聖書からのメッセージ

【礼拝説教要旨】

私はゆるぎません
詩篇108篇

2007年12月30日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 この詩篇は、二つの詩篇からとられて構成された詩篇と思われ、57篇、60篇から各々抜粋されています。主に感謝しようとする決意が歌われています。

 その中心となることばは、「私の心はゆるぎません」です。このことばは、心が定まったことを示す、力強い確信に満ちたもので、その確信を与えられた内容が次の節で歌われます。

 第一は、周囲の敵への神にある勝利です。
ダビデの周囲には、多くの敵がいました。それは強い敵であり、執拗な敵であり、すぐ近くにいて、時にこの敵はダビデに痛手を与えるものでした。それは丁度、私達の内に潜む罪のごとくです。しかしこの手強い敵に勝ったのは、神への力ある働きでした(13)。私達も今、この世の多くの誘惑にキリストのお力によって、勝ちを治めることができます。その為におことばを蓄え、礼拝を守り、教会にしっかり連なります。

 第ニは、神の恵みです(4)。
ダビデは、暁を呼びさましたい(2)と言います。夜明けは待てばやってくるでしょう。しかしあえて自ら、待ち切れずに暁を呼びさます程の感謝があり、それは、上よりの数々の恵みの故にです。眠りはサタンの強力な武器です。聖徒を眠らせて、感謝や感動を奪い聖徒から力を奪ってあかしの力を失わせます。改めて恵みを数え、主をほめたたえることこそこの日に相応しいのです。


<聖書のことば>
神よ。私の心はゆるぎません。私は歌い、私のたましいもまた、ほめ歌を歌いましょう。
詩篇 108篇1節




平和の君
ルカの福音書2章8〜14節

2007年12月23日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 人は、平和を求めつつも平和が得られず、家庭や自らの心に平安を求めても得られない、その最大の理由は、神との平和が与えられていないからだと聖書は教えています。

 今日、キリストの御降誕を祝うにあたって、このお方が私達に何をもたらして下さるかを知ることです。大いに意味のあることであり、クリスマスにふさわしいことですから、平和について考えましょう。世界の平和は、私達の心の平和から始まります。そしてそれは、聖なる真の神との平和から生れるのです。神と人との仲保としてキリストは来られ、その死により平和をもたらして下さいました。神と人とが戦争状態にあって、どうして人の心に平安がもたらされるでしょう。メシヤのいのちの代償により、神の御怒りは静められ、神との和解が成立しました。私達はこのお方の大きな犠牲により、罪赦され神との平和をもたらされ、良心のとがめはすすがれたのです。そればかりではありません。神は、私達の味方となって下さり、常に勝利をもたらして下さいます。信じる者は恐れることなく、世の闘いにのぞむことができるのです。あらゆる悪の背後に働く悪しき力にも勝利された主が、私達と共にいて下さり、愛して下さっていることを知ることができれば、キリストを救い主と仰ぐ全ての人に平安がもたらされます。

 キリストの残された平和は、神との平和であり、世の悪に勝利した平和です。


<聖書のことば>
いと高き所に、栄光が、神にあるように。 地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。
ルカの福音書 2章14節




人生の海の嵐に
詩篇107篇

2007年12月16日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 107編は、第5巻の最初の歌で、申命記に対応します。2-3節からバビロニヤ捕囚解放後の作と考えられていますが、あらゆる苦難の中から、主に叫び求める時に、主はその叫びを聞かれて救い出された感謝が歌われ、私達の人生に意味と目的を与える真の神への信頼が勧められています。(43)

 第一に、旅人(4)。人生は旅人のごとくと言われますが、大切なことは行き着く先であり、たどりつくことです。しかし迷える旅人であれば、餓えと疲れと不安に囲まれ、魂は衰え果ててしまうでしょう。

 第二に、捕われ人(10)。奴隷の状態です。聖書は私達全ては、罪の奴隷だと教えます。神に従い、教えを侮った結果罪の支配の中に置かれ、その力に屈服させられている状態はみじめです。

 第三に、病の人(17)。食欲もなく、日々衰えてゆく生活は、人から希望と力をうばっていきます。

 第四に、船人(23)。船旅で遭遇するのは嵐です。今にも激しい波風で、船も沈没しそうになる人生の海の嵐に、誰が救いの手をのばしてくれるのでしょうか。しかしその苦しみの中から、主に向って叫ぶことができれば主はその苦悩から救い出されます。誰でも主の御名を呼び求める者は、救われるのです。そして神は、望む港へ導かれます。天のみ国への道を開かれた主は、日々みことばをもって道を示し、支え守られる聖霊と天の父のご支配の中で嵐を乗り切ります。


<聖書のことば>
この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。
詩篇 107篇6節




尚、赦す神
詩篇106篇

2007年12月9日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 第4巻の終りで、民数紀が読まれる時第4巻の中から選ばれ賛美されたと言われています。出エジプトと荒野の40年の放浪が背景ですから、当然のことながら、ここには民の不信の姿が次から次へと列挙されています。人は、どんなに大きな神の恵みに触れても、目先の困難に翻弄されて不信におちこんでしまうものだということを痛切に教えられます。

 人の内にある罪の深さは、底知れぬものであることが示されています。

 先ずエジプト脱出という大いなる神のみわざを体験したにも係らず、民はすぐに呟き、恐れ、神の大いなる力も悟らず、忘れ、逆らうのです。(7‐12)

 荒野に於いても、マナをもって養われたにも係らず、欲にかられ、神を試み、主を待ち望むことをしませんでした。今まで頼りにしていた指導者モーセにまでも反抗し、シナイに於いては、救い主である神を忘れ、偶像を作りあげて神の怒りに触れます。モーセのとりなしがなければ彼等は滅ぼされたでしょう。民の度重なる呟きと反抗に、とうとうモーセも怒りを抑え切ることができず、約束の地へ入れませんでした。神はこれらの民の不信に対し警告とこらしめをなさいますが、民の不信は改まることはありませんでした。これは私達の姿でもあります。このどうにもならない不信の民を神は、十字架に於いて赦そうとされます。この憐れみの大きさにただただひれ伏すのみです。


<聖書のことば>
それでも彼らの叫びを聞かれたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。主は、彼らのために、ご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みゆえに、彼らをあわれまれた。
詩篇 106篇44〜45節




約束を果される神
詩篇105篇

2007年12月2日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 歴史的詩篇で、第4巻の終りのまとめに含まれる詩篇です。ここでは、過去の歴史に於いて神は、アブラハムに与えた約束を忠実に果されたことが歌われ、神の真実と誠実さが賛美されています。

 神のアブラハムの約束は、次のようなものでありました。即ちアブラハムの信仰の故に彼を祝福し、大いなる者とし、その子孫を祝福し、その子孫からさらに全世界を祝福するというものです。

 アブラハムの末はイスラエル(ヤコブ)であり、この末にダビデが起り、この家族からメシヤが誕生し、このメシヤを通して全世界の民が祝福されたのです。

 神は今も約束を忠実に守られ、救いのご計画を着実に実行しておいでです。聖書は、神の人類への約束を果される壮大な記録です。その頂点に救い主(メシヤ)の誕生があります。堕落した人類の神にたちかえる唯一の道がここに示されました。

 クリスマスの意義は、神のお約束が確実に果され、救いの道が与えられたところにあります。私達は、この日主のご降誕の祝いを催しますが、神は約束されたことを誠実に果されることをしっかりと心にとめ、私が主に対して成した約束の数々を誠実に果す心を新たにしたいものです。約束を簡単に放棄してしまう弱さを持つ者ですが、ご自身を偽ることをなさらない主を見上げ、信仰、献身の約束を忠実に果すことができるよう主を見上げましょう。


<聖書のことば>
主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる。お命じになったみことばは千代にも及ぶ。
詩篇 105篇8節




創造主をほめたたえよ
詩篇104篇

2007年11月25日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 創造主の偉大さをほめたたえる詩篇で「主をほめたたえよ」で始まり、「主をほめたたえよ」で終る他に3篇ある内の一つです。内容的には、創世記1章に対応し、神の創造のみわざの壮大さ、不思議さがうたわれています。

 第一に、神ご自身の偉大さがほめたたえられます。
神は、光を衣とし、水を土台とし、雲を用いて風のごとく歩み、火をもって召し使いとすると言います。その尊厳と威光は偉大でおかしがたく、全てのものは、創造主の前におののきひれふします。

 第二に、神の創造のみわざがほめたたえられます。
天地の全てのものは、神によって造られました(創世記1:1)。これは神が第1なるお方であって、全てのものは被造物であることを示しています。

 神は、全てのものを秩序を持って創造なさいました。被造物の全てには、調和と秩序があり、混沌とした世界を創造されたのではありません。大いなるものから微細なるものに至るまで、神のはかりしれない知恵をもって創造されたのです。更に全てのものは、神の愛によって保たれています。神は造られたお方だけでなく、そのお造りになったものを深く愛され、特に被造物の最高のものに創造された人間をこよなく愛されておられます。人は地のチリで造られたつまらないものであるにもかかわらず。これをご自身の御子にも増して愛して下さったのです。創造主を崇めほめたたえることこそ人の務めです。


<聖書のことば>
わがたましいよ。主をほめたたえよ。わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。
詩篇 104篇1節




主の良くして下さったことを忘れるな
詩篇103篇

2007年11月18日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 「ひときわ目立つアルプスの峰々の一つ」とスポルジョンは、この詩篇を評しています。大いなる賛歌の一つですが、神をほめたたえることの真珠のような表現がちりばめられていますが、その中でもひときわ私達の心にとまる言葉は、「主の良くして下さったことを何一つ忘れるな」という言葉ではないでしょうか。私達は、忘れなくてはならないことは忘れず、忘れてはならないことは忘れてしまい易いものです。主の恵みを数えて励まされ、勇気づけられることは忘れてしまい易いものです。主の恵みを数えて励まされ、勇気づけられることの大切さを改めて学びたく思います。

 先ず、神の恵みの数々が歌われます。何よりも死より贖い出して、一生を良いもので満たして下さる(5)お方は、あわれみ深く情け深いお方です。私たちが野の草のように、かよわくはかないものであるにもかかわらず、神の恵みは、とこしえまでもそそがれるのです。

 私たちの罪深さや愚かさ弱さを完全に知り、それを負い、赦して下さった主の恵みを誰が忘れてよいものでしょうか。「神の忘恩は、サタン的である」と言った人がいますが、たしかにイスラエルの民は、エジプトでの奴隷の時代、バピロニヤでの捕囚の時代、限りない神の恵みをいただいたにも係らず、それらを経験しなかったかのように神にそむいたのです。その結果は大きな痛みと悲しみでした。主のよくして下さったことを何一つ忘れないことこそ、私たちが幸せに生きる大切な心構えです。


<聖書のことば>
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
詩篇 103篇2節




教会が教会を生む働き---つくば開拓にのぞんで---


2007年11月11日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 10月の教会会議で次の開拓伝道地としてつくば地区が決定され準備に入っています。小田原伝道所の独立が実行されることがその前提にともなっていますが、教会が教会を生む聖書的な原則をしっかり踏まえ、横浜を中心に7つの教会を建設したい牧師のビジョンに祝福をいただきたいと願っています。

 つくば地区に決定された理由を挙げ更に主の祝福をいただきたく思います。

 第1に、昨年4月から大嶋家の重荷のもとに自然発生的に家での集会が持たれ、そこに周辺の当教会関係者も加わって20数名の集いが持たれていたこと。いずれこの地区に教会を建設すべき願いが積まれ、期待されていたこと。

 第2に、茨城県は、関東地域で唯一交わりのあるバプテスト教会がなく、教会の必要が願われていたこと。

 第3に、昨年9月から長江夫妻が当教会からの開拓の導きをいただいて導かれてきたこと。関東近辺を視察後最終的につくば地区に主のお導きを受けたこと。主のおことばによって確信をいただき、困難と見える茨城伝道にあえて召されたこと。

 第4に、母教会から車で2時間程で今後の働きに大きな支障はないと思われること。何よりも主のお導きと教会の一致の中にご聖霊の導きをいただけたこと等によります。大きな祝福を期待しつつ生みの苦しみにあずかりましょう。


<聖書のことば>
あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住いの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。
イザヤ書 54章2節




言い難い苦悩からの開放
詩篇102篇

2007年11月4日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 悔い改めの詩篇の一つと教えられています。個人的、国家的苦悩と、突然の解放の喜びがその背景にあると推察されますが、神を信頼する者でもその苦しみの深刻さが伝わってきます。それは神への自らの罪が原因であると認識しているので余計にその故に受ける苦しみは大きく思えます。信仰を持つ者が何の苦しみもなく平安な日々を送れると思う人がいたらそれは正しいことではありません。己の愚かさや不従順が原因で受ける苦しみもありましょう。神が信じる者をテストされる苦しみもありましょう。雨の日も風の日もありますが神は決して変るお方ではなく、常にあわれみと真実をもってのぞんで下さるのです。

 ここには、作者の苦しみの理由が列挙されています。自らの日数が短くなった加齢の悩み、それに伴って出てくる肉体的苦しみ、悩みのために食事も十分にとれないやせ衰える苦しみ、孤独、周囲からの圧迫、この世に生きていく為には、数限りない程の多くの言葉に尽くすことのできない苦しみがある。だが「しかし」と言います(12、26、27)。たびたび登場するしかしです。こう言えることこそ神を信頼する者の特徴です。困難の中で頭をうなだれているだけではない。そこから首をあげて「しかし」と言えるのは、神は変ることなく愛を注いでいて下さるとの信仰です。雨雲がはれるように輝き出る太陽、これこそ義の太陽イエス・キリストの象徴です。


<聖書のことば>
主はその聖なるいと高き所から見おろし、天から地の上に目を注がれました。捕われ人のうめきを聞き、死に定められた者を解き放つために。
詩篇 102篇19〜20節




神への誓いを果す
詩篇66篇13〜14節

2007年10月28日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 信仰生活や教会生活を最後まで全うするためには、余程の覚悟が必要です。途中で放棄することは簡単ですがこれ程信仰者として恥かしいことはありません。信仰告白とそれに続くバプテスマは神に対する個人的な誓いですから(第1ペテロ3:21)。その責任はあくまで告白した本人にあり、他から強制されるものではありません。だからこそ、その責任と義務は果されるべきなのです。

 まず信仰生涯には、沢山の乗り越えるべき障害があります。若者であれば受験、就職、転勤、結婚、育児と次々と教会生活を滞らせる要因があり、教会に於いても、対人関係、奉仕、献金等余程清められた思いで対処しないと躓きの要因は沢山存在し、一つ教会でしっかりと主とお体である教会に仕え続けることは難しいのです。主への誓いを果す誠実な聖徒となるためには、少なくとも次のことを心得ましょう。

第一に、誓った主は、私に対して常に真実であられることを忘れないこと。

第二に、救いの為に主は大きな犠牲を払って下さったこと。

第三に、主への誓いは、取り消し不可能であること。たとえ捨てたとしても、その事実は消え去らないこと。主はお忘れにならないこと。

第四に、この誓いには、大きな祝福が伴い、永遠のいのちがかかっていること。途中の困難は自分の成長の糧になることなどを心に留めましょう。



<聖書のことば>
私は全焼のいけにえを携えて、あなたの家に行き、私の誓いを果します。それは、私の苦しみのときに、私のくちびるが言ったもの、私の口が申し上げた誓いです。
詩篇 66篇13〜14節




王道の歌
詩篇101篇

2007年10月21日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 契約の箱がオベデエドムにあった時が背景にあったのではないかと想像されます。内容としては、ダビデが王としてどのような心構えで治めようとしているかが二つの面から歌われています。

 先ず、私的な面から、自分の家でいかに過すかが述べられます。
正しい心で、全き道に心を留めて歩くこと、卑しいことや曲がったわざをしりぞけ、真実に歩むと言います。公の自分と私的な自分とが変わってしまい易いものですが、富も誉れも持つ王として私生活は、さぞ誘惑の多い日々であろうと思われますが、この心構えこそが大いなる王になさしめた秘訣であったのでしょう。

 次に、一国の王として民も治めるのに、悪をしりぞける心構えを歌います。

陰で隣人をそしる者---そしるとは悪く言う、非難する、けなす等の意味で、ダビデ自身がサウルの時代にいやと言うほど経験したことです。

高ぶり誇る者---神の前における人の在り方は謙遜であるべきです。何故なら人は限られた、愚かさを持つ者だからです。謙遜は国を建て傲慢は国を滅ぼします。君主たる者、謙遜を身につけられるということは、神をおそれる者にしか与えられない恵です。

欺く者---偽りや裏切りは、悪の根源です。ダビデは、国を治める者として、いち早くこれらの者を断ち切り、神の恵みを重んじようとします。


<聖書のことば>
私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。私は正しい心で、自分の家の中を歩みます。
詩篇 101篇2節




喜びの礼拝
詩篇100篇

2007年10月14日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 95篇からのまとめが100篇で、感謝の賛歌と呼ばれています。短い歌ですが、喜びをもって神を礼拝すべきことが切々と伝わってきます。

 喜びと訳された言葉は、喜びの騒音とでも訳せる言葉で、あちこちから聞こえてくる喜びの声で、歓声とも言えるものです。礼拝は喜びを持つ各々が、主に向って歓声をあげるような姿、心でささげられるものであるべきなのでしょう。

 その理由として、第一に、神は私達の創造主であるが故です。
創造主を知ることこそが真の知識であり、知恵の源です。被造物を知ることも知識に違いないことですが、その造り主の存在を知ってこそ、真の知識と言えるでしょう。

 第二に、故に私達は、全て神のもの、所有者は神ご自身であるが故に神は私の主であられるからです。しかも被造物の中の最高の存在として創造された私達は、神の愛の内と保護の中にあるわけですから、この偉大な羊飼いに感謝し、賛美するのは当然のことです。

 第三に、故に私達は、主のために存在していることになります。神のよろこびの為に存在していることが判れば、そのお方がお喜び下さることは何かを探り、それを実行することこそ私達の務めなのです。礼拝は、私達を愛してやまない主を礼拝する時であり、そのあるべき姿は、喜びです。


<聖書のことば>
全地よ。主に向って喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
詩篇 100篇1〜2節




教会が教会を生む働き


2007年10月7日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 教会を建てあげる使命は、神に召された伝道者の働きではありますが(エペソ4‐12)、伝道者個人の資格でなされることではありません。福音宣教の働きが各聖徒の働きではあっても、その命令は教会に与えられているのと同様に、教会が教会を生み出すことこそが、主のお体である教会の生きた真の在り方なのです。

 生み出すということは決して簡単なことではありません。生みの苦しみがともなうだけではなく、よい準備とその後の汗を覚悟しなければならないのです。又様々な予想外のできことを乗り越えていかなければなりません。私達は今、新たな開拓伝道を主のご命令として取り組もうとしていますが、いくつかの点をしっかり心に留めて、主の祝福をいただきたく思います。

 第1に、教会が教会を生む働きは主のみ旨であり、祝福であることを確信することです。この為には大きな犠牲が伴うでしょうが教会を新たに建設する栄誉ある働きであることをしっかり心に留めましょう。

 第2に、この働きにあなたも参加して下さい。祈りと犠牲をもって参加していただきたいのです。傍観者とならず、無関心をしりぞけ何等かの形でかかわって下さい。

 第3に、信仰的、積極的、肯定的であってほしいと思います。私達も各々教会の祈りと信仰によって救いを主よりいただくことができたのですから。


<聖書のことば>
これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。
コロサイ人への手紙 1章26節




神のおことば、聖書の価値
詩篇119篇97〜105節

2007年9月30日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 聖書は、数千年にわたってあらゆる時代の人々に読まれ、人を変え社会を変えてきました。聖書が読まれれば罪は遠ざかり、聖書から遠ざかれば罪は近づくと言われる程、聖書の影響力は大きく、その価値は偉大です。

 教会では、常に聖書を第一の学びのめあてとし、生活の尺度とし、模範としていますが、特に教会学校の唯一の教科書は聖書なのです。そこで、聖書のすばらしさを改めて学びましょう。

 第一に、神のことば聖書は、人に救いを与えます。(ヤコブ1:21)
救いとは、人が神にたちかえることです。その為には赦しといのちが必要です。それをお与えくださるのはイエス・キリストですが、その福音のことばこそが救いを与えてくれる力なのです。

 第二に、神のことば聖書は、人を成長させます。(第1ペテロ2:2)
神の子として生れたばかりの者を成長させるのは、みことばの糧であり、神の子としてふさわしく成長させるのも聖書です。

 第三に、神のことば聖書は、正しい道へ導きます。(詩篇119:105)
誤ることなく歩むべき道へ導いてくれます。

 第四に、神のことば聖書は、神の愛を明らかに示してくれます。
聖書全巻は、神がいかに私を愛して下さっているかを示す愛の手紙です。私が滅びることなく、神の御国へ歩むために神はみことばによって守ってくれます。


<聖書のことば>
あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
詩篇 119篇105節




審きと赦し
詩篇99篇

2007年9月23日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 聖なること、「主は聖である」ということばで区分される詩篇で、3・5・9節にこのことばが登場し、内容的にも区分されます。神の支配、審き、赦しがその内容です。

 旧約の時代は、神の聖さがきわだって示されていますが、4節にうたわれるように「王の力は、さばきを愛する‐あなたはヤコブの中で、さばきと正義を行われた。」選民イスラエルは神の聖さの中に置かれた民でした。しかし、神は決して厳しいだけのお方ではなく、そのいつくしみと憐れみとは尽きることのない、もう一方の神のご性質でもあります。罪・不信を徹底して嫌われる神は、同時に私達一人一人をいのちをかけて愛し給うお方でもあります。

 出エジプトを果したイスラエルは、荒野での40年間神の御手で守られて約束の地カナンへ向いますが、この間幾度となく呟き、逆らい反抗します。特に指導者モーセに対しては、公私にわたって批判、反抗を繰り返し最も謙遜と言われたモーセにも耐えられぬ程のものでした。人は本質的にかたくなであり、不従順、不信仰な者であることが判ります。神は赦しの神であられますが、罪を見過しにされるお方ではありません。罪には必ず罰が伴い、それが明らかにされているのが旧約の時代です。今私達は同じ神の御手の内にあってモーセのとりなしのごとく、キリストのとりなしの中にいかされています。


<聖書のことば>
われらの神、主。あなたは、彼らに答えられた。あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対しては、それに報いる方であった。
詩篇 99篇8節




新たな力を得よ
イザヤ書40章27〜31節

2007年9月16日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 人生の先輩への感謝と祝福を祈る時です。全ての背後に神のみ手があることを改めて確認する時でもあります。

 今日のおことばは、選民イスラエルの滅亡と回復の預言をしたイザヤ書の一節です。主に期待する者、信頼する者は新しく力を得ると力強く語られています。たしかにたとえ若くあっても人は疲れ、たゆむものです。人生を長く歩めば、体力も知力も忍耐力も衰え、生涯は下降ぎみに見えます。しかし主を信じ期待する者には、新しい力が与えられ走っても歩んでも疲れることなく、鷲のように翼をかって上ることができると約束されています。

 この新しい力とはどのような力なのでしょうか。一言で云えば、神の与える上よりの力です。これこそが多くのキリスト者が、あらゆる時代に困難の中でも、病の中でも喜々として人生を全うしてきた秘訣なのです。

 旧約の時代はもとより、新約の時代においても信じる者の内に働くキリストの力によって働き、助けられ、守られてあかしの働きがなされてきました。キリスト教徒は、単に聖書の教えを実践するだけでなく、聖書とキリストご自身のお与え下さる霊的な力によって、この世のあらゆる力に打ち勝ちつつ歩む者です。それは下降するものではなく、天をめざして上る人生であり、日々成長をとげ、目的めざして真すぐに歩む希望ある人生なのです。たとえ外なるものは衰え、滅びても内なるものは日々新たにされる生涯です。


<聖書のことば>
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
イザヤ書 40章31節




祝福の継承として


2007年9月9日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 いつの時代でも、時の流れに従って物事は後継者にバトンタッチされ継続されてゆきます。教会も長い時代その働きはひきつがれ今に至りました。

 私達の教会も1960年創立以来47年の歩みを経て、あと数年で牧師の交替を迎えようとしています。このことは秘密裏に行われることではなく教会全体の深い祈りの内に、御霊の導きをいただいて主がお喜び下さるようにされなければなりません。ただしこの大きな変化に乗ずるサタンの働きを封じ込める必要があります。

 そこで次の数点を心に留め教会全体の祈りを要請します。

 第一に、このことは、牧師の後継者選びという観点でなく、教会の祝福の後継として祈っていただきたいということです。これまでの主の祝福を断やすことなく、更に恵みに恵みを加えていただく為になされることだととらえて下さい。

 第二に、横浜教会にとって最善、最良の牧師が与えられるよう祈って下さい。牧師は完全な者ではありませんが、その使命に於てしっかりした資質を持ち、群れの模範となる者が与えられるように、そして、招聘委員会の推薦こそが長い時間をかけての結果ですから、そこに主の導きと一致が与えられるように。それまでは個人的な推測やうわさを決してしないことを心に決めて下さい。

 第三に、招聘委員(執事全員)があらゆる観点から慎重な選択をすることができ、最良の推薦をすることができるように祈って下さい。ここに将来の祝福がかかっています。







勝利をもたらしたキリスト
詩篇98篇

2007年9月2日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 96篇と類似している詩篇で、神への礼拝の賛美です。現在この詩篇を読むと、キリストにおいてなされた神の大いなるみわざが良く判ります。何と神のご計画とお働きは、奇しく遠大なのでしょう。

 まず、全世界が救いをもたらした神の御名をほめたたえることが勧められています(4)

 賛美とは、単なる歌ではありません。それはほめ歌であり賛歌なのです。
この詩篇は、マリヤの賛歌(ルカ1:46〜)とも類似しています。驚くべき神のみわざを知らされた者は、地の果てまでもが生ける真の神をほめたたえ、又自然までもが神をほめたたえ、ありとあらゆる楽器を用いて神をほめたたえるのです。

 その理由は、主が勝利をもたらされたからです(1)。キリストによる勝利とはいかなる勝利でしょうか。
まず第一に、悪への勝利です。公生涯の初め真っ先にやってきたサタンに、主は見事に勝利を治められました。主の十字架は悪の勝利のようですが全く違います。これこそ罪の解放を示す主のみわざであり、復活は完全なサタンへの勝利なのです。死は終わりを告げ、永遠への希望をお与え下さいました。この世の力に勝利された主は、信じる者にもこの勝利をお与え下さいます。あらゆるものへの勝利をもたらすイエス・キリスト、勝利はここにあります。


<聖書のことば>
新しい歌を主に歌え、主は奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。
詩篇 98篇1節




主を愛する者たちよ、悪を憎め
詩篇97篇

2007年8月26日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 神の大いなるご支配への賛美と、そのお方を礼拝する礼拝者への勧めが歌われています。96篇の延長線上にある詩篇ですが、特に後半の勧めに目を留めましょう。

 主を愛する者たちよ。悪を憎め。と勧められています。悪の本質は、神への反逆、敵対であり、その翼下に罪人があります。神は、悪を憎まれてその独子を世にくだし、勝利をもたらして下さいました。言いかえれば、その独子を犠牲にする程に、罪を憎まれたのです。ですから礼拝する者も悪と罪に手をつないで礼拝することはできません。罪の解決なくして真の礼拝はできないのです。たとえそうしたとしてもそこに神の祝福を願うことはできません。十字架による赦しと勝利をもってこそ、神によろこばれる礼拝をささげることができ、その霊と真による礼拝こそが祝福をいただく源なのです。

 さらに、喜びと感謝をもって礼拝をささげることが勧められています。罪は、人を苦しめ喜びを失わせ暗くさせます。しかしキリストの恵みは人を喜ばせ、平安を与え希望を与えます。大いなる神を礼拝する敬虔な心には、常に喜びと感謝が柱をなしています。その喜びの源は、主にあるからです。

 聖日礼拝は、自らの罪の解決と悪からの解放をいただいた者として、喜びと感謝をもって、主の御名を賛美する時なのです。詩篇の記者と共に永遠に変わることのない、大いなる神を喜びと感謝をもってほめたたえましょう。


<聖書のことば>
主を愛する者たちよ。悪を憎め。主は聖徒たちのいのちを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。
詩篇 97篇10節




確かに、主は来られる
詩篇96篇

2007年8月19日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 この詩篇も神殿に於ける礼拝の為の詩篇です。

 まず新しい歌を主に歌うことが命じられています。
新しい歌とは、今迄歌われたことのない歌であり、新しい内容をもった歌のことですが今の時代たしかに神のなされた、キリストによる救いのみわざによって生まれた新しい賛美を意味していると、とって誤りではありません。しかし全地に対し、国々の中で御救いの良い知らせ(福音)を語り告げよと勧められています。神は大いなるお方であり、他の神々とは全く異なる尊厳と威光に満ちたお方です。しかしその最大の偉大さは、民に救いをもたらすメシヤの到来です。それは全てのものが喜び歌って然るべきことであり、メシヤをほめたたえる歌はとめどもなくささげられます。

 確かに主は来られます(13)
これは、メシヤの到来を指しているのでしょうが、同時に再び世に来られるキリストの再臨をも意味しているととることができます。この詩篇の偉大さは、選民イスラエルだけでなく全世界の民に神をほめたたえることを勧め礼拝を求めていることであり、さらには救いの君の到来を確実に歌っているところにあります。この詩篇を世界宣教の詩篇とよんでも構わないでしょう。

 キリストの再臨を緊張感をもって待ち望むことこそが今の私達に求められることです。その時忠実に仕えている姿を主に見られる者は幸いです。


<聖書のことば>
主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。
詩篇 96篇2節




神に近づく者の心
詩篇95篇

2007年8月12日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 神殿に於いて礼拝をする者の賛美が95篇から100篇まで記されていますが95篇は、その序と思われます。

 この詩篇は、1節〜7節までが会衆により、8節から最後までが預言者又は祭司のもので、礼拝者への勧めがうたわれています。礼拝する者として大切な二つの点をここから教えられます。

 第一は、喜びをもって礼拝することです。(1)
あらゆるものを創造し、あらゆるものの根源たる神への礼拝は、感謝と喜びをもってささげられるべきものであって、牧場の羊としての自覚が必要です。すなわち、羊飼いの声を聞き分け、それに従うことです。それこそが私達の幸せと安全を保証することになります。大いなる神を大いにほめたたえ私達の喜びをあらわすことです。

 第二に、心をかたくなにせずに、主の声に聞き従うことです。
イスラエルの民のメリバ(争い)、マサ(こころみ)での心痛む経験を二度と繰り返してはならず、神のみ声に従わない結果がどんなにつらく苦しいものであるかを覚えて、主の声に従うことこそが、礼拝者の心です。

 毎週礼拝に参加する私達は、そこに於いて心から感謝の思いをもって御名をほめたたえ、主のみ声を聞いてそれに従う従順さを養うことが必要です。それこそが私達の幸せとなることなのですから。  


<聖書のことば>
主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。
詩篇 95篇7〜8節




わざわいの日の平安
詩篇94篇

2007年8月5日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 王の詩の一つですが、国の外というより国の中の悪しき者が対象のように思われます。「おきてにしたがって悪をたくらむ破滅の法廷」という難解な言葉が記されていて、諸説あります。「したがって」を反してとも訳せるととり、悪しき者がおきてに無関係と解釈もできますが、やはり神のおきてを利用して悪事を行う者と解した方が良いでしょう。

 たしかに麦の畑には毒麦もまかれているのです。巧妙な手段で貧しい主の民を苦しめ、おとし入れ、迫害し、時に殺す、そんなことは、歴史の中で多々起ったことです。彼等の不遜の最たるものは「主は見ることはない。ヤコブの神は気づかない」とうそぶくことです。

 しかし、神を信じる者は、たとえわざわいの日の只中にあっても、その戒めと教えの中にあることの幸いを知り、平安を与えられます。神はご自分の民を決して見放さず、お見捨てになることはないからです。

 私達の耳をおつくりになった方が、聞くことができない等と言えましょうか。私達の目をおつくりになった方が、見ることができない等と言えましょうか。私達に知ることを教えられた方が、全てのことを知ることができない等と言えましょうか。たといいかなる困難や苦しみの中にある時にも、神は私のために立ちあがって下さり、私をかたく立たしめて下さいます。これを体験する私は、なんと幸いでしょう。


<聖書のことば>
主よ、なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わるからです。その間に、悪者のためには穴が掘られます。
詩篇 94篇12〜13節




支配者としての神
詩篇93篇

2007年7月29日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 95篇から100篇までの神をほめたたえる歌は「大頌栄」と言われる詩篇の序とも言える王をたたえる詩篇です。ここには支配者としてあらゆるものを統治される大いなる神のみいつが賛美されています。

 この世の支配者は、一時的であり、時に横暴であり、利己的で傲慢です。
しかし、全てのものの造り主、唯一絶対の神は、父のごとく慈愛と憐れみに富む完全な支配者です。

 すべてのものは、この方によって創造され我々人間もこのお方のみこころによって生れ、いのちと時を与えられました。人は全てのものを自分達の為に作ります。それと同様に神は、すべてのものをご自分の栄光の為に創造されたのです。あらゆるものは神の大いなる栄光をあらわすために存在し、私達もこのお方のみ栄えの為に存在します。そして歴史も文化も人の生き死にも全て神のご支配の中にあることを認めて人は謙虚でなければなりません。

 又、このお方は、聖であることがそのしるしです。「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」と言われます。

 私達は、決して聖なる者ではありません。それどころか汚れ果てた、罪深い者です。誰が胸を張って聖なる神の前に立つことができましょうか。しかし神は、私達の罪を十字架で解決して下さり、このお方によって私達を清め、み前に立つことをおゆるし下さいました。神の家にとこしえに住めるのです。


<聖書のことば>
あなたのあかしは、まことに確かです。聖なることがあなたの家にはふさわしいのです。主よ、いつまでも。
詩篇 93篇5節




なつめやしの木のように
詩篇92篇

2007年7月22日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 神は天地万物の創造の最後の日に安息の日を創造なさって、神をあがめほめたたえる日としてこれを聖別されました。神を敬う正しい人は、一週の始めの日を感謝と賛美をもって礼拝をささげます。それは良いことなのです。

 しかしまぬけ者にはわかりません。まぬけ者とは、知的な愚鈍という意味ではなく、けもののように神の摂理を知ろうとせず、おのがままを生きる者のことです。しかし神を信じうやまう者は豊かな祝福の中に実を結びます。

 まず、高くあげられます。(10) 角は力のしるしです。角があげられるとは勝利をもたらしてくれることを意味し、神を敬う者の生涯は高められ、誉れがもたらされます。又新しい香油が注がれるごとく、喜びの油が常にその人をおおい、感謝と喜びがその人の衣となるのです。

 さらには、なつめやしの木のごとく多くの有益な実を結びます。レバノンの香柏と共に、この地方で目立つ堂々とした樹木は、天に高くそびえ何千という有益な実を結び、それは甘い美味な果実をならせ人に有益な実を結ぶのです。レバノンの香柏は美しい木目と香りは最高級の建築材として神殿に用いられました。その樹形の美しさと大きさから樹の王様と言われています。

 これらの木は、どこに植えられたのでしょうか。主の家、即ち教会に植えられてこそ立派に成長することになります。そこに植えられれば年老いても実をみのらせみずみずしくおい茂るのです。植えられる場所が大切です。


<聖書のことば>
彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。
詩篇 92篇13〜14節




全能者の陰に宿る幸い
詩篇91篇

2007年7月15日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 40年間の荒野の放浪の果てに成人した者の内ただ2人、ヨシュアとカレブだけが約束の地カナンへ入れたことが、この詩篇の背景とすれば多くの点であてはまることがあります。たしかに神を信頼する者は、神ご自身の祝福をいただいて守られるのです。

 全能者を避け所とする者とはそこに住み、宿る者のことです。一時的に避け所とする者ではなく常に傍近くあり神を自分の神、自分のとりでとして信頼しその結果全能の神の保護をあたかも親鳥の翼の下にかくまわれるごとく守られるのです。ですから不安を覚えたり恐れたりすることは不要なのです。

 神を信頼する者への約束は、まず第一に、悪しき者の罠から救われます。
巧妙な罠は、仕方のない方法、やむをえない形、もっともらしい言訳でしのびこんでくるものです。気付かない内に罠にかかり苦しみ痛むのです。しかしそこから救出されます。わざわいがふりかからないようにして下さいます。私達にとってわざわいだと思えるようなことであったとしても、神を愛する者に対しては、全て益として下さるのです。(ロマ8:28)

 第二に、躓きから守って下さいます。大きな躓きは小さな躓きの積み重ねです。神はその小さな躓きに気付かせて下さり、大きな躓きがないように、み傍近く歩む者を守って下さるのです。やがて私達は、神がいかに多く守って下さっていたかを知るでしょう。


<聖書のことば>
いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。
詩篇 91篇1〜2節




人の子らよ帰れ
詩篇90篇

2007年7月8日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 90編は、第4巻の冒頭の賛美で民数記が朗読される時に歌われたもので作者がモーセであれば、最古の詩篇ということになります。人生のはかなさがうたわれていてよく葬送の歌として用いられています。

 まず、人生のはかなさがうたわれます。人はチリから造られた貧しいものであり、一瞬の出来事で消えさる霧のようなものです。朝に咲いても夕には枯れてしまう野の草のごとく、またたきの間に時は過ぎ去り、そのよわいは長くて80年、それは夜まわりのひととき(4時間)のごとくだと言います。しかもその短い人生は、多くの苦しみと悩みで過さねばなりません。

 そのわけは、人が神から離れたところにあります。本来あるべき状態にないということこそがあらゆる混乱の原因なのです。故に、人の子らよ帰れと勧められます。

 人が帰るところを持っているということは何と幸いなことではありませんか。羊のように迷い出した者に真の平安と幸せはありません。羊飼いのもとにたち帰るところにこそ安全があります。神はよい牧者を遣わし迷える者を捜し出して下さろうとしておいでです。

 わたし達に必要なことは、自分のありのままの姿を認めることです。自分の日を数える知恵をもって、己れの限界を悟り、神のみ旨を知って生きることです。あなたはこれからどこへ行こうとしておいでですか。


<聖書のことば>
あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」
詩篇 90篇3節




神の約束の実現
詩篇89篇

2007年7月1日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 人類の堕落以来神は、その救済の実現の為に壮大なご計画をたてられました。その記録が旧契約であり新契約聖書で、ここに人が神のみもとへ立ち返る道が記されています。神から離れた人類は、平和や希望、愛や秩序を失い、ただ滅びの道をまっすぐに突き進んでいるのが今の世界であり、救いの道は、ただ一つ神のもとに立ち返る以外にありません。

 神の約束は、堕落したアダムに、そして救いの舞台となったイスラエルの祖アブラハムにも、そしてその民の中の家族ダビデにも継承され、この詩篇はただダビデへの約束の実現にとどまらず、その末たるメシヤ、キリストにつながるメシヤ的詩篇であることが判ります。すなわち、ここでうたわれている内容は、ダビデの王座をとこしえに堅く立てると約束されたにも係らず、現実は、その力はもぎとられ敵は勝ち誇りダビデの誉れは恥かしめられていると、一体ダビデへの神の約束はどうなってしまったのか、あなたは万軍の主であり、あなたの真実はあなたを取り囲んでいる(8)のではありませんか。「わたしの恵みを彼のために永遠に保とう」(28)と言われているにもかかわらず、「あなたは拒んでお捨てになりました」(38)とうたうのです。

 たしかにこの約束は、ダビデとその子等の中には実現したとは言えません。国は分裂し、捕囚の憂き目に会い、苦難の道を辿るわけですから、しかしその実現はダビデの末から生れたイエス・キリストにおいて実現しました。


<聖書のことば>
わたしは、おまえのすえを、とこしえに堅く立て、おまえの王座を世々限りなく建てる。
詩篇 89篇4節




ただ神の栄光を現わすために
コリント人への第一の手紙10章31節

2007年6月24日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 私達は、自分のすばらしさや自分の栄光を求めて最大の努力を注いで生きているのではないでしょうか。確かに労働そのものに大きな意義があります。神は、人に命じて園を耕し守る責任をお与えになりました(創世記2:15)。

 人は無為に日々を過ごすために創造されたわけではありません。神の祝福の場に置かれたといえども、働くことは、神のみこころであり、人の使命でもあります。しかし、何の為に働くのかと問われた時どう答えましょうか。

 自分の為、家族の為、社会の為いずれも良い答えと言えましょう。しかし聖書は「ただ神の栄光のために」と命じます。

 その第1の理由は、人はあらゆる被造物の最高の存在として神の似姿に創造されたからです。あらゆる被造物は、神の偉大さとその英知をあらわしています。ただ人間だけが己の栄光の為に生き、神の喜びとなる存在ではありません。

 第2の理由は、人の生涯といのちは、神の御手の内にあるからです。神に生かされているのです。神の一息で人は生きもし、死にもします。人は全能でも全知でもありません。神のみこころを知ってそれに生きることこそ人の第1に知るべきことなのです。

 そして最後に、神はその独子を犠牲にするほど私を愛して下さっているからです。人が神の喜びとなる存在になることこそ生きる目的、働く目的です。


<聖書のことば>
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
コリント人への第1の手紙 10章31節




最初の父と永遠の父
ローマ人への手紙5章12〜21節

2007年6月17日 第3聖日 伝道師 安藤修司

 最初の人であり父であるアダムと、「永遠の父と呼ばれる」と預言されたイエス・キリスト、この二人を通して、私たちが人としてまた父として正しく立つため何が必要であるかを確かめたいのです。

 最初の父アダムは、私たちすべての罪の原因です(12節)。
創世記に記されている堕落の出来事は、罪の起源を私たちに伝えます。最初の人類であるアダムと妻エバは神との約束を破ります。最初に罪を犯したのはエバですが、聖書は「夫アダムの罪」が全人類に及んだとあかしします。最初の夫・最初の父となったアダムは、妻子を愛し導くべき夫の使命を放棄し、悪いのは自分ではなく妻だと責任転嫁をしました。彼の不従順の結果、罪はその子孫である全人類に及びます。神のことば聖書の前に、私たちは自分に伝えられてしまった罪を認めざるを得ないのです。

 永遠の父キリストは、アダムの罪から私たちを救って下さいます(21節)。
神の御子キリストは人類を罪から救うために、預言の通りにアダムの子孫として誕生し、罪のない方なのに全人類の罪の身代りに十字架で死なれ三日目に復活されました。ご生涯を通して、ご自身のものを守り、正しく導き、人類の罪の罰を自ら負われて、罪から救う責任を果たされました。この方を信じる時人は初めて罪を赦され、家族の一員社会の一員として罪や弱さに勝利し自分の責任を勇気をもって全うできるように生れ変わるのです。


<聖書のことば>
ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。
ローマ人への手紙 5章18節




悲しみと嘆きの中で
詩篇88篇

2007年6月10日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 この詩篇は、嘆きの詩篇の中でも「最も悲しい詩篇」と言われています。その理由は、この詩篇の中のどこにも希望をみつけることができないからです。作者が神を信じていることは、一節の「主、私の救いの神」と訴えていることによって判りますが、苦悩の中で昼も夜も叫びつつ、ただ苦しみの中で死に近づく自分にどうにもならない無力感を覚え、しかも友人からも見放され、神の御怒りの中に置かれていると思う悲惨な状態に、恐怖にさいなまれている様子が、切々と訴えることばの中に溢れています。

 私達の人生がただ苦しみだけの人生で、将来に何の希望も見出せないとしたらなんと悲しく、空しいことでしょうか。その終局は死であり、しかもその死こそ、そのむこうに希望がなければ、働くことも学ぶこともあのソロモンのように「空の空、すべては空、日の下で、どんなに苦労しても、それが人に何の益になろう」(伝道者の書1:2-3)ということになり、又「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」(第一コリント15:33)ということになるのです。

 パウロは人生の終りが死ではないことを知った時、又全てが神の栄光の為であると知った時、働く意義、生きる尊さが判り、死のむこうにある御国の栄光をのぞみ見つつ走ることができる様になりました。この詩篇の記者に必要なことはその望でした。キリストはその望を私達に与えて下さいます。


<聖書のことば>
主、私の救いの神。私は昼は、叫び、夜は、あなたの御前にいます。私の祈りがあなたの御前に届きますように。
詩篇 88篇1〜2節




一つにされる祝福
詩篇87編

2007年6月3日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 これは、シオンの歌できわめて預言的要素の強い賛美です。当時エジプトやバビロニヤ、エチオピヤ等は、常に圧迫を受けていた強国であり、一方ユダヤ人は選民意識の強い民族でしたから、異邦人がシオン(エルサレム)で一つになり、そこで生れる等ということは考えられなかったことに相違ありません。従ってこのシオンは、天の御国(ヘブル12:22)になぞらえ、キリストによる全世界の救いを受けた魂が一つにされる将来の祝福の実現を歌ったものと理解することができます。

 エルサレムは、神の都、神の家であり、現在ではキリストがお建てになった教会です。

 メシヤ来臨から2000年、たしかにこの預言は成就しつつあります。十字架の救いは、あらゆる障壁を越え、人々の心に和解と平和をもたらしてきました。この地上にある間は不完全でありましょうとも、キリストがお与えになる一致にかわるものは、この世にありません。

 主は一つであり、信仰は一つであり、生活の規範は聖書、めざすところは永遠の御国です。キリストにあって人間のあらゆる障害を越えて一つになることができます。その姿をまず教会の中に見出すことができるのではないでしょうか。なによりも「わたしの国籍は天にある」(ピリピ3:10)と言える者の集まりは幸いです。この一致を堅く保つ必要があります。


<聖書のことば>
しかし、シオンについては、こう言われる。「だれもかれもが、ここで生れた。」と。こうして、いと高き方ご自身が、シオンを堅くお建てになる。
詩篇 87編5節




主よ耳を傾けて下さい
詩篇86篇

2007年5月27日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 祈りという表題のついている5つの詩篇の中の1つで、90篇はモーセの祈り、そしてこの86篇は、ダビデの祈りとして有名です。この詩篇の中には、真に祈る者の姿がはっきりと示されていて、祈る者に豊かな教えを与えてくれます。

 第一に、祈る者の真実な姿が示されています。
まずダビデは、神の前に祈る自らの姿をありのまま認めています。即ち自分は、悩む者であり貧しい者で、たとえ王の権力と冨を持っている者であろうと、神の前にただただあわれみに頼るほかはない者であることを正直に認め、さらに、自分は神のしもべであり、神を恐れ信頼する者であるとあかしします。ここには神をしもべにするような祈りはみじんもみられません。私のような者の願いは聞かれなくて当たり前だ、もし聞かれるならそれは全く神のあわれみによるのだという謙虚な祈りの姿勢と、一日中求め続ける熱心な祈りの姿勢が見られます。

 第二に、祈りに答えて下さる方をよく知る祈りです。
自分が祈る相手であるお方は、実に大いなるお方であり、くすしきみわざをなすことのできるお方であって真理なるお方です。ですから私の道に神の助けが必要だというのではなく、あなたの道を教えて下さい、そうすればその道を歩みますと祈るのです。人の道は、滅びの道かいのちの道かどちらかです。いのちの道を歩む者に神は耳を傾け豊かに答えを示して下さいます。


<聖書のことば>
主よ。あなたの耳を傾けて、私に答えてください。私は悩み、そして貧しいのです。
詩篇 86篇1節




神の定めの時
詩篇75篇

2007年5月20日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 神の正義と主権が感謝をもってうたわれています。この詩篇は、神の義に関しての賛美と表してよいでしょう。

 旧約の時代、神の存在に関しては、一点の疑いもなかった民が、悪人が栄え、悪しき行いが横行しているにも係らず、彼らに対して神が何もなさらないように見えることには、納得いかなかったようです。それに反して神をおそれ敬虔に生きている者に、困難や苦しみがやってくることにも承服しかねることでもありました。この作者は今神のなさったみわざに対し、やはり神は義なるお方だと、改めてその正しい審きをほめたたえます。そこには、人の都合の良い時ではなく、神の時があったのです。即ち神の定めの時があることがわかったのです。

 全てのことには、神の定めた時があります。
時は神が創造し、神が支配しておいでです。人は時を左右することができず何が起るかも予知することはできないのです。まさしく人は時の前には無力というほかありません。生れるのに神の定めた時があり、死ぬのに神が定めた時があります。救い主がおいでになるのにも定められた時がありました。又世の終りの審きの時も神はお定めになっておいでです。ですから人は、明日もあると誇ることはできません。今日というこの日を与えられたことを感謝し、明日もゆるされるなら精一杯生きようと願うべきです。

<聖書のことば>
わたしが、定めの時を決め、わたしみずから公正にさばく。
詩篇 75篇2節




偉大なる母
ルカの福音書1章26節〜28節

2007年5月13日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 聖書の中には多くの女性が登場します。各々沢山の教えをいただくことができますが、特に救い主イエスの母マリヤは、偉大な母親です。過去のキリスト教の歴史の中で、このマリヤが特別に崇拝されたのも不思議ではありません。

 第一に卑しいはしためとしての自覚です。(38)(48)
卑しさとは、とるにたりない、身分の低い、罪深い者を意味し、はしためは相手がきまり悪くなる程みっともない者という意味です。自分をこのように罪深い者と認めるためには、聖い神の前に自分自身をみつめない限りできないことです。彼女は神の前に自分自身を知る者でありました。神を恐れる敬虔さがありました。

 第二に、驚くべきことを受けとめる信仰がありました。(34)
未婚のマリヤにとって子供が与えられるということは不思議であると共に、困ったことでもありました。この驚くべきことを「おことば通りこの身になりますように」と言えるためには、神への全き信仰なくして言えないことです。不思議なことも困ったことも全てを最善にして下さる神への信頼あってこそ言えることでありましょう。

 第三に、大いなる神よりの使命を受けてそれを果たしたすばらしさです。
メシヤを宿すと共に、メシヤと共に驚きと苦難を経験したマリヤは、世界最大の喜びと悲しみを体験します。父のみこころを行う者は同じく主の母です。


<聖書のことば>
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞあなたのおことばどおりこの身になりますように。」
ルカの福音書 1章38節




まことの繁栄
詩篇85篇

2007年5月6日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 時代的には、ハガイ、ゼカリヤの時代、即ち捕囚から帰還した後を考えるのが内容的に最もふさわしいと思われます。バビロニヤにおける70年の捕われから解放され(1)神のみ怒りの期間が終了した感謝があって然るべきなのですが、帰還した祖国は、荒廃しその復興、回復のためには、涙と汗が必要でした。まことの繁栄は、神ご自身との回復にあることをうたうこの歌から、私達の生涯の本当の繁栄について考えましょう。

 まず、罪ととがからの解放が先決です。苦しみの多くの原因は、選民イスラエルが罪と不信の故に捕囚の憂き目にあったように、罪の奴隷である者を解放して下さるキリストの救いなくして、真の繁栄は望めません。世の富と栄えを目の前に示して誘惑された主は、それを見事に打ち破られました。私を不幸にする罪の解決が先決です。しかし、この世の力と現実に生き生きとした歩みをとどめられてしまっている民にとって、何が必要なのでしょうか。「私たちを生き返らせてください。」(4、6)と願う中には、信じて救われているけれど、現実の嵐に打ち負かされている信者の姿があります。その私に何が必要なのでしょうか。

 たしかに神は、私たちと共にいて下さり、最善の御手をのばして下さっていることは確かですが、私自身が近くあろうとしなければ、又神の声を聞こうとしなければ、恵みとまことは出会う(10)ことはありません。


<聖書のことば>
まことに御救いは主を恐れる者たちに近い。それは、栄光が私たちの国にとどまるためです。
詩篇 85篇9節




変えられたバルテマイ
ルカの福音書18章35〜43節

2007年4月29日 第5聖日 インターン訓練生 長江忠司

 当時、盲人が生きていく為には乞食をするしか術がありませんでした。彼らはイエス様にあわれみを求めて叫び続けます。イエス様は立ち止まられ、目を癒されたのです。この記事から学ぶべきことは何でしょうか。

 第一に、主は自分の無力さを覚え、祈り求める者に応えて下さるということです。彼らは全くもって無力であり、あわれみを受けるべき存在であることを自覚していました。だから、熱心に諦めずに主のあわれみを求め続けたのです。主はそのような彼らの叫びに耳を傾けられました。

 第二に、主は苦しんでいる者をあわれみ理解して下さるということです。イエス様は、これからご自身がエルサレムでひどい苦しみを受け十字架にかかられることをご存知でしたので、緊迫した心の状態にあったことでしょう。にもかかわらず、主は彼らを「かわいそうに」(マタイ20:34)思われたのです。

 第三に、主は信仰によって応答する者に報いて下さるということです。バルテマイはイエス様に信仰によって応答し、大胆に希望を告白しました。主はそのような信仰をご覧になり、豊かに祝福し報われたのです。

 私達もバルテマイのように自分の無力さを覚えて主に祈り、信仰によって応答する者になりたいと思います。主はそのような者達をさらにつくり変えて用いて下さるのです。


<聖書のことば>
イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。
ルカの福音書 18章42〜43節




なんと幸いなことでしょう
詩篇84篇

2007年4月22日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 礼拝ができない環境におかれた者の、礼拝への渇望です。今作者は、神殿における礼拝から遠く離れていて、礼拝したくてもできない場所にあって礼拝できることの幸いをしみじみと感じています。それを「なんと幸いなことでしょう」という言葉で言い表わしています。

 第一に、神の家に住む人の幸いをうたいます。(4)
雀さえ神殿に住み家を見つけ、つばめも巣をつくっているのに自分はできないつらさを「大庭を慕って絶え入るばかり」と言うのです。神の家とは教会のことです。教会に連なる者は、キリストの体としての直接的な祝福があります。主はいのちをかけてこの地上に教会をおつくり下さいました。そこはキリストの満ちているところです。ここを離れて豊かな祝福はありません。

 第二に、神を力とする者の幸いをうたいます。(5)
シオンへの大路を歩み、御国をめざして歩む者には希望があり、神の力が注がれます。あらゆる悪の力から守られる力、死と罪の力から守られ、力強く歩むことができます。

 第三に、神に信頼する者の幸いをうたいます。(12)
神は真心から信頼する者に良いものを拒まれません。信頼する者を責任をもって守って下さいます。ですから平安をもって生きることができるのです。なんと幸いなことでしょう。主のもとにある1日は罪の日の千日に勝ります。


<聖書のことば>
なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。
詩篇 84篇4節




教会の新たな歩み出し
ヨシュア記1章

2007年4月15日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 私達の人生には、時々一つの区切りというものがあって、その時を境に新たな展開がみられるものです。教会の歩みにも同様に新たな歩み出しといえる時があります。モーセは40年間の荒野での民の指導を終えてその後継者としてヨシュアが神によって選ばれ(ヨシュア1:1)約束の地カナンへと導かれていきます。

 私達の教会にもその新たな出発となるべき時が近づいており、又それは新たな祝福への歩み出しととらえていく必要があるのではないかと思います。

 モーセは、告別説教とも言える申命記の冒頭でこれまでの歩みを振り返りつつ、民の不従順を反省しそれでも尚彼等を見捨てずに導かれた主のおとり扱いを強く訴え、先立たれる神の力によって約束の地を獲得し勝利を得るようにと励まします。

 先ず第一のことは、後継者の選任でした。モーセは120才になっていたにも係らず健康で気力も衰えていませんでした(申34:7)が彼の使命は終了したのです。信仰と知恵と謙遜の霊に満たされた従者ヨシュアが後継者となりました。今私達の教会の後継者となるべき器も必要なのです。

 第二に、その為の備えが必要です。その時では遅いのです。即ちモーセが死んでからヨシュアが選ばれたのではありません。必ずやってくるその時に備えないことは愚かなことではありませんか。

 主のお住みになる教会が知恵深くありますように。


<聖書のことば>

強くあれ。雄雄しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。
ヨシュア記 1章6節




もしキリストが甦らなかったなら
コリント人への手紙第一 15章1節〜20節

2007年4月8日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 イエス・キリストの十字架上での死の事実を否定する人はほとんどいません。しかしそのお方が墓から復活したことを認める人は、極めて少ないのです。当時の弟子達でさえ初めは信じられなかったわけですから無理からぬことです。

 復活は、単なる蘇生とは異なり、全く新しい栄光の体をもって甦られたことを意味し、これこそがキリスト教の根幹をなす重大な出来事であったことを知らねばなりません。

 もしキリストが、甦らなかったならどうなるでしょうか。

 第一に、全てのキリスト教徒の信仰は、空しいものとなります。(17)
なぜならば、甦りを予告した主は偽りとなり、甦らせられた天の父も偽りとなり、永遠の生命への約束も何の根拠もなく、死後の保証もなくなるのです。即ち救いの約束の全ては根底から崩れることになります。

 第二に、多くの宣教者は、偽りを伝える偽証人となります。(15)
これ程大きな偽りの宣伝はありません。弟子達は大胆にイエス・キリストの復活を宣べ伝え、多くの者がそれを信じ、しかもそのために生命をも失う迫害にあうことになったのです。

 第三に、我々の人生に希望と解決がなくなります。(19)
死のむこうに希望がなければ、人は飲め食え楽しめと快楽のみを追求することになるでしょう。しかし確かにキリストは甦り、死後の保証となりました。


<聖書のことば>
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
コリント人への手紙第一 15章20節




こうして彼らが知りますように
詩篇83篇

2007年4月1日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 ここに登場する神の民に敵対する連合軍の記録は、聖書の中にありません。もし挙げるとしたら、ヨシャパテ王の時代モアブとアモン等の連合軍の来襲位でしょう。ここに登場する国々は、ほぼイスラエルを囲む周囲の国々で占められていますので周囲の敵への言及ととらえる必要があります。

 これは復讐の歌ですが、詩篇に共通する復讐とのろいの歌の特徴は、18節に示されている「神を知るようになる」こと「まことの神をおそれる」ことにあります。

 人は常に求道の念を持つ者ではありません。そうあってしかるべきでありながら、苦しみや痛み、悲しみや困難に遭遇しないと真剣な求めを神に対して持つことはできない弱さを持つものです。たとえ過去に於いて多くの神の恵みを体験した者であっても、感動や感謝は薄れ、次第に忘却し、目先のものにとらわれて真剣に神を求めることができなくなるということもあります。

 放蕩息子がおちぶれていのちの危険を身に感ずる状態になった時、はじめて今までいた父の家の恵みの豊かさに気付いたように、私達もいつの間にか恵みに慣れて当り前と思う愚かさのとりこになってしまいます。詩篇の記者は周囲の敵への神によるこらしめを求めつつも、神のみわざによって敗北を喫して後、神への真剣な求めが生れ、やがてはまことの神を知ることができるようにと願っています。


<聖書のことば>
こうして彼らが知りますように。その名、主であるあなただけが、全地の上にいますいと高き方があることを。
詩篇 83篇18節




ふるいにかけられる主
詩篇82篇

2007年3月25日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 この詩篇の意味するところが、天的会議をさすのか、地上の支配階級への願いを指すのか不明で「神(エロヒム)は、神(エル)の会衆の中に立つ」ということばの解釈にかかっています。次の行が一行目の並行であれば、神は、さばき人の真中でさばきを行うことになり、この地上の支配階級への言及と考えてよいのかもしれません。「おまえ達は、神々だ」(6)ということばも、神の代行者としての裁判官や、支配者ととらえることができるでしょう。

 この詩の中心思想は、真の審判者なる神が正しい者の訴えをとりあげ、公平なさばきをしてくださるようにとの「神よ。立ち上がって下さい」と歌うところにあります。

 先ず第一に、真の審判者としての神がいますこと、まさしく神は最終的審判者であられます。そのさばきは公平にして真実です。世に力ある者の暴虐が満ちていようと、神は、あらゆるものにまさって力を持たせて正しい審判をなさいます。「地をさばいて下さい」(8)これは、ふるいにかけることを意味します。神はイエス・キリストにあって世をふるい、その赦しにあずかった者をえり分けられます。貧しい者、悩む者に近くいます神は、彼等を顧みられて救いに入れて下さいます。この世の不公平は、やがてまことの審判者によって正され、神を信頼する者の苦しみや悩みに解決をお与え下さることはなんと幸いなことでありましょうか。


<聖書のことば>
神よ。立ち上がって、地をさばいてください。まことに、すべての国々は、あなたが、ご自分のものとしておられます。
詩篇 82篇8節




山に登って
ハガイ書1章

2007年3月18日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 70年のバビロン捕囚から帰った民は、長年の願いであったエルサレムへの神殿再建に取り組みますが、反対にあって15年間工事は、基礎を築いただけで中断されてしまいます。その間民は、自らの生活の再建に涙と汗を流しながら励み、ようやく板張りの家に住めるようになりますが、同時に神殿建築への熱意も冷め、「主の宮を建てる時はまだ来ない」(2)と言うようになってしまいます。

 ハガイは、そのような彼等を激励します。「あなたがたの現状をよく考えよ」。神殿は荒廃したまま、しかも自分の家の為に懸命に努力しつつも、与え主なる神第一を忘れた彼等は、自らの生活の為に多くを期待したが結局手もとに残ったものは、わずかであったし、働いても、働いても、満足は得られない日々だったのです。

 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよと励まします。神殿を建てることは多くの犠牲と労力が必要です。自分の家を建てる以上に大変なのかもしれません。周囲の反対もあり、自分の生活を考えたら神殿の必要は判っていても、「まだその時ではない」と考えるのも無理のないことなのかもしれません。しかし、自分を優先していたら、主の働きはできません。あらゆる祝福は主より来ることを知ることができれば、多くの困難を越えて主の働きは実現し、その結果、神のすばらしさがあらわされます。今日から後祝福としようと(2:19)。


<聖書のことば>
山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる
ハガイ書 1章8節




あなたの口を大きくあけよ
詩篇81篇

2007年3月11日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 ギデトという言葉そのものは、ガテという地名に由来しているようですが詳細は不明です。前半5節までは、神への賛美が、後半は、神の託宣が記され、共に大きな叫びをもって賛美を、そして大きな口をあけて求めよと、うたわれています。

 まず賛美をささげることについては、喜び歌え喜び叫べと賛美が喜びをもってささげられるべきことが求められています。たしかに賛美は、単なる歌ではありません。気の入らない無気力な賛美は賛美とは言えないでしょう。声高らかに、あらゆる楽器をもってして神をほめたたえる時に、神はそこに祝福を注いで下さることは当然のように思われます。喜び叫び、打ち鳴らし、かき鳴らし、吹き鳴らすのです。それは主が定めたものであり、私達の神への喜びのあかしなのです。

 更に求められているのは、大きな口をあけて神に求めることです。神はそれも満たそうと言われます。豊かな富を持たれる神は、私達が求めるのを待っておられるのです。求めないから得られないのだと言われます。もし私達が大きな口を開いて、親鳥を待つひなのように口を開いて待つなら、主は私達の求めに答えて下さるお方であるに違いありません。「神の栄光のために大いなることを期待する」ことは、神が喜んで下さることなのです。自分の欲望達成の為ではなく、主のみ栄えがあらわされる為に大いなる求めをしましょう。


<聖書のことば>
あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。
詩篇 81篇10節




私たちをもとに返して下さい
詩篇80篇

2007年3月4日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 聖歌隊指導者アサフの歌が続きます。内容からは北イスラエルに対するアッシリヤの圧迫が推測されますが、エジプトからカナンの地に移植されたぶどうの樹がようやく実をならせはじめたのに、その実を外から奪おうとするアッシリヤの脅威への訴えであり「神よ、私たちをもとに返して下さい」という訴えが三度繰り返されることによってこの歌が構成されているのがわかります。(3、7、19)

 先ず、私をもとに返して下さいという言葉に注目しましょう。苦しい状態、境遇から救い出して下さいというのではなく、私をもとに返して下さいと求めています。あらゆることは「私」が神のもとに返るところから始まります。
すべてはそこからなのです。困難な時だけでなく、成功して有頂天になっている時も、安定して真剣な求めが失われている時も、弛緩している時も「返る」必要があります。真の回心こそ祝福の源なのです。

 御顔を輝かせて下さいという願いは、私の方へ顔を向け、顧み、あわれみを注いで下さいということです。神のかえりみこそが、あらゆることへの勝利の土台です。人が神のもとにたち返ることも、主の助けと支えをいただけることも、主の一瞥があってこそです。主を否むという大きな失敗をしたペテロは主がみつめられたあの一瞥があったからこそ、ペテロの為に祈って下さっているおことばを思い出したのでしょう。(ルカ22:32)


<聖書のことば>
神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。
詩篇 80篇3節




嘲りへの勝利
詩篇79篇

2007年2月25日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 74篇と共通のテーマで、イスラエルの民がバビロニヤの侵略により、町も神殿も破壊された時に、神に訴えられた嘆願の詩です。

 まず民の苦しみが訴えられます。異邦人によるエルサレムの陥落は、町は勿論のこと、聖なる神殿も破壊され、めぼしいものは全て持ち去られ、多くの者が捕虜として連れ去られていたるところで血が流され屍は放置された苦しみは、たとえようもないものであったのでしょう。

 しかし最も大きな痛みは、侵略者のあざけりでした。彼らは「彼らの神はどこにいるのか」と嘲笑するのです。もし真の神がいるなら、又その神を信じているのなら、今のこの現状からおまえ達を救わせてみよ。おまえ達の神は、何をしているのだ。何もしない。何もできない神なのかとあざわらうのです。他のどんな苦しみよりも、このあざけりの言葉は最も大きな痛みを与えたに相違ありません。

 私達は、このあざけりとあなどりのことばを十字架におかかりになった主にあびせられたことばに見出すことができます。(マタイ27:27~)むち打たれた主の痛みにも増して、めかくしをされ葦の棒を持たされた主は、ツバをかけられ、平手で打たれつつ、他人を救ったが自分を救えなかった王様、神のお気に入りなら救っていただけとののしられたのです。主のお姿がなんと私達の励ましとなることでしょう。全てに勝利された主の私達は牧の羊です。


<聖書のことば>
捕われ人のうめきが御前に届きますように。あなたの偉大な力によって、死に定められた人々を生きながらえさせてください。
詩篇 79篇11節




何故、世界なのですか


2007年2月18日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 海外宣教とか宣教師派遣とかいう言葉を聞くと、日本の伝道の状況や自分の教会の現状を見ては「何故、海外なのだ」「まず私達、そして私たちの身の廻りではないか」「それがしっかりせずにどうして海外宣教支援なのだ」と考え易いものです。それが自然な思いなのかもしれません。しかし聖書は、そして主は「世界」とお命じになります。めあては世界なのです。たとえ私達がどういう状況であろうと、そこに教会がある限りその教会に命じられた主のご命令は「世界」なのです。

 この命令に忠実に従った教会が宣教師を送り出し、そのようにして全世界に福音が伝えられ教会が設立されてきました。日本にも同様、多くの困難を越えて宣教師が伝道をしつづけて教会が生み出され、今も尚宣教が継続されています。

 この働きは教会だけがする働きであり、教会にしかできない働きです。

 宣教師として海外に出て行く器は、主からの明確な呼び出し(召し)と訓練、教会からの按手と派遣が必要です。宣教師を遣わすことに賛同した教会は祈りと経済的、物質的支援をもって霊的にも精神的にも、よりよく伝道活動ができるようにすることによって世界宣教の責務を果します。

 世界宣教は、主のみこころですからこの使命に立つ時、そこに豊かな祝福を注いて下さることは、その結果として与えられるのです。


<聖書のことば>
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
マルコの福音書 16章15節




主がお喜びくださる賛美
エペソ人への手紙5章19節

2007年2月11日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 歌を歌えばなんでも良いというものでないものが賛美歌です。
賛美歌が賛美歌であるという最も大きなしるしは、賛美であるということに他なりません。即ち神をほめたたえ、救い主キリストをほめたたえる歌こそが賛美なのです。従ってここから導きだされる思想は、その歌詞が主をほめたたえるものであるということで、歌手や技術がほめたたえられるものでないということであり又ほめたたえる以上そのことが神のお喜び下さることこそが第一であり、歌う我々の喜びとなるのは、二の次であるということです。歌は人の感性に強く働く力を持っていますから誰でも容易に入りこめるものですが、それだけに賛美歌を用いる時に注意深さが必要なのです。

 もう一点は、賛美をささげる人の重要性です。救いを喜ぶ人であり、信仰生活を感謝する人であり、主をほめたたえる心を持つ人であるべきなのです。もし、これらのものを持つことなくして賛美をしたいと思う人は、歌の好きな人であり、歌うことを人に聞いてもらいたいと願う人であり、賛美する相手は、主ではなく、人なのです。どんなに歌詞やメロディーがすばらしくても、賛美する人が賛美にふさわしくなければ主はお喜び下さらないでしょう。おいしい食物は、それに相応しい器で食べる時こそ美味なのです。

 賛美歌が主にお喜び下さるなら、そこに大きな祝福が注がれます。まず私達がその恵みを体験させていただきましょう。


<聖書のことば>
詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向って、心から歌い、また賛美しなさい。
エペソ人への手紙 5章19節




たとえに秘められた教え
詩篇78篇

2007年2月4日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 これ程美しく語られ、歌われた歴史の詩は、少ないと言われています。イスラエルの民がエジプト脱出から、ダビデの王国建設までの奇しい神のみわざが次々と語られながら、その恵にあずかった民がいかに不誠実、不忠実、かたくなな者であったかが、これでもかこれでもかと語られるのです。あたかも親が子供に過去の歴史を語り、かつそこでなされた失敗の歩みを語ることによって、同じ失敗を繰り返してはならない(6-8)と強く警告することをならわしとしていたイスラエルの民のごとく、この詩は、単なる歴史を歌う歌として終ることなく、この歌を歌うことによって、後世に「かたくなで逆らう世代の者、心定まらず、たましいが神に忠実でない世代の者とならないため」の教訓を豊かに与えるものであることが判ります。

 沢山の神の恵みと助けを受けながら、教えに従って歩むことを拒み(10)約束を守らず(10)神の恵みと助けを忘れ(11)逆らい(17)さらには神を試み、神を欺き、偽り(36)、不誠実、不忠実(37)となり、繰り返して神に逆らい、試み(41)、聖なる方の心を痛め、裏切った者、しかも神の助けられた日も覚えていなかった忘却の民、それは、私達ではないか。

 このような失敗を二度と繰り返してはならないというメッセージこそこの詩の主旨であると共に、人はかく弱く愚かである。にもかかわらず神は「しかし・・・」と、あわれみをもって手をのばして下さるお方だと教えられます。


<聖書のことば>
また先祖たちのように、彼らが、かたくなで、逆らう世代の者、心定まらず、たましいが神に忠実でない世代の者とならないためである。
詩篇 78篇8節




回想による回復
詩篇77篇

2007年1月28日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 個人の苦しみの体験ですが、その原因については不明です。日夜祈り叫び切実に求めたけれどその答えを得ることができない作者の苦しみが、様々な面からのべられています。

 神を信じていながら助けや解決を得られない者の心の内を赤裸々に表しているこの詩篇は、私達の生涯で遭遇する多くの苦難に光をあてるものになるのではないかと思います。何故なら私達も全知全能の主に願い求めながら、願いの通りに解決を得られないことや、懸命に働きつつも結果を得られなかったり、正当な報いを得ることができないことが多くあるのではないでしょうか。そんな時、この作者のように「主は、いつまで拒まれるのだろうか」「愛してくださらないのだろうか」(7)「約束は果されないのだろうか」「哀れみを閉じてしまわれたのだろうか」(9)と思い「私の霊は衰え果てる」(3)経験をするものです。

 しかしアサフは落ちこんだままではいませんでした。「私は、主のみわざを思い起こそう」(11〜12)と、過去の神の大いなるわざを思い起こし、この回想が彼の霊的、精神的回復に大いに役立つのです。苦難はなるべく避けたいのですが、時に神は苦難を通して大切な恵みをお与えになり、又私達の願い通りにならなくても、神のご計画は最善ですので、そのことをお教えになることもあります。恵みを数えて回復する経験を共にしたいものです。

<聖書のことば>
私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。
詩篇 77:11




神の慈愛と峻厳
詩篇76篇

2007年1月21日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 神がみ怒りを発せられれば、どのようなことになるのか、又神は、いかなる時にみ怒りを発せられるのか、私達は神が常に優しく、愛深く、いつくしみ豊かな方であって、み怒りを発せられるお方などとは考えないと思っている人がいるとしたら、それは大きな誤りであることが、この詩を読めば判ります。

 アサフは歌います。「あなたは、あなたは、恐ろしい方。あなたが怒られたら、だれが御前に立ちえましょう。」(7)神のみ怒りのとどろきが響き渡ると地は沈黙し、人間の怒り等ひとたまりもなく、神のみ力の偉大さに驚嘆の賛美に変えられますと。

 神は、いかなる時に怒られるのでしょうか。

 第一に、神の教えや定めに人が従わず、逆らう時です。アダムは、神の命にそむいて、ただ一つの命令を破ったが故に、園から追放され死に追いやられたのです。

 第二に、偶像礼拝に人が陥る時です。真の神を神とせず、神ならざる者を神とする時、み怒りを発せられます。更に、不道徳、不正、傲慢に人が陥る時、やはり、み怒りをもって人をお審きになります。

 しかし、神は、心貧しい者を決してお見捨てになりません。己の罪深さを知り、心低くして救いを求める者に限りなくあわれみ深く、しいたげられている者のために立ち上がられます。


<聖書のことば>
神が、さばきのために、そして地上の貧しい者たちをみな、救うために、立ち上がられたそのときに。
詩篇 76篇9節




神の定めの時
詩篇75篇

2007年1月14日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 74篇の続編とも言えるような内容の感謝の歌です。神には神ご自身の定められた時があり、悪しき者を滅ぼし、正しい者を守られる。ひととき神を信じない不敬虔な者が栄え誇ったとしても、神はそのなしたわざに公正なさばきをくだされるということを体験した賛美の歌です。

 冒頭に「感謝」が二度もされていて、神の助けを経験した記者が強い調子で感謝をささげていることが判ります。私達の生活の中に、神に感謝するという方法で感謝をささげられることがあるとすれば生活が大いに変ることでしょう。人の心に感謝が始まる時、人は輝き、力を得、喜びが生じるのです。

 そしてそのような人は、神が近くにおられることを知ります。勿論主は私達と共におられるのですが、私達がそれを感知することがないのです。

 私達は自分の都合の良いように物事を考え、何故神は助けて下さらないのだろう、導いて下さらないのだろうといらだつものですが、人の都合ではなく、神ご自身の都合でことはなされます。神の時があることを知らなければなりません。そしてその時こそが最良の時なのです。それはその時判るか、後になって判るか様々ですが、神の定められた時は最良最善の時、1日は千年のごとく、又千年は1日のごとくですが、たしかに神は、この世と私達の人生にご計画をお持ちであり、それを信じる者は力を得るでしょう。

<聖書のことば>
わたしが、定めの時を決め、わたしみずから公正にさばく。
詩篇 75篇2節




神よ立ち上がって下さい
詩篇74篇

2007年1月7日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 BC586年南ユダは、神への不従順の故に北から攻めてきたバビロニヤのネブカデレザルによって占領され、エルサレムは神殿もろとも破壊されてしまいました。この詩は、廃墟となった神殿と蹂躙されたエルサレムを前にして、神よいつまでですか、あなたは大いなる力をもってエジプトから私達を導き出されたお方ではありませんか、どうか立ち上がって下さい、神の聖さがふみにじられています、私達をお忘れにならないで下さい、と嘆願します。

 嘆願だけで終る詩は多くはありませんが、神殿聖歌隊の指導者として耐えられない内なる思いが切々と訴えられていて、私達の日々の歩みの中にも起り得る困難に際しての気持を代弁していると言えるでしょう。

 まず、思い起こして下さい(2)、と訴えます。彼の心配は、神に忘れ去られ捨てられてしまったのではないかということでした。その背後には、度々預言者のメッセージを聞きつつも、それに従わなかった自責の念があります。

 今は預言者もいない(9)。いつまでこの状態が続くのかを知るものもいないと不安を訴えます。目の前にあるのは暴虐だけです。

 又契約に目をとめて下さい(20)と言います。神が民に与えた約束を思い出していただいて、その祝福すると約束されたことを実行して下さいと。

 そして最後に立ち上がって下さい、と訴えるのです。神は大能の右の御手をひっこめておいでになるその手をふところから出して立ち上がって下さいと。


<聖書のことば>
神よ。立ち上がり、あなたの言い分を立ててください。
詩篇 74篇22節