しつつ、時に理由のない苦しみや、信仰をもっているが故に受ける数々の苦しみに遭遇します。しかし、この苦しみはただ苦しみだけで終るのではなく、栄えに満ちた望みをもって、いかなる患難にも打ち勝つ力が与えられている者が、勝利のキリストを信じる聖徒達です。

 昔の聖徒達も、この望みによって困難を克服しました。アブラハムは、本当の故郷、天のみ国をめざしてこの世では天幕生活を送り、モーセは、エジプトの富と権力を捨てて、神の民と共に苦しむ生涯を送ったのです。それは苦しみのむこうに、神のみ国に入る望みと神の約束による永遠のみ国の実現を信じていたからです。それは又、自然そのものも創造のはじめに戻る切なるうめきをもって待ち望んでいます。なんと壮大な救いでありましょうか。

 イエス・キリストが死をもって、私達を神のみもとへ返して下さったという事が、いかに大いなる事であるかを、しっかりかみしめたいものです。


<聖書のことば>
私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
ローマ人への手紙 8章24節





「み国の相続人」
 ローマ人への手紙8章17~18節

2010年6月6日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 神の子とされたら当然のごとく、神の家族であり、又神の国のあらゆるものを相続する祝福された立場に置かれます。

第一に、キリストと同様栄光の体に変えられます。(第1コリント15:52)
 これを栄化と言います。地上のクリスチャンが聖化の道に進み、やがてキリスト再臨にあたっては、栄光の体によみがえり救いの完成にあずかるわけです。ここには肉の闘いや不完全はありません。復活されたキリストと同じ栄化された体に変えられ、永遠に神と共に住むことになります。

第二に、天のみ国に入る資格が与えられます。(第1ペテロ1:4)
 天のみ国に入る資格は、唯一罪を赦された者しか入れません。その額にキリストの印をつけている者しかみ国に入れないのです。勿論罪を犯しつづける者は、救いをいただいていないのですから天国へは入れないわけですが、十字架につけられた強盗のように、その死の真際に自らの罪を告白し、キリストを信じることがあれば、主と共にパラダイス(天のみ国)へはいることができ、み国の祝福にあずかることができます。しかし報いは異なるでしょう。

第三に、キリストと共に苦しみにもあずかります。(8:18)
 この地上にある間は、キリストを信じる故に、又信仰を守り通すが故に受ける苦しみがあります。しかしやがて受ける大いなる報いと栄光に比較するなら、その苦しみは比較にならず、かつキリストの苦しみにあずかる幸いをも得ます。


<聖書のことば>
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
ローマ人への手紙 8章18節





「神の子とされて」
 ローマ人への手紙8章14~15節

2010年5月30日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 生まれつきのままなる人(肉)は、神の標準(律法)に達することができないばかりでなく、その生活と行末は滅び(死)であるが、霊(キリスト)はいのちを与え、神の標準を満たすことになると共に、その立場は神の子(養子)となると教えられています。

 先ず生まれながらの人の立場を見てみましょう。
第一に、神から迷い出した迷子です(第1ペテロ2:25)。出て来たところも、行き先も判らない、不安と焦りの中にある迷子です。
第二に、不従順な神の怒りを受けなければならない子です(エペソ2:3)。
第三に、滅びの子です(ヨハネ17:12)。

 悪しき霊に支配された混乱と闇と苦しみの中に置かれ、やがて永遠の滅びに定められた者です。しかし、神はイエス・キリストによって、信じて従う者に、神の子となる特権をお与え下さいました(ヨハネ1:11~13)。その特徴は何でしょうか。
第一に、その生涯は、神に喜ばれようとする生涯です(第2コリント5:9)。
第二に、自分の弱さと限界を知る者です(第1テモテ1:15)。
第三に、正しさと清さを求める生き方です(第1テサロニケ4:7)。

神の子とされた者は、主と共に永遠の御国へ入る資格と、子としての成長、最善の愛の訓練、日々の助けを受けることができます。何と幸いな事でしょう


<聖書のことば>
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
ローマ人への手紙 8章14節





「嵐を静めるキリスト」
 マルコの福音書4章35~41節

2010年5月23日 第4聖日 伝道師 福田敬三

 マルコ福音書4章全体を眺めてみると、この嵐の出来事(4:35-41)は、一連の例えによる教えの後であることに気付きます。教えられたことを生活の中で実践して初めて、理解へと至るものでしょう。信仰が確かにされるには、時に火の中をくぐるような試練を経験しなければならないことがあります。弟子たちにとって、それは嵐でした。

 「湖の向こう岸に渡ろう」(35)とイエスが言われ、湖を横切ろうと弟子たちも船に乗っていました。そして、今までにない嵐を経験します。

 危険な状況下にある弟子たちは「向こう岸に渡る」と言われた、必ず成就する言葉をどれ程覚えていたでしょうか。どれ程、勇気と力を受けたでしょうか。答えは否でした。しかし、失敗は成功へと至る過程です。

 第一に覚えるべきことは、「向こう岸に渡る」と約束されたお方は天地の創造者であり、そのお方の言葉は必ずなることを忘れてはなりません。主のお言葉を堅く信じ、激しい環境に心を奪われない事です。

 第二に、嵐を通して、その苦しみの中からキリストへの信仰を見出します。嵐のない人生はなく嵐はつきものですが、嵐が静められる経験を通し、「いったいこの方はどういう方なのか」(41)と真に恐るべき方を見出すのです。

 第三に、キリストへのふさわしい恐れをおぼえる時、今まで翻弄されていた、人生にまま起こる嵐への恐れから解放されます。共に歩んでくださるキリストと共に生きる幸いを覚えることができます。


<聖書のことば>
イエスは、起き上がって、風をしかりつけ、湖に、「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
マルコの福音書 4章39節





「霊によって生きよ」
 ローマ人への手紙8章12~13節

2010年5月16日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 イエス・キリストによって生かされた信じる者の霊は、生れつきの肉の人を生かします。生ける神との間に和解を成立させて下さったキリストの霊は信じる者の内にあって、神の求めの標準に達しない私達の弱さを助けて成長させて下さるのです。従って生れつきの人の意識を殺し、新しくいただいた神の聖い霊によって歩むなら、人は内より潔められ変えられてゆくのです。
 ここでは、たとえキリストを信じて神の前に義とされた人といえども、未だ肉体を持っている間は、生れつき持ってきた神から離れている者の弱さと常に闘う必要があること、肉に従えばその行末は死だが、霊に従えば生きるので、霊によって生きよと勧めています。

 霊によって生きるとは、どのようなことでしょうか。

第一に、み霊によって生きるとは、キリストによって生きることです。
 キリストによって赦され、キリストによって義とされたのですから、キリストを土台として、キリストをめあてとして生きることです。

第二に、み霊によって生きるとは、体(肉)の行いを殺すことです。
 肉とは既に見てきたように、生まれつきのままなる私です。殺す事は自分の力ではできません。内に働く聖霊のお働きによるので、肉の働く機会を与えないようにすることです。与えてしまったら悔い改めることです。

第三に、み霊によって生きるとは、主のみ傍近く歩むことです。


<聖書のことば>
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
ローマ人への手紙 8章12節





「母を託した主」
 ヨハネの福音書19章23~27節

2010年5月9日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 今日は母の日、教会から始まった母への感謝は、神の命に添うものでありキリストご自身もその模範を残されました。

 主は、十字架の死の直前、母マリヤを愛する弟子ヨハネに託されました。この時の主の状態は、極度の苦しみの中にあり、肉体的にも精神的にも、又霊的にも他を思いやる状態ではなかったでありましょう。しかし主は母マリヤの心の痛みとこれからの生活の事を心配されて、ヨハネに「そこにあなたの母がいます」と、母を託されたのです。母には「そこに、あなたの息子がいます。」と、新しい息子を指し示されます。

 親をかえりみない者は、不信者よりも悪い(第1テモテ5:8)と教えられているように、聖書は神の命令として家族を大切にするように、特に両親を敬うようにと命令されています。主は良い優しい子として、母マリヤをヨハネに託したのです。今私達はどうでしょうか。年老いていく親に対してつらくあたってはいないでしょうか。親の優しさをわずらわしく思ってはいないでしょうか。

 ヨハネは、キリストから命じられた親としてマリヤを迎えます。これは新しい信仰者としての親に対する姿勢を示唆するものです。単なる肉親としてではなく、神の家族としての親、神が与えた親として姿勢が子供には必要です。親の不足も、余分も全て含めて主が与えた親として親を敬いましょう。


<聖書のことば>
それからその弟子に、「そこにあなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
ヨハネの福音書 19章27節 





「キリストがお住みになる体」
 ローマ人への手紙8章9~11節

2010年5月2日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 生まれつきのままなる人は、神に従うことができず、従いたいとも思わないのでしょうが、このままではいけないと気付いた人が神の前に悔い改めキリストを信じた時、その人の内にキリストの聖なる霊が宿り、霊を生かして下さるという事がしっかりと教えられています。

 クリスチャンとは、イエス・キリストが内に住んでいて下さる者を言います。そしてこのキリストご自身が、信じた者の内に働いて、肉なる人間を内側からどんどん変えて下さる事によって、今迄どんなに頑張っても変えることができなかった自分の弱さを克服し、闘いはあっても肉の弱さに勝利を得ることができるようになります。救われるという事は、人が神の前に罪赦され義とされるという立場の変化と共に、信じる者の内にキリストの霊が住まわれ、たとえ人としての器が土の器であっても、内側から神の子として次第にキリストの性質に似た者に変えられていく事が勝利の生活の原因です。「御霊(聖霊ともキリストの霊とも言われる)」に導かれる者は、誰でも神の子どもです。」(ローマ 8:14)

 パウロは、「キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)と語り、キリスト教徒としての力が内に住むキリストご自身である事を、いたるところで証ししています。クリスチャンが大きく変えられ、好ましい人格を築く最大の理由は、内に働くキリストの霊、いのちの力です。


<聖書のことば>
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
ローマ人への手紙 8章10節





「肉と霊のいのち」
 ローマ人への手紙8章5~8節

2010年4月25日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 神から離れて滅びに向う私を元に戻そうとされる神の愛は、御子イエス・キリストの身代りの刑罰によって赦され、義とされて神の国に入る資格をいただけたのですが、肉体をもってこの世に生きている間は、肉と霊の闘いがある事をパウロも、又私達も経験するものです。そこでもう一度キリストを信じた者の立場を確認しましょう。

 肉とは何でしょうか。
 聖書の示す肉とは、神に反逆したアダムの末、生れつきのままなる人の事であり、罪と死に支配されている、魂にいのちを持つ事のない霊的には死んだ人の事を指しています。

 霊とは何でしょうか。
 霊とは人の最も中心にあるもので、神との交流を司どるところです。これはアダムの反逆により絶ち切られ、全ての人が死せる者となっています。従ってこのいのちを持たない限り、人は神との交わりも、天のみ国にも行く事はできません。そして、この肉の弱さや性質は人を苦しめ、その先は滅びなのです。

 イエス・キリストを救主と信じた者は、霊のいのちをいただく事ができ、肉の中に霊のいのちをいただいた事になります。ですから長い間神なき生き方をして身についた考え方や習慣は、きよめられる必要があるのです。ここにクリスチャン生活、教会生活の重要性があります。


<聖書のことば>
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
ローマ人への手紙 8章6節





「断じて罪に定められません」
 ローマ人への手紙8章1~4節

2010年4月18日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 「魂の闘い」は、キリストを信じて救われても尚天に召されるまで続くとしても、それは決して望みのない闘いではなく、救われた者に与えられるいのちの力により、又神の約束と愛によて、その痛みや苦しみをはるかに越えた勝利によってみじめな闇の弱さにうち勝つことができると、力強く記しています。それがパウロの9つの文字に秘められた感謝でした。(7:25)

 まず、こういうわけで、今はキリスト・イエスにある者は罪に定められないと断言します。

 ここには、これまで述べられてきた、神から離れて罪と死の支配の中に置かれていた者が、全く神の一方的なあわれみによってキリストの身代りの刑罰による赦しの福音が改めて記され、キリストにある者が神の審きを決して受けない事が「罪に定められることは決してありません」という力強いことばで語られるわけです。

 その理由としては、いのちのみたまの原理が、罪と死の原理から私達を解放したからです。

 キリストが信じる者に与えて下さる霊のいのちは、それまで人を支配していた罪と死を完全に支配する力を持つものです。そのいのちを内にいただいたキリスト教徒は、肉の中に弱さや汚れを持っていても、キリストへの信仰の故に勝利の力を持って、次第に肉の弱さに勝つことができます。


<聖書のことば>
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
ローマ人への手紙 8章1節




「望みある闘い」
 ローマ人への手紙7章14~25節

2010年4月11日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 パウロは、わたくしと一人称で自分の内的な闘いをあからさまに書き記します。信仰をもって救われる以前の事か、一般的な事かとあまりにも赤裸裸な告白の故に戸惑いますが、まさしく勇々しく福音を伝える勇者の今の姿と受けとるべきでしょう。

 まず、パウロの真剣な叫びから学びましょう。

 たとえ明確な救いの体験をしたクリスチャンであっても、又何十年も信仰生活を送り、すばらしい信仰者であったとしても、したいと思う事ができずしたくない事をしてしまう弱さと愚かさとの闘いがあることを、この叫びから教えられます。それは又自分自身に聞いてみることによっても判ることですが、この闘いは、天に召されるまで続く深刻な闘いなのです。

 キリストを救主として信じれば、苦しみも闘いもないと考えたら大きな誤りです。キリストに従うが故に受ける闘いもあり(第2テモテ3:12)この世と世の支配者サタンとの闘いもあります。それらは守るべきものがあるからこそ生れる闘いでもありますが、最も大きな闘いは、このパウロの叫びにある自分自身との闘いです。偽りの自分ではなく真の自分を浮き彫りにされた自分が、いかに神のみこころにかなわない者であるかを知る時、自分のみじめさを知って心のうめきと叫びをあげるのです。しかし救主はそんな私をそっくりそのまま受け入れ愛して下さいました。この闘いには望みがあります。


<聖書のことば>
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。
ローマ人への手紙 7章24~25節a




「栄光から栄光へ」
 コリント人への手紙第二3章17~18節

2010年4月4日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 栄光とは、重いとか力ある地位をあらわすことばから、神の尊厳、完全性をあらわす意味で用いられ、キリストは見えない神の栄光のあらわれといわれ(へブル1:3)その最高の栄光が力強くあらわされたのは、十字架と復活であると教えられています。(ピリピ2:9-11)
 イエス・キリストを救い主と信じる者は、この栄光にあずかる者として栄光の内を歩むことができます。
  1. 栄光のキリストと共に歩む幸い
    世の光として来られたイエス・キリストには、陰とか暗闇とかはありません。キリストと共に歩む者は光の内を歩む者です。身近にある者は最もそのお方の感化を受けるのです。主と交われば主と同じ姿に変えられます。

  2. 栄光の道を歩む幸い
    贖われた者の務めは、その体をもって神の栄光を現すことであり、食べるにも飲むにも神の栄光をあらわすことです。この光の道は決して悪しき道を歩むことにはなりません。

  3. 栄光のみ国をめざして歩む幸い
    栄光から栄光へ歩む者は、永遠のみ国、栄光のみ国をめざして歩む者です。今のこの時のしばらくの患難は、やがて受ける栄光と比べたら言うに足りない、大いなる栄光の報いを受けるのです。

<聖書のことば>
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
コリント人への手紙第二 4章17節




「私を生かさない律法(いましめ)
 ローマ人への手紙7章7~13節

2010年3月28日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 パウロの驚くべき内面の告白の始まりです。それまで私たちと語っていた彼は、ここから私と言います。その主旨は、長年落度なく守ってきた神のいましめが自分を死に至らしめる救いのない道であることに気付いたという事です。しかし神の律法が悪いものでは絶対ないのです。

 律法は、第1に聖なるもので(12)、それは神のご性質のあらわれであり人のあるべき姿を示すものです。十戒の一つ一つは、今も私達に必要な事ではありませんか。第2に、律法は正しいものです。今から三千年前に定められたいましめが、現代ますます必要なもので、それは良いものなのです。

 このすばらしい神のいましめがどうして私を殺すのでしょうか。それは神から離れて、神を神と思わない罪の闇の中にいるが故に、神のいましめが私を明るく照らし、そこに表れるのは、みにくい、あわれな、みすぼらしい私だからです。いましめを知らずに生きていた時は、自信満々、生き生きとしているように見えたのでしょうが、実はその内面はみすぼらしい自分であることを、神のいましめは浮きぼりにするのです。

 しかし、神のいましめは、そんなあわれな自分を教えるだけではありません。ありのままの愚かで弱い、どうにもならない私を愛してやまない神の愛へと導きます。自信満々のあなたに救いは不要でしょう。しかし、律法はそんなあなたを破壊します。


<聖書のことば>
私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
ローマ人への手紙 7章9節




「喜びと悲しみの涙」
 エズラ記3章8~13節

2010年3月21日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 70年間のバビロニヤ捕囚から帰還したイスラエルの民が最初に手をつけた事は、神殿の再建でした。時はBC535年の2月、彼等は喜びと深い感慨をもって破壊された神の家再建の礎をすえたのです。彼等はどのようにして神殿建築にとりかかったのでしょうか。

 第一に、民の指導者達が自ら進んでささげものをもって建築に着手しました(2:68)。その額は莫大なものでした。神の働きは、自ら進んでなされる事をもって最善とされます。それは信仰上当然の事ではありますが、強制されてなされるものを主はお喜びにはなりません。又先ず神を第一にする具体的なあらわれとして神殿建築に着手した事も大切な事です。

 第二に、一致して工事にとりかかりました。(3:9)
 一致のあるところに力は増し加わり、主の祝福もそこに注がれます。もし教会全体が一致して事に当たることができれば、主は大いなることをして下さるでしょう。体の働きは驚くべき一致があってこそ健康な働きができるわけです。体の一部が勝手に動きはじめる時、又は動かなくなってしまった時、全体の働きは大きく妨げられてしまいます。

 第三に、喜びをもって主をほめたたえました(3:11-13)。喜びは賛美としてささげられ、年老いた者達は大声をあげて泣きます。再建の喜びの涙か、又は、ソロモン神殿の偉大さとの比較の涙か、共にあふれて喜んだのです。

 私達も、労苦の後の喜びと感動の涙を流したいものです。


<聖書のことば>
そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。
エズラ記 3章13節




「しかし、今は・・・」
 ローマ人への手紙7章5~6節

2010年3月14日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 神のために実を結ぶ(4)生活に入られたクリスチャンの特徴は、変化です。
かつては罪の中に死に向かっていた者が、キリスト(救主)を信じることによって、罪の赦しと霊のいのちをいただき、生きるにも死ぬにも希望をもって生涯を送ることができるようにされる事は、日々の生活の仕方だけでなく、人柄、品格にも変化がおこり、キリストの救いの確かさがあらわされることになります。

 キリストを信じて救われる以前を肉にあった時(5)と表現されています。
その時の特徴は、罪の欲情でした。欲望は神がお与えになった人間の大切な要素で、これがなければ退廃と衰退の道をたどることになるでしょう。しかし、人が神から離れた時に、この欲望に歯止めが効かなくなりました。罪は人格を持つように人を支配し、とめどもなく欲望を満たそうとさせてしまうのです。限りない欲望の連鎖、これこそ生まれながらの人の生涯でした。

 しかし今は、キリストによってこの力から解放されました。(6)
ここに驚くべき変化がもたらされ、解放された真の自由な者とされた救われた人生がもたらされました。キリストにお会いした全ての人々が罪の欲情から解放され、義の実を結ぶ生活へと変えられたあかしを持っています。この変化こそ、キリストの救いの確かさ、復活の生けるメシヤの存在を証明するものですし、クリスチャンの確信と喜びの源なのです。


<聖書のことば>
しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだのです。それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
ローマ人への手紙 7章6節




「神のために実を結ぶ生涯」
 ローマ人への手紙7章1~4節

2010年3月7日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 義認・聖化・栄化という段階を踏んでキリスト者の歩みを示しつつ、律法との係りや選民イスラエルとの係りを寄り道をしながら説明する為に、少々ややこしくなっている書簡ですが5章21節から8章1節への続き具合が自然だという事が読む者にとっては容易に理解できることでしょう。

 7章でとりあげられている事も律法(神のおきて)との関係ですが、夫婦の関係として説明され、キリストのされた事は律法を守ることによってできなかった事をキリストがなしとげて下さった故に、律法は救いの為には不用となり、新しい主人たるキリストに結びつくことによって、義の実を結ぶようにされた事が教えられています。ここでもう一度キリストを信じた時の恵みを、義の実を結ぶことのできる者としてふりかえってみましょう。

 第一に、キリストを信じた人は、永遠のいのちを持つ人です。(6:23)
霊のいのちは、キリストによって与えられ、神のみ国に入る資格です。

 第二に、神との新しい関係に入った人です。(6:18)
決して罪に定められない、新しい主たるキリストのしもべとされた人です。

 第三に、新しい目標に向かって歩み出した人です。(第一ペテロ1:3)
死の向うに、神のみもとへ招かれる希望をもった人です。

 第四に、新しい力をいただいた人です。
義の実を結ぶことのできる、神のみ栄えをあらわせる者とされた人です。


<聖書のことば>
それは、あなたがたが他の人、即ち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
ローマ人への手紙 7章4節b




「聖潔に進みなさい」
 ローマ人への手紙6章19~23節

2010年2月28日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 赦し、永遠の命、神の子とされること等々は、賜として信じる事によって与えられ、ただ信じていただくだけですが、罪から解放された者は、神のご性質に似た者となるために、聖潔に進むよう期待されています。義に向かって解放された者は、はばかる事なく恵みのみ座に近づくことができるわけですから、キリストのご性質をいただいて潔められる事ができます。これを聖化と言います。神のみこころは私達が聖くなることですから(第1テサロニケ4:3)、この体をささげて(ローマ12:1)キリストに似る者になるために献身の生涯を送る事が必要です。献身こそが聖潔に進む手段だという事を覚えて下さい。

 そこで聖潔とは何かを学びましょう。

 第一に、聖潔とは、神のためにとり分けられることです。即ち私達の体を神に喜ばれるようにおささげし、神のみ栄えの為に使うことです。自分の栄光の為に使うなら、その栄華は草の花のようです。それはやがて枯れます。しかし、神の栄光の為になされた事は、天に宝を積むことになり、大きな報いを受けることができます。

 第二に、聖潔とは、キリストの性質に似ることです。
キリストの内にこそ神のご性質が形をとって宿っています(コロサイ2:9)。信じて歩む者はこの実を結び、いよいよ聖潔に進むことができるのです。


<聖書のことば>
あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。
ローマ人への手紙 6章19節b




「生きた供え物として」
 ローマ人への手紙12章1節

2010年2月21日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 私達のからだを義の器としてささげるところに、キリストを信じた者の生涯があり、それこそが聖化の基本です。それは又、このおことばが教えるように献身の道でもあります。世に多くの立派な働きをした人達は、この献身の生涯を送った人達によってなされました。

 全ての人が献身をすべき根拠はどこにあるのでしょうか。
 まず、全てのものは主のものですから、私達のいっさいは主のものです。自分のものと主張できるものは、何一つないという事が聖書の教えです。又クリスチャンは、キリストによって買い戻されたものですから、当然のごとく、この体をもって神の栄光をあらわすべきなのです。(第1コリント6:20)

 では、献身とは、何でしょうか。
 その字のごとく、体をささげることです。即ち私自身をあらゆるものを含めて献げることであり、供え物ですから献げつくしてしまうことを意味します。旧約の時代の供え物の内献身をあらわすものは燔祭(はんさい)でした。これは献げ物を祭壇の上で燃やし尽くすものでした。とり戻せない一度きりのものであるべきでした。アブラハムがその子イサクを献げた事に良くあらわされています。(創世記22章)

 献身の結果は、何でしょうか。
 神は献げられたものを用いて下さいます。献げるものは得るのです。


<聖書のことば>
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
ローマ人への手紙 12章1節b




「新しい主人に仕える」
 ローマ人への手紙6章15~18節

2010年2月14日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 イエス・キリストの力で、罪と死から解放され新しいいのちの内におかれたクリスチャンの生涯は、新たな主人に仕える生涯に入ったわけですから、はっきりと、自分の主人を認識して、このお方に仕えることにより、その生涯を有益な祝福された歩みをする必要があります。

 第一に、クリスチャンは、義の支配に移された者である事を確信しましょう(17~18)。これまで示されてきた通り、罪深い不敬虔な者の行いによらずただ、イエス・キリストの身代りのわざによって神の前に義とされた事を信じることによって、罪と死の支配から義の支配の中へと移され、もはや罪と死は、キリストの側についた者を支配する事はできなくなりました。

 第二に、クリスチャンは、イエスを自分の主とする新しい主人に仕える者であることを確信しましょう。人は何かに仕える者です。これまで悪しき者に仕えてきた私達が、キリストを信じることによって、新たな主人に仕える者となった事をはっきり認識しこのお方に従う事が必要で、実に信仰とは服従が大きな要素である事を知る必要があります。

 第三に、クリスチャンは全く新しい生き方をする者であることを確信しましょう。新しい主人、新しい基準、新しい生活の仕方、新しいめあて、これらを実行する意志と力をも、新しい主人イエス・キリストはお与え下さいます。


<聖書のことば>
罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
ローマ人への手紙 6章18節




「共に集る群としての教会」


2010年2月7日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 キリストを信じた者は、羊にたとえられ、又神の家族として神の家なる教会につらなる者と教えられています。信者は共に集まる羊の習性を持つ者です。現在私達は共に集まる場所として教会堂を持ち、礼拝と宣教の場として必要な物を備えつつあります。この共同の場、共同の財産としての教会堂における生活の心得を身につけて、よりよい環境のもとで教会生活を営む心構えを持つ事にいたしましょう。

 第一に、自分達のものは、自分達で備えて管理します。いっさいのものが共有されていますから、教会の全てのものは誰かが備えてくれたものではなく、自ら備えたものばかりです。大きな犠牲をささげて備えられたものであり、自分のものだから大切に管理される必要があるのです。汚したり、壊したりしたら自ら治さねばなりません。自分の家なのですから。

 第二に、全てのものは、主のものだという心構えが必要です。私達のものでありながらも、教会は主キリストのお体、その頭はキリストです。従って教会にある全てのものは、主のものです。ですから大切にしなければなりません。より良く保たれる事が求められます。

 第三に、共同生活ですからルールを守る事が求められます。愛を持って互いに仕えあい礼を守って迷惑を最小限にし、自らの教会生活に責任を持つことです。人まかせの教会生活になりませんように。


<聖書のことば>
信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
使徒の働き 2章44節




「義の武器として」
 ローマ人への手紙6章12~14節

2010年1月31日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 ローマ人への手紙1章から11章までは教理を、12章から最後までは実践を教えています。教えと実行、これこそキリスト教徒の在るべき姿なのです。
 この箇所も12節からこれまでの教え、即ち罪に死に義に生きた者が、これからどうしたら良いかが教えられています。それは、体を不義の器としてささげないで、義の器としてささげなさいという事です。

 第一に、体を不義の器としてささげない事について(12)。
罪と死の支配からキリストによって解放された者は、その体に染みついた罪の性質をぬぎ捨ててキリストを着るようにと勧められています。特に体と言われている事に注目すべきでしょう。キリストを信じた時に、私達は罪と死の支配から解放され、古い人はキリストとともに十字架につけられてしまいました。そして新しいいのちをいただき新しい歩みを始めたのです。しかし肉体は、新しくなったわけではありません。内にいのちをいただきつつも尚長年の神から離れていた時の肉の弱さがあるのです。ですから、この体を以前と同じように不義の道具として使うことは愚かな事です。

 第二に、義の器として神にささげることについて(13)。
不義の器としてささげない為の方法は、神にこの体をおささげする献身です。私の愛の支配者であり、義の支配者であるキリストに体をおささげして用いていただく事こそ、潔められた器として整えられる道なのです。


<聖書のことば>
また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
ローマ人への手紙 6章13節




「キリストと共に生きる」
 ローマ人への手紙6章6~11節

2010年1月24日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 「知っている」という事は、周知の事実だという事ですが、当然知っている事でも知らない事があるという事でしょう。ここに改めて救われたという事の驚くべき事実が示されていますので学ぶことにしましょう。

 その第一は、古い人がキリストと共に十字架につけられた、という事です。古い人とは、アダム以来の私達、即ち神への反逆により滅びに向かう、罪と死に支配されている私です。その時の状態は罪の奴隷でした(ヨハネ8:34)。そして、その行くつく先は永遠の死でした。

 しかし、その古い人は十字架につけられ死んでしまったことこそ、キリストが私達にして下さった事なのです。この事実をしっかりと知る事が必要です。キリストの十字架は、私の罪を十字架に於いて処分して下さったという事です。ですから古いアダムがもたらし、又私自身の持っていた罪も、そこで滅んでしまったのです。ガラテヤ書2章20節には、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる・・・」と記されています。即ち今やかつて罪の支配の中にあった私が、キリストを信じた事によって、キリストの支配の中に置かれ、全く新しい生命の内に造りかえられたというわけです。罪に対して死んだ者となった(11)のです。体が贖われるまでの間は、肉の性質を宿す者ですが、それは古着のようなものです。それをぬぎ捨ててキリストを着るのです。


<聖書のことば>
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
ローマ人への手紙 6章6節




「キリストとの結びつき」
 ローマ人への手紙6章3~5節

2010年1月17日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 一般的には洗礼と言われているこの儀式を聖書は、バプテスマと記し、浸めるという意味以外にない事を表わしています。その意味は、キリストの死と復活を示している事が明らかであり、キリストを信じた者の信仰の内容を示すものに他なりません。

 バプテスマに関する記録は、聖書中に二ヶ所あり、一つは主のバプテスマ、もう一つはピリポによるエチオピアの宦官のバプテスマで、いずれも水量豊富な場所で、水の中に入って行って浸めが行われています。

 バプテスマは、キリスト教徒のしるしのように思われていますが、たしかに信じた者は、ただちにバプテスマを受け、信仰を告白して救われると同時にバプテスマは行われていて、表裏一体をなすものと考えてよいものです。それは、ペテロによる説教で多くの者が救われた人達が受けたバプテスマ、パウロによって導かれたピリピの牢番が、信じてただちにバプテスマを受けた事等によって明らかです。

 では、このバプテスマは一体何故重要なのでしょうか。それは、「キリスト・イエスにつく」という大切な意味があり、即ちキリストの体に着いて、新しい歩みをする出発点であり、過去の罪ある生き方が葬られて新しい生き方をする誓いの時なのです(第一ペテロ3:21)。一生キリストの体なる教会に結びつき、いのちの道を天をめざして歩み出す祝福の時です。


<聖書のことば>
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
ローマ人への手紙 6章4節b




「牧師後継への祈り」
 テモテへの手紙第二 2章2節

2010年1月10日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 2007年の4月から次期牧師招聘委員会がたちあげられて2年が経過しました。愛兄姉におきましても、大きな関心をもって祈りの内に加えて下さっている事と思います。牧師70才を区切りとして後継牧師を祈り求める事はみこころにかなった事であると確信しています。その理由として、・・・

 第一に、牧師の高齢化にともない、伝道牧会上支障をきたす事が多くなり、教会の成長と祝福に影響が生じ、主の花嫁たる教会に痛みがおこる率が多くなるからです。又突発的な事故や病の為に、教会は牧会上大きな負担をかかえる事にも配慮が必要です。緊急事態での招聘は、避けねばなりません。

 第二に、長年牧会を委ねられた牧師が交替するということは、十分な祈りと準備が必要です。簡単に、安易に決められた事には、大きな罠がつきまといます。教会の中に一致がない限り、今後の教会の成長を望むことはできないでしょう。又簡単に後継者が与えられるものでもありません。信仰、性格、家庭、評判等、あらゆる点が評価され、しかも遊んでいる伝道者はいませんから、責任のある立場を超えて招きに応じてくれる、主の導きをいただいた方をお招きしなければなりません。

 第三に、祝福を継承できる牧師をお招きする事が必要です。その為には今の教会が更に祝福をいただき、十分整えられて次期牧師をお迎えし、更にその恵みを継続できる、長期牧会可能なお器をお迎えできる事が最も願わしい事です。主の助けと導きを祈りましょう。


<聖書のことば>
多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある、忠実な人たちにゆだねなさい。
テモテへの手紙第二 2章2節




「すべての事について感謝しなさい」
 テサロニケ人への手紙第一5章18節

2010年1月3日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 年の終わりと年の始めのこの時、心の整理をするのには最適な時です。神がわたくしたちに求めておられる事は、沢山ありましょうが、感謝する事は、その中でもこの時に相応しい事であるに違いありません。

 第一に、過去のお恵みを数えて感謝しましょう。
この50年間、教会の歩みは実に祝福豊かでありました。この点で感謝をしすぎることはありません。その中でも信仰を持たれた兄姉の忠実さです。始める事は易しくても、継続する事は難しいのです。一時従う事はできても従いつづける事は実に難しいものです。教会は人です。すばらしい信仰者のたゆまない誠実さが、この50年の祝福をいただいた源です。そこに主は大きな目に見える祝福の実を備えて下さいました。会堂建築とそれに伴う資金の完済、伝道所の開設、教勢の拡大、主は驚くべき祝福をお与え下さいました。教会の祝福は、そこに集る方々の祝福となるのです。

 第二に、感謝は、次のビジョンにつながる事こそが、真の感謝です。
主のお恵みを忘れることなく、慣れる事なく、誇ることなく、初心にかえって、更に今後の神の栄光を拝するために新たなビジョンを持って前進するべきでしょう。神は、常に信仰に働いて下さいます。主にあって感謝しつつ、主にあって大きなビジョン、信仰を持って歩み出すことです。ペテロのように波の上を歩いてみもとへ行かせて下さいと願う事ができますように。

<聖書のことば>
すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
テサロニケ人への手紙第一 5章18節