聖書からのメッセージ

【礼拝説教要旨】

「あなたはわたしを愛しますか」
ヨハネの福音書21章15〜18節

2008年12月28日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 この三年間の教会目標は「主を愛す」でした。キリスト教徒のあらゆる生活と行動の動機は、主イエス・キリストへの愛に基づいています。それ以外のものであるとすれば、どこかで躓きがやってきて自分にも人にも痛みを与えることとなります。そこでこの三年間を顧みて心を新たにすることにしましょう。そしてこの「あなたは、わたしを愛しますか」との問いかけを今日自分にむけられた主のおことばとして、それにお応えすることにいたしましょう。主は私達を極みまで愛されたのですから。(ヨハネ13:1)

 第一に、主イエス・キリストを愛していますか。
主を愛しているならば主のみこころを行おうとするものです。そのための困難や苦しみに容易に耐えるでしょうし、よろこんで従い、労をいとうことはありません。そして主に似てくるのです。

 第二に、主のお体なる教会を愛していますか。(エペソ1:23)
教会とはキリストを信じる聖徒の集りです。その頭は主キリストであり体は集められた私達です。わけへだてなく愛し、互いに仕え、善を行う事は主を愛する者のあかしです。主を愛するけれど教会を愛さない事は偽りです。

 第三に、主がおたてになった器を愛していますか。(使徒20:28)
教会にたてられた牧師は、主がおたてになった器です。牧師の指導に従うならば、群れは正しく維持できます。主を愛しましょう。


<聖書のことば>
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」
ヨハネの福音書 21章17節




「神の贈りもの〜平安〜」
ルカの福音書2章14節

2008年12月21日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 キリストのご降誕における天の軍勢(み使い)の祝いの賛美は、神に栄光があるように、そして地に平和があるようにというものでした。

 長い人の歴史に平和が築かれたかというとそうではありません。平和を願いつつも世に平和はもたらされませんでした。それは人の心に真の平和がないからではないでしょうか。

 神が私達に与えようとしている平和とは一体いかなる平和なのでしょう。

 第一に、神との平和です。
人が今神との間に戦争状態にあるという事を知りません。神への不信と不従順が神の怒りをかっているという事を知りません。神との平和こそ人の心に平安をもたらし、人と人との間に平和をもたらします。それを実現されたのがイエス・キリストです。

 第二に、永遠への平安です。
死で終りだと考える人生に真の平安はありません。死の後に永遠の安息を約束されるのはイエス・キリストです。このお方だけが死に勝利された復活のメシヤだからです。天のみ国への約束を得た者だけに真の平安があります。

 第三に、神が共にいて下さる平安です。
インマヌエルとはまさしく神が私達と共にいて下さるという意味で、メシヤの降誕はその実現です。神が共にいて下さるなら恐れはありません。


<聖書のことば>
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
ルカの福音書 2章14節




「心の砕かれた者をいやす神」
詩篇147篇

2008年12月14日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 ギリシヤ語訳旧約聖書(七十人訳)には「ハガイとゼカリヤのハレル」という表題がつけられているという事で、この賛美はバビロン捕囚から解放された民が神殿と城壁を再建した時に歌われたものではないかと推測されます。

 家を再建し、町を再建しても軍隊の力(馬の力)によって守られるのではなく、真の守りは心の打ち砕かれた者に働かれる神によってなされるのだと言うことがこの詩篇の中心思想です。

 私達は自分を守るために様々な手段を考えますが、イスラエルの民があれ程強固な国をつくりつつも、神への不信によってもろくも周囲の国に打ち崩されたように、人が神を信頼することなしに真の守り、保護を得ることはできないのだという事を覚えるべきです。

 神の守りは心の打ち砕かれた者、傷つき倒れた者に与えられるのであって馬の力、人の力に頼る者に与えられるのではありません。心砕かれた者とはどのような者かと言いますと、自分の弱さを悟った者です。そのような人は真剣な求めを持つものです。自分や人に失望した者は、神を求めるでしょう。その人の特徴は謙虚であるという事です。神から離れ己が道を歩む者は、謙虚さがありません。しかし自ら築いてきた自分の力のあかしがいとも簡単に崩されるのを経験した者の辿る道は、絶望か求道かどちらかです。賢明な人は求道の道を選択するのです。神はそのような者をお見捨てになりません。


<聖書のことば>
主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。
詩篇 147篇3節




「信頼し得る救助者」
詩篇146篇

2008年12月7日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 146篇から150篇詩篇最後までは、ハレルヤではじまりハレルヤで終る詩篇最終章にふさわしい神をほめたたえるハレルヤ詩です。この記者は生きているかぎり主をほめたたえるとうたいます。私達の人生もかくありたいものです。人生の終りにハレルヤと主をほめたたえて満たされた人生に感謝して御国へと導かれたならなんと幸いなことでしょう。

 まず詩篇の記者は人に望みをおくことの空しさを歌います。たといこの世の富と権力を手に入れた王であろうと、人に信頼してはならない。何故なら人は救いを与えることができないばかりか、自らも救われなければならない罪人だからです。たとえどんなに多くの計画をたてようと又願いを持とうと、人はその中半で挫折を経験しなければならないわけで、その終りは突然やってくるのです。

 まことに、信頼し得るお方はただ一人天地を創造された活ける神です。そのお方は造り主であるだけでなく、真実にして正しく審かれるお方、しかもあわれみといつくしみ豊かなお方であり、始めも終りもない永遠なるお方です。このお方に信頼する者は、決して失望させられる事はありません。そしてこの大いなるお方は、キリストとして人の姿をとられて世に来られました。それは、迷い出た人類の救いの為です。主は神としてのあかしをたてられ、神と人との仲保として自らを罰し私達の身代りとなられました。ハレルヤ!


<聖書のことば>
ハレルヤ。私のたましいよ。主をほめたたえよ。私は生きているかぎり、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。
詩篇 146篇1〜2節




「呼び求める者に近くあられる神」
詩篇145篇

2008年11月30日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 神は、すべてのものにいつくしみ深く、造られたすべてのものにあわれみ深くあられる(9)お方ですが、神の祝福をいただく為には、いくつかの必要があります。

 第一に、まことをもって呼び求めることです。(18)
自らの欠乏を認め、主がお与え下さる事ができるとの信仰をもち、真剣に、真実に呼び求めることが必要です。求めなくても与えられると思ってはなりません。全知の神は私が何を必要としているかをご存知ですが、私自身が真に必要なものを知っているかどうか、そしてそれを求めているかどうかを知ろうとされています。又どれ程熱心に求めているかを知ろうとされているのです。

 第二に、主を恐れる心が必要です。(19)
主をためしてはなりません。軽んじてはなりません。大いなる全知全能の神を恐れ敬いつつ、謙虚に求める必要があります。

 第三に、主を愛することです。(20)
愛するとは、神を第一にすることであり、何にもまして優先することです。犠牲をおしまないことです。いつも心に思っていることです。神を時々思い出し、困った時だけ呼び求める事がまことをもって祈る者の姿とは思えません。神への真実な祈りと、敬虔なおそれをもって、祈る者に、主は近くあられます。


<聖書のことば>
主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。
詩篇 145篇18節




「ナアマン将軍−病を通して得たもの」
列王記第二 5章1節〜14節

2008年11月23日 第4聖日 伝道師 福田敬三

 将軍ナアマンのらい病(ハンセン病でなくツァーラトまたは重い皮膚病)の癒しほど、神を信じ受け入れ、救われることの素晴らしさを表わし、またそれを逃してしまう原因を明らかにする出来事は他に多くはありません。

 ナアマンはアラムの王に重んじられた勇士で、社会的地位と名誉を得てはいましたが、内面には自分ではどうすることも出来ない病を抱えていました。この病は、聖書では「罪」の病と言われます。罪とは犯罪として行為に表れたものだけでなく、真の神から離れ、神のみ旨に対し的外れに生きることも罪で、私達を不幸にする大きな原因です。喜びと安らぎを奪い去ります。

 その病の癒し、罪の解決を逃す第一の原因は不従順です。エリシャはナアマンに使いの者をやって、「ヨルダン川で七度身を洗え」と言います。従えば癒されるのに、ナアマンはそれを愚かしいと思い怒り、聞き従いませんでした。

 第二の原因はプライドです。エリシャ自身が出てきて特別なことをしてくれるだろう。自分はそれにふさわしい。癒しの代金として銀、金、晴れ着と考えていたようです。彼にはプライドがあり、謙遜がありませんでした。

 しかしその後、言われた通りヨルダン川に身を浸し、そして癒されました。ナアマンは、「イスラエルのほか、世界のどこにも神はいない」と真の神を見出し、その神を神として生きる幸いな人生へと入れられました。人は神の前では罪人に過ぎず、神の御前にへりくだるとき、神は豊かに働いてくださいます。


<聖書のことば>
そこで、彼はその一行の者を全部連れて神の人のところに引き返し、彼の前に来て、立って言った。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました
列王記第二 5章15節




「主をおのれの神とする者の幸い」
詩篇144篇

2008年11月16日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 ダビデの青年時代、ペリシテ人ガテのゴリヤテとの戦いにおける勝利が、この歌の背景かもしれません。一貫して流れる思想は勝利の喜びです。

 まず、戦いに強い大いなる神への賛美がささげられます。
主は戦いのために自分の手と指を鍛えて下さる。これは弓を射るための力のことでしょう。同時に戦う意欲をも与えて下さるお方です。戦意をなくしていた王の軍勢をしりめに石投げ器一つで巨人ゴリヤテに立ち向かって勝利したダビデに「この戦いは主の戦いだ」と言わしめたのは神ご自身でありました。
私達の人生の戦いに、戦う意欲と力を与えて下さるのは、世に勝たれたイエス・キリストの力によります。ダビデと共に神はわが岩、わが恵み、わが城と信仰の声をあげたいものです。

 しかしそのような私自身は、無力で息のような、又影のような存在だと告白します。自分に自信があれば神を必要としません。しかし世に自分にどこまでも自信を持ち続けることのできる人がどれ程いるでしょうか。人の限界を知ることこそ、人の本来の在り方であり、その事に早く気付いて「主こそ我が力」と叫ぶところにこそ人の真の力があり、祝福があることに気付きたいものです。真の勝利はそこにあります。

 ダビデは、主をおのれの神とする者に、大いなる祝福がもたらされるとあかしします。それは家庭の祝福、収穫の豊かさ、悲しみの解決と希望です。


<聖書のことば>
幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。
詩篇 144篇15節




「みこころを行なうことを教えて下さい」
詩篇143篇

2008年11月9日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 この詩篇は、7つの悔い改めの詩篇の一つに数えられ、70人訳聖書の表題には、「彼の子、彼を迫害したとき」とあり、息子アブシャロムの反逆が背景にあることを示唆しています。

 かつては、主に対して誠実に心熱く仕えていたのに、今は暗やみの中で枯れ果てている、そんな私を救いみこころを教えて下さいと祈る祈りの歌です。

 苦しみの中でダビデは、昔の日々の恵みを静かに思い出しています(5)。彼にとって昔の思い出は、主の御名によって戦った巨人ゴリアテとの勝利ではなかったでしょうか。サウルに仕えつつ戦いに出る度に大勝利を治めた事であったでしょう。主が共にいて下さったからこその恵みでした。私達も時々過去の恵みを思い起こし、一つ一つ数えてみることは、よいことです。

 困難の中で心迷う時大切な事は、神のみこころを知ることです。これこそ人としての第一の務めであるからです。教えられたらそこに歩むことこそ、自分が生きることです。人が神のみこころに従って生きる時程輝いていることはありません。神のみこころが判ったならそれに従うことです。何故なら全てのことは神のご支配の中にあるからです。すなわち私達は、どんなに反逆しても、不従順であっても、神のご支配から逃れることはできないからです。かつては罪の奴隷であったものが今やキリストゆえに義の奴隷とされました。いずれにしても人は従うもののしもべなのです。


<聖書のことば>
あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださる
詩篇 143篇10節




「牢獄からの解放」
詩篇142篇

2008年11月2日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 表題によれば、「彼が洞窟にいたときに」とあり、それはサウルに追われて荒野に逃れ洞窟を隠れ家としたダビデの最も苦しい時が背景となっている事が判ります。これまでにそのような状況の下での祈りが多く詩篇の中にみうけられました。まさしくダビデの生涯に於て最も危険な、いのちの危うい時でありましょう。神はその中からダビデを救い平らな道へ導かれました。

 ダビデは叫び求めます(1〜2)。今私の霊は衰え果て、私を顧みる者もなく、のがれる所も、気を配る者もいない。味方もいないし自分の居場所もないと訴えています。私達も実はこのダビデのように罪と死の牢獄の中で、私を心配してくれる者、声をかけてくれる人も、のがれる場所もないと魂の叫びを持つ者ではないでしょうか。しかしダビデにとってただ一つ真の避け所がありました。それはダビデの生涯をその御手の内に握り、祈りを聞いて下さる真の神でした。彼は言います、「神こそ私の分の土地だ」と。それは今は洞窟だが私自身は神の内にこそ私の居場所があるということです。神のみが私自身の全てを知り、この苦境を知って下さっている。そしてこの牢獄から私を救い出して下さることのできるお方だと信じています。

 今、神は私達を罪と死の牢獄から救い出そうとしておいでです。既にキリストの十字架と復活は、牢の戸を破り、赦しといのちの道を開いて下さいました。それを信じて出るか出ないかはあなたにかかっています。


<聖書のことば>
私のたましいを、牢獄から連れ出し、私があなたの御名に感謝するようにしてください。正しい者たちが私の回りに集まることでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです。
詩篇 142篇7節




「交わりの限界」
コリント人への手紙第ニ 6章

2008年10月26日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 交わりとは人と人との交友を意味しますが、聖書では、真の神との親しいかかわり、信仰者同士の交友、教会と教会との係りを含めて交わり(コイノーニア)と表現しています。神との交わりの回復こそ真の交わりの出発点であることは言うまでもありません。キリストを仲介とした信徒同志の交わりは、人間の弱さや愚かさを越えて赦しを土台としたうるわしい交わりが期待されています。それは又この世のあらゆる差別、慣習を越えたものである事は、主ご自身が身をもって教えて下さったものでした。教会の中にキリストを中心とした交わりがある時、そこに祝福を見ることができます。

 一人の人間としての交わり、一人のキリストを信じる信徒としての交わり、キリストを頭と仰ぐ教会としての教会同志の交わり、それらは尊重してしかるべきものであるに違いありません。

 しかし、何をもって交わりの基準にするかによって交わりは変ります。人としての交わりも悪しき者と交われば大きな害を受け、信徒として又教会としての交わりは聖書という基準を抜きにしては考えられません。神のおことばを軽んじ、その教えの基本に従わない者であれば、深く交わることを警戒しなければなりませんし、教会と教会の交わりに関しても相互の教会を尊重しつつも、聖書の教えに不忠実であれば当然の事ながら協力関係や親しい交わりは難しいのです。交わりにも限界があることを心得ておきましょう。


<聖書のことば>
不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
コリント人への手紙第二 6章14節




「私のくちびるの戸を守って下さい」
詩篇141篇

2008年10月19日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 苦しみの時に助けを求める祈りですが、悪に対して悪をもって報いたくなる自分を守って下さい。特にののしりにののしりかえしたくなる自分の思いと口を守っていただきたいという、敬虔な祈りの詩篇です。

 私達は、自分に敵対する者の憎しみや態度にどうしても感情的に応対しやすいものです。この世は木を刻み、畑をたがやし土を掘りかえすように人の心に痛みや苦しみをもたらすことが多いし、自分の内にも人の成功を喜ぶより、人の不幸に快感を覚えるようなおぞましい心がひそんでいる事をたびたび教えられるものです。ダビデは度重なる周囲のいたぶりに、自分の口から悪しきことばがとび出すのを恐れて、見張りをおいて下さい、守ってくださいと願っています。

 と同時に、神に対して口を大きく開くことを示しています。人に語るより神にむかって口を開き祈ることをするダビデに大いに学びたいものです。

 「急いでください」「彼らが悪行を重ねても、なおも私は祈ります」「私の目はあなたに向いています」「私を放り出さないでください」。ひとことのことばが人を勇気づけ、ひとつの言葉が人の一生を台なしにし傷つけてしまうことがあるものです。ことばは内から出るものですから内なる心が清められる必要があります。主はののしられてもののしりかえすことをしませんでした。キリストの救いと愛こそが、私達の口の見張人となりますように。


<聖書のことば>
主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。
詩篇 141篇3節




「私の主、神、我が救いの力よ」
詩篇140篇

2008年10月12日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 悪のたくらみから神の守りを願う祈りの詩篇です。
 悪しき者の働きは、ダビデにとって実際に身のまわりにいる敵のことでしょうが、今の私達にとっては、目に見えない悪の働きでありましょう。その働きは、私達が神に近づこうとする時、それに敵対して必ず妨害をくわだてる悪しきたくらみであり、それは執拗にして巧妙です。罠をしかけるがごとく知らぬまにおとしこまれてしまうもので、余程気をつけていないと、まんまとその手管にはまってしまいます。計画的、継続的、策略的、悪意的です。わたし達は、みことばの光とキリストへの信仰によって、悪の力から守っていただかねばなりません。

 たとい救いにあずかった者でありましょうとも、救われた後にも巧妙に堕落させる働きを執拗にしてくる事を覚えておかねばなりません。その策略にはまれば、喜びも平安も失い、信仰者とは言えないような以前より悪い生活へと落としこまれてしまいます。死んだクリスチャンになってしまいます。ですからダビデと共に「主よ。私をよこしまな人から助け出し、暴虐の者から私を守って下さい。」と祈りましょう。悪しき者は、たくらみに誘惑し、主イエスへの誘惑のようにこの世の栄華を与えると誘惑するでしょう。そんな時主がなさったように、みことばにより、はっきりと私の主への信仰を告白し「サタンよ退け」と言える信仰の力を、我が救いの神に求めましょう。


<聖書のことば>
私の主、神、わが救いの力よ。あなたは私が武器をとる日に、私の頭をおおわれました。
詩篇 140篇7節




「人生の終わりの準備できていますか」
ヨハネ黙示録14章13節

2008年10月5日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 死は突然予告なくやってきます。しかも全ての人が迎えなければならない確実にやってくる事実なのです。私達にとって決して歓迎すべき事でなく、できればさけたいものですが、そういうわけにはいきません。この死に対しての備えこそが、人の責任ある生き方を決めると言って良いでしょう。

 まず、死に対する解決を得る事が必要です。
神は、私達がどうにもならない問題を解決して下さるお方です。人の力でできる事は、私達がしなければなりません。しかしどうしても解決できない罪と死の問題を神は、キリストとなられて解決して下さいました。それが身代りの刑罰である十字架の死といのちの保証たる復活です。これを福音(よろこびのニュース)と言わなくて何と言いましょう。このことの故に人は、神の審きをまぬがれ、永遠の生命をいただくことができるのです。

 第二に、死の時の為の備えが必要です。
後に残された人達が困らないように準備をしておくことが責任ある者の在り方です。あなたが死んだらどのように葬儀をしたらよいのですか。その方法や費用は備えられていますか。クリスチャンであれば、キリスト教式の葬儀をしていただけるように家族や周囲に周知してもらっているでしょうか。生きている時に始末しておかねばならないものをそのまま後に残った人達に始末させてよいのでしょうか。人生の終りの準備を今からしておきましょう。


<聖書のことば>
また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。」
ヨハネ黙示録 14章13節




「何故、集う必要がありますか」
詩篇 23篇6節 

2008年9月28日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 礼拝をはじめ、主の集いにより多く集う事が何故必要なのでしょうか。多くの聖徒が、多忙の中でも時を聖別して各集会に参加するのは何故でしょうか。週に一度だけの礼拝に参加するだけで満足せず、夕拝にも教会学校にも、水曜の祈り会、家庭での集い等にも参加するのは何故でしょうか。

 第一に、主の御名の下に集るところに主は祝福を命じておられるからです。(詩133:3)
人の集りではなく主の集りに主ご自身が霊的な祝福をお与えになり、又そこに集う者達に祝福をお与えになります。主が集う事を願っておられるところには、必ず主のお恵みが注がれるからです。(ヘブル10:25)ですから集う者は、単に人の集りと思わず主の集り、その真中に主がおられる事を意識し、主のおことばの教えを期待すべきです。もしそうでないと空しさだけでなく、悪しき霊が空しさの中に働くでしょう。

 第二に、共に集るところに大きな意味があります。
何故ならば、2、3人共に集るところに主イエスも共にあるとの約束があるからです。勿論1人であっても世の終りまで主は我が内にあって生きておられます。しかし牧者なる主のもとに羊として共に集るところに教えと導きと守りをいただくことができるのです。1人孤立した羊の危険性は大きいのです。与えられた生涯で、より多くの集いに参集し、みことばの力と霊的な力をいただいて、あらゆる悪の力から守られましょう。


<聖書のことば>
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
詩篇 23篇6節




「知り尽される神」
詩篇139篇

2008年9月21日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 詩的にも又神学的にも大きな意味と価値をもつ詩篇の一つです。

 神の全知を知る貴重な賛美でもありますが、これを読む時、私達は全てを知り給う神の存在を恐れをもって拝すると同時に、大きな愛とあわれみを知ることができます。

 まず第一に、全てを知られる神は、私達の日常生活のあらゆる部分をお知りになります。立つをも座るをも、又心の中の全て、言葉が口にのぼる前にその意図や動機もご存知で、私の生涯の全てを知り尽されるお方です。主は、ペテロが三度も主を否むことを知られ、ナタナエルが主のもとに来る前にいちじくの木の下にいたことをご存知でした(ヨハネ2:48)。私達の隠された全ての事、これから犯すであろう全ての罪を神はご存知です。

 第二に、ですからこの神からのがれることはできません。
地の果てや暗やみに隠れても神からのがれ、隠れおおせることはできないのです。ヨナが神の命に反して西の果てに行こうとしても、神はヨナをその目的につれ戻されたように、人は神の御手から逃れることはできません。

 第三に、しかし神は、私達の全てを知った上で愛とあわれみをもって私達の上に御手を置かれます。訴え審くために探し出されるのではなく、赦し救うために御手をひろげて下さいます。全てを知るお方が私達を赦すあかしを、十字架に見る事ができることは何と幸いでしょうか。


<聖書のことば>
主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
詩篇139篇1〜2節




「主は成し遂げて下さる」
詩篇138篇

2008年9月14日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 ダビデの作と表題にあり、別訳には(七十人訳)ハガイとゼカリヤの名が付記されていて、もしかしたら帰還後修正がされた詩篇かもしれません。137篇が不自由な中での礼拝でしたが、この詩篇は自由な中での感謝と確信の賛美です。

 先ず感謝を学びましょう。主のいつくしみとあわれみが、自分の魂に力を与えて下さったことを感謝します。それは苦しみの中を歩いても生かして下さったことによります。おことばの約束のごとく祈りに答えて下さり、しかも、低い者を顧みて下さったことによります。

 ダビデは、エッサイの8人息子の末っ子でした。数にも数えられないような存在であった彼を、神はその心をご覧になり、将来をご覧になって選んで下さったのです。無に等しい者をあえて選んで下さった神は、無なる者を大いなる者に変えて下さいました。大いなる者になった時も、真の謙遜者は低い心を持ち続けるものです。

 次に確信を学びましょう。主の恵みへの感謝が確信にかわってきます。
みことばの約束が真実に果されることを知る者は、自分の今後の歩みに対して神は最善をなして下さるという確信を持てます。己の計画が失敗であっても、志を与えて下さる主はそれを成し遂げて下さるという確信を持って生きる事ができます。いずれにしても最善のみこころは成るのです。


<聖書のことば>
主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。
詩篇 138篇8節




「柳の木にかけられた立琴」
詩篇137篇

2008年9月7日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 70年間のバビロニヤ捕囚の回想の詩篇です。人は窮地に陥った時、日頃それほど考えなかった日常の事柄を改めてすばらしいものと思えるようになるものです。異教の国バビロンの川のほとりでシオンを思い出し、かつて礼拝し、賛美した神の宮を思って涙する作者の心は、余興で歌えと言われる神への賛美を、そんな事の為になんで歌えるものかと柳の木に立琴をかけたと言います。

 賛美は人に聞かせるものでなく、神をほめたたえる歌であり、歌う者の心に神への感謝と敬意の心がなければ意味がありません。賛美の歌は歌えても賛美にはならないわけです。ですから、共に歌う者の中に神を信じていない人がいたとしたら、神の働きに仕える奉仕としての賛美はできません。賛美はキリストを救い主と信じる人の心に宿る喜びの歌なのですから、この作者の言うように、主を忘れるなら、主の恵みを忘れるなら、又最上の喜びにもまさって主をたたえる気持がないなら、たくみに琴をかきならし、どんなに美しい声をもって歌ったとしても、それは意味のない事になります。

 賛美は人の心をとらえて神にむかわせ、神をほめたたえる最良の手段として用いられます。しかし余興のため楽しみのため、面白半分に歌うものではありません。もしそうならこの詩篇の作者のように、その立琴を木に掛け、口を閉じることにしましょう。


<聖書のことば>
バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。
詩篇 137篇1〜2節




「とこしえの恵みへの感謝」
詩篇136篇

2008年8月31日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 この歌も交唱で、「その恵みはとこしえまで」が会衆で、同じ言葉が何度も繰り返されていることによって、いやがうえにも神への感謝が盛りあがります。

 この詩篇を貫くものは、感謝です。創造のみわざによる自然に感謝し、過去の歴史に示された神の恵みに感謝し、現在与えられている日々の助けに感謝します。勿論彼等ははっきりと感謝する対象があります。それは全ての背後に働かれる活ける真の神に対する感謝であって、漠然としたものではありません。

 感謝は心の在り方によります。どんなに多くの恵みを受けていても感謝できない者もあり、感謝の心をもっていても感謝する正しいお方を知らずにいたり、或いはささいな恵みも過分な恵みと覚えて深く感謝できる人もあって、感謝の心も様々です。私達に与えつづけて下さる神の愛、代償の死をもって、救いを提供して下さったキリストの恵みを知る者は、正しい感謝の仕方を知る者となりましょう。

 詩篇の記者は、とこしえの恵みに感謝しています。私達罪人の為に、私達のところまでおりてこられて愛の極致を示して下さった主は、とこしえにお見捨てになることなく、信じる者をお守り下さいます。人の世は変わりますが、変わることのない神のあわれみに気付き感謝できる者は幸いです。


<聖書のことば>
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
詩篇 136篇1節




「偶像にまさる真の神」
詩篇135篇

2008年8月24日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 ハレルヤで始まり、ハレルヤで終る真の生ける神への賛美で、旧約聖書の各所から引用されていることばは、その時の事を連想させる役目を果したのでしょう。モザイクのような詩篇です。ここには三つの神の大いなるお方への賛美があります。

 第一に創造の神への賛美です。(6〜7)
天地万物を創造された神は、私達が普通に言う神とは異なります。正しくは造り主であり、創造主です。私達は被造物であって、神の創造のみわざの内につくられ守られているわけですから、そのお方に対してほめたたえるのは当然の事ではありませんか。造られた者が造ったお方に対して信じない等と言うのは、道具がその使い主に、あんたは誰だと文句を言うのと同じだと聖書は語ります。

 第二に、勝利者なる神への賛美です。(9〜10)
エジプトからの脱出は、イスラエルにとって大いなる神の勝利であり、永遠の賛美の源でした。罪と死の奴隷から解放して下さったキリストのみわざへの賛美こそ、今の私達の賛美の源です。

 第三に、生ける神への賛美です。(15〜)
偶像は人の手のわざで、口や目があっても語りも見えもしません。そんなものが人を救えるわけもないのです。生ける神は人の祈りに応えて下さいます。


<聖書のことば>
まことに、私は知る。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。
詩篇 135篇5節




「夜ごとの賛美」
詩篇134篇

2008年8月17日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 都のぼりの賛美の最後で、1〜2節は会衆、3節は祭司による交唱と思われます。毎夜主の家で祭壇の火を守る祭司達との賛美です。

 まず、夜毎の奉仕について思いをいたしましょう。
「火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない、消してはならない」(レビ6:13)。礼拝の中心であった犠牲をささげる祭壇は、朝ごとにたきぎをくべる(同12)だけでなく、常に火を消さないように見守る必要があり、その役目は祭司が受け持ちました。夜番の祭司は、暁が来るまで火が消えないようにたえず見守っている必要があったのです。火は神ご自身の象徴です。
「私たちの神は焼き尽くす火です」(ヘブル12:29)我々に与えられた聖霊も当然火と表現され、内に宿る聖霊の火を消さないように務めるのは私達の役目でもあります。それにしても主に仕える働き人達の務めは日夜を問わずなされている事を民達が知っていた事は幸いなことです。

 その会衆の賛美に祭司は、祝福があるようにと応えます。
祝福とは神より与えられる上からの恵みです。人は神の祝福なくしてひとときたりとも生きることはできません。今ここに自分があるのは神の恵みです。神は信じる者に無条件の赦しと、天的祝福をもってのぞんで下さいます。勝利と繁栄こそがそのあかしです。もしあなたが信仰をもってこたえれば、主は祝福をもっておこたえ下さいます。


<聖書のことば>
さあ、主をほめたたえよ。 主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。
詩篇 134篇1節




「和やかな家庭の祝福」
詩篇133篇

2008年8月10日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 離散を経験した民が家族や同族の者と共にあることの喜びが歌われています。口語体の聖書には「和合して共におる」と訳され、おだやかに、平和の内に共に住むことの喜びが、油注がれることと毎朝やどる露にたとえられて、その麗しさが表現されています。ここから二つの事を学びましょう。

 第一に、共にいる幸いです。
見よ、という驚きのことばが発せられます。これは長年共に住むことができず、別れ別れになっていた者が晴れて共に住むことができるようになった感動が表現されています。私達は共に住むという家庭の在り方に当り前、当然と思い易いのですが、強制的に又はやむをえずへだてられた者が、再び元にもどされる喜びは、ただ一緒に住むだけで大きな喜びになるのだという事を教えられると、当り前の事を当り前と思わない心の在り方を養う必要があるなと思わされます。

 第二に、心を一つにして住む幸いです。
一緒に住むことによって不幸になる事もあり得ます。大切な事は心を一つにし、和合して住むことです。即ち家族全員が心を一つにする事ができるような共通したものが必要なのです。油も露も上から注がれ全てにゆきわたります。キリストを主と仰ぎ、聖書の教えに従い、み国めざして共にいのちの道を歩む者こそ、この和合が生まれ、さいわいが与えられます。


<聖書のことば>
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
詩篇 133篇1節




「とこしえの安息の場」
詩篇132篇

2008年8月3日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 この詩篇は、ダビデの神殿建設への熱意の大きさが伝わってきます。実際にはダビデに神殿建設の恵みは与えられなかったのですが、幕屋の中心に置かれていた神の臨在をあらわす契約の箱は、かつて異教のペリシテ人に奪われ、今はキリヤテエヤリムに20年も放置されたままでありました。

 ダビデが契約の箱を自らの町へ運びこむことができた時、彼は喜び踊り、そのさまは、妻からいやしめられる程のものであったと記録されています。神の家が建てられなければ「我が家の天幕に入りません。」「眠りません」とまで言うダビデの願いは、結局ソロモンの手に託され、彼自身は神殿建設のための莫大な資金を準備して神殿建設を可能にします。

 現在ソロモンの建てた壮麗な神殿は破壊され、バビロン捕囚から戻った民が建てた第2神殿も破壊されてしまいましたが、キリストは「3日間で神殿を建てる」と言われて、真の神殿である教会をおたてになりました。この詩篇には、真の神殿を建設されたメシヤなるキリストへの予表が多く示されています。それは「とこしえの安息の場所」であり「祝福された糧で満ちた」ところであり「油そそがれた(キリスト)者のために一つのともしびを備え」聖徒達を大いに喜びに満たしてくれるところです。不滅の教会の姿がここにあります。ダビデが熱望した神の家の建設は、今も私達が持つべきビジョンではないでしょうか。即ち大いなる教会の建設、これこそ神のみこころです。


<聖書のことば>
これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。
詩篇 132篇14節




「めあては、世界」
マルコの福音書16章15節

2008年7月27日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 「宣教師とは何ですか」「何故宣教師を送り出す必要があるのですか」「自分達に力が未だないのに、外国へ大きな犠牲をはらって宣教師を派遣する必要はないのではありませんか」これらの疑問の全てに主の命令は完全に答えてくれます。

 第一に、宣べ伝える人がいなければ救われる人はおこされません。
私達も福音を伝え、聖書のおことばを伝えてくれた人がいたからこそ、滅びよりいのちへ導かれたわけで、一人で救いに導かれたわけではありません。

 第二に、宣教は、キリストご自身の命令だからです。
救いの尊さは、全てのクリスチャンが認識しているところですが、伝道の動機は聖徒の側にあるのではなく、私達の為に十字架にかかり血を流されたキリストご自身の命令です。伝道しようとしまいと私達にはキリストご自身から命令されている、しなければならない務めなのです。

 第三に、すべての人に福音は伝えられなければなりません。
自分の置かれている場所だけでなく、全ての人ですから全世界の人達に伝道する使命があります。この命令に従って、弟子達は世界の果てまで福音を伝える働きをしました。その為に召された人だけでなく、とどまる人達も、そのめあては全世界であることをしっかり心にとめて、祈りと支えをもってこの働きに参加しなければなりません。この教会に命じられている事は、世界です。


<聖書のことば>
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
マルコの福音書 16章15節




「乳離れした子のように」
詩篇131篇

2008年7月20日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 野心に満ちた誇り高ぶる以前の私と、打ち砕かれて主を頼みとする身になった今の私とが、印象的に対比され、乳離れした子供が、乳を求めて泣き叫ぶ者ではなく、母親の存在そのものに安心し、静かに和らぐ信頼によって得る平安が、短い詩篇の中に見事にうたわれています。

 私達は、生まれつき心の奥底に高ぶりを持つもので、他人のみにくいおごり高ぶりには敏感に気付きつつも自分の中にあるそれにはあまり気付かないものです。高ぶりとは、高くそびえたつ意味で、他に負けたくない、常に頂上をめざし、あわよくば神の領域にまでも高くそびえたいと願う心で、日々の生活の中のいろいろなところで顔を出します。この始末におえない高ぶりは、砕かれ破壊されるという方法でしか解決を与えられません。自己卑下も高ぶりの裏返しで、自分を大切にされたい願望の表われでもあります。

 ダビデの若い頃もそんな心と戦ったのではないでしょうか。

 しかし今、ダビデは様々な経験を通し苦しみの中から、ようやく乳を求め母を求めて泣き叫ぶ赤子のような信仰者から、親の愛を信頼し静かな心で平安の内に自らを神の前に置く、信仰者本来の姿になった自分をここにあかししています。彼はもう何事があっても大騒ぎしません。全能の主の御手に委ねてその内なるものは静かです。

 礼拝者もかくありたいものです。外は荒れても内は静か、信者の在り方です。


<聖書のことば>
まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように、御前におります。
詩篇 131篇2節




「深い淵から」
詩篇130篇

2008年7月13日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 深い罪の淵から叫ぶ祈りの声を耳を傾けて聞いて下さるお方がおられる。詩全体の重苦しい雰囲気を明るく希望に満ちたものに変えるのは、赦し贖って下さる神のあわれみといつくしみです。

 まず深い淵からの魂の叫びに心を向けましょう。
人は何事もない平穏な中よりも、苦悩と不安の中でこそ神を見出す事が多いのです。罪は神への無知、不信、不従順ですが、この作者が何に悩んでいるか判りません。しかし己れの内なる事を神との人格的な関係の中での裏切りとして悩むところにこそ、人の本来の姿があり、正しい解決の道があります。もしそうでなければ、己れを隠し人を欺くことによって逃れるでしょう。しかし聖なる神の前にはのがれおおせる事はできないのです。神はどこにでもいまし、自分もいかなるところにもあるわけですから。

 深い淵からの待望に心を向けましょう。
罪の重さを神の前に持つ者は、赦される以外にたちあがる道はないのです。赦しを求める者には、権利はありません。ただあわれみを待つ以外に道はないのです。

 作者は「待つ」と言います。待つことは動くよりつらいことですが、望みがなければ待てません。人の側に解決がない以上、ただ主の恵みを待つ事です。神は贖いをもって叫び求める者にこたえて下さいます。


<聖書のことば>
主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。
詩篇 130篇1〜2節




「悪の綱を断ち切る神」
詩篇129篇

2008年7月6日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 この詩篇は、礼拝者への妨害から守られた者の勝利の賛美です。

 私達の人生に妨害はつきものではないでしょうか。特に目的をしっかり持つ者にとっては、その目的達成のために数多くの戦いをしなければなりません。

 キリスト教徒も天の御国に入るまでは、この世に於いて多くの戦いを経験します。信心深くこの世を生きようとすれば、己れとの戦いだけでなく、この世のあらゆる悪とその力との戦いを強いられます。

 悪しき者の仕打ちは、極めて辛辣です。
その仕打ちは、背にスキをあててアゼを作ると表現されています。しかも若い頃から長い間、背にムチをあてるより更に大きな痛みを与え続けたと言います。この戦いがいかに強いものであったかが二度の応唱によって表現され、幸いな家庭の建設が一朝一夕に、簡単には建設されたのではなく、長い苦難の積みあげによって勝ちとられたものである事が示されます。

 その勝利はどのようにして与えられたのでしょうか。
それは、悪しき者が束縛していた綱が断ち切られた事によります。人が神に近づこうとすると悪しき者は、それをさせまいと妨害し、がんじがらめにあらゆる方法で縛りつけるのですが、主はその綱を見事に断ち切って、屋根の上に植えるぺんぺん草のように、ほんのひとときの間だけの誇りで終らせてしまわれるのです。主の十字架と復活は真の解放をもたらす真の福音です。


<聖書のことば>
主は、正しくあり、悪者の綱を断ち切られた。
詩篇 129篇4節




「祝福された家庭」
詩篇128篇

2008年6月29日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 127篇と対をなす詩篇で、主を恐れる者の家庭の祝福がうたわれています。神なき人生、神なき家庭ではなく、神をおそれ神を敬う家庭は、豊かに祝福された実りある家庭であることが印象深く歌われています。

 バビロンから帰還したイスラエルの民は、神殿建設に着手したものの反対にあって中断せざるをえず、次に彼等がしなければならなかった事は、自らの生活の確立でした。そこで彼等が実感した事は、神をおそれる家庭の建設だったのです。働きだけに心を向けて家庭をかえりみない生活は結局実りのない空しいものでした。家は建てられても家庭は建てられなかったのです。本当の家庭は神をおそれ敬うところに建てられ、そこにこそ豊かな実りある生活が築かれる事を彼らは知ったのです。

 主をおそれる妻、主を信頼する子ら、あたかもぶどうの樹やオリーブの樹のごとく豊かに実をみのらせる者達です。

 箴言31章に記される賢い妻は、勤勉にして優しく、しかも計画的でしっかりした気品ある女性です。「しっかりした女性は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている」と、夫も子供もほめたたえます。麗しさはいつわり、美しさはむなしい。しかし主を恐れる女はほめたたえられる。(30)と言われる妻は何と幸いでしょうか。子等もしっかり実をつけるオリーブの樹のもとに生える若木のように、将来が期待されます。祝福された家庭です。


<聖書のことば>
幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。
詩篇 128篇1節




「真の建設者」
詩篇127篇

2008年6月22日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 全ての事の内に神がいましたまわねば、あらゆる事は空しいと歌われています。人の心には多くの計画があるものですが、主のはかりごとだけが成るわけで、全ての事は神より発し、神によって成り、神に帰するわけです。勿論人には働くという大切な使命があり、その働きの実を得る事ができます。しかし神のあわれみなくして人はひとときなりとも存在する事はなく、全ての働きは神によって支えられている事を知らなければなりません。

 まず、神への信頼こそが私たちの生活を築くことが歌われます。
住まい、町、労働に於て神への信頼こそが、実のある結果を得ることができるのであって、神を除外した人の営みは空しいものです。
人類は初め天にまで届く塔を立てようと、人の力で神に達せんと努力しました。確かに人には神が与えた力があるので大きな事をなすことができます。過去の歴史はそれをよく示しています。しかしこの人の傲りは混乱という結果に終るのです。日毎の糧を祈り求める謙虚さはここにはありません。

 次に神への信頼こそが私たちの将来を築くこととなると歌われます。
子は神の賜であり、それはこれからの将来に豊かな祝福をもたらすものです。しかし、これにも神のお導きと助けなくしてよい家庭を築くことはできません。信仰のある家庭、礼拝のある家庭、祈りと賛美のある家庭があれば、神は子を通して大いに祝福をもたらして下さるのです。でなければ不幸です。


<聖書のことば>
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。・・・
詩篇 127篇1節




「悔いのない実りある人生とは」 父の日特別伝道集会
マタイの福音書19章16〜22節

2008年6月15日 第3聖日 伝道師 福田敬三

 特別伝道集会にようこそ。お越しいただき、心から歓迎いたします。

 人生は一度きりで最初から繰り返せないことは自明のことです。ですから私たちは「悔いのない実りある人生とは」と自らに問います。豊かな意味と価値に感動する人生を歩みたいと心の内に願うものです。一家の長たる父親にとって、家族のためにもこのような人生が幸いだと思われるでしょう。

 今朝の聖書箇所に、「ひとりの人」がイエス様のもとに来て「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」と問いました。ただ終わりがないだけでなく、自分が生きていることに喜びと感動を覚える命を得たい。今はその命に満たされていないと悟っていました。

 彼は資産家であったようでした。高い教育を受け、それにふさわしい地位にいた人でした。しかし、その命に生きていないことを自覚していました。残念ながら、資産や教育、地位では求めている命は得ることは出来ません。

 また、彼は倫理的に正しく生き、誠実で不正をしない、家庭を大切にする模範的な人のようです。しかし、心の内にはその命への飢えと渇きを持っていました。

 イエス様は、彼に「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです」と、良い「こと」に目を注ぐことから解放され、良い「お方」を求めることを示されました。人生に起こる様々な良き出来事、巡り合わせを超えた主なる神にこそ、その命があるのです。


<聖書のことば>
イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。
マタイの福音書 19章17節




「主は大いなる事をなされた」
詩篇126篇

2008年6月8日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 70年間のバビロン捕囚からの突然の解放が背景と思われます。606BC、南朝ユダは、バビロニヤの王ネブカデレザルの攻撃を受け陥落。主だったユダの人々はバビロンに連れ去られ、そこで苦難の時を過さねばなりませんでした。神の約束とあわれみだけが彼らの支えでしたが、ペルシャの初代の王クロスがバビロニヤを滅ぼすや、預言の通りにユダの人々は解放され、懐かしの故国エルサレムへと戻ってきます。それは夢のようなできごとであったでしょう。神は約束のごとく大いなる事をなされたのです。

 私達は今、罪と死の奴隷から解放された神の驚くべき救いのみわざに、彼等と同様、「主は私の為に大いなることをなされた」と歓喜する事が必要ではないでしょうか。

 しかし、故国に戻ってきた彼等を待っていたのは豊かで安全な場所ではありませんでした。近隣の人達の反対と荒れ果てた土地、破壊された神殿と家々でした。彼等は汗と涙をもって種を蒔き、再建の為に又大きな苦しみを経験せねばならなかったのです。しかしこの苦しみは意味のない希望のない苦しみではありませんでした。やがて収穫の喜びにあずかる事のできる労苦だったのです。

 今私達は、永遠の御国めざして現実の世の戦いの中にあります。良い種を蒔き、その刈りとりをする御国の原則に従い喜んで再建の汗を流したいものです。


<聖書のことば>
主は私たちのためにおおいなることをなされ、私たちは喜んだ。
詩篇 126篇3節




「揺るぐことのない人生」
詩篇125篇

2008年6月1日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 「主に信頼する人々は、シオンの山のようだ」という冒頭のおことばが、この詩篇の中心思想で、これが故に都上りの歌の範疇に入れられたのでしょう。

 シオンとは、要害の意味でダビデの町でもあり、ソロモンの時代には神殿が建てられた丘を指し、やがてはエルサレム全体を言うようになったものです。イスラエルの心の拠り所であり、やがて来る永遠の祝福の世界を意味するようになります。主に信頼する者は、四方を更に高い山や谷に囲まれた自然の要害のように、神の不動の守りの中に置かれることを意味します。

 又、シオンは神の臨在の場所でした。ダビデが果し得なかった神の家たる神殿建設を、その子ソロモンが果し、シオンは神の住み給う栄光の家となり、民はここに於て礼拝をささげ、神と会見をするようになったわけで、それは荒野における幕屋の延長であり民の中心に位置した臨在の場所でありました。勿論神は全地に満ちているわけですが、神殿において神が人と共にあることを知る事ができたわけです。今はキリストの満ちておられる教会と言えます。そして、そこは神が人になされた約束(契約)のしるしでもありました。アブラハムへの約束は、違うことなく果され、将来の祝福の約束がシオンに於て果されるのです。主に信頼する者は、シオンの山のようにゆるがない人生の土台と指針を得て歩むことができます。


<聖書のことば>
主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。
詩篇 125篇1節




「もしも神が味方でなかったら」
詩篇124篇

2008年5月25日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 大きな危険から救出された事への感謝がこの詩篇の中心的思想です。時にもしもと考えてみる事は、信仰生活に慣れてしまった者には必要なことではないでしょうか。もしも救われていなかったら今頃どうなっていただろうかと想像してみる事は神の大きなお恵みを再確認するのに役立ちます。

 もしも・・・ということばの中には二つの点を読みとることができます。

 第一は、もしも神が味方でなかったなら滅びたであろうという事です。
悪の力は強大です。人に偽りの安逸を与えて最後に手痛い打撃を与え、ひそかにねらいを定めて突然襲い、いのちを奪います。罠は気づかれないようにしかけることを良しとするのです。一度ならず二度、三度と波状的に攻撃を加えるのもサタンの常に用いる手段であり、反対者の仲間をつくる事や、火のないところに煙をたてる名手でもあります。この敵に打ち勝つ力は弱い私達にはありません。

 第二は、神が味方であったからこそ悪しき力に打ち勝つ事ができたという事です。
これは、神を味方とすればと言い換えた方が私達の側としたらよいかもしれません。何故なら神は常に私達の味方であられ、罪の力から救い出すためにいのちまで投げ出して下さった方だからです。私達が主の側についていれば主は私達を守って下さいます。主から離れるならば容易に敵のえじきになってしまうでしょう。主に味方となっていただく為に主を信じなさい。


<聖書のことば>
もしも主が私たちの味方でなかったなら、人々が私に逆らって立ち上がったとき、そのとき、彼らは私たちを生きたままのみこんだであろう。
詩篇 124篇1〜2節




希望の目
詩篇123篇

2008年5月18日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 目の詩篇などと言われています。礼拝する者の謙虚な姿勢がこの短い詩篇の中にはっきりと示され心うたれます。特にこの世のあざけりやさげすみの中で、ただ神にのみあわれみを求めるしもべの祈りは、礼拝者の原点を示しているように思われます。私達はどこに向かって目を向けているのでしょうか。人は見ているものによって人生が定まります。

 まず、主に向かって目をあげることです。

 この世のあらゆる事の中にあって、全てを支配される神に目をそそぎ、そこから希望をいただく事ができます。ノアは虹を見、アブラハムは空の星を見て神の約束を覚えました。ロトは世の繁栄を見、デマスはこの世を見て堕落しました。私達は今何を見ましょうか。十字架の主キリストを見る者でありたいものです。ペテロは主を見て波の上を歩けたのです。

 自らを奴隷の立場として見ることです。
自分を王のようにして神に向かう者にあわれみは与えられません。あわれみを求める者は、自らをいやしく弱い、無価値な者であることを認め、神のご支配の御手に目を注ぎ、ひたすら恵みを求める者でなければならないのです。

 人は、何を見るかによって性格も日々の歩みも変るものです。エレミヤは神より「あなたは何を見ているのか」(1:11)と問われました。私達も今同じ問いかけをされているのではないでしょうか。「この人を見よ。」と・・・


<聖書のことば>
あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。
詩篇 123篇1節




教会に通う恵み
詩篇122篇

2008年5月11日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 家族そろって教会に通う家庭は、幸いです。この歌は家族共々エルサレムの神殿、神の家へ礼拝に向う喜びをうたったもので、これは現在神の家としての教会へ通う喜びと共通しています。ここには神殿と同じ意味で使われていることばが12回も使われていて、ここに教会を置き換えて読んでみると一層この歌から、教会へ通うことの恵みの豊かさと大切さが判ります。

 第一に、自分の教会を持つ喜びがうたわれます。(1〜)
教会は、魂の故郷、天国のかたちであり、心の寄りどころでもあります。未だ未完成ではあっても、やがて完成される地上の神の家であって、ここに喜びと平安を見出すことができます。

 教会は、礼拝の場であり、人を神の前に出て行かせ、深い内省と共に真実の自分をみつめ、神の祝福をいただくところです。又祈りと教えを受けるところでもあります。祈りは神の助けと導きをいただく手段であって、人の無力さをあかしすると共に、神の恵みなくして人は生きられないことを認め、神の助けを求めるものです。聖書は私達が人の目で読むことのできる神のことば、教えであり、このおことばこそが人を正しくし、悪の道へ誘われることを防ぎます。
 
 第二に、教会の繁栄が願われています。(6〜)
平和と繁栄が願われ歌われています。教会は常に戦いの中にあるからです。


<聖書のことば>
人々が私に、「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、私は喜んだ。
詩篇 122篇1節




私は山に向かって目を上げる
詩篇121篇

2008年5月4日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 この歌も交唱として、神殿礼拝に向う者達が歌った賛美です。この賛美の中には神の守りという言葉が6度も出てくる程、私達を守るものは神の他ないことが力強く歌われ、まことに神殿礼拝者にふさわしい詩篇と言えます。

 第一に、山のような神の守り。(1〜2)
この山は、旧約ではシナイ山、新約ではエルサレムでしょう。山に象徴される神の守りとは、気高さ、神秘、不動の安定、力等がイメージされます。勿論山をほめたたえているのではなく、その山を創造された神を賛美します。

 第二に、まどろむことも眠ることもなく守られる神。(3〜4)
まどろみとは、眠るでも眠らないでもない、とろとろとした状態で、一瞬正気がなくなる時です。弟子達は主が血のごとき汗を流して祈る間にも眠りこけていましたが、神はまどろむことも眠ることもなく私達を守られます。

 第三に、あらゆるわざわいから守って下さる神。(7)
日々の生活の中で、主を信頼する者には気付かないところで守りがある事を覚えておきたいものです。特に主は私達の魂のいのちをとこしえに守って下さるお方であることを感謝しましょう。

 第四に、常に共にいて守って下さる神。(8)
出るにも入るにも主は常に共にいて、陰のように守っていて下さいます。神が共にいて下さる程心強いことはありません。このお方に目を上げよう。


<聖書のことば>
私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。
詩篇 121篇1〜2節




私は平和、彼らは争い
詩篇120篇

2008年4月27日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 120篇から134篇の15篇は、都上りの歌として神殿礼拝にのぞむ人達のための歌で、庭から庭に上る15段の階段と関連づける解釈もあります。

 内容的には敵対する者の中で生きる人の嘆きの歌で、作者は平和を望みながらも相手は常に争いをしかける困難な状況で、偽りと欺きに囲まれそこから逃れることの出来ない苦しみが歌われています。

 まず、争いの中での忍耐を学びとりましょう。
作者は、平和を憎む者とともに住んでいた(6)と言います。誰しもが争いを好む者と共に住みたくはありません。しかしこの作者はそうせざるを得ない立場にあったのでしょう。人との係りは平和であることこそ好ましいのです。しかしこの世においてはそうばかりではありません。そしりと虚言の中で忍耐をしいられる事も多くあります。聖書の中の指導者の中にもこの苦しみの中に置かれて忍耐した人達が登場します。その中でもモーセはその最たる人でしょう。彼の忍耐からは沢山の事を学ぶ事ができます。勿論、主キリストの忍耐こそ最高の価値ある忍耐です。

 次に、和解の為の嘆願を学ぶ事ができます。作者は平和を望む者でした。
和解しようとしています。しかしその願いも空しく尚争いがしかけられています(7)。彼らにのぞむのは神の鋭い矢と熱い炭火だと言います。正しい審きは主の御手の内にありますが、私達は平和を願う者でありたいものです。


<聖書のことば>
私は、久しく、平和を憎む者とともに住んでいた。私は平和を−−、私が話すと、彼らは戦いを望むのだ。
詩篇 120篇6〜7節




聖書のことばは私を生かす
詩篇119篇

2008年4月20日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 詩篇中最長のいろは歌で、8節の単位で22。176節からなる長い賛美です。神のおことばの尊さが熱く喜びと共に歌われ、戒めを冷たい掟としてではなく、自分を守り生かすすばらしい神のおことばとして感謝しています。分割して学ぶ必要のある長編ですが、テーマに沿ってまとめて学びましょう。私達も今手元に完全な神のことば聖書を持つ者ですが、この作者のように心からなる感謝をもって聖書を読むことができたら何と幸いでしょう。

 第一に、神のことばは、私を守ります。(9、11)
神のことばは私達を悪から守り、義に導いてくれます。人生のあらゆる場面で人に行くべき道、とるべき手段を教え、悪の道へ誘われる私達を守ってくれるのです。

 第二に、神のことばは、私に知恵と悟りを与えてくれます。(97〜101)
みことばが開かれると人は知恵をいただき、深い真理に基づいた教えの内に自分を置くことができ、人としてのすばらしい人格形成ができます。

 第三に、神のことばは、私を生かします。(50、93)
霊のいのちは、神のおことばのうちにあり、人に力と勇気、励ましと希望を与えてくれます。まさしく神のことばは生きていて力があるのです。

 第四に、神のことばは、私に祝福を与えてくれます。
おことばの約束は祝福に満ちています。永遠の祝福が約束されています。


<聖書のことば>
これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。
詩篇 119篇50節




弱さを誇る
コリント人への手紙第ニ12章1〜9節

2008年4月13日 第2聖日 インターン訓練生 長江忠司

 パウロはコリント教会の一部の批判者に対して、やむなく自分で自分を推薦しました。しかし彼が誇りとしたものは能力や経験ではなく、自分の弱さだったのです。何故、弱さを誇ることができたのでしょうか。

 一つは、弱さは人を謙遜にするからです。もしパウロが高慢になっていたならば、宣教の働きで用いられることはなかったことでしょう。だから、主は肉体のとげという弱さを彼に与えられ、パウロを謙遜な状態へと導いたのです。

 もう一つは、弱い時こそ主の力が現れるからです。弱さを覚える時にこそ、私達は主に頼り、主が働かれて力ある働きをすることができます。
 弱さを覚える時に、私達がなすべき事の一つは、弱さを受け入れることです。私達は信仰生活が長くなるにつれて、人前でも神様の前でも、強い自分しか見せなくなる傾向があります。しかし主は弱い者を選ばれました。私達は自分の弱さを受け入れる必要があります。

 もう一つは主により頼むことです。どんな弱さであっても受け入れて強めて下さるイエス様の元に行って、より頼むことが必要なのです。

 私達もパウロのように弱さの中で心砕かれて主に祈り、より頼んで歩む者になりたいと思います。そうする時に神様の栄光が現れて、私達も自分の弱さを誇ることができるのです。


<聖書のことば>
私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
コリント人への手紙第ニ 12章9節




神が味方であれば
詩篇118篇

2008年4月6日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 ハレルヤ詩篇の最後のもので、神殿礼拝に近づく者の行進の歌でもあり、交唱歌と思われます。内容的には、礼拝への妨害があってもそれに勝利した者のよろこびの賛美であります。その背景としてバビロン捕囚から帰還した民が神殿建築、城壁の再建に対し、多くの反対・妨害にもかかわらず、やがて完成を見た時のよろこびと考えられます。宗教改革者ルーテルの最も愛した詩篇といわれています。

 まず、神に仕え神のために働こうとする者は、妨害に会う事を知りましょう。
神に近づかれないように懸命に働くのはサタンです。真剣な求めや熱心な奉仕への願望に水を差し、人の心を冷えさせ落胆させ再び熱い心を持たせなくさせようと働きます。信仰告白、バプテスマ決心・奉仕への新たな決意・献身等私達が起ちあがろうとする思いを砕いてとどこうらせてしまうのです。事実イスラエルの民も荒廃したエルサレムに神殿建設をしようとする志を15年間もやめさせられたのです。

 しかし、神は私たちの味方です。(5〜9)
たとえどんなに大きな反対があったとして、神が味方であれば恐れることはありません。たとえ世が十字架につけようと、死ぬことなく生きるいのちと勝利をもたらしてくださいます。捨てられたようでも、それこそが要となります。


<聖書のことば>
主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。
詩篇 118篇7節




全ての者がハレルヤ
詩篇117篇

2008年3月30日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 わずか2節からなる詩篇中最も短い詩篇です。ハレルヤと神をほめたたえることばで始まり、ハレルヤで終わり、全ての民がハレルヤと主をほめたたえる事を勧めているところから、新約聖書ローマ書15章11節で異邦人にも伝えられる福音の恵みの言及に引用されています。

 ハレルヤとほめたたえる理由として二つの点があげられています。

 一つは、恵みです。
恵みとは神の本質的なご性質であって、神が私達の味方であり好意的であるということが、赦しがたい罪人である私達には勿体なくも驚くべき事に違いありませんが、このあわれみとかいつくしみ深さは、イエス・キリストの十字架に於いて最もあざやかにあらわされたと言えるのです。それは一方的な限りない大きな恵みで、私達はただただこのあわれみの大きさに圧倒されるのです。この恵みを知る者は、日々ハレルヤと叫ばずにはいられないのです。

 もう一つは、まことです。
神は真実にして偽りのないお方で、これもまた神の本質的なご性質です。私達は常に不真実ですが、神は真実なるお方で、偽ることのない、変わらないお方なのです。だからこそその約束は確実に果されます。全ての人がこの真の神を知ることができれば、その恵みとまことを心の底から賛美する事ができるでしょう。あなたの生涯がハレルヤでありますように。


<聖書のことば>
その恵みは、私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る。ハレルヤ。
詩篇 117篇2節




イースターの望み
第1コリント15章19節

2008年3月23日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 キリスト教の二本の大きな柱は、十字架の復活と言ってよいでしょう。これは教えではなく、メシヤなるキリストが為された行為を示しています。

 復活は、特に私たちに大きな望みをもたらすもので、まさしく生きる望みを与えるものです。それは単なる望みではなく、祝福された栄光の望みです。

 第一に、キリストの復活は、主が活きておられる望みを示すものです。
死んだ者は、人に救いも助けも与えることができません。生きた方だけが私たちの祈りを聞き、隠れてなされた働きを見、助けを与えることができます。世の終りまで私たちと共にいて下さる約束は、死んで甦られたキリストだけが約束することの出来る大きな祝福です。

 第二に、キリストの復活は、死に勝利する望みを示すものです。
いのちの不滅を示すものであり、死は終りでなく、やがて来る肉体の死の向うに永遠のいのちの望みをもたらすものです。私たちはこのことによって死への絶望的な恐れから解放され、生きる望みをもって人生を歩むことができます。死に臨んで単なる慰めの言葉ではなく、永世の望みを持ちつつ死に対処することができるのです。

 第三に、キリストの復活は、再会の望みをもたらします。
天での再会は、この世での再会とは異なります。あらゆるものが新しくされた再会であり、時を越えた制限のない解放された再会です。


<聖書のことば>
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
コリント人への手紙第一 15章19節




会堂に注がれた主の恵み


2008年3月16日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 3月21日は、この会堂を主にお献げした献堂の記念日で、私達は毎年この日に過去の主のお恵みを思いかえしあらためて感謝することにしています。

 何故なら主が良くして下さった事を何一つ忘れない為だからです。
  • 1960年古い家屋を購入して伝道を開始。土地は借地(第1会堂)。
  • 1963年教会は牧師を迎え独立伝道を開始。
  • 1970年37坪の借地の上に三階建ての新会堂献堂(第2会堂)。
  • 1988年下永谷に300坪の会堂用地を購入。
  • 1990年新会堂献堂。円形会堂と二階建て教育館建設(第三会堂)
  • 1996年隣接地300坪を購入。駐車場とし、後に立体化。
  • 1999年新教育館増築。奉献。
  • 2001年会堂外壁タイル張り工事完了。
  • 2006年会堂拡張工事。集会席250席。つめて300席完成。
  • 2007年牧師館用としてマンション購入。
 会堂に係る全ての費用は、概算6億6千万円以上であり、その内銀行融資の1億1千5百万を完済し将来にむけてさらなる主の祝福をいただくべく宣教の働きに忠実に励ましていただいているところです。会堂建築に係る主の大いなるみわざは、私達の教会にとって信仰の確信へ資するところ多く、主の活きて働いて下さっている事を知って大いに恐れ、感謝するものです。


<聖書のことば>
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
詩篇 103篇2節




苦しみに勝る平安
詩篇116篇

2008年3月9日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 エジプトのハレルの一篇で、苦しみの中で尚平安を保つ信仰者の勝利の姿が高らかにうたわれています。愛した(1)、信じた(10)、が中心的柱となっていますが大きな苦しみの中にあっても平安を持ちつづける信仰の素晴らしさをここから学びとりましょう。

 第一に、苦しみの只中での平安です。(3〜4)
この苦しみは数々の言葉であらわされていて、いかにそれが大きなものであったかが判ります。死をも覚悟しつつも聖徒の死は神のみ前に尊いと歌います。私達は、神を信じれば苦しみにも禍にも会わないと思いがちですがそうではありません。神は苦しみの中で我々を守り、助けて下さるお方です。ですから、"信じつづけ""歩みつづける"事が必要です。メシヤなるキリストが苦しみを通して救いをもたらして下さった事には大きな意味があります。

 第二に、苦しみの只中での感謝です(1〜2; 12〜)
苦しみを仕方がないと受け入れるのではなく、感謝し、誓いを果そうとするところに、苦しみに勝利した信仰者のすばらしい姿があります。何故ならば、主は苦しみのただ中で救いをもたらし、助け、良くして下さったからです。一生主のみ前を歩みつづけるのは、喜びと感謝があるからであって、おきてに縛られた義務感からではありません。苦しみの只中にあってもその苦しみに勝る平安をもたらして下さる事こそキリストのお与え下さる平安です。


<聖書のことば>
私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。「私は大いに悩んだ。」と言ったときも、私は信じた。
詩篇 116篇9〜10節




ただ神にのみ栄光を
詩篇115篇

2008年3月2日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 エジプト賛歌の一つですが、詩の形式としては応答賛歌として会衆と聖歌隊、祭司とレビ人等が交互に賛美したもので、選民の苦難をあざ笑う異邦人に、真の神の御名がはずかしめられないようにと願われた詩篇です。

 三つのことばが中心となっています。

 まず、第一に、栄光です。
神はご自身のために事をなされるという事をここから学ぶ必要があります。我々被造物へのあわれみと愛によって事をなされる事も相違ないのですがまず、ご自身の栄光のためになされるという事を覚えたいものです。この世のものはチリ、灰に等しいものであって、被造物の為に事をなされる以前に神の栄光のために全ての事をなされるのです。従って我々は、ただ神の栄光の為にのみ生き、又為すべきで、全ては神の栄光の為になのです。

 第二に、信頼です。
真に信頼に価すべきお方は、天地を創造された生ける神のみであって、人の手でつくられた神と言われるものではありません。人のつくったものは、人以下であってたとえどんなに壮大であっても信頼に価しないのです。

 第三に、祝福です。
真の神は、真の祝福をお与え下さいます。平和も繁栄も勿論ですが、いのちの祝福をお与え下さいます。死せる人は主をほめたたえる事はできません。


<聖書のことば>
私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。
詩篇 115篇1節




栄光への脱出
詩篇114篇

2008年2月24日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 出エジプトの歌と言われ、過越の祭りの最後には必ず歌われたとの事です。1節の「出て来た」ということばが英語のエクソダスになりました。

 出エジプトの出来事は、その後のイスラエルの歴史にとって大変大きな意味のある出来事となり、特に神のみわざによる10の災の最後は、過越の祭りとしていつまでも祝われる記念とされ、それは新約のメシヤの予表ともなった重要なものとなりました。

 まず、神の大いなるみわざを覚えましょう。
強大なエジプトの力の下から、奴隷であったイスラエルの民が戦うことなく、しかも金銀財宝を得て勝利者のように意気揚々として脱出できたのは、全く神のお力によりました。これは罪と死の奴隷となっている我々の為に、身をもって救いをもたらして下さったキリストの救いと比較することができます。

 しかし、彼等を待っていたのは安楽な生活ではなく、約束の地カナンへの荒野の旅でした。それはエジプトでの奴隷の生活に戻ったほうが良いと思わせる程のつらい行程でした。昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導かれたといえども、毎日マナのみが食物であり、周囲は全くの荒れ地でした。彼等は道なき道を、ただひたすらモーセの指導の下に歩み続けなければならなかったのです。しかしそれは目的のない希望のない前進ではありません。今私達も、この世の荒野を進み、み国めざして歩む者です。信仰の忍耐が求められます。


<聖書のことば>
イスラエルがエジプトから、ヤコブの家が異なることばの民のうちから、出て来たとき、ユダは神の聖所となり、イスラエルはその領地となった。
詩篇 114篇1〜2節




つくば伝道への経緯
イザヤ書54章2節

2008年2月17日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 茨城県には交わりのあるバプテスト教会が一つもなく、関東では茨城だけが空白の状態でした。又、古くからの因習も強く困難な伝道地と言われてきました。しかし近年道路、鉄道の整備により他県からの人口の流入があり、特につくば研究学園都市を中心に人口が増加しつつあります。

 2001年一組のクリスチャンホームがつくばへの転勤により、そこにもたれた集いが拡大し、周辺に散っていた当教会関係者が集り月一回の牧師の出向と共に将来の教会設立が願われるようになりました。

 一方当教会から関西単立神学校へ入学し4年間の学びを終えた長江夫妻が横浜への導きをいただいて戻り、伝道所への道が大きく開けることになりました。当初横浜近辺開拓を願っていましたが、主はつくばへの道を開いて下さり、場所も備えられ家も購入可能の状態にして下さっていよいよつくば伝道が開始されるはこびとなりました。

 宣教は主が教会に命じられた最大の使命で、この世のいかなる団体も教会を設立する事はありません。教会が教会を生み、その幕を張り伸ばすのです。

 特に開拓伝道は、生みの苦しみを覚悟しなければなりません。教会全体で生み出す努力と苦しみをする時、誕生の喜びと成長の喜びにあずかる事ができます。誰一人傍観者になる事なく、祈りと献げものと実際の労によって主のお体を生み出す尊いみ業に参加してこそ、この働きは祝されます。


<聖書のことば>
あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。
イザヤ書 54章2節




身を低くされる主
詩篇113篇

2008年2月10日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 これもハレルヤ詩の一つで、イスラエルの祭りの時に、歌われたものと言われています。一節は代表者の呼びかけでそれにこたえて聖歌隊が賛美したものと思われます。

 まず、大いなる神、自らを天よりも高くされる主の御名がほめたたえられます。ハレルヤが三度くりかえされ、主の御名が同じく三度くりかえされます。賛美は主の喜び給うものである事は、詩篇全篇から教えられる事ですが、祈りが満たされる事を求める声であれば、賛美は満たされた事を喜ぶ声です。
特に主の御名(みな)がほめたたえられているという事は、神ご自身のあらわれとしての名は、見る事のできない神の最も身近に示されたお姿ですから「ある」と言われる神の御名に示された偉大性を、全被造物がほめたたえるように勧められるのです。

 次に、神は我々の必要を満たすために自らを低くされるお方です。
あらゆるものにまさって高く位置されるお方であるにもかかわらず、ちりあくたの中にうごめく私達を救わんがために、己を低くされ、身をかがめて近づき手をのばし引き上げて下さるお方です。

 主の御名は、更に近くイエス・キリスト(救い主)によって示され、そのみわざは、罪人なる私達への深い憐れみの中に、自らを低くされた神のお姿を見る事ができます。何と驚くべき神の謙譲でありましょう。


<聖書のことば>
だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し、身を低くして天と地をご覧になる。
詩篇 113篇5〜6節




神を信頼する人の幸い
詩篇112篇

2008年2月3日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 この詩篇もいろは歌で、111篇と対をなし、神を恐れ敬う人の幸いが歌われています。神への恐れが層々希薄になりつつあり、それと比例して社会に悪がはびこる現実に、私達は人の原点に立ち返る事、神を信頼する事の尊さを改めて覚える必要があります。神を恐れ敬う人の幸いは・・・

 第一に、子孫の繁栄です。(2)
夫婦親子の平和と祝福は、人を創造し、合わせられた神を信頼するところに宿ります。ここに土台があり基準がある時、時勢に流されない幸せをつかむことができるでしょう。

 第二に、物理的豊かさです。(3)
神は物を創造され、それを人類にお与えになりました。神を敬う者に神が必要を満たし、より多くの物をおあずけ下さいます。物の豊かさは敬虔を保証しませんが、神を真に畏れる者に大きな物理的祝福をもお与え下さいます。

 第三に、信頼と尊敬をかちとります。
人として大切な信頼と尊敬は、真に神を敬う者に与えられるものです。

 第四に、安定を得ます。(6)
いかなる事があっても動じない、心の平安と確固とした希望をもつのです。

 第五に、やがて高められます。
たとえ困難な時があっても最後は主のごとく大いに高められ誉れを得ます。


<聖書のことば>
ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。
詩篇 112篇1節




神の奇しいみわざへの感謝
詩篇111篇

2008年1月27日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 一連のハレルヤ詩篇と言われるものの最初のもので、言葉の遊びが使われヘブル語のいろは歌です。112篇と対をなして、神のみわざに対する感謝が「心を尽くして主に感謝しよう」と強い調子で歌われています。

 まず集会において感謝の歌がささげられるように勧められます。
集会とは人々の集まりであり、複数の人が共に集まって歌うことで、聖徒達が各個人でではなく、一緒に集まり心合わせて感謝の歌をささげるところにこそ特別な祝福が注がれる事が暗に示されています。たしかに一人の賛美や祈りにも主は恵みを注がれます。しかし一緒に主の御名のもとに集り、賛美をささげるものとは異なった祝福が注がれる事を覚えることは大切な事です。
主は、共に集まることを求めておられます。教会とは集るように呼び出された人々のことであって、羊は群れをなすのです。そこに主は豊かなお恵みをそそがれます。

 その集まりの目的は、ハレルヤと主の御名をほめたたえ感謝することです。
奇しいみわざとは、イスラエルにとっては、出エジプト、荒野での守り、カナンの地への導きでしょう。私達にとっては、罪と死からの解放、日々の生活の守りと導き、天の御国への約束なのです。主を求め主をおそれる者は、あらゆるものの根源を知り、全ての事の真の意味を見抜くよい明察を得る事ができます。いずれにしても日々叫ばんハレルヤと、なのです。


<聖書のことば>
ハレルヤ。私は心をつくして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。
詩篇 111篇1節




朝露のように
詩篇110篇

2008年1月20日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 メシヤ詩の一つで、新約で最も多く引用されている詩篇です。主ご自身もダビデが主とよんだメシヤとしてのしるしにこの箇所を引用しています。(マタイ22:42~)中心となる教えは、メシヤの祭司又王としての勝利の姿が力強くうたわれています。救主は、祭司制度が定められるはるか前にエルサレムの祭司であったメルキゼデクにまさる祭司としてただ一度ご自分を犠牲として捧げて永遠のとりなし手となられたキリストがほめたたえられ、やがて来る神のみ国の統治者としても力強く預言されるのです。

 その勝利者なるメシヤのもとに集る民、特に若者は朝露のようだと、主の民のすばらしさがうたわれます。彼等は聖なる聖別された衣を着て、夜明け前から喜びをもって自発的に仕える者であり、それは朝露のようだと印象的なことばで主に仕える者の姿が紹介されています。

 朝露は、朝ごとに渇いた地を潤し、世のものを活かし生気を与えます。キリストの愛と恵みを受けた若者は、この世にあって清く、穏やかで、新鮮な感化を与える者となります。たとえ大降りの雨滴でなくても確実に朝毎に宿る露のごとく静かに結ぶ者の中にメシヤのすばらしい力を見ることができる事は、今も変りがありません。暗闇であるからこそその美しさは際立っていますし、混乱している世であればある程、この純粋な朝露のような若者達の存在の価値があらわされるのです。朝露の一滴となりましょう。


<聖書のことば>
あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える、あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。
詩篇 110篇3節




継続の祝福
ヨハネの黙示録2章25節

2008年1月13日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 岩地にまかれた種は根を張ることができず、ただしばらく続くだけで、困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。しばらく続くだけということばは、私達の信仰生活に於いて大変重みのあることばのように思われます。よく「継続は力」と言われますが、たしかに継続する事は難しく多くの忍耐と力が必要であり、私達にとっては特に主への信頼が必要となります。

 主は、「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(ヨハネ4:34)と言われ、なしとげることこそご自分を生かすものだと言われ、その通り、苦難の道を最後まで歩み通されました。私達も今、信仰生涯を全うし、教会生活を継続し、主に仕える生活を最後までなしとげる決意が必要ではないでしょうか。パウロのように守り通したと言える者となりたいのです。

 継続することの祝福の第1は、実を結ぶことです。途中放棄は実を結ぶ事ができません。失敗があっても倒れても又起ち上がって同じ道を歩む時、やがて祝福の実を結び、完成の喜びを体験できます。

 第二に、継続する者は、多くを学ぶ事ができます。己の弱さや愚かさ、事の深みを学び、知恵を受けます。人としての成長をとげられます。

 第三に、なしとげる事こそ主のあかしとなるのです。そこに主の助けと力を見る事ができます。途中放棄には後悔と未収穫しか残りません。


<聖書のことば>
ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。
ヨハネの黙示録 2章25節




貧しい者の右に立つ主
詩篇109篇

2008年1月6日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 苦しめられている者の人間としての叫び、しかも不当な批判、愛し助けた者の反逆という単なる苦しみというより極めてつらい状態での心境が歌われています。旧約の時代の律法は、同態復讐法と言われる「目には目、歯には歯」でしたので、この詩篇の背景はそれに基づいています。新約の恵みの教えからするとなじまないものでしょうが、のろいに近い激しい願いは、人間の自然な感情の発露と考えてよいでしょう。ただ自ら復讐するというのではなく、神に願い委ねている点をしっかり受けとめる必要があります。

 まず作者がどのような仕打ちを受けているかが記されます。
なんとしても我慢ならないのは、善にかえて悪を、愛にかえて憎しみもってかえされる、恩を仇でかえされた仕打ちです。それは言葉からはじまったのでしょう。邪悪と欺き、偽りの舌、憎しみのことばで故なくなじることばはどんなにか痛手を与えたことでしょうか。さらにそのように責めつくした果てに、心ひしがれた者を追いつめ生命をもとろうとするのです。

 彼は悪者、なじる者を遣わして下さいと言います。原語ではサタンです。
仕事も家庭も子供達も破壊され、物乞いをするまでになれ、その名も忘れさられてしまえ、それは彼らの行為の当然の報いとしてなのだと願っています。彼らは自分をのろっても神は私を祝福して下さる(28)神は常に自分の右にいて助け弁護して下さる。それが彼の唯一の助けであり励ましです。


<聖書のことば>
主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。
詩篇 109篇31節