聖書からのメッセージ

【礼拝説教要旨】

「罪の支配からの解放」
ローマ人への手紙6章1〜2節
2009年12月27日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 「罪の増し加わるところには、恵みが満ちあふれる」という事を知った者が、「それでは、神の恵みの赦しを得るために、もっと罪を犯そうではないか。どんな罪でも悔い改めるなら赦されるということであれば、どんどんしたい事をしようではないか。」という者がいたら、「断じてそうではない」と言うわけです(2)。

 その理由は、キリストを救い主として信じた者は、罪に死んだからです。この死んだという意味は、罪の支配から、キリストの支配に移されたという意味で、新しい関係を意味しています。キリストの内にある者は、もはや罪と死に束縛されて生きることなく、いのちと恵みの支配の中におかれ、光の内を歩む者とされるのです(コロサイ1:13)。これは新しい関係の成立です。死んだ者から生きた者へ、世の者から神の御国の者へ、放蕩息子から神の子への変化です。ですから罪の中には住まないのです。

 第二は、新しい霊のいのちは罪を犯しつづける事を許しません(第1ヨハネ3:8-9)。罪を犯さない完全な者という意味ではなく、罪の中にとどまり、罪を犯しつづける事ができないのです。一時誘惑の中に落ちても、ずっとその中にとどまりつづける事を、聖霊はおゆるしにならず、必ずいのちの道へと戻して下さいます。何故なら、神の種がとどまっているからです(第1ヨハネ3:9)。この事を知って明らかな態度をとる事にしましょう。

<聖書のことば>

絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
ローマ人への手紙 6章2節




「やみの中に輝く光」
ヨハネの福音書1章9節
2009年12月20日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 預言者イザヤは、BC740年頃から約50年に渡り、4代の王の下で神のことばを予言した預言者です。旧約聖書中最大の預言者と言われていますが、時代的には、決して希望に満ちた時代ではありませんでした。暗闇の世を照らすまことの光、メシヤが降誕されることをきわめて詳しく予言し、そのメシヤの生涯と結末をも預言しました。

 その預言は、驚くべきもので、真のメシヤはダビデの再来としてではなく、人類の最大の敵、死を滅ぼすために来られるいのちの君でした。「永久に死を滅ぼされる」(イザヤ25:8)方であり、「この方こそ、私たちが待ち望んだ主、その御救いを楽しみ喜ぼう」(25:9)と預言します。

 メシヤなるキリストの誕生を喜ぶこの日、今一度キリストのもたらした喜びのニュースを心に留め、互いに主の御名をほめたたえたく思います。

 その最大の喜びは、メシヤがもたらした死の解決です。死は人生にとって、まさしく闇ではありませんか。死のむこうの世界への不明、人生の終り、死は決して人にとって勝利ではありません。誰にでも必ずやってくるこの不安な死の陰におびえる私達に、希望をもたらしたのはイエス・キリストご自身でした。死がいかに悲惨で、苦しくつらいものであるかを、キリスト自ら十字架の上で示され、これこそが罪の実であり、報いであることを示された主は、復活を持って「たとえ死んでも生きる」ことをあかしし、光を与えました。

<聖書のことば>

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
ヨハネの福音書 1章9節




「恵みも満ちあふれました」
ローマ人への手紙5章20〜21節
2009年12月13日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 神の掟(律法)は、人が神の前にいかに罪深く、不適格な者であり、自分の力や努力では、罪からの脱出は不可能であるかを教えてくれます。ですから、聖書の教えに触れる時、第一に教えられることは、自分の罪深さなのです。しかしそれは私達を神の愛と赦しへと導く道であることを知ることが必要です。(ガラテヤ3:23〜26)

 キリストの十字架の刑罰は、私達が自分の罪深さを知る量よりもはるかに大きなもので、存在そのものをお赦し下さった神の赦しは、自分の知らない罪の全てをも含まれているわけですから、私達が自分の罪を知れば知る程、神の赦しは、それにも増して大きなものであることが判り、常に罪が増し加わっても、赦しの恵みは、それを上まわっていることになります。なんという大きな恵みでしょうか。ですから自分の弱さや罪深さが判れば判る程、十字架の神の愛の大きさが判るという事になりますから、キリストを救い主として信じ受け入れた者に、罪は力を持つことはないのです。よく自分の失敗や弱さを教えられて打ちひしがれてしまう人がいますが、主は、そのためにもその重荷を負い、赦して下さっていることを覚えるべきです。逆に自分の罪深さを教えられれば教えられる程、主の愛を知って感謝が溢れることこそ信仰者の在るべき姿であり、その感謝の中に、いのちの力をいただく恵みもあることを覚えましょう。「罪の増すところには、恩恵もいや増せり」(文語)

<聖書のことば>

律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪が増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
ローマ人への手紙 5章20節




「一人の人によって」
ローマ人への手紙5章15〜19節
2009年12月6日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 アダム一人の違反が全人類、そして私に及んだと示した後に、アダムとメシヤなるキリストとの比較を教えます。イエス・キリストは、「最後のアダム」(第一コリント15:45)とか「第二の人」等と言われ、アダムと対立的に示されています。

 先ず、一人のアダムによって罪と死が全人類に入りました。(12,18) アダムのした行為は、神のことばを信ぜず、神の命に従わず、サタンの声に従った完全な不従順でした。その結果も教えられていたにも係らず、神の命に違反し、死を自ら招きました。その結果、罪の症状が、アダム夫婦とその家庭にあらわれます。神からの追放は、今の私達の立場ですし、アダムと同じかたくなさと不従順が私の心を支配するようになったのです。

 ところが、神の遣わされたキリストは、このお方一人の義なるみわざによって、全人類が神のみ前に赦され、いのちの道を歩めるようにして下さいました。アダム一人の破壊行為は、イエス・キリストの愛のみわざによって回復されました。ここに一人の人の従順によって全世界の人々に救いの道が提供された大きな神の愛を見ることができます。それは、おいしそうな木の実をとって食べる行為とは全く異なる、全人類の罪の重荷を背負われた苦難のメシヤのみわざによって完成された救いがあります。この救いは、アダムがもたらしたものより、はるかに大きな恵みの賜でありました。

<聖書のことば>

すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
ローマ人への手紙 5章19節




「アダムとわたくし」
ローマ人への手紙5章12〜14節
2009年11月29日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 いわゆる原罪がここには示されています。人類の祖アダムが犯した罪は、極めて深刻な結果をもたらしました。これを原罪(げんざい)と言います。

 あらゆる豊かな祝福の中でただ一つ、神に従うあかしとして与えられていた戒めを破り、その命に従うことをせず、サタンの声に従い、彼は不信と不従順、裏切りの道を選びとったのです。

 ここから人類の道は、不信、堕落の道をたどることになります。聖書における罪ということばの意味は「的(まと)外れ」という意味が主で、人の一生が、本来歩むべき道とずれて、その目的を外している事をさしています。

 神は、アダムとエバを祝福に満ちた楽園(エデン)から追放し、暗闇と苦しみに満ちた呪いの世に置かれます。私達は、その子孫なのです。

 たしかにある人々が言うように、それはアダムの犯した罪であり、私には関係のない事だといわれるでしょう。しかしここには言いのがれられない、二つの事実があります。

 その第一は、罪とは、行為以前の状態だという事です。即ち祝福の場から、追放されたアダムの子孫が私達なのです。追放された状態で生れ続けてきた私達は、依然として罪の状態であり、死が現実なのです。

 もう一つは、たしかに私たちも事実不信、不従順、そして罪の実を持つ者です。これを否定できません。しかし神は、そんな私に声をかけて下さいました。

<聖書のことば>

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、ーそれというのも全人類が罪を犯したからです。
ローマ人への手紙 5章12節




「救いの過去・現在・未来」
ローマ人への手紙5章9〜11節
2009年11月22日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 救いの内容が判らないという声をよく聞きます。たしかに救いの必要性が判らなければ、救いという事も判らないのは確かでしょう。しかし救いという事には、三つの局面があるので、それが故に判りにくくしているとも言えます。その三つの局面とは何でしょうか。

 その第一は、義認です。これは神がキリストの故に信じる者を義(正しい)と認めて下さる事です(5-9)。これは又罪が赦された。神との和解ができて霊のいのちが与えられ、神との交流ができるようになったという事でもあります。これまでの不信仰、不従順の全てが赦され新しい歩みが始められたクリスチャンの誕生です。その第一は、義認です。これは神がキリストの故に信じる者を義(正しい)と認めて下さる事です(5-9)。これは又罪が赦された。神との和解ができて霊のいのちが与えられ、神との交流ができるようになったという事でもあります。これまでの不信仰、不従順の全てが赦され新しい歩みが始められたクリスチャンの誕生です。

 第二は、聖化です。霊の誕生をしたクリスチャンが、成長をしキリストの満ち満ちた徳の高さにまで至る過程であって、教会という場にあって成長をとげつつある、まさにクリスチャン生活そのものです(5-10)。みことばと祈り、交わりを通して聖霊のお働きの内に、キリストの形が形成されて、義とされた者の具体的な実をみることとなります。

 第三は、栄化です。これは終わりの日に、キリスト再臨にあたって全てのものが新しくなる時に完成されます。それこそが信じる者の最終目標なのです。救われた、救われている、救われる、この三つの救いの局面は、あなたの救いに関する知識と立場を明らかにするのではありませんか。

<聖書のことば>

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
ローマ人への手紙 5章9節




「不敬虔な者のために」
ローマ人への手紙5章6〜8節
2009年11月15日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 神の前に赦され、義とされた者の第3の祝福は愛です。平和、喜びと共に神の愛を知った者の生涯は、二度と再び罪深い生活へ戻ろうとはしません。何故なら赦されざる者が赦され、愛されるに価しない者が愛されたからです。赦された者のかつての生活はどのようなものであったのでしょうか。

第一に、弱い者でした(6)
これは力のないことを意味します。したい事ができない、したくない事をやめられない、神に係る霊的な事には無知であり、神をお喜こばせできないばかりか、神の怒りをこうむるものでした。判っていても従うことのできない弱い者でありました。

第二に、不敬虔な者でした。(6)
神への敬いの欠如は、人として持っているべき道徳的感覚や生きてゆく態度を混乱させてしまい、堕落と腐敗におちてゆくことになります。人の一生は、鷲のように昇る人生ではなく限りなく下降してゆく人生になりさがってしまいます。その行き着く先は、死と永遠の滅びなのです。

第三に、罪ある者でした。(8)
的外れの生き方は、多くの罪深い生活を生み出し、人の生きる目的を見失った生活には、不安と焦りが生じ、やがては、無気力と惰性に生きる外なくなるのです。キリストはこのような者を救おうとして死んで下さいました。

<聖書のことば>

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んで下さいました。
ローマ人への手紙 5章6節




「信仰に働かれる主」
マルコの福音書5章25〜34節
2009年11月8日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 12年もの間血の病で苦しんだ女が、群集にかこまれたイエスの着物にふれていやされた記録です。彼女は「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と信じました。群衆が押し迫っている中で、この女が触れたのをイエスは、はっきりとお判りになりました。それは彼女が信じて触れたからです。そこには、「信じてみよう」とか「もしかしたら」等というあやふやな思いはありません。「きっと直る」というはっきりとした確信がありました。

 多くの人がキリストの周りに集まります。しかし真の救いをいただくのは、わずかな人にすぎないのです。その理由は、信じきる信仰の欠落です。又信者である私達も、信じるという事に於いて、この女のような真剣にして真実な信仰を主に向けているかどうかを点検してみる必要があります。与えられる程の信仰を持っていないにも係らず、祈ったのに与えられなかった。求めてもかなわなかったと言う人がいるとしたら「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」との主のおことばをもう一度かみしめてみる必要があるのではないでしょうか。

 信じる者は、山をも動かすのたとえは決して誇張ではなく神の力を呼びくだすのです。神は常に信仰に働かれるからです。海を陸のように渡り、強力な城壁を信仰によって崩し、信仰によって危険から守られ、信仰によって、勝利を得たのです(へブル11:33〜34)。信仰によって主に触れましょう。

<聖書のことば>

娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。
マルコの福音書5章34節




「患難をも喜ぶ」
ローマ人への手紙5章2〜5節
2009年11月1日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 キリスト教徒のしるしは、喜びです。神の前に義とされた者の当然のしるしと言ってよいでしょう。

 第一に、その喜びは、神の栄光を望み見る喜びです。(2)
この世にある間は、未だおぼろげですが、やがて明らかに救主の栄光のお姿を拝して喜び、大胆に神に近づくことができるのです。その時には、痛みや弱さを持つ肉の衣を脱ぎ捨て栄光の体、霊の体をもって、神の栄誉をほめたたえつづける喜びにひたることができるでしょう。全く新しく変えられた自分を見る時、どんなに大きな喜びに溢れることでしょうか。

 第二に、世にある患難をも喜ぶことのできる喜びです。(3〜)
苦しみは避けたいものですし、苦しみに会わないように願うものですが、救いの君が、苦しみの十字架を通して私達を救って下さった事を知る者は、大きな慰めと励ましをもって苦しみに耐えることができ、更には苦しみの中にある大きな恵みを覚えて感謝し喜ぶことができるようになります。それは忍耐であり、練られた品性であり、やがて苦しみを超えたところに希望を見出すことができることです。

 安楽の中に人が成長する事は少なく、苦難の中に尊いものを見出し成長します。神の存在を信じる者は、神は無意味に人を苦しめず、耐えられない試練を与えないお方であることを知って、患難をも喜ぶことができるのです。

<聖書のことば>

またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
ローマ人への手紙 5章2節




「キリストの与える平安」
ヨハネの福音書14章27〜31節
2009年10月25日 第4聖日 伝道師 福田敬三

 明日は十字架という夕べに最後の晩餐の時を持たれ、主は決別の説教をなさいます。不安を覚える弟子たちに天国を語り(14:1-3)、また、「あなたがたにわたしの平安を与えます。世が与えるのとは違う」(14:27)と、心騒がせている弟子たちに語られました。その平安は私たちにも語られています。

 「世の与える平安」とはどのような平安なのでしょうか?私たちが普通「平安」と言う時、お金に困らない、健康である、問題がないなど不安材料がないことを表し、また条件が整い物事がうまく行っている場合です。そういう条件付きの平安です。しかし、これは一時的なものです。

 「キリストの与える平安」とはどのような平安なのでしょうか。それは外部の条件に関係なく、心の内からわきあがる平安で、しかもいつまでも無くなることのない「平安」です。もちろん私たちはこの時代に生かされていますから、大問題にぶつかり不安になって揺らぐこともあるでしょう。しかし、それは一時的です。キリストの平安は、「人のすべての考えにまさる神の平安」(ピリピ4:7)です。

 キリストはどうして、その平安を与えることができるのでしょう。それは、平安を奪い去る人の罪の解決を与えられるお方だからです。そして、私たちにどのようなことが起ころうとも共にいてくださいます(14:17-18)。さらに、平安の無いところに平安を造り出される御言葉に力のあるお方だからです。

<聖書のことば>

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
ヨハネの福音書 14章27節




「神との平和の祝福」
ローマ人への手紙4章25節〜5章1節
2009年10月18日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 信仰こそが人が神の前に義とされる道だという事が強く教えられてきました。信仰によって正しいと認められた後に、行いが伴うという事こそがクリスチャン生活の特徴です。聖書の教えを守ろうとして懸命に人を愛そうと願っても、神の前に赦しの喜びと平安を得ていない人は、決して人を愛する事はできないでしょう。

 神との平和を得た人が、どのような祝福をいただくことができるかが、次の学びです。その第一は、神との平和です。イエス・キリストの贖いによって与えられるものは、神との和解でした。今まで神のみ怒りの中にあった私達が、神と人との仲保となられたキリスト(メシヤ)の故に、神のみ怒りは治められ、神との平和をいただくことが出来たのです。これは、神から与えられる平安以前の、神と人との間の平和であり、ここから人にもたらされる多くの祝福が注がれます。

 その一つは、勿論平安です。罪とその罪責からの解放、思い煩い、心配からの解放、死の恐れ不安からの解放、これら全てに圧倒的な勝利者となるのです。

 次に、希望です。死の向こうへの希望は生きる希望を与えます。今というこの時を希望をもって生きることができるようになります。

 平安と希望は、人に喜びを与えるのです。神との平和こそ人の幸福の源である事を知りましょう。

<聖書のことば>

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たち主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
ローマ人への手紙 5章1節




「ますます強められる信頼」
ローマ人への手紙4章17〜24節
2009年10月11日 第2聖日 牧師 山宮 利忠

 人は、神の前に信仰によってのみ義とされる例として、信仰の父アブラハムの信仰がとりあげられます。この方の信仰の中に、神の前に義とされる本質的要素があると言ってよいでしょう。

 第一に、望みえない時にも望みを持った信仰です。(8)
人は望みが絶たれれば、あきらめるか、落胆するか、捨鉢になるか、更にはうらむかでありましょう。アブラハムは人の望みが失せた時に信仰が生きて働いたのです。実は信仰とは全知全能の神を信頼することなのですから、たとえ人の望みが絶えても尚神に望みを置くことができます。勿論人の思い通りにはならないでしょう。しかし神の最善を信じることができます。

 第二に、無いものを有るもののようにお呼びになる神への信仰です。(17)
これは、無から有を呼び出すことの出来る全能の神への信頼ということに他なりません。神は一言で無いところからあらゆるものを生み出されました。

 即ち絶対的な神への信頼こそ、人が神の前に義とされる信仰なのです。それは今、イエス・キリストを信じるという信仰に求められるものです。私達にとっては驚くべき恵みとしてのキリストにある赦しと永遠のいのち、聖書を信じる者への約束、これらを信じることこそ神の前に義とされる道なのです。アブラハムは、決して困難の中で信仰は弱くならず、ますます強められました。薄い信仰、幼い信仰ではなく、豊かに成長をとげた信仰者でした。

<聖書のことば>

彼は、不信仰によって神の約束を疑うような事をせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力が在ることを堅く信じました。
ローマ人への手紙 4章20〜21節




「恐れないで信じていなさい」
マルコの福音書5章21〜42節
2009年10月4日 第1聖日 伝道師 安藤修司

 イエス様のもとに群集が押し寄せる中、長血の病に苦しむ女性と危篤の娘のいやしを求める父ヤイロが、イエス様を信じるよう導かれます。この箇所から信仰に導かれる主の働きを知りましょう。

 第一に、神様は試練を通して私たちを本当に必要なものへと導かれます。二人はそれぞれの苦しみを抱え、救いを求めてイエス様にのもとに導かれました。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」(詩119:71)。

 第二に、主は信仰を公けに告白することを求められます。女性は信仰をもって秘かに主の衣のふさに触れ、癒されます(29)。しかし彼女は、主に告白し感謝していませんでした。彼女の告白を求めた主は、「あなたの信仰があなたを直したのです」と宣言し、安心して生きて行けることを保証されました。私たちも、公けに信仰を告白することによって、イエス様と共に歩むものであることを、神と人々の前にも確立するのです。

 第三に、主は信頼する者を失望させられないことです。長血の女性のため主が立ち止まっておられる時、ヤイロは娘の死を告げられます。間に合わなかったと失意のヤイロに主は「恐れないで、ただ信じていなさい」と告げます(36)。そして嘆きの家に入られ、死んだ少女を呼んで彼女をよみがえらせました。これは、すべての人に与えられるもっとすばらしい奇蹟の予表でした。

<聖書のことば>

イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
マルコの福音書 5章36節




「天国の相続人」
ローマ人への手紙4章13〜16節
2009年9月27日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 いかなる人が天国に入れるかという事は、いかなる人が神の前に正しくされるのかという答えの結果でもあります。これも当然の事ながら善い行いをすることによってではなく、信仰によってであるという事が次の教えです。
誤解してはならない事は、律法に従って善い行いにすすむ事は、神を信じる者の当然の在り方であって、善い行いが不要だという事では決してないということです。ただ、神のみ国に入る為には、赦しと霊のいのちが必要です。
これは、人がどんなに頑張っても善い行いでは得られるものではありません。

 では、律法の目的は何でしょうか(15)。神の掟は、人の姿を明らかにするところにあります。律法がなければ、人の罪深さが明らかにされません。
同時に人は神の掟を守れない事実と、救いの必要性を律法は教えてくれるわけです。ですから懸命に律法を守ろうとしても、そこには救いがないばかりか、見当外れの努力と苦しみを経験しなければならないのです。

 人が神から離れた瞬間から神は、人が再び戻って来ることを願われて救いの道を用意し、約束を示して下さいました。この約束は全く神の一方的な約束であって、人がその約束を信じて守れば祝福にあずかるのですが、信じなくても神の約束は無効になることはない大きなお恵みです。勿論信じなければ自分のものにはならないのです。天国に入れるか入れないかはこの神の約束(契約)を信じるか否かにかかっています。これも恵みです。

<聖書のことば>

というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。
ローマ人への手紙 4章13節




「儀式は、人を救わない」
ローマ人への手紙4章9〜12節
2009年9月20日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 人が神の前に義とされる(正しく)方法は、行いによるのではなく、信仰(信頼)によるのだという事の証明として、イスラエルの祖アブラハムと、メシヤの家系としてのダビデの例を挙げて説明された後、民族としてもとりあげて、人が義とされるのは、儀式(割礼)によってではない事が明らかにされています。

 アブラハムに命じられた割礼(かつれい)の儀式は、ユダヤ民族のしるしであり、契約のしるしではありましたが、これを受けることによって人が神の前に義とされるものではありませんでした。生れて8日目に受けるこの儀式は、いつの間にか正しさの証明のように思われたのは、無理からぬ事です。しかし、割礼は、アブラハムが義とされた後、しばらくして定められた義のしるしであって、その資格は神への絶対的な信頼でした。

 今、私達はキリストのご命令によってバプテスマの儀式にあずかります。これも同様、バプテスマによって人が救いにあずかるわけではありません。イエス・キリストを救い主と信じて救いを受けた者が、そのしるしとして、又信仰のあかしとして受けるものです。大切な点は、キリストへの真実な信仰です。儀式も大切なものではありますが、人が儀式に預かることによって救いをいただく事にはなりません。あくまでもアブラハムの信仰こそが、私達を永遠のみ国への資格をもたらす唯一の条件なのです。

<聖書のことば>

彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。
ローマ人への手紙 4章11節a




「不敬虔な者への赦し」
ローマ人への手紙4章4〜8節
2009年9月13日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 善行こそが神に赦される道だと考える人が多いのですが、神は人の善行に重きをおいておられません。たとえ不敬虔な者であっても、己れの罪を認め神に赦しを求める砕けた魂こそが幸いな赦しの道だと教えられています。

 先回は、行いによらない信仰による義の例としてアブラハムが挙げられました(4:1)。今回はイスラエルの黄金時代を築いたダビデがとりあげられます。立派な神にたてられた王ではありましたが、失敗もした王です。その最大の罪は、姦淫と殺人、欺瞞貪欲の罪でした。美しい人妻バテセバをその夫を殺して自分のものにしたダビデは、王の力で蓋をしようとしますが、神の前には全てが明らかで又自分の内なる心に責められる彼には、平安も喜びもありませんでした。やがて預言者ナタンの指摘にダビデは、恐れおののきつつ自分の罪を告白します。

 神はこの罪を犯したダビデを、罪を認め告白し悔い改めた事によってお赦しになります。償いや立派な行為によってではありませんでした。神の前にありのままの罪深い自分を告白し、砕かれた自分を示すことにより、ただ神のあわれみに頼む信仰によってのみ、神の前に義とされたのです。

 この赦しは報酬としての赦しではなく、ただ神の恵みを信じる信仰によってのみ与えられたものでした。今私達に必要な事は本当の自分の姿を認めそこにある不敬虔をありのまま主に申上げて赦しをいただくこと事です。

<聖書のことば>

何の働きのない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
ローマ人への手紙4章5節




「義とされたアブラハムの信仰」
ローマ人への手紙4章1〜3節
2009年9月6日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 「人が神のみ前に正しい者とされるのは、行いによらない、信仰による」という事が、当時のユダヤ人世界に容易に受け入れられない教えであったという事は確かであり、又現在私達の心の中にも、行いのない信仰は無意味だという思いから、人が神の前に義とされることは、行いが必要だという考えをぬぐい去ることは困難です。しかし既に何度か学んできましたように、信仰(信頼)こそが、神の求めるものであって、人間の善行や清いと思われる生活は、決して神を満足させるものではありません。信仰こそ聖書を貫く人の必要条件である事をアブラハムの例を挙げて説明されます(1)。

 アブラハムは、ノアの子セムの子孫でカルデヤのウルに住む神を畏れる人物で、神はアブラハムを祝福し約束の地を与えます。聖書はアブラハムの信仰こそが神の前に義とされたのだと記します(創15:6)。彼の信仰は、今の私達に大きな示唆を与えます。

第一に、神に全き従順をもって従う信仰です(へブル11:8)。彼は、神の命令に従い行き先も知らずに出発します。我子イサクを主の命の故に全焼の犠牲としてささげる決心をして実行しようとします。

第二に、望みを神に置いていかなる時も目先の事に囚われません(ロマ4:18)。

第三に、神の約束を堅く信じる信仰でした(ロマ4:21)。彼の信仰は弱くなるどころか、増々強くなり、それが義とみなされたと示されています。

<聖書のことば>

聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。
ローマ人への手紙 4章3節




「無効にならない神の掟」
ローマ人への手紙3章31節
2009年8月30日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 神のおきて(律法)を守ることによって義とされず、信仰によって義とされるとしたら、神のおきては意味のないものになってしまうのではないか、という疑問に対して、断じてそうではない、反って信仰は、神のおきてを完成し、確立することになるのだということが今回の教えです。

 人が神の前に義とされる(正しい関係となる)のは、おきてを守ることによってではありません。信仰によるのです。

 この事は、イスラエルの歴史を見ればよく判りますし、自分自身に当てはめてみれば判ります。神は律法の要求を私達の代りに満たして下さいました。それが聖なる神の御子イエス・キリストの十字架の刑罰です。私達は、この律法の要求を果たして下さった神の愛のみわざをただ受け取るだけで、神との正しい関係にならしていただくことができます。それを信仰というわけです。では、信仰だけで義とされるのであれば、神の人への要求が無意味になってしまうのでしょうか。決してそうではありません。

 信仰によって赦された者こそ、神の大いなる愛を知り、しなければならないという義務の域を脱して、させていただくというしもべの心や、したいという積極的な愛の実践へと変えられていくのです。これは大きな奇跡です。神のご計画は、人の力や誇りによらず、信頼と愛という最も人として大切なものをとり戻すことにあったという事は、何と深い神のご配慮でしょうか。

<聖書のことば>

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって律法を確立することになるのです。
ローマ人への手紙 3章31節




「差別のない救い」
ローマ人への手紙3章29〜30節
2009年8月23日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 全ての人が偉大な救いを受けるのに、行いによらず信仰によっていただける背後には、誰も誇らせない神の慈愛に満ちた配慮がある事を学びましたが更にこの箇所には、全ての人に分けへだてなく平等に与えられている救いの恵みが教えられています。

 第一に、救いは、差別なく誰にでも提供されています。(29)
特定の人にだけ通用するような救いは、真の救いではありません。又特定の人にだけ理解されるようなものも本当のものではありません。差別なき救いの提供は、神のご性質に基づく幸いな教えです。教会内に差別を生んではならない大きな理由です。

 第二に、差別がないのは、神が唯一だからです。(30)
唯一、真の神は、万民の神であり他に神はありません。又全ての人は罪人だからです。神の前に己れの力で義とされる者は、一人もいません。更に全ての人は神に同等に愛され、救いが提供されているからです。

 第三に、救いは、信仰によって受けとることができるからです。(30)
行いによるのであれば、できる人もありできない人もあるわけですが、信仰は幼い者から年輩者まで、誰でもが信じ、受け取ることができます。そこには誇る原因をみつけることはできません。全ての者がひざをかがめて「イエスは主なり」と、御名をほめたたえることができるのです。

<聖書のことば>

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。
ローマ人への手紙 3章29節




「誇りは取り除かれた」
ローマ人への手紙3章27〜28節
2009年8月16日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 「なだめの供物」に関する教えは、罪人である私達にとっては驚くべき神の愛のみわざであることを学びました。更に神は、人が義とされる方法に於ても実に配慮のある深いあわれみによって救いを受ける方法を定められたことが、この二節の中に示されています。即ち「人を誇らせない」方法です。

 まず、私達は誇り易い者であることを知りましょう。

 人は生れながらにして自分中心であり我儘です。長ずるに及んでは自分の力や富や地位を誇り、他を見下げ易いものです。たとえ信仰を持つ者であったとしても、この性質からは完全に解放される事は難しいのです。従って永遠の生命と神の子となる特権を得るにも、もし人の行いによって得られるとしたら、やはり誇りの原因となりかねません。ですから神は、救いを律法の行いによらずに与えることをなさったのです。即ち善行を積むことによって神の前に義とされる救いの方法を定められませんでした。勿論既に見てきたように、神の標準にどんなに努力をしても達することができない人の無力さがあるのですが、愚かな私達は、できている、守っているという浅薄な誇りを持ち易いわけですから、そのような愚かさに陥らないために、人を誇らせない方法、即ち、信仰の原理を定められました。これは、誰でもできる、行いによらない方法です。救いを受ける方法は、行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです(エペソ2:9)。何と深い神のご配慮でしょう。

<聖書のことば>

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。
ローマ人への手紙 3章27節a




「隣人に目を向ける」
ピリピ人への手紙 2章4節
2009年8月9日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 今年の教会テーマは、10年目標の三期「隣人を愛す」の第一年目「隣人に目を向けよう」です。愛に満ちた教会こそ教会の正しい、真の在り方であり、2003年からの教会長期目標に沿って「主を愛す」「教会を愛す」、そして第三期「隣人を愛す」に至っています。

 隣人とは誰か、隣人の事を考えるという事で必然的に学びの中心となったものは「良いサマリヤ人」のたとえでした。この箇所からは機にふれて各方面から学んできましたが、私達には「自分を愛するように隣人を愛する」事は、律法学者のように「それは守っています」と胸を張れるような者ではありません。できない自分のみじめさを教えられて主の前にひざまずく以外に術はないように思われます。真の隣人であられる主キリストの愛を知り、はじめて、自分の事だけでなく隣人の事も顧みることができるようにされて真の人の在り方に近づくことができるようにされたのではないでしょうか。

 自分を愛するように隣人を愛することの第一歩として、隣人に目を向けることができたら幸いです。今まで自分にしか目を向けてこなかった者が、自分の周囲に目を向ける時、そこには自分が知らなかった沢山の痛みや悲しみ、孤独や不安をかかえている人がいる事に気付かせられ、同時に自分の持つ重荷がいかに我儘なものであったかということにも気づかせられます。まず周囲に目を向け、自分にできることはないかと考えてみましょう。

<聖書のことば>

自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
ピリピ人への手紙 2章4節




「神の義と、人の義」
ローマ人への手紙3章25〜26節
2009年8月2日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 人は如何にして神の前に義(正しく)とされるのか、という事こそ聖書の最も重要な点ですが、律法(神のおきて)を守る事によっては義とされないばかりか、罪の意識が生じるだけであると示されました。ではどうしたら神に喜ばれる生き方ができるのでしょう。又それこそが私達の幸せにつながる事になるわけですからとても重要な事です。その第一の解決は、イエス・キリストの贖い(あがない)のみわざによって人は神の前に義とされるというものでした。(24)

 次に「なだめの供え物」によるのだと教えられています。これは一体どういうことなのでしょう。

 第一に、神のみ怒りをなだめ静めるという事です。人の神への反逆は、神の怒りをひきおこし当然の事ながら、罰を受けなければなりません。そのみ怒りは、償いがないかぎり治まることはないでしょう。本来なら人は大きな犠牲を払って罪の償いをしなければなりません。しかし、償いきれるものではありません。一体誰が自分の大きな罪をどのような方法で償えるのでしょうか。

 第二に、愛なる神は、ご自身をもって償いをして下さったという事です。これは、不思議な事です。ありえない事です。神の義が全うされつつ、人の罪を赦す方法として神自らが私達の罪を負って罰をお受け下さったのです。人を義とする為に神は自らの義を守りつつ人を義として下さったという事です。

<聖書のことば>

それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
ローマ人への手紙 3章26節




「イエス・キリストの贖いによる義」
ローマ人への手紙3章21〜24節
2009年7月26日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 人は、いかなる人であってもその目的に於いて、又神の求める標準に於いて失格した罪人であり、これには何の差別もなく「全ての人は、罪を犯したので神からの栄誉を受けることができない」のです。神の救いの舞台として選ばれたユダヤ人も同様、この罪人宣言にもれるものではありませんでした。

 全ての人は、罪人であって神の誉れの対象ではないのです(23) 人が罪人であることは、律法を守ろうとすれば明らかになります。その結果は、律法を守れない自分を発見し、罪の意識が生じることによって判りますし、長い人類の歩みを見れば、それは明らかです。どんなに平和を望み、幸せを願っても人の歴史は争いと混乱の歴史でした。又私達の胸に手を当て、自らを顧みることによって、自分の内に善が宿っていないことが判ります。

 ではどうしたら、神の前に人は義とされるのでしょうか。自分の努力や行いによって義とされるのでしょうか。それは既に不可能であることが示されました。ではどうしたらこの悩みと苦しみは解決されるのでしょうか。

 それは、旧約聖書を一貫して流れる赦しの方法、即ち贖い(あがない)による義なのです。神は、律法において人がどんなに努力しても神の前に義とされないことを教えると同時に、全く別の方法で義をもたらして下さいました。それがイエス・キリストの代償の死による義です。他のどんな宗教にも見られないこの贖いこそ、神の全き愛による、人類に救いをもたらす恵みです。

<聖書のことば>

しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
ローマ人への手紙 3章21節




「行いによらない救い」
ローマ人への手紙3章19〜20節
2009年7月19日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 人が聖なる神の前にいかに義とされるか、これこそが聖書の大命題です。
これまで神の律法(おきて)をいただいたユダヤ人も、それを実行できなかった歴史があり、ましてその他の人々が実行できるわけもなく、ただただ人は、神の前に義とされない罪人であることが示されてきました。改めて、この2節は、以下の点を明示します。(19)

第一に、全ての人は、神の要求を実行できないこと、即ち心を尽くし、思いを尽くし唯一真の神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛することが実行できないことを認めなければなりません。大いなる神の前に私達は、あらゆる自己弁護を捨てて口をつぐむことです。

第二に、神の律法を守ることによっては誰も神の前に義とされないこと、言葉をかえれば、聖書の道徳的教えをどんなに熱心に実行しようとしても、それで神の前に義とされることはないということです。人は行いによっては誰も救われることも、又天の御国へ入る資格も得ることはできません。

第三に、神の律法は、人の本当の姿を明らかにします。(20)
神の人に対する標準は、人がどんなに努力をしても達することはできないという事実が明らかにされる事こそ、律法の果たす役目であって、神の人への期待の大きさへの感謝と共に、そこまでひきあげようとされる愛こそが御子キリストによる救いである事を知る必要があります。それは恵みなのです。

<聖書のことば>

なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
ローマ人への手紙 3章20節




「義人はひとりもいない」
ローマ人への手紙3章9〜20節
2009年7月12日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 ユダヤ人と異邦人各々の罪を指摘した後に、義人は一人もいないと結論づけます。義人とは、聖なる神の前に正しい人を指します。
キリスト教にとって罪という言葉とこの課題は、避けて通ることはできません。その為には罪の意味を正しく理解することが必要です。

第一に、全ての人が罪人です。(10)
罪ということばの意味は、的外れという意味が多く、私達の人生が正しい方向にむかっていない的を外した人生であること、神のみこころから外れた生き方であり、神から離れた生き方であることを意味しています。たとえどんなに真面目に生きたとしても、神から離れた者であれば罪の生涯なのです。

第二に、罪の果実は以下のようなものです。(11〜)
神を求めることをせず、神のみこころを知らず、養い主から迷い出て、全ての者が真の価値ある生き方を失い、神の求める善を行うことをせず、内なる心のあらわれであることばで人を傷つけ、殺人はやまず、世界には破壊と悲惨がいたるところで起こり、平和をつくり出すことができずにいるのです。人は、このような道から脱出できずに行き止まりの道にあります。

第三に、罪からの脱出は人の力では不可能です。(20)
人は神の標準に達しません。自分の努力では罪に打ち勝つことはできないのです。全く異なる神の恵による以外に人が義とされる道はありません。

<聖書のことば>

義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。
ローマ人への手紙 3章10〜12節




「絶対そんなことは、ありません」
ローマ人への手紙3章1〜8節
2009年7月5日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 ローマ教会内のユダヤ人の中には、いくつかの疑問があったのでしょう。
神の掟を守らなければ、律法を持っていることや知っていることは意味のないことであり、律法にそむいているならユダヤ人のゆえに神の名は異邦人の間でけがされている(24)と言われたユダヤ人は、たしかにおだやかではなかったでしょう。そこで彼等は、いくつかの問いを投げかけます。

第一に、ユダヤ人は、何の為に選ばれたのか、何もすぐれた事がなかったのかという問いです。それに関しては、神のことばが委ねられたという点で大いにその意味があったと答えられます。(2)

第二に、彼等が不真実であったのなら、神との約束は無効になってしまったのではないか(3)というものです。
神の祝福の約束は、彼等の祖アブラハムに与えられていますが、たとえ人が不真実であっても、神は常に真実であって、約束をたがえることはないから無効になる等という事は、絶対ないと答えられます。

第三に、ユダヤ人の不義が神の義をあきらかにしたのであれば、審かれるのは不正ではないか。これは明らかに盗人の理であって、絶対にそんな事があってはならないのです。

最後に、行いによらず信仰によって義とされるのなら(8)、大いに罪を犯そう等という事が絶対あってはならないのは当然の事なのです。

<聖書のことば>

絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても神は真実なお方であるとすべきです。
ローマ人への手紙 3章4節a




「自分自身を教えよ」
ローマ人への手紙2章17〜29節
2009年6月28日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 ローマ教会のユダヤ人の中には、少なからず旧約の掟を守るべき、割札を施すべき等というユダヤ民族の特有の優越感を持った者がいたのでしょう。パウロは、彼等の独善的な姿勢を戒めます。

まず第一に、自分自身を教えよという事です。(21)
たとえ律法が与えられ、それを持っていると言っても守っていなければ意味はありません。自分達を幼子の教師、闇の中の光と言っていても律法を自ら守らなければ、その資格はありません。責任のある立場にある者であればある程、又信仰の先輩であればある程模範者であるべきなのです。まして人を教え、又批判する者であればなおさら、人の目の上のチリをみつけて審きながら、自分の目の上の梁に気がつかないことは赦されません。私達は人をみながら自分の欠点には気がつかないものです。特にできる人は、人を審き易いものです。まず自分自身が教えられねばなりません。

第二に、大切なのは外側ではなく、内側なのです。(28-29)
外観上のユダヤ人がユダヤ人ではありません。神の前にいかに真実に誠実にあるかが大切なことです。クリスチャンだと自ら言い表わす者は、キリストを信じる者に相応しく、内なる者が変えられてゆかねばなりません。敬虔さ、謙虚さ、誠実さ、優しさ、暖かさ等が人柄として身についていくことが必要です。礼拝出席や祈りや聖書を読む事が必要ですが、内側が変わる事が大切です。

<聖書のことば>

どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。
ローマ人への手紙 2章21節a




「人に呼びかける神」
創世記3章1〜14節
2009年6月21日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 最初の人類アダムとエバは、神の命令を聞かず、「必ず死ぬ」と言われた戒めを破り罪を犯してしまいました。隠れたり、隠したりする必要のなかった生活から一転して、彼等は神の目を避ける生活に陥ったのです。罪を犯す時の誘惑の声は、「神のようになる」(5)でした。それ以来人は、己を神とし、いえ、神のようになろうと懸命に努力してきた歴史です。
神は反逆したアダムに「あなたは、どこにいるのか」と声をかけられます。
ここには、いくつかの大切な教えがあります。

第一に、神ご自身が人に声をおかけになっておられるという事です。
これは聖書を貫く福音の原点です。人が神に近づこうとするところに多くの宗教が生れますが、真の神は、神ご自身から罪人であり、弱さと恥かしさの中にある、又傲慢と放縦の中にある我々に声をかけ、近づいて下さいました。そして、人が償いきれない罪の代償として罪なき御子のいのちとひきかえに赦しをお与えになられたのです。

第二に、全知なる神が、どこにいるかと問われている事です。
どこに我々がいるかは全てご存知なお方が、どこにいるのかと問うているのは、我々自身が自らをふりかえり、自分の存在や心の内、そして神との関係を明らかにすべきだという意味があり、生ける真の神の問いかけに答える責務があることを示しています。ここからあらゆる事への解決が始まります。

<聖書のことば>

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
創世記 3章9節




「心に書かれた律法」
ローマ人への手紙2章6〜16節
2009年6月14日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 神の公平な審きは、たとえメシヤを備えるイスラエル人であろうと、他の民族であろうと変ることなく、その行いによって審かれます。ローマ教会にいるユダヤ人も異邦人も共に律法あるなしに係らず神の審きの座の前に立たねばなりません。

第一に、神は、行いによって審かれます。(6〜11)
善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者と、真理に従わないで不義に従う者との結末は違います。これには神の律法を与えられていようと、与えられていない異邦人であろうと同じであって不公平な事はありません。たとえユダヤ人のように律法が与えられていても実行されなければ意味のない事だからです。律法を持っていたり、知っていたりしただけで誇ることはできないのです。

第二に、神は、全ての人に心の律法を与えておられます。(15)
誰でも神の存在を知らなかったと弁解できないように、神の求める標準を知らなかったと言うことはできません。何故なら神の似姿につくられた人の心には、神の律法(おきて)が刻まれているからです。文字になった律法がなくても、心に刻まれた律法があり、それを良心と呼んでもよいでしょう。心の中にもう一人の自分がいます。人を不安と恐れにつき落す罪は、その最終審判者である聖なる神の赦しがあってはじめて解決されます。

<聖書のことば>

神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。
ローマ人への手紙 2章6節




「公平な審判者」
ローマ人への手紙2章1〜5節
2009年6月7日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 人が人を審く事は、大変難しくもあり、又日常に於いて安易に行われているやっかいなものでもあります。パウロは、全ての人の神への不信の実を列挙して、神のみ怒りの蓄積を示しましたが、これは選民イスラエルにも同様にあてはめられる事であって、神に特別な恩顧を与えられている民といえども、その慈愛の豊かさを軽んじ、悔い改めさえすれば赦されると、自らの罪や不従順に対する神の審きを甘く見ているイスラエルの民に、異邦人同様神の審きをまぬがれる事はできないと宣告します。何故なら神はかたよりみる事をなさらない公正な審判者であるからです。

 この事は、罪赦されて信仰生活を送るキリスト教徒にもあてはめられる事ではないでしょうか。

 キリストの十字架の贖いのみわざの偉大さを味わうことをせず、赦され審きをまぬがれたにもかかわらず、互いに人を審き、断罪し合って自らを審きの座につけて人を審くことがあるとしたら、自らも同じような事をしながら人を審くことがどれ程大きな罪であるかを知らねばなりません。

 神こそ真の公平な審判者であることをしっかり心に留める者は、自らへの赦しと愛を自覚し、神の赦しがさらに自らの認罪と悔い改めにすすませる事を知って、聖なる神の前に深くへりくだり、主のあわれみを求めて成長をとげてゆくことでしょう。

<聖書のことば>

ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。
ローマ人への手紙 2章1節




「二重の罪の実」
ローマ人への手紙1章28〜32節
2009年5月31日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 神を信じ従わない者の生活は、汚れと混乱であり、その症状が次に列挙されます。これらの具体的なリストは、他にも何ヶ所か記されています。
これらの症状は、完全に病気であって、その行先は死より他にありません。
その最大の原因は、人が神を知ろうとしなかったところにあります。(28)
これは、神を信じることを無価値なものにしたということです。ですから人は、無価値なものを大切にする人生を歩むことになったのであり、その結果は、人の生涯の終りに明らかにあらわされています。

 神から離れた人の症状は、全部で21も列挙されています。前半は、内的なもの、後半は外的なものです。これらの症状が自分にはないと言える者がいるでしょうか。これが人間の本性と言えるのではないでしょうか。

 しかし、更に罪深いことは、「これでいいのだ」「人間だから」と、己の罪深さを容認し、他をも認めているという、二重三重の罪深さがあるということです。

 神は、このような状態で人が生きるその結末をご存知です。ですから一日も早く、悔い改め、造り主のもとへ立ち返らねばなりません。神はそのために赦しの道、救いの道を開いて下さいました。人は神のもとに立ち返るまでは、真の平安を得ることはできないのです。造り主のふところにいだかれる時にこそ、私達は本当の安心を得ることができます。

<聖書のことば>

彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。
ローマ人への手紙 1章32節




「フェローシップ・タイムの意義」
ヨハネの手紙第一 1章3節b
2009年5月24日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 礼拝後の10分間はフェローシップ・タイムにしようと出席者皆さんにお願いされています。教会に集う方が増えてくるとそれなりに喜びと恵みは大きいのですが、共に集まる意義が薄れてくる傾向にあります。どなたが礼拝に参加されたのか、どなたが休まれたのか、礼拝に出席しながら名前も知らない方が次第に増えて、顔を合わせても親しさが生れないという事になってきます。又座る席が大体決っているとその周囲の方としか声をかけ合うことができなくなります。又礼拝後ただちに帰る方も多く、教会に来ていても尚々親しい交わりが持てなくなってしまいます。そこでフェローシップ(交わり)の意味を今一度考えてみましょう。

 第一に、礼拝は、共なる礼拝です。
これは個人の礼拝ではなく共に集められた(教会)者達の共なる礼拝ということです。ですからキリストの体としての礼拝であり、キリストにあることの確認であり、互いに安否を問い合う時でもありますから互いへの関心を深める交わりが必要です。

 第二に、隣人に目を向けるのは、愛の実践の第一歩です。
今年の目標は「隣人に目を向ける」ことで、これは隣人の必要を知り互いに祈り合い、助け合う第一歩を踏み出したいという事なのです。共に集まり礼拝を守るのは、礼拝を通して祝福をいただくだけでなく、キリストにある愛を互いに分けあうためでもあります。短い時でもこの時間の意義は大きいのです。

<聖書のことば>

私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
ヨハネの手紙第一 1章3節b




「神との断絶の実」
ローマ人への手紙1章24〜27節
2009年5月17日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 神のみ怒りは、人の不信と神でないものを神とする大きな罪の故でしたがその結果、人類は神の保護と祝福の中から、混乱と堕落の中へ引き渡されてしまいました。(24, 26, 28)

 第一に、心の欲望のままに汚れに引き渡されてしまいました。
引き渡すとは、見放すとか見捨てるという意味で、神との親しい交わりから切り離されてしまった事を意味します。その結果として最も顕著に現れたものは、人間の欲望にブレーキが効かなくなってしまった事です。神のごとくなりたいと願った人類は、あらゆる努力を傾けて天に達しようと働きましたが、その結末はみじめなものでした。罪におちた人間は、罪を支配しているようで実は、罪に支配されているのです。

 第二に、神が与えた正しい秩序が混乱へと引き渡されてしまいました。
その結果として最も顕著にあらわされたのが、人が人を産む聖なる神の定めた用が乱れた事です。男女の性的混乱がはじまりました。正しい自然なあり方が不自然なものに変えられ、結婚という最も幸いな男女の係わりが汚れたものに変えられてしまいました。男と男、女と女という性的倒錯が行われて、キリストと教会との関係にもなぞらえる結婚が混乱し、離婚が増加するようになりました。しかし神は、決して引き渡しっぱなしではありませんでした。そこから元に戻る道をお開き下さいました。

<聖書のことば>

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
ローマ人への手紙 1章25節




「不滅の神の栄光を変えて」
ローマ人への手紙1章21〜23節
2009年5月10日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 人が神の前に義とされるために、人が今いかなる状態にあるのかが大きな問題です。ここには、神から離れてしまった人間の状態がいくつかの言葉で表わされています。

 第一に、神を崇めないということです。(21)
これは、全ての栄光を神に帰すことをしないということで、神様のお陰ですという神の恵みと助けを覚えて神を崇めることをしていません。

 第二に、感謝することがないことです。
感謝はあっても、感謝する対象が神ではありません。私達の生活には互いに感謝する機会は沢山あるでしょうが、その源なる神への感謝はないのです。

 第三に、空しい思いと空しい生活を送らざるをえなくなったことです。
私達の人生の最後に空しさを覚えるようなものであったらどんなに悲しいことでしょうか。しかし年老いて何の楽しみもないと淋しさを覚える人が多いのではないでしょうか。

 第四に、無知な者となったということです。
私達は知識を積み上げてはいますが、物事の根源を知らない決定的な無知の中に置かれ、結果的には愚かな人生を送らねばなりません。

 最後に、不滅の神の栄光を神が創造された物と同じものに変えて神とし崇める罪の中にあるのが私達人間です。ここに救いの必要の原点があります。

<聖書のことば>

不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
ローマ人への手紙 1章23節




「被造物によって知られる神の存在」
ローマ人への手紙1章18〜20節
2009年5月3日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 いよいよ、手紙の本題に入ります。神と人との正しい関係が破壊されている今は、神の怒りの下にあるその最大の原因は、神を神としないという事であって、道徳的な罪を犯したからではなく、真の神を信じないところにあります。

 全ての人は、神の怒りの下にあります。(18)
その理由は、不敬虔と不正によって、正しい神、義なる神の真実を妨げているところにあります。不敬虔とは、不信頼であり、不正とは、神や人に対する不誠実で、その結果どなたが真の神なのかも判らなくなり、神でないものを神とし、己れの欲望を満たすために神が与えた信心を誤ったものに使っているからです。その神の怒りは、この世界にさまざまな形であらわれています。

 さらに、神は創造した全てのものの中にご自身の存在を明らかに示しておられるにも係らず、人は神を信じようとしないゆえに、神の怒りは増します。

 注意深く世にあるものを観察すれば、それが偶然にできたものではないという事位は、誰にも判る筈です。自然の美しさ、その調和、精密な構造、そこには、はかりしれない知恵と力に満ちた人格的存在者があることを容易に思わせられます。特に神のイメージに似せて造られた人間の構造は、驚くばかりのものです。人が神を信じて生きる事こそ最も自然な姿である事を認め不信と不敬虔の罪を悔い改めて神にたちかえりたいものです。

<聖書のことば>

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
ローマ人への手紙 1章20節




「義人は、信仰によって生きる」
ローマ人への手紙1章17節
2009年4月26日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 キリストを伝える働きを負債と考えているパウロは、ダイナマイトのような力をもった福音は人を神の前に正しくさせる義そのものであると言います。イエス・キリストの十字架と復活は、そこに神に義があらわされているとはどういうことでしょうか。

 義とは、旧約のテーマであり、神のおきてとして示された神ご自身のご性質であり、私達への神の求めです。人が神との正しい関係に導かれない限り、共に在ることはできません。従って人が又は社会がどう評価するかというより、神が私をどう評価するかが大きな課題であって、神とのかかわりが正しくされた時にこそ、人の真の幸せがあるという事を知らねばなりません。

 神を知らず、敬わず、己が道を歩んできた不信、不遜の罪を処分しない限り、神の前に義とされることなく、ただ永遠の滅びが待つのみなのです。

 罪なきお方が私の罪の身代わりに処罰されたこの事実が、神と人との係りを正しくされる唯一の道で、このニュースが福音であり、この痛みこそ和解の道なのです。なんと大いなる恵みでありましょうか。なんと深い愛でしょうか。

 神のなされたこのみわざは、ただ信じて感謝する以外に受け取る方法はありません。神との義しい関係をつくる事ができた人は、信仰によって始まり、信仰によって完成されてゆきます。神との正しい関係をキリストにあって築く事ができた人は、信仰によって生きるものとされます。

<聖書のことば>

なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
ローマ人への手紙1章17節




「救いを得させる神の力」
ローマ人への手紙1章16節
2009年4月19日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 ローマにある人々に福音を伝えたいと書き送ったその福音は、単なる教えではなく、即ち観念的なものではなく、信じる人に救いをもたらす神の力であると、そしてその中に神の義しさがあらわされていると言います。まず前半の福音は神の力である点を学びましょう。

 その前に、パウロは私は福音を恥と思わないと言います。
キリストのもたらした良いニュースが何故恥と思うような面があるのでしょうか。当時のユダヤ人社会では、人が神と主張することは大いなる神への冒涜でした。メシヤとも教師とも仰ぐキリストが自らを神とした未曾有の出来事こそが十字架の死の現実的な理由でした。十字架につけられた者はのろわれた者であり、行いによらずにただ信じるだけで与えられる神の義の教えは、まさしく宣教の愚かさでありました。しかしこの事こそが、救いをもたらす神の恵みであり、力であったのです。

 この力という言葉は、ダイナマイト、ダイナモ、ダイナミックの語源となった言葉です。キリストの喜びのニュースは、受け入れる人の中にあって、ダイナミックな力を発揮します。人を変え、人生を変え、永遠を変えます。長いキリスト教会の歩みはまさしくその事を明らかに証明しています。もし真の神から出ていないものであれば、世のものと同様一時的で消え去っていたでしょう。しかし神から出たものである故に全世界に今も広がるのです。

<聖書のことば>

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
ローマ人への手紙 1章16節




十字架から三日目の出来事 
「マリヤよ・・・」

ヨハネの福音書20章11〜18節
2009年4月12日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 一時は群集からダビデの再来と歓迎されたイエス・キリストは、指導者達のねたみと憎しみの中で十字架刑に処せられ、弟子達は何もかもこれで終りだと思ったに違いありません。いつもみ傍近くにいたマグダラのマリヤは、安息日の翌日の朝早く、すなわち十字架から三日目の早朝、葬られた新しい墓に行くとそこにイエスの亡骸はありませんでした。

 墓を前にしてマリヤは、涙を流して泣きます。
人が墓を前にして涙を流すのは当然です。そこには既に過去になってしまった愛する人との係りがあります。別離の悲しみがあります。人生の空しさ、いのちのはかなさがあり、ある者には後悔やこれからの不安や心配があります。これで終ってしまったという現実は、人にはどうにもならない事実なのです。

 ところがここに驚くべき出来事が起こります。信じられない事でした。
“何故泣いているのか”“マリヤよ”との、あの懐かしい聞きなれたそして死んでしまった主のお声がかけられたのです。この瞬間に人の理性を超えた出来事が始まりました。死は征服され、イエス・キリストが生きておられ、このお方こそ語られたことの真実なことと、まことのメシヤ(救い主)であることが、言葉でなく事実のあかしとして示されたのです。永遠のいのちへの夜明け、希望の夜明けでした。真の神こそが人の罪と死を解決して下さいます。

<聖書のことば>

イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、へブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。
ヨハネの福音書 20章16節




「返さなければならない負債」
ローマ人への手紙1章13〜15節
2009年4月5日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 パウロは、ローマに行く理由としてあなたがたを強めたいという事と、自分も励ましを受けたいと二つの理由を挙げましたが(11〜12)、更に「負債」があると言います。負債とは返さなければならないおいめを意味します。
即ち、本来彼等のものである筈のものを今自分が借りている、だからこれを返済しなければならないのだということです。その返さなければならない相手は、ローマにあるあらゆる階層の人達です(14)。更には、「あなたがたにも、ぜひ・・・」なのです。

 まず第一に、あらゆる階層の人々への負債、ローマ人には当然の事、ギリシヤ人にもその他の人達にも借りがあって、それを返さなければならない負債と、伝道の事をとらえています。全ての聖徒がこの負債を負っているととらえるべきでしょう。伝える義務の背後に返すべき負債と考えた事があったでしょうか。即ちこの福音は、本来全ての人に与えられているものだがその知らせを託されている私達が、そのニュースを伝えなければ負債は残ったままです。どれ程の負債が残っていることでしょうか。

 第二に、あなたがたにも(15)負債があるのです。即ちローマにいる聖徒達にもです。救いをいただいているローマのクリスチャン達への負債とは何でしょうか。福音の深さを伝える責任なのでしょう。救いは入口、バプテスマはみ国への第一歩、救いの道の深さを伝える務めは実に大きな務めです。

<聖書のことば>

私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
ローマ人への手紙 1章14節




「戦友」
テモテへの手紙第二 2章3節
2009年3月29日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 パウロはテモテをわが子と呼び(2:1)、真実のわが子(第一テモテ1:2)とも呼んで、テモテの成長ぶりとその働きのすばらしさに喜びを表わしています。現在獄中にありしかも晩年殉教まもない時に愛するテモテに書き送られた手紙として、伝道者としての熱い念いがこめられています。

 このおことばは、伝道を戦いと考え、又信仰生活そのものも一つの戦いと考えていることが判ります。他の書に於いて、エパフロデトを戦友と呼び(ピリピ2:25)アルキポも戦友と呼んでいます(ピレモン2)が、いのちをかけて、この世の悪しき力との戦いをする信仰者の在るべき姿をここに教えられます。戦友ということばから何を学ぶことができるでしょうか。

 第一に、戦う同志であるということです。
キリストを王として、神の国の拡大の為にいのちをかけて戦う同志です。同じ目的、同じ心をもってキリストの為に戦う兵士なのです。

 第二に、いのちがけの戦いにいどむ戦士です。
死を身近にしながら戦ってきた戦友には特別な思いがあるといわれますが、まさしくパウロもテモテも殉教の死をもってその戦いを終えたことを思う時そこには深い同志としての愛があったことでしょう。

 苦しみを共にすればする程そこにはキリストにある深く強い絆が生まれるものです。私達は戦友でしょうか。或は単なる信仰の友でしょうか。

<聖書のことば>

キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。
テモテへの手紙第ニ 2章21節




「互いに分けあう恵み」
ローマ人の手紙1章9〜12節
2009年3月22日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 ローマの教会のクリスチャンにまず感謝をしたパウロは、次に熱心にローマ行きを願った理由を伝えます。ここには会ったこともない人ではありますがキリストにあって交わる交わりのすばらしさが示されています。

 第一に、あなたがたを強くしたいと言います。
強くしたいとは、確立したいという意味で、主に対して確固とした信仰を持っていただくために、自分に与えられた神の恵みの賜物を分け与えたいと言うのです。ここで言われている賜とは、まず大いなる賜(たまもの)救いでありましょう(15)。福音によって与えられるキリストによる救いは、最も大いなる賜です。それに伴う様々な恵みを分け与えたことによって、共に喜びを分けあうことができます。キリスト教徒の交わりとは、キリスト経由の交りであって、それによって互いに強められ、励まされるものです。

 第二に、自分も励ましを受けたいと言います。
分け与える恵みと共に、相手からも励ましをいただく謙虚な姿勢こそ、交わりを豊かに成立させる秘訣です。私達が誰と親しく交わり、どのような交わりの仕方をするかは、とても大切なことです。人は何に関心を持つか、何と関係を持つかによって、人生は変ります。救主イエス・キリストに関心を持ち、キリストと親しくすることによって、まちがいなく人はすばらしくなり、かつすばらしいクリスチャンとの交わりをいただき一層豊かにされていくのです。

<聖書のことば>

私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。
ローマ人への手紙1章11節




「あり余る奉仕」
出エジプト記36章1〜7節
2009年3月15日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 主の恵みを数えてみれば、教会創立以来48年間会堂にかかわる祝福は驚くべきものでした。当初37坪の借地から始まった集会は、三階の新会堂、下永谷での新々会堂、さらに隣接地の購入で敷地650坪に、そして教育館の増築、礼拝堂の拡張、牧師館としてマンション購入等々、まさしく幕屋の建設の為に、奴隷状態のエジプトから脱出し、荒野での厳しい生活に耐えている民が、次々と持てるものをささげ、立派な幕屋を建てたさまによく似ています。

 主の命によって建てられた幕屋は、やがてソロモンの神殿に受けつがれ、さらに新約の教会に継承されています。

 ここから三つのめぐみを教えられます。

 第一は、幕屋建設のために民は、感動をもって持てるものをおささげした事です(2)。幕屋は最高のものをもって作られました。心の感動なくして、たとえわずかでもおささげすることはかなわなかったでしょう。

 第二は、心からすすんでささげました(3)。強いられてでもなく、いやいやながらでもなく、喜びと感謝をもってささげられました。これなくして継続したささげものはできません。

 そして第三に、この奉仕はあり余るものでした。もうこれ以上しなくてもよいと言われる程に、民は毎朝ささげ続けたのです。

 神のみわざの為に感動し、自らすすんで、喜びを持っておささげするところに主の働きは進展します。私達もそのような民でありたいものです。

<聖書のことば>

モーセに告げて言った。「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。」
出エジプト記 36章5節




「私の神に感謝します」
ローマ人への手紙1章8節
2009年3月8日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 なによりも先ず感謝するところから始めるパウロの手紙、そこにはキリストを信じて救われた新しい人の姿があります。

 まず第一に、と感謝の気持を伝えます。パウロの感謝は神に対する感謝ですが、それはとりもなおさずローマにいる聖徒の素晴らしさによるものですが、パウロは、神に感謝すると言うのです。感謝の心をもって人に接する事は人を豊かにし、自分自身も豊かになるものです。この手紙を受けとったローマの方々は、パウロの手紙を喜びをもって読んだのではないでしょうか。

 その感謝の内容は、彼らの信仰が全世界の人々に言い伝えられているということでした。迫害と困難の中にあっても彼らはしっかりと信仰に立って、決してゆらぐことはありませんでした。彼等の勇気と忍耐、それにキリスト者としての品性は、困難の中で実証されたのです。わずかな事で心をひるがえし、信仰の道からそれ、教会生活を放棄してしまう者が多い中で、彼等の評判は、キリスト教世界になりひびいていたのでした。伝道者パウロにとってそれはどんなに大きな喜びであったことか、言葉に表せない喜びであったことでしょう。

 しかしパウロの感謝は、彼等にというより、彼等をそのようにして下さっているイエス・キリストに感謝するのです。ここにキリスト者の真の特徴があります。

<聖書のことば>

まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
ローマ人への手紙 1章8節




「神に愛され召された人々」
ローマ人への手紙1章7節
2009年3月1日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 これは手紙の宛先へのあいさつです。ここには二つの点がしっかりと語られていて、一つはこの手紙を受け取る人達がどのような人達なのか、もう一つは、パウロの祈りのこもったあいさつです。

 第一に、神に愛され、召された聖徒たちへ。
キリストを信じて救われた人の立場がはっきりと語られています。即ち神に愛されていること、滅びと罪の世から呼び出されたこと。そして神に聖別された人々であること等です。彼等が特別であるわけではなく、誰しもが神の愛とみこころの対象であり、福音を理解し心を開きさえすればこの豊かな恵みにあずかることができるのです。神に愛されている事を知ることは何とすばらしい事でしょうか。人に勇気と希望を与え、喜びと力を与えます。

 第二に、恵みと平安があるようにとの祈りです。
父なる神とイエス・キリストとが同等におかれているという事は、主が語られたごとく「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)という主の教えが確実であることが示されています。恵みとは、働きのないものに与えられる豊かな報いであり、平安とは、この世の与えることのできない(ヨハネ14:27)まことの平安です。恵みも平安もキリストだけが与えることのできる大いなる賜です。遠く離れたローマにあるキリスト教徒であっても、イエス・キリストにあって同じ恵み同じ平安の中にある幸いは、今も同じです。

<聖書のことば>

ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。
ローマ人への手紙 1章7節




「信仰の従順へ」
ローマ人への手紙1章5〜6節
2009年2月22日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 パウロは自分の務めをいかに重く受けとめていたかがこの2節の中にあらわされています。私たちと複数で表現しているのは、同じ職務にある者も同様であるとの認識であって、自分一人の事ではない、世々にわたってキリストによって福音を伝える務めにあずかる者全てが、この重要な働きに召された者であることを示しています。その務めの目的を二つ挙げています。

 一つは、御名のためです。
御名とは、名であってそれは人格を表し、人そのものという意味です。すなわちイエス・キリスト救い主のため、その栄光のために委ねられた務めであるという意味です。自分のこの世に於ける働きを何の為にしているかをはっきり自覚して働いているという事は大切な事です。その目的によって日々の働きの価値が定まるからです。働きの目的は何かを問われます。

 二つ目は、あらゆる国の人を信仰の従順にいたらせるためです。
信仰の従順とは、信仰から生まれる従順ととるか、信じることに素直になるととるか、信仰そのものが人として従順な在り方であるととるか、いく通りにも解釈できそうですが、信仰から生まれる従順ととるのが最適でしょう。私達は生まれつき不従順な者です。しかし神の偉大さ、その愛の深さ、ご計画の壮大さを知れば人は己を低くせざるを得ません。まして自分の弱さ罪深さを知れば尚更です。人は神を知ってはじめて己を知ることになります。

<聖書のことば>

このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。
ローマ人への手紙 1章5節




「真の隣人」
ヨハネの第一の手紙4章7〜21節
2009年2月15日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 「隣り人」ということばを聞く時、キリスト教徒は少なくとも二つの聖書の箇所を思い浮かべるに違いありません。一つは旧約の十戒の九戒と十戒、隣人に対し偽りの証言の禁止と貪りの禁止の戒めです。もう一つは、新約の有名な良いサマリヤ人のたとえで、当時の律法学者が隣人とは誰かとの問いにお答えになった主の教えです。総じて「自分を愛するように隣人を愛せよ」という神の掟が貫かれています。残念ながらこの掟を守れる人はいません。私達は、この神の標準に達することのないまことに弱い罪人であることを認めなければならないのです。そしてそこにこそ神のみこころがあることを知らねばなりません。この戒めを守れないにも係わらず守っていると自負した律法学者こそ主が最も嫌われた偽善者でした。

 では真の隣人とは誰なのでしょうか。
強盗に何もかも奪われ打ちのめされて立ち上がることのできない憐れな者こそ私達だとすれば、徹底した愛を示したサマリヤ人は、神の御子イエス・キリストです。この愛を知った者こそが掟に従うという方法ではなく、キリストの愛を知り、受けた者としての愛を持つことができます。

「愛する者たち、神がこれほどまでに私達を愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(第一ヨハネ4:11)  神がまず私たちを愛して下さったこの愛を知る者だけが隣人となり得るのでしょう。

<聖書のことば>

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
ヨハネ第一の手紙 4章10節




「この福音」
ローマ人への手紙1章2〜4節
2009年2月8日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 自己紹介とあいさつの間に押えられない気持のあらわれのように、本書のテーマとも言える福音について書き記します。

 第一に、福音、即ち喜ばしいニュースは、旧約の昔から約束されていたものであって、急に起こったものでも、偶然のものでもないという事です。旧約聖書に記されている預言者のことばの多くに、人類が嬉しくて、喜ばしくて踊り出したくなるようなニュースがあって、それが今実現したのだと言うのです。新約聖書のマタイによる福音書の一章に出てくる系図は、まさしく世を救うメシヤがユダヤ人の祖アブラハム、そしてダビデの家系から生まれた事が示されています。ルカによる福音書にはアダムまでさかのぼって記され、神の長い計画によってなされた事実であることが示されています。

 第二に、この福音の中心は、イエス・キリストだという事です。
観念、思想、主義のようなものでなく、イエスという一人の人の事であり、このお方を抜きにしては、キリスト教は成立しないのであって、このお方が何を教えたかでなく、何をなさったかが福音の根本なのです。又、このお方はたんなる人ではなく神としてご自分を示され、そのしるしとして死から復活によって証明されました。この事はパウロの生涯に決定的な変革を与える事となりました。それは又私達にも同様な革命を与えるものです。

<聖書のことば>

この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。
ローマ人への手紙 1章2〜3節




「イエス・キリストのしもべ」
ローマ人への手紙1章1節
2009年2月1日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 ローマ人への手紙の講解に入りました。毎週のメッセージから教えと力が与えられるよう祈ってお集まり下さるようお願いします。さて・・・・

 新約聖書の中でも最も体系的に記されたこの手紙は、ローマにいる聖徒達に書き送られました。パウロが送り主である事は疑われた事がありません。しかし彼は未だローマに行った事がないのです。又、ローマにはしっかりした指導者が未だいなかったのでしょう。偽りの教えから彼らを守る為に本書が、フィベの手によってローマの聖徒達に届けられました。その冒頭でパウロは自己紹介をしています。ここには三つの大切な要素が示されています。

 第一に、キリスト・イエスのしもべである。
しもべとは当然の事ながら奴隷という意味で、復活のキリストにお会いして後、完全に自分の人生の転換を経験したパウロは、イエス・キリストこそ我が神、我が主として仕える生涯へと変えられたわけです。

 第二に、使徒として召された。
使徒職とは特別な立場で、直接キリストから呼び出され、キリストの生涯と死と復活の証人であることをあらわしています。

 第三に、福音のために選び分けられた。
自分の立場と使命を明確に自覚したセルフイメージは、パウロの生涯を貫く確固とした確信であって、私達の生涯にも必要なものです。

<聖書のことば>

神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ
ローマ人への手紙 1章1節




「全ての終りにハレルヤ」
詩篇150篇
2009年1月25日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 詩篇150篇の最終篇で、ここには主をほめたたえよ。即ちハレルヤが12回も歌われています。まことに神をほめたたえる賛美集の最後に相応しい歌です。内容的には4つの問いに答える形で構成されていて、どこで、何故、如何に、誰が、に各々答えられています。ここから何を学ぶことができるでしょうか。

 第一に、全ての終りにハレルヤと主をほめたたえることです。
全ての事には初めがあり、終りがあります。私達の一生にも多くの始まりがあり、終りがあるのです。その最後に神をほめたたえることの出来る者は、全ての事には神のご計画と最善があると信じられる人なのです。たとえ人の目に最悪と思えるような事であっても、神の最善を信じられる人には、ハレルヤなのです。

 第二に、全ての事にハレルヤと主をほめたたえることです。
全ての事感謝せよ(第1テサロニケ5:18)と命じられています。日々の営みにおいてあらゆる事に感謝のできる人は、どんなことにもハレルヤと主の御名をほめたたえる事ができます。これは命令です。

 第三に、全てのものを総動員して主をほめたたえることです。
あらゆる楽器をもって、あらゆる人の声を集めて、全ての被造物が神の大いなる事をほめたたえ、神に栄光をおかえしするのです。神にハレルヤ。

<聖書のことば>

息のあるものはみな、主をほめたたえよ。
詩篇 150篇6節




「新しい歌を歌え」
詩篇149篇
2009年1月18日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 この詩篇もハレルヤ詩で、ハレルヤで始まりハレルヤで終っています。かつて何回か出てきた新しい歌を歌えとの勧めの背景には、民の周辺の部族への勝利があるように思われます。新しい歌とはどのような歌なのかをこの詩篇の中から探してみましょう。

 第一に、これまで歌ったことのない歌です。(1)
これまで歌ったことのない、新たな感動をもって歌う歌、これまでの人生で歌ったことのない歌は、まさしくある人にとっては神をほめたたえる賛美そのものでありましょう。

 第二に、新しくされた人の歌です。
歌は誰でも歌えるでしょうが、声と言葉と心をもって喜びの賛美をささげられるのは、賛美するお方とキリストの豊かな救いを体験した者でなければできません。人生を全く新しくされた者だけが歌うことの出来る新しい歌です。

 第三に、喜びの歌です。(2)
その喜びは踊りさえももたらす大きなもので、昔ダビデが契約の箱をペリシテからとり戻し、エルサレムに運び入れる際、「喜びのあまり踊った」ごとく、体全体であらわす喜びです。

第四に、勝利の歌です。(5)
勝利の凱旋の歌であって、世と死に勝利を治めた勝利の歌こそ新しい歌です。

<聖書のことば>

ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。
詩篇 149篇1節




「天よ、地よ、ハレルヤ」
詩篇148篇
2009年1月11日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 生物、無生物を含めて、全ての被造物に神をほめたたえることをよびかける詩篇です。1節から6節までは天上のもの、7節から14節までは地上のものへよびかけています。その理由は何でしょうか。

第一に、神は、万物の創造主であるからです。(5)
 天にあるものも、地にあるものも全て神のみこころによりおことばの宣言によって創造されました(創1:3)。被造物が創造主に対しその大いなる御力をほめたたえる事は当然の事であり、又神はそれを望みかつお喜び下さるのです。全ての被造物の最後に創造された人類も、神をほめたたえることこそその本分と思うべきです。

第二に、神の栄光の偉大さのゆえに神をほめたたえるべきなのです。(13)
 神の力とその英知は、はかりしることができません。人はその偉大さの前に何と小さく、かつ弱い存在なのでしょうか。ダビデのように「人は何者なので、みこころにとめられるのでしょうか」と叫ぶばかりです。

第三に、人の尊厳を回復されたからです。(14)
 神は、神のもとから迷い出、失われた人類のために回復の道を開かれました。神をほめたたえ、神のみ栄えをあらわし、栄光を神に帰すべき人の在り方を捨てて、己が栄光をのみ求める人類のために、神はその行く末をご覧になって救いの道を開かれました。そのみ業の為にハレルヤ。

<聖書のことば>

主は、その民の角を上げられた。主の聖徒たち、主の近くにいる民、イスラエルの子らの賛美を。ハレルヤ。
詩篇 148篇14節




「隣人を愛す」
ピリピ人への手紙2章3節〜4節
2009年1月4日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 新年度から三年間の教会目標は、「隣人を愛す」で、その前提として過去三年間の「キリストを愛す」があります。キリストの愛を知りその愛に応えるところに隣人を愛す心と行動が生れてくるわけで、ただ単に隣人を愛しましょうと努力するところには、聖書的、キリスト教的意味はありません。

 私達が大きな誤りを犯すのはこの点なのです。たしかに社会には私達以上に生活に於いても行動に於いても立派な人達が多くいるわけですが、その動機と力の源は異なります。それはいみじくも山上の説教の結びで語られた砂の上の家と岩の上の家になぞらえることができます。

 まず、隣人とは誰かという当時のユダヤ人の問いかけから学ばねばなりません。第一は、おきてとか習慣、過去のいきさつや人種の壁をとり払うことです。今、私達には余りそのような必要はないのかもしれません。しかし人と人との間にある目に見えない壁を、まず乗り越えるところから、即ち自分の中にある自尊心や利己心の壁をとりのぞくことが隣人愛の第一歩です。

 第二は、よきサマリヤ人としてのイエス・キリストの愛のわざを体験することです。罪に打ち倒され再起できなくなった自分を救い、介抱して下さったキリストの愛を知った時、私達ははじめて隣人を愛せるようになります。それは無条件の愛であり、ささやかであっても消えない愛です。自分の事しか考えなかった私が、他の人の事を考えられるような愛は奇跡の愛なのです。


<聖書のことば>

自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
ピリピ人への手紙 2章4節