聖書からのメッセージ

【礼拝説教要旨】

神に近くあることの幸い
詩篇73篇

2006年12月31日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 アサフは、聖歌隊の指揮者の一人であり詩篇の中には11篇が彼の作として収められています。37篇のダビデの作と同じテーマを扱っているもののアサフの方が深刻であり、神を信じない不敬なる者達が、神を信頼して敬虔に生きる者より、平安そうで富み栄えすこやかであるだけでなく、信仰者をあざけり、高慢に神への汚しごとを言う姿を見て、自分の思いも崩れそうになり、もしこの内心を子等に語ったら彼等は、躓くに違いないと思う程であったと告白します。(15)

 たしかに世を見れば、神を信じる人とそうでない人の違いは多々あり、不敬虔な者が豊かで幸福そうで力がありそうです。彼等は世的力を背景に、敬虔に正直に生きようとする者をさげすみ、神などいるものか、神は何もできはしないと誇り高ぶるのです。

 しかし、(2、23)この二つのしかしは大切なしかしです。一方は、世に目を向けて迷いと疑いを生じたしかしであり、後者は、目を神に転じた時のしかしです。彼は聖所に入り、神と交わりを新たにします。改めて誇り高ぶる者の栄えは一瞬であり(19)その行き先は永遠の滅びであることを悟るのです。自分が悩んだことは、世の栄えをねたんだことにあり、それはわきまえのない獣と同じであった。人としての真の幸せは、神の近くにいることであることを悟ります。自分の目をどこにむけるか大切な事を教えられます。


<聖書のことば>
しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを、語り告げましょう。
詩篇 73篇28節




人となられたイエス・キリスト
ピリピ人への手紙2章6〜7節

2006年12月24日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 クリスマスの大いなる意味の一つは、神が人となられて世に、来られたという事です。

 どうして神が人となられる必要があったのでしょうか。神から離れてしまった人を元に戻されるには、様々な方法をとろうとすればとれたのかもしれません。しかし人の罪を赦し、永遠のいのちを与えるためには神が人となられて救いの道を開かれる事こそが最善であり、人が堕落した瞬間から神が定められた方法であられたのです。(創世記3:15)

 又、私達が神を理解するためには、人に近い姿を通して理解する方が理解しやすいし、神ご自身も神の御姿を私達に示す為に示し易いのです。神の目に見えないお姿を私達は、イエス・キリストの中に見ることができるからです。しかし、更に大きな理由は、人の身代りとなって罪をその身に負われるためでした。旧約の時代は、動物が罪の身代りとなって殺されささげられましたがその完全な身代りとして罪のない神ご自身が私達の身代りとなって刑罰をお受け下さるために神は人となられたのです。一人の不従順によって罪が世に入りましたが、一人の従順によって救いがもたらされたのです。そして人となられた神イエス・キリストは、私達の模範となるためにも、人となる必要がありました。悲しみ涙し痛む私達と同じ人がなされた愛のみわざは悟りのにぶい私達に人としての在り方を教えてくれます。


<聖書のことば>
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
ピリピ人への手紙 2章6〜7節




王の王としてのメシヤ
詩篇72篇

2006年12月17日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 この詩篇は、第2巻の終りに位置し王の即位式に際してつくられた詩であろうと、その内容から推測されます。ソロモンによるとある表題は「ソロモンのための」ともとれ、もしそうであれば、ダビデがソロモンを後継者としてたてる時に作った詩であろうと思われます。(20)

 ここには、王としてたてられた者の責務と祝福がうたわれています。
まず、義と公正による統治(1-2)、人をかたよりみることのない正しい支配が王に求められる時、そこにある民たちは平安と平和を得ることができます。また正しい判断による審きこそが貧しい者、即ち神をおそれて歩む者や悩める者、苦しむ者にとって真の救いとなること、そして平和と繁栄こそが王の働きの結果与えられるとうたわれます。

 この詩篇は、メシヤ預言詩の中には入れられていませんが、やがて来る真の王の王たるイエス・キリストへの予表として、十分な霊的教えを含むものです。

 イエスは、ユダヤ人の王(ヨハネ18:37)としてだけでなく「王の王、主の主」(黙示録19:16)として世に来られ、専制君主としてではなく、罪人、貧しい者に仕えるしもべとして、又ご自分のいのちをも与える愛の王として世に来られ、今に至るまでまたこれからも人を神のみ国へ導く救い主、神のみ国の支配者として現実に働いて下さっています。


<聖書のことば>
彼は、弱っている者や貧しい者をあわれみ、貧しい者たちのいのちを救います。
詩篇 72篇13節




年老いた今も
詩篇71篇

2006年12月10日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 若い時から年老いた今に至るまで神を信頼の的として歩んできた者の、変わることのない、円熟した確固とした信仰者のあかしが、この詩には溢れています。

 若い頃から、生れた時から神のみ手に守られ、導かれてきた彼は、常に神に教えられ、何が正しく何が悪しきことであるのか、人生の目的は何であり自分の存在は、いかなるものか、人として身につけていなければならないものは何であるのかを教えられてきたと言います。これは勿論、神を信じる親から直接教えられてきたことです。

 現代、親は子供に何を伝え、何を遺産として残すのでしょうか。人として大切なものを子供に、自分の生き方や教えを通して与え、残す者は幸いです。

 今彼は、年老いて、多くのささやきを耳にします。思うことと行うこととがままならない老人となった時「神は彼を見捨てた」と、信仰の空しさや、神の助けから遠ざけられたように思われる日々の中であっても、神への信頼は、決してゆるぎません。「わたし自身は、たえずあなたを待ち望み」「あなたの大能のわざを後に来るすべての者に告げ知らせます」「多くの苦しみと悩みとに会わせなさいましたが、私を再び行き返えらせて下さいました」と、年老いた今も、若い時以上に「賛美」をもって大いなる、いつくしみ深い神を賛美しています。こんな老人になりたいものです。


<聖書のことば>
年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないで下さい。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。
詩篇 71篇18節




主よ遅れないで下さい
詩篇70篇

2006年12月3日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 この詩篇は、40篇の13〜17節とほぼ同じです。69篇のあとがきとして記されたものかもしれません。困難の中にあるダビデが神の助けを求める切実な訴えがうたわれています。

 まず、人からの圧迫に対する訴えが記されます。(2〜3)
彼等は、作者のいのちを求める者です。極めて危険な状態であり一刻を争う助けの必要な時です。またわざわいを求める者です。私達の心の中には、人の幸せや成功を喜べない罪性がひそんでいると共に、自分の弱さや失敗を認めたくない誇りがあって、それが言葉や行動にあらわれるものです。あざけりや軽蔑の表現が「あはは・・・」という言葉であらわされています。これは幼い子供の心の中にも存在していて、それがいじめという形であらわれているのではないでしょうか。ダビデの経験したものはなまやさしい圧迫ではありませんでした。しかし苦しみを打ちあけられるお方をもったダビデは、幸いです。神は善悪共に公平に審かれるお方です。前篇にもあるように、神は悪をそのまま見逃すお方ではありません。必ずそれ相当の審きをもってのぞまれます。大切な事は、神を信じて忍耐と愛を持つ事ではありませんか。

 神の最善と義を信じる者が最後には、神にあって喜び楽しむようにして下さる事を信じられる者は幸いです。しかし私達は弱い者ですから早く急いで、遅れないで助けていただきたいのです。


<聖書のことば>
私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。
詩篇 70篇5節




まことの独立と赦し
詩篇69篇

2006年11月26日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 独立とは単独で存在し他に支配されない事です。しかし人は他に依存せずに存在することはできません。人の助けや物による支え、神の創造のみわざである被造物の中で生かされているわけですから、しかし大切な事は、何に依り頼むかなのです。真に依頼むものに依り頼むことこそまことの独立と言えるのではないでしょうか。詩篇にみられる一貫した姿は、人にも物にも依存せずただ神にのみ頼るまことの独立した信仰者の姿です。勿論人や物や自分を大切にしないという事ではありません。それがいかに頼りにならないものかを知り、全てのものの背後にあって全てのものを支配しておられる全知全能の神に信頼を置くことこそ、罪深いこの世にあってしっかりとした歩みをなし続ける秘訣だという事を教えてくれます。

 この詩にみられる作者の姿は、この世の全てから捨てられたメシヤのような姿です。それを示すかのように新約でのこの詩の言及が17ヶ所にも及び、ほとんどが救い主キリストに関する言及であることに表されています。すなわちいわれなき訴えによる苦しみ、神に従おうとすればする程受ける批難。旧約の教えに従って報復を願いますが、その苦しみはあらゆる方面からの苦しみで耐えられないものです。イエス・キリストは私達の罪をやむを得ず負われたのでなく、自らすすんでご自分に負い、報復ではなく赦しを願われました。神信仰の確立と共に、赦す信仰者の在り方を教えられる尊い詩篇です。


<聖書のことば>
しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。
詩篇 69篇13節




日々重荷を負って下さる主
詩篇68篇

2006年11月19日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 契約の箱をオべデエドムからシオンに移す時の行列で歌われたものではないかと考えられています。(第2サムエル6:2〜18)様々な歌が引用されていて思想的にはまとまりのない難解な詩ですが、歴史にのっとった未来への力強い信仰がうたわれており、神の救いの完成を知ることができる今、この詩の中には輝かしい勝利の叫びを聞くことができます。

 第一に、神のあわれみに富む顧みを見ます。(5〜6)
神は、みなしごの父、やもめのさばき人、孤独な者への慰め手、捕われ人の解放者だと歌われます。今私達はこのおことばのごとく、神から離れたみなしご、夫をなくしたやもめ、信頼すべき方を失った孤独者、罪と死に捕われた希望のない者ではないでしょうか。
重荷を負い、疲れ果てた私達に、全て重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい。わたしが休ませてあげようと優しく招かれる救い主の声を聞くことができるのです。

 第二に、日々私たちの重荷を負って下さる主を見ます。(19〜20)
主は、私達を心配して下さり、弁護して下さいます。しかも日々なのです。もし私たちが、主を仰ぎ主により頼むのであれば、主は恵もうと待っていて下さり、思い煩いや恐れや不安から私たちを解放して下さいます。今あなたに必要なのは、このお方を拝して信じることではありませんか。


<聖書のことば>
ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。神は私たちにとって救いの神。死を免れるのは、私の主、神による。
詩篇 68篇19〜20節




献金の祝福にあずかる恵
マラキ書3章10節

2006年11月12日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 神の経済計画は、十分の1の献金とささげものです。これは聖書を貫く物に対する神の明確な定めなのです。私達の心はいつも献金でためされます。汗水流して働いて得たお金をささげるという事は、余程の神への感謝と信仰がないと献げられません。人は献金を通して自らの心の内を毎月明らかにされるのです。献金への勝利が日々の生活への祝福に大いに関係がある事に気付くには、大分時間が必要なのです。

 まず、収入の十分の一を聖別してささげることによって、残された十分の九が清められ、それによって物心両面の祝福をいただく事ができます。神はあふれるばかりの祝福を与えると約束されています。この点で実行されないと得をしているようですが、とても大きな損失をしている事に気づかねばなりません。思いがけない不要な出費があって、十分の一以上の無駄が出ることに気付く事は度々あるのです。問題はおしむ心の中にもあります。

 神は豊かに蒔く者は、豊かに刈りとることになり、豊かにささげる者を愛して下さると約束しておられます(第2コリント9:6、7)人の欲望は際限がありません。その欲望にブレーキをかけるのも献金です。豊かさは人に幸せをもたらすとは限りません。与えられたものを如何に用いるかによって幸せが決まります。神の事業のために豊かに用いる者を神は決して放置なさらないのです。ささげることによって、祝福をいただく事実を体験したいものです。


<聖書のことば>
万軍の主は、仰せられる。わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を、あなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
マラキ書 3章10節b




宣教大会の意義
マルコの福音書16章19〜20節

2006年11月5日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 この度、私達の教会で世界宣教大会を主催することとなり、日本を宣教地として、50年前から日本の魂の救いのために、故国を離れ家族を離れ異郷の地日本に来られた宣教師の先生方をお迎えしました。

 今、私達は日本から外国へ宣教師を派遣する立場になった時、まず私達の周囲に日本を宣教地として遣わされている宣教師が汗を流して働いて下さっている事を知り、理解し、外国宣教がいかに多くの言葉にあらわすことのできない犠牲と労苦が重ねられているかを学ぶ事は、派遣された側と派遣した側双方にとって大きな意義がある事と信じます。

 隣国韓国が大いに祝され人口の4分の1がキリスト教徒と言われる中で、私達日本にどうしてキリスト信仰が根づかないのか、そんな反省を踏まえて改めて日本宣教に対する重荷を増し加えさせていただかねばなりません。

 この宣教大会の意義を確認しましょう。
  • 第一に、来日宣教師のビジョンを知って、日本宣教の祝福を共に祈り願う事。
  • 第二に、その労苦と信仰を知って世界宣教の重荷を増す事。
  • 第三に、日本から遣わす宣教師の働きへの理解を増し、宣教師の働きを支援する事。
  • 第四に、宣教師同志又宣教師との交わりを深め、重荷を分ちあう事。
  • 第五に、諸教会がこの大会を通して更なる祝福をいただく事。



<聖書のことば>
そこで彼等は出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。
マルコの福音書 16章20節




国々の民が
詩篇67篇

2006年10月29日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 読み人知らずと言われるこの詩は、国民的救いを経験した感謝を全世界の人々が知って真の神の名をほめたたえるようにと願う、世界宣教詩とも言える歌です。3節のことばが5節に繰り返され「国々の民」ということばが6回も記されています。

 神の救いが全世界に伝えられ、全世界の人々が神をほめたたえるようにという願いは、新約の時代そして現代も変わることのない神を信じる者達の願いです。

 まず全ての民は、神の豊かな恵みにあずかっている事を知る必要があります。神は創造主として、地のあらゆるものを造り私達人類に提供して下さいました。さらに被造物を守り、治めて私達に祝福をもたらして下さいと祈るのです。神の恵みに感謝しましょう。

 第二に、イエス・キリストの十字架による全ての民への救いの提供という祝福です。神の御子キリストの十字架の死は、私達の罪の身代りの死でした。それは又永遠のいのちを与える事の出来るお方としての復活の神は全ての人が天の祝福にあずかる事を願い、全ての人を愛し救いの道を開いて下さいました。このよろこばしい教えは、全ての人々に伝えられるべきです。

 私達は、この三日世界宣教大会を開催します。このよろこびを伝える為に日本に宣教師として来日した多くの方々を尊敬をもってお迎えしましょう。


<聖書のことば>
神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞって、あなたをほめたたえますように。
詩篇 67篇3、5節




神にむかって喜び叫べ
詩篇66篇

2006年10月22日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 この詩の主題は、賛美です。神の大いなるみわざ、恵み深い顧み、救い、神の信じる者へのお取り扱い、それらが神の賛美を生み出します。大いなる神のみ力の前に、人は個人的には沈黙するでしょう(65:1)。しかし共なる集いの中では、心の底からの賛美として喜び叫ぶのです。

 真の賛美がどのようにしてささげられるのかを学びましょう。

第一に、喜び叫ぶという方法で賛美がささげられます。(1)
 賛美は神をほめたたえる歌ですから、その本質はよろこびと感謝です。しかもそれは大きな喜びですから当然のように賛美は喜びの叫びとなります。全身全霊をもってほめたたえる者の口から出る歌は、ととのえられた旋律でありましょうとも、力強い最高の歌声となって御名をほめたたえるのです。そのような方に賛美をささげられる者は幸いです。

第二に、栄光を神におかえしするという方法で賛美はささげられます。(2)
 全てはあなたですと神のなされたみわざに感謝し、生活のあらゆる部分で主を認め、主のわざを感謝し、栄光を神に帰します。この点が明らかでないと賛美は、単なる歌となってしまいます。

第三に、恐れをもって賛美はささげられます。
 恐れは敬虔さを生み出します。ひれ伏す心をもって賛美はささげられるべきなのです。そこから賛美する人の生活と生涯が変えられます。心から賛美できる生涯はすばらしいものです。


<聖書のことば>
全地よ。神に向って喜び叫べ。御名の栄光をほめ歌い、神への讃美を栄光に輝かせよ。
詩篇 66篇1〜2節




沈黙と信頼
詩篇62篇

2006年10月15日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 この詩篇もダビデの息子アブシャロムの反逆の時期が背景にあると思われます。エドトンは、聖歌隊の指導者で彼の作曲したメロディにあわせてこの歌が歌われたものです。一節と5節に同じことばの繰り返しがあり、黙して神の救いを待ち望むダビデの信仰が強くうたわれています。

 黙してとは、あわてず騒がず、いかなる状況の中にあっても静かに神の最善を信じる信仰の姿勢をあらわしています。

 ダビデは、救いは神から与えられる事、力は神に属すること、いかに周囲があらぶれても、又大いなる力をもって襲ってこようとも神に避けどころを得ているダビデは、決してゆるがされることはない。その終りに勝利を得るのは神ご自身であることを、二度聞くことをもって確かな確信として表明します。

 まず沈黙の信仰をここから学びとることができます。私達は、何事もない時には平安ですが、ひとたび危険が迫ったり、困難に会うとたちまち平静さを失って大騒ぎをしてしまい易いものです。静まって神の助けを待ち望み、みこころのなる事を信じて、主を待ち望む信仰、さらにはいつくしみも力も神のものであり、たとえ一時的に敗北のように見えても、最後には必ず神を信頼する者に勝利と平安を賜ることを信じ、信仰的沈黙を会得したいものです。不信の沈黙でなく信じて安んずる沈黙を体験したいものです。


<聖書のことば>
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは、神から来る。
詩篇 62篇1節




神の川は水で満ちている
詩篇65篇

2006年10月8日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 この詩は、収穫感謝のうたと言われています。どの時代のものかは不明ですが、多分ききんの後豊作にめぐまれた時神の祝福を感謝してささげられた賛美でしょう。ある解釈者は「これ程詩的想像力に満ちた収穫感謝の歌は、他にみることができない」と、この歌のすばらしさを評しています。

 宝石のようにちりばめられたことばの中で、神の川は水で満ちているということばこそが、この歌の中心に思えます。

 豊かな水があってこそ豊かな収穫が期待できます。水がなければ植物は数日で枯れるでしょう。いのちの源とも言える水はあらゆるものの根源です。神は、創造の神であると共に収穫の神でもあられます。人は神のめぐみをただ受け取り、それを蒔くのみです。実を結ぶ収穫はやはり神のめぐみによります。

 神の川は自然の収穫をもたらすだけではありません。栄光と聖さに満ちた神の前に人は、ただただ己の汚れと貧しさを覚えるのみです。しかしそのような者にこそ赦しを与え、いやしを与えて下さる贖いの神は、赦された者の口に賛美をさずけて下さるいやしの川です。

 さらに神の川は、神のもとに来る者のいのちを保ち、養って下さる大いなる養いの神です。神の川は尽きることのないいのちの川です。ここにとびこみ実を豊かに結ぶ生涯に入りませんか。


<聖書のことば>
あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。
詩篇 65篇9節a




外に向って
マルコの福音書16章15節

2006年10月1日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 外に向って福音を伝えることが主のみ旨です。主は「全世界に出て行って」と言われ、その姿勢は常に内ではなく外なのです。教会が内側に目をむけ始めると豊かな祝福は期待できません。しかし私達の性質は「内をかためて」という安全策をとりたがります。内側が強くならなければ外に向う事ができないという極めて自然な考え方ですが主のみ旨は違うのです。外に向って働き始めると内側に祝福をいただくことが信仰の原理なのです。

 たとえば受けることよりも与えることの方が幸いであり、高くなるよりも低くなる方が結果的に高くされるに似ています。私達は受けることの方が幸いであり、自分を高くして他をおさえる方が気分が良いのですが、神様の原理は異なります。

 たとえわずかな力しかなくとも、外にむかって働き始める時、主は豊かな祝福をそそいで下さり、人の思いにすぐる豊かな助けと導きを与えて下さるのです。主は受けようとする者にではなく与えるよう、自分から出て一歩踏み出そうとする者を助け祝福しようとされます。

 個人の信仰においても自分の中にこもり安全の中に身を置いているといつしかその安全が真の安全ではない事に気付かせられ慌てる事になるでしょう。教会においても内側を守る事のみに心を注いでいるといつしか衰えて弱くなってしまいます。外に向って目を注ぎ働きはじめましょう。


<聖書のことば>
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
マルコの福音書 16章15節




主が矢を放たれる時
詩篇64篇

2006年9月24日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 背景的には、息子アブシャロム反逆とそれに加担したアヒノアム等のダビデ王失脚への陰謀が考えられます。彼等はたくみにダビデを王座からひきおろす策略をめぐらし、多くの者の心をまどわし結局その計画は破局を迎えたのでした。

 まず、悪しき者は策略をめぐらし言葉をもって中傷、誹謗し、反対者を多く自分にひきよせようとしました。いつわりの中傷に多くの者がまどわされわけもわからず上手に言葉の罠にかかるのです。矢尻に火のついた矢がいかけられるように、その影響は広がり大きな勢力へと成長します。悪の指導者は「うまくいった」とほくそえむのです。

 しかし彼等の最大の失敗は、神は全ての事を知っておられ、神ご自身が突然報復の矢をもって彼等の悪に報われる事を知らなかったという事です。

 神のなされ方を知る神をおそれる者達は、主にあって喜び、主に身を避け主の正しいさばきを誇るのです。

 現在神はただちに報復なさらないのは、救いのためです。全ての人が救われ、永遠の滅びにおちないために神は御子イエス・キリストをつかわし、その十字架の贖いを通して悪しき者(我々全て)を救わんとされています。一人でも多くの人が救われることを願って忍耐しておいでです。キリストを信じる者にとって、それは信仰がためされる時とも言えましょう。


<聖書のことば>
しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。
詩篇 64篇7節




老いたる者への尊敬
レビ記19章32節

2006年9月17日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 老人の老いが何才以上なのかは、議論の余地がありましょう。昔、人生わずか50年と言われた時には、45才位で既に老いの域に達していたわけで、80才−90才と長命の現代は、年々老人と言われる事への抵抗が増えてきていて不思議ではありません。老いは年令だけでなく、若くても老いを感じさせる現象が増えているようにも思えます。

 選民イスラエルにおける家族関係は、厳しく神の律法によって規制されていました。家庭における父の存在は、神の代行者であり神への救いが又父への救いでありました。父母の教えと戒めの後の「あなたの齢が長くなるためである」という教えは、不従順の子の生命を絶つ権利をも父親が持っていることを暗に示すものです。(レビ20:9)

 老いた者には老いた者の責任があり、老いを見取る家族や周囲の者には、老いた者への責任があります。年を重ね知識を増し、経験を積んであらゆる苦楽を乗り越えた者として深い尊敬を払わねばなりません。家族としては、親として払われた愛に、深い感謝を持ち、恩を感じなければならないのです。

 老人の前では起立することを命じる聖書は、まさしく深い尊敬のあらわれとして、老人への敬いの態度を教えています。老人はその生き方、在り方をもって若い者に尊敬されうる姿をあかしすべきです。神を畏れ、神にあって希望を持ち、広い豊かな心を示すべきなのです。


<聖書のことば>
あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。
レビ記 19章32節




魂の渇きを満たす神
詩篇63篇

2006年9月10日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 水のない、かわいた荒野にいるような塊の状態を経験したダビデが、そのような苦しみの中にあって、真に魂を満たす者は、神以外にないことを告白する信仰の叫びです。

 実際にダビデが荒野にあったのかどうか不明ですが、少なくとも彼の生涯の中で荒野をさまよう経験は、何度かありました。しかしたとえ身は荒野にあろうと、内なる思いは聖所にあって礼拝をささげているがごとく、髄と脂肪で満ち足りるがごとき充満を経験しています。

 肉体の渇きは、激しく水を求めます。人は水がなければ生きていくことはできません。しかし霊の渇きを覚える人は多くはないでしょう。しかも霊の渇きを満たすのは、活ける真の神のみ、そのあらわれであるイエス・キリストのみである事を知る人は、もっと少ないのです。主はある時サマリアの地で、水をくみに来た女に、この水を飲む者は、又渇く。しかしわたしの与える水を飲む者は、永遠に渇くことがない(ヨハネ4:13、14)と言われ、霊魂を満たすまことの水を与える事が出来ると宣言なさいました。

 人の魂を満たすものは、神以外にないことをダビデは知っていたのです。ソロモンは、この世のあらゆるものをもって内なる満たしを得ようとしましたがその結果は、全て空しいものでした。神の与える満たしこそ人を真に満足させ肉体のいのちを越えて人を真の満たしと幸いへと導く活ける水をもたらします。


<聖書のことば>
神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。
詩篇 63篇1節




神のおことばの豊かさ
ヘブル人への手紙4章12節

2006年9月3日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 数千年に渡って神のことば聖書は、人類に多大な影響を与えつづけてきました。今から3500年も前に記された聖書の一部が私達の手元にある事、そして何の不可思議な事もなく読むことができること自体奇跡でありましょう。世界中の人々が最も多く読む聖書を学ぶことこそが教会学校の目的です。

 人が聖書に近づけば、罪と悪は遠ざかり、人が聖書から遠ざかれば、罪と悪は、人に近づくと言われます。

 第一に、聖書は、人を変えることができます。
神のことばにいのちがあり、そのいのちが、内に働いて人を造りかえるのです。これは不思議な神の霊の働きでもあります。霊感をもって書かれた聖書は、聖い神の霊の働きによって信じる者の内に働き人を新しく生まれかわらせます。(第一ペテロ1:23)

 第二に、人を罪と悪から守ります。
聖書のことばは、人を正しく整え、悪の道に入るのを妨げ、神の性質を宿す働きをします。聖書の教えに多く触れることによって、人はキリストに似る者となり、罪によって生じる多くの苦しみや悲しみから人を守ってくれます。

 第三に、希望と勇気を与えてくれます。
たとえ艱難に遭うとしても、みことばによる励ましと力は、人に勇気と希望を与え、挫折した人生を送ることをゆるしません。みことばを学びましょう。


<聖書のことば>
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣より鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
ヘブル人への手紙 4章12節




神の下にある安全
詩篇61篇

2006年8月27日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 この背景も、ダビデの息子アブシャロムの反逆により、エルサレムの王宮から逃げのびなければならない悲しみと苦悩の中から歌われたものと思われます。6節〜7節は、民によるとりなしの祈りでしょう、前半でダビデの嘆願がうたわれています。

 叫び、心の衰え、地の果てからの呼び声という表現の中に、いかにダビデがつらい、苦しい状態にあるかがうかがわれます。起ちあがることもできない程、つらさと共に、今は自分が地の果てにいるかのごとく思われる孤独と悲しみがこめられています。60篇でもそうでしたが、ダビデが常に緊張感をもって神への信頼を保ち続けられた秘訣は、つらい事ではありますが、この苦しみこそが生き生きとした信仰を持ちつづけられた秘密です。私達は何事もない平和な日々があることを願うのですが、必ずしもそれが自分にとって幸いとなるとは限りません。ただその苦しみをダビデのように訴え、打ちあけ、求めるお方を持っているかいないかが問題です。ダビデは、及びがたい程の高い岩の上に自分を置いて下さる方を知り、信じていました。そのお方こそダビデを常に顧み、導き、助けて下さるお方でありましたから。

 人が苦しみにあった時、自分に平安を与えてくれるものが何かによって、真の幸せを得るか得ないかの分れ道ではないでしょうか。この世には私達を安全に守ってくれるものが果してあるでしょうか。


<聖書のことば>
私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。
詩篇 61篇2節




神によって力ある働きを
詩篇60篇

2006年8月20日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 北からの侵入者との戦いにのぞんでいたダビデに南のエドムとモアブの軍勢が攻めてきて、ダビデは前と後ろに敵を迎える事となって窮地に立たされます。みことばの記録によると将軍ヨアブを急遽つかわすことによって、この危険な状況を脱することができましたが(第1歴代18章)この困難にぶつかった時にうたわれた歌であると表題は告げています。

 ダビデの信仰は、若い時につちかわれて、その惰性で過すというものでも、ある程度の事が判って信仰の卒業をしてしまったようなものでもありませんでした。常に緊張感をもって神との係りを保ちつつ一生を過したのですが、そうさせたのは何であったかと言うと、次々に起る戦いや苦しみや自らの失敗でした。人は楽な事より困難な事によって弱くもされるし、強くもされるのです。ダビデの場合、両面戦争に遭遇した時、この苦しみは何故おこったのかと反省をしつつも、自らの力の限界を知って、神のみわざに期待する信仰へと変えられていることが判ります。

 「神によって力ある働きをする」という信頼こそ、ダビデを支えるものでありました。これは、己のわざによる信仰ではなく、神のみわざによる信仰これこそが、常にダビデが困難や苦しみに負けることのない力を神よりいただくことの出来た秘訣です。彼には自分でしようにもそれ以上は無理だという現実を認め、それを打開して下さるのは主よあなたですとの信仰がありました。

<聖書のことば>
神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。
詩篇 60篇12節




朝にあげる喜びの声
詩篇59篇

2006年8月13日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 苦しみを克服する道は、活ける神にお委ねすることだとこの詩篇は、私達に教えてくれます。なぜなら神は、正しい者を見捨てず、悪しき者に必ず正当な報いをされるからです。

 この時には、苦しみから抜け出したダビデが、単にそれに耐えられたのみならず、朝には、神をほめたたえる清清しい気持ちになっていることが印象的です。神への信頼は、人の心の中の葛藤を見事に消し、平安を与えるものだということを教えられます。

 第Tサムエル記19章におけるダビデの状況は、サウル王のダビデ殺害の宣言の後、息子ヨナタンのとりなしによって一時サウルの心は平静をとりもどしたものの、再びダビデを殺そうと槍で突き殺そうとして果せず、さらにダビデの家に兵士をつかわし朝には殺そうと計るのを娘のミカルのはからいで、窓から脱出するという、危険極まりない状態が背景となっています。

 ダビデがどうして、朝明けには喜びの声をあげることができたのか、その理由は、神に全てを委ねた時の平安、神は信頼する者を守られ、悪しき者から守って下さるという平安、さらには神は悪しき者を必ずその大能の御手をもってさばかれるという信仰に裏付けられています。

 しかしいわれなき苦しみを自らすすんで負い追う負い私達の罪を受けられたメシヤなる主を知る者は、いわれなき苦しみを更に耐え、善をもって報いる力を得るでしょう。


<聖書のことば>
しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。
詩篇 59篇16節




正しい報いをされる神
詩篇58篇

2006年8月6日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 この詩には、道徳的に無政府状態にある時、正しいさばきを行われる神の存在が宣告されています。理不尽な暴虐と不正が、権力を持った者によって正しさの仮面をかぶって行われるところには、弱い者が抵抗しようもありません。長い人類の歴史の中では、数え切れない程の、この種の行為が行われてきたのではないでしょうか。

 力ある者とは、社会的地位のある者ととらえるのが妥当でしょう。彼等は、表面的には正しく見えても、その内にあらゆる不正、貪欲があり、人を審きつつ、自らも同じことを行う偽りと高ぶりに満ちた者達です。蛇使いの声に耳をふさぐコブラだと表現されています。

 しかしそれは母の胎を出た時からの生まれながらにして罪人(ローマ3:23)であるという事にほかなりません。罪は万民にあり、力ある者だけでなく、全ての者が罪人であることをこの詩は、期せずして宣言しています。

 作者は、不正の者への神の審きを願います。これはのろいでしょう。詩篇の中にはこの種ののろいの詩篇が何篇か存在します。たしかに私達の前には、のろいと祝福がおかれていると言えます。旧約の時代のごとく神の直接的介入がただちになくても、神に従う者と従わない者の行く末は明らかです。しかし、恵みと救いの時である今、罪ののろいの全てをその身に負われて十字架の刑罰を受けて下さった主イエス・キリストの贖いこそ私達の希望です。


<聖書のことば>
まことに、正しい者には救いがある。まことに、さばく神が、地におられる。
詩篇 58篇11節




信仰の自己管理
テモテへの手紙第一 4章16節

2006年7月30日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 ようやく梅雨が明けそうです。暑かったり寒かったりの数ヶ月、又湿気の多いシーズンに体調に不調をきたした方も多かったのではないでしょうか。特に年輩の方々には厳しい季節ではなかったかと思います。自分の事は最小限自分で守る必要がありますので、こんな時心身共に管理が求められます。

 さて、肉体的、精神的自己管理と共に、霊的な自己管理も大切で、案外信仰の自己管理がおろそかにされているために、信仰的な病気にかかったり、弱ったり、躓いたりする事が多いのです。たゆまずに自分自身の内面に心を用いて、健全な信仰状態に保つことは、自分自身も又周囲の人達をも助けることになるのですが、この点をおろそかにしていますと容易に信仰の破綻にあったり、周囲の人を傷つけることになってしまいます。

 信仰の健康状態を保つために次の点を心がけましょう。
  1. 主との交わりの時を必ず持つこと。聖書を開き祈りの時を持つことによって心が静まり、自らを顧み、主の助けと導きをいただけます。

  2. 十字架を見上げ、赦しと約束の原点を確認すること。
    心が狭くなり、視野が狭くなり易いものです。主の愛の豊かさに目を注ぐことです。そうすれば人を赦し、自分をも赦す事ができます。

  3. 恵みを一つ一つ数えること、今に至るまでの主の恵み数々、現在の祝福を数えてみましょう。力と勇気が与えられ、霊は新しくなります。


<聖書のことば>
自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。
テモテへの手紙第一 4章16節




御翼の陰に
詩篇57篇

2006年7月23日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 旧約律法は、厳しい面がありつつもそこに神の慈愛が豊かにこめられています。たとえば過失で人を殺してしまった者にのがれの町が定められ、その町の中では報復がまぬがれ、正しい裁判を受けることができました。

 人には、避け所が必要なのです。私達は何でも自分でしなければならないと思いがちですし、できない事もできるようにならねばならないと頑張るものです。勿論それは必要な事ですが、人には限界がありできない事もあるのだという事を認める事も必要ではありませんか。

 ダビデの苦境は、言語に絶するものでした。精神的、肉体的、環境的に、実に危険な中で、彼を支えたものは、神に避け所を得たダビデの信仰です。たしかに今追手の手をのがれる逃避行でしたが、実はダビデは神への信頼という避け所を持っていたのです。避けることのできない困難の中で真の避けどころを持っていた彼は、あたかも親鳥がひなを翼の下にかくまうように、神のふところにいだかれる安心と暖かさを経験していました。神の全能の力に守られている安心感は、彼を真の意味で強くしているのです。

 ゆるがない心で神をほめたたえ、暁をよびさます程の明るい心で夜の闇に勝利を得ています。この力、このたくましさが今の私達にも必要ではないでしょうか。やがてダビデのもとには、彼を慕う者達が集まりはじめ、400人600人と増え、状況はダビデに勝利をもたらすように導かれてゆきます。


<聖書のことば>
まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。
詩篇 57篇1節b




涙の皮袋
詩篇56篇

2006年7月16日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 サウルに追われたダビデは、長年の宿敵ぺリシテの地にのがれ気がふれた事をよそおってツィケラグに住むことをゆるされます。目前に敵、背後にサウルの追手と、危険極まりない状況の中での歌としてはきわめて信頼に満ちたミクタム(黄金)の歌です。

 ダビデを支えるのは、いかなる時も神でした。敵は彼をふみつけ、痛め、襲うのですが、そのような恐れのある日に神により頼むことによって、常に平安を得ます。

 その理由は、第一に、神は全ての事を覚えて下さるからです。神は記憶の書をもたれ、人の心の有様や隠れた事柄の全てを記録して下さり、正しい判断と裁定をしてくださる。あたかもエジプトの風習であった涙の皮袋のように、一滴の涙の原因ものがさず覚えていて下さるからです。

 第二に、信頼する者の味方となって下さるからです。神が味方であれば、恐れることはありません。弱い人間は神の前に虫けらのごときものです。神を味方とする者は、勇気と力をもって、いかなる状況の中にあっても支えられ守られ道が開かれます。

 ダビデは、やがてぺリシテの地からのがれ、ぺリシテ人によって殺されたサウルとサウルの軍勢の後を継いで王となるのです。神は真実に依り頼む者の味方です。


<聖書のことば>
あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえて下さい。それはあなたの書には、ないのでしょうか。
詩篇 56篇8節




裏切らない神
詩篇55篇

2006年7月9日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 最も手ごわい敵は、味方が敵にまわった時、即ち裏切りがあった時と言われます。ダビデの苦しみは、自分の息子アブシャロムの反逆であり、信頼を寄せていたアヒトペル(第二サムエル15:31)の裏切りです。かつてのモーセに逆らったコラのごとく、又新約の時代でのメシヤを裏切ったユダのごとくです。ダビデは自分に鳩のような翼があったなら遠くへのがれたい。この嵐をさけてのがれ場に急ぎたいと言うのです。自分の親友が自分にそむいた時のやりきれない思いと、その結果いのちをねらわれる危険の中に置かれた心境は察するに余りあります。

 重荷を主に委ねよと自らの内に呼びかけることばの内に、神への信頼のひびきがきこえます。

 真の神は、信頼する者を裏切ることのないお方です。
人が裏切ることがあったとしても、神は約束をたがえるような事はなさらず依り頼む者を見捨てることのないお方です。

 真の神は、変わらないお方です。
人は動かされ易く、変わってしまうものですが、神は決して変わることなくみこころを最後まではっきりとなされる方です。

 真の神は、信ずる者を最後まで守られるお方です。
困難の中にあっても支え守られます。ダビデの栄光は、この神のみ手によってもたらされました。


<聖書のことば>
あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
詩篇 55篇22節




自分の前に神を置く
詩篇54篇

2006年7月2日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 サウルの手からのがれて南にむかったダビデは、ユダ南端の町ジフの近くの荒野にひそんでいるところをジフ人につげ口され、サウルの追手に迫られることになります。しかし神の守りによって危険から脱出できたダビデは、この歌を主にささげたと思われます。ジフの人々は、ユダ族でありダビデと同族でした。いわば家族に裏切られたようなものです。彼らは神とその恵みを知りつつ神に直面することをしない人達だったのです。

 自分の前に神を置くことをしない者の生活は、いかなる実を結ぶのでしょうか。彼等は神を信じているといえども、その神が実生活には何等関係のないような生き方をしていたのです。世代が進み、出エジプトの経験をただ耳で聞くのみの彼等は、神が実生活に何等介入することのない観念的な信仰になりさがっていたとも言えましょう。それが不信、不徳につながっていきます。

 一方ダビデは日々神に依り頼まざるを得ない危機的な状況でした。ダビデの神への信仰は、切実にして真剣であり、いのちがけだったのです。まさしく自分の前に神をおいての毎日であったと言えるでしょう。そこに神は働いて下さいました。危険から守られ、必要が備えられ、助けが与えられ不思議に道が開かれたのです。ですから、喜んで、自らすすんで、感謝の犠牲をささげることができました。礼拝に必要な心は、この自らすすんで献げる心です。


<聖書のことば>
私は、進んでささげるささげ物をもって、あなたにいけにえをささげます。主よ。いつくしみ深いあなたの御名に、感謝します。
詩篇 54篇6節




やり直しのきく人生へ
ヨハネの福音書3章3節

2006年6月25日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 人に与えられた一生にやり直しができるか、これは今迄の生き方又は今後の生き方がこのままではいけないと気付いた人の問いかけです。とりかえしのつかない人生なのかもしれません。再び今日という時は戻すことができないでしょう。しかもいつ一生が終わるか判りません。たとえやり直したとしても果してどれ程の意味があるのでしょう。

 人の一生を死で終りと考えている人にとっては、太く短く思いのままにという生き方もやむをえないのかもしれません。しかし人の生涯は、死で終わるものではありません。肉体の死は永遠への入口です。意識ある状態で永遠に苦しむか、永遠に喜ぶかは、今の人の選択にかかっています。それを最もよくご存知なのは、私たちに生命を与え時をお与えになられた神ご自身なのですから「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(第2ペテロ3:9)

 イエス・キリストは、天の御国へ入るための障害となる罪を人類の身代りの処罰としてご自分でお受け下さって、私達にいのちへ至る道を開いて下さいました。たとえ人生の大半を不遜と不信で過ごしてきた者であっても、このお方を信じることによって新たな出発、まさしく人生のやり直しをすることができるのです。即ち永遠への新たな旅立ちです。魂の生まれかわりです。永遠の御国への選択は赦しの道を開かれたキリストをどうするかなのです。


<聖書のことば>
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は新しく生れなければ、神の国を見ることはできません。」
ヨハネの福音書 3章3節




神のあり方を捨てられた神
ピリピ人への手紙 2章6〜11節

2006年6月18日 第3聖日 伝道師 安藤修司

 父なる神は、御自身の御子を人として私たちのところに遣わし、御子は十字架で私たちの罪の身代りに死んで下さいました。私たちが人また親として生きることと、キリストを信じる信仰との係りをこの箇所から共に考えたいのです。

 復興と発展により未来は輝かしいと思われていた時代もつかの間、私たちの社会は混迷の度を深めています。時代を超えて人の真実の姿を示してきた聖書は、人類の問題の原点は、罪による堕落であると教えます。聖書は人を極悪だとは言っていません。世界、人間の様々の営み、、、神に造られた本来の祝されたあり方が破壊されたため、本来は良いすべてのものが、目的を見失い、歪められてしまったと告げます。親子や夫婦の関係もそうです。

 しかし神は堕落された人類を見捨てることなく、不真実な私たちに真実を尽くし、神のあり方を捨てて人となって私たちに近付かれ、御自身を示して下さいました。御自身のいのちまでも、私たちのために犠牲にして、私たちの罪の身代りに罰を受けて死なれました。しかしこれら全ての労苦と痛みの末に、神は御自身を信じる者全てに本来の神の祝福を回復して下さいました。

 これら、キリストによって神の示された忍耐、謙遜、知恵、力が信じる者に与えられ、その人はキリストに似る者とされていきます。そしてキリストに似る父母、男女、親子として本来の自由で幸いな生き方を回復します。


<聖書のことば>
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ピリピ人への手紙 2章6節




賢さと愚かさ
詩篇53篇

2006年6月11日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 神を信じないことの愚かさとその結果が痛烈にうたわれており、14篇とほぼ同じ内容ですが、53篇の方がより一般的な内容となっています。

 子が親を信じるのと同じように、人が神を信じる事はあたりまえの事としてとらえられている時、不信の者の知識としてではなく、実際上の在り方によってその愚かさが明らかにされている事がうたわれています。神なき人生、神なき文化、神なき国家の現状と行く末は、堕落と混乱であるというのです。知的愚かさではなく、実際的愚かさはどこで見出せるのでしょうか。

 第一に、生活の腐敗です。
そこにいのちがないために、当然のごとく腐敗がおとずれます。個人の生活にも、家庭にも、社会にも、道徳的腐敗は、とどめようもなく広がり、深くなるのです。不正は大手をふって行われるようになります。

 第二に、神のみこころを知ろうとする者、又それを実行しようとする者はいません。それよりも自己の欲望を満たすことにのみ熱心で、みこころに従うことは、好ましくなく、つまらないことなのです。その結果不法がはびこり、偽り、欲望、暴虐がはびこります。

 第三に、恐れなくてよいものを恐れるようになるのです。神を恐れないために、人の心は平安と穏やかさを失い、希望を失って心に休みがなく、恐れなくてよいものを恐れるようになります。神の内にこそ真の賢さがあります。


<聖書のことば>
神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
詩篇 53篇2節




神の家にあるオリーブの木
詩篇52篇

2006年6月4日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 アヒメレクは、祭司でしたがダビデを助けた理由で一族85人がサウルによって殺されました。その時手をくだしたのがアヒメレクがダビデを助けた現場にいたドエグでした。彼のざん言によって祭司一族は殺されてしまいます。ここには、神をおそれない者と神をおそれる者の大きな違いが、以上の背景のもとに歌われたものと思われます。

 神をおそれない者の姿、鋭い小刀で人を切りつけるような言葉による暴力、善より悪を愛する罪の性質の傾向、その行きつく先は根こそぎ破壊される結末だとうたわれます。しかし神をうやまう者の姿は、神の家にあるオリーブの木のように栄えるとうたわれています。

 オリーブの木は、神殿の周囲に植えられ、常緑樹で美しい樹形を保つ、イスラエルの国にとっては、なくてならない有益な木なのです。

 まずオリーブの木は、どんな荒地でも育ったたくましい木です。神の守りと祝福の中にある者は、いかなる環境の中にあってもたくましく育ち、豊かな実を結びます。オリーブの実は、食用になるだけでなく、最も多く用いられるのは、油です。この油は有益な生活の必需品なのです。神を信じる人は有益な者として、この世を照らす光の原動力を持つのです。更にオリーブの木は長命で、樹齢800年から1000年にもなるのと言われ、それらの故に、勝利を象徴する冠がオリーブの葉で作られます。オリーブのような祝福にあづかりましょう。


<聖書のことば>
しかしこの私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々に限りなく、神の恵みに拠り頼む。
詩篇 52篇8節




信仰の目標を見定めて
テモテへの手紙第一1章3節〜11節

2006年5月28日 第4聖日 伝道師 安藤修司

 聖書は、救いの基本的な教えについては繰り返し記していますが、人間的に興味を引かれる様々な事柄については、堅く沈黙しています。そのために、キリスト教が広まってしばらくして、人々の興味を引く、様々の説が唱えられ、興味を引くように想像をもって聖書を装った書物(偽典)が記されました。今日もなお、人々の興味を引く言説が繰り返し現れています。しかし、神様はこれらの話に心を奪われないように命じよと記させました。なぜでしょうか。

 第1に、それは論議を引き起こすだけで、神の救いをもたらさないからです。好奇心が満たされ知識が増えてもただそれだけです。一番大切な、罪からの救いをもたらす信仰には至りません。

 第2に、それは私たちが真の愛をめざすためです。「きよい心、正しい良心と偽りのない信仰」(5節)は、神と人に対する真の愛を生み出します。そのため必要なのは、好奇心の満たしでなく罪を認め神に立ち帰ることです。

 第3に、十字架の福音こそが、神の救いの御計画を実現させるからです。
神は、興味を奪い信仰の邪魔になるものを隠されました。契約の神の箱、幕屋や神殿、イエス様が用いられた物や遺品、関わった人々の子孫などもです。罪赦され神の祝福をいただくために必要なのは、キリストの十字架を信じイエスを主と告白する信仰のみです。他の何ものも救いをもたらしません。


<聖書のことば>
果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。
テモテへの手紙第一 1章4節




砕かれた大いなる魂
詩篇51篇

2006年5月21日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 第2サムエル記11章12章がこの詩の背景となっていることは確実です。

 詩篇の32篇と共にダビデの生涯最大の汚点とも言えるできごとに、ダビデのとった態度から学び得ることは、沢山あります。

 第1に、告白するダビデ
王としての権力で一人の女、一人の夫をどうにでもできたはずですし、歴史上の権力者はそうしてきたものです。しかしダビデの苦しみは単に人に対しての犯罪だけでなく、神への罪という呵責は日々重くのしかかり、神の使いナタンのことばの前に自分の罪を告白します。この告白こそダビデの人間としての偉大さを示すものに他なりません。

 第2に、告白する相手を知るダビデ
たしかにウリヤを殺し、妻バテセバを己れのものにした犯罪は大きなものでしたが、それら全ては聖なる審判者神への罪であることを知るダビデにこそ人間としての大切な姿があります。全てのことは神の前にあることを知る人は、決して尊大になったり、罪に溺れたりすることはありません。

 第3に、赦されることの尊さを知るダビデ
神に赦されることこそ平安と喜びの源です。勿論、彼はできるだけの償いはしたでしょう。バテセバやウリヤの苦しみの一端も味わう必要があったのです。しかし何よりも神からの赦しこそあらゆる祝福の源であることを知っていたのです。


<聖書のことば>
神へのいけにえは、砕かれたたましい、砕かれた、悔いた心。神よ、あなたは、それをさげすまれません。
詩篇 51篇17節




悩みの日に呼び求めよ
詩篇50篇

2006年5月14日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 アサフはダビデの臣下として礼拝の音楽を司る三人の指揮者の一人です。全部で12の賛美が詩篇の中に残されていて、その時は教訓的、預言者的な色彩が強く、この詩は、神の民の形骸化した礼拝に対し、神の法廷で審判が行われる情景がうたわれています。

 まず形ばかりの礼拝が厳しく指摘されています。神は動物の犠牲などを求めておられるのではない、もともとそれらは全て神のものであり、世界とそれに満ちるものは神のもの(12)であるから、それらがいくら献げられたといえども意味のないことだと、礼拝の本質がどこにあるかが責められています。真の礼拝が献げられなくなると、不道徳と放縦がはびこることとなる。信仰生活は乱れ、あらゆることに不誠実となり混乱が生活の中に生れてきていると責められています。

 真の礼拝とは、いかなる礼拝なのでしょうか。

第1は、感謝をもってささげられる礼拝です(14-15)。感謝の伴わない礼拝は、どんなに多くの犠牲がささげられても喜ばれません。

第2に、真実な礼拝、誠実さをもってささげられる礼拝です。神への誓いが果されている礼拝です。悔い改め、献身、約束が果されているでしょうか。

第3に、心からの叫びと求めをもっての礼拝です。祈りは神への真剣な求めです。主より解決を求める真剣な礼拝者を神は決してお見捨てになりません。


<聖書のことば>
苦難の日には、わたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。
詩篇 50篇15節




人のいのちは持物によらず
詩篇49篇

2006年5月7日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 賛美というより、知恵や教訓色の強い詩であり、人のいのちは富によって買い戻すことができない事がうたわれると同時に、永世の信仰が示されている数少ない詩の一つです。

 まず、富に依頼む愚かさが教えられています。人が富のみに心を向けるならば、悟ることもできない獣と同じであり、死がその牧者となるというのです。富そのものは決して悪いものではありません。しかし富は人に万能のイメージを植えつけ、富さえあれば何でもできると思わせます。従って豊かな者が神の国を見出すのは、ラクダが針の穴を通るより難しいと言われる結果を生みます。度々富は人を更に貪欲にさせ、品性をそこなわせてしまい、争いは富をめぐって起ることが多いのです。しかし最も大きな点は、富は決して死に勝利を治めることはないという事実です。

 死はあらゆる望みを断ち、たくわえた全てのものも残していかねばなりません。しかもいつ死が訪れるか判らないのです。豊かな富を持ちつつ、死の恐怖の中に生きる事は何と悲しくつらいことでしょうか。

 本当の豊かさ、真の富とは何かを知って生きることこそ、獣と異なる人間の在り方です。それは永遠への備えをし、内なる豊かさをたくわえ、この世が与えることのできない平安を見出し、日々賛美しつつ歩むことのできる救いの道を見出すことです。


<聖書のことば>
人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。
詩篇 49篇20節




シオンを巡り歩け
詩篇48篇

2006年4月30日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 「シオンの歌」と言われています。(137:3)エルサレムとその中心たる神殿に宿る大いなる神への賛美です。シオンとは、エルサレムの事であり、エルサレムは、旧約、新約の時代を通して民の中心となった町で、ダビデの町、聖なる都とも言われ、東洋の女王ともたたえられた美しい町、ソロモンは、ここに神殿を建設し、イスラエルの民の魂の中心となりました。

 エルサレムは、神礼拝が中心で、民はこの神殿に於いて神との交わりの回復をし、教えを受け、祝福を与えられました。彼等の賛美は大いなる都エルサレムとそこに宿る神に対してささげられたのです。(1)

 現在「エルサレムとその中心たる神殿は、教会となったと言って過言ではないでしょう。キリストのいのちをもって贖い出された人々の集り、それこそが教会でありますから。(エペソ1:22〜23)

 私達は、この教会に於いて恵みを思い巡らし、巡り歩き、その大いなる祝福を数えて後世に伝える役目を委ねられているのです。

 教会には礼拝があります。一週に少なくとも一度家族・夫婦そろって祈りと賛美をささげ、聖書から教えを聞く機会が与えられているということは、何と幸いな事でしょうか。共なる時間の少ない現在、日曜聖日の共なるひとときがどんなに夫婦、家族にとって貴重な時であるか、又神はそのようにご計画された事の意味深さを知ることの恵深さを思い巡らそうではありませんか。


<聖書のことば>
シオンを巡り、その回りを歩け。そのやぐらを数えよ。その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。
詩編 48篇12〜13節




王なる神にほめ歌を歌え
詩篇47篇

2006年4月23日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 偉大な王の王たるメシヤへのさんびがこの詩篇のテーマです。王の即位式、又は新年に歌われたと言われますが、王としての神、メシヤへのほめ歌は終わることのない、永遠のほめ歌でもあります。

 まず、ほめ歌を歌う対象となる王たる神のお姿が歌われます。すなわち、いと高き方であり、恐れられる方、大いなる王、全地の支配者、全地の王であられます。私達は、その民でありますから信頼と従順をもって仕える必要があります。人が何を信頼し、何に従うかによって人生が決まると言ってよいでしょう。使徒達は迫害の最中で「人に従うより神に従うべきです」と自ら誰に従うかをあかししました。

 偉大な王への称賛に最もふさわしいものは、賛美です。ここには、叫べ、手をたたけ、角笛を吹き鳴らせ、たくみな歌をもってほめ歌(賛美)をささげよと命じられています。賛美は、大いなるお方にふさわしく又神を信じる直き者にふさわしいものです。さんびのあるところに神ご自身の喜びと祝福があることを忘れないようにしましょう。ダビデは、1000人の聖歌隊を編成して神をほめたたえました。人の祝福、教会の祝福は、心より賛美するところに注がれ、さんびは、喜ぶ者がささげるものであると同時に、いかなる時にもさんびし、力と励ましをいただくものでもあります。あなたは何を賛美しつつ生活しておいでですか。ほめたたえるものによって人生は決ります。


<聖書のことば>
神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。われらの王にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。
詩篇 47篇6節




大いなる日
ヨエル書2章21節

2006年4月16日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 メシヤの復活、これ程衝撃的で、驚くべきことはなかったでしょうし、この日、即ち週の初めの日は世界に希望を与えた大いなる日でもありました。

 何故この日が大いなる驚くべき日なのでしょうか。

第1に、イエスという方が、真のメシヤ(救い主)であることが証明された日だからです。主は、度々弟子達に十字架にかかり葬られて後3日後に復活されることを予告しておいででした。(マタイ16:21)弟子達はとても信じる事はできなかったのです。しかしイエスは、その言葉の通り復活されご自身を度々あらわされ、そのあかしをされました。死に勝利された方こそ私達を救いうる唯一のお方です。

第2に、この日こそ死が終りを告げた日だからです。死は人類が神から離れた結果です。しかしキリストは自らのいのちをもって罪と死から贖い出して人類の回復をもたらし、永遠の死から私達を救い出して下さいました。死は終りでもなく、絶望でもありません。永遠のみ国への門出なのです。

第3に、天のみ国の門を開いた大いなる日なのです。罪ある者は誰も天国へ入ることはできません。魂のいのちなき者も天国へは入れないのです。イエス・キリストは身代りの死と死に勝利した復活により天国への橋渡しをして下さいました。天の門は復活により開かれたのです。


<聖書のことば>
地よ。恐れるな。楽しみ喜べ。主が大いなることをされたからだ。
ヨエル書 2章21節




神はわれらの避け所
詩篇46篇

2006年4月9日 第2聖日 牧師 山宮利忠
 この詩篇は、多くの聖徒に励ましと力となってきました。特に宗教改革を行ったルーテルは、この歌を困難の最中でうたい、大いに励まされたためにルーテルの詩篇などとも言われています。

 この詩のテーマは、「主は我らと共におられる」で、7節と11節、さらに2節の終りから4節にとんでいる間に3節が本来挿入されるべきところで、ここにも「主は我らと共におられる」という一節があったと推測されます。

 主が共におられる。「インマヌエル」こそ聖書を貫く大きなテーマです。私達が神と共にいるのではなく、神ご自身が私達と共にいて下さる。これは神が人に近づき、私達に手をさしのべ、救いの道を開き、いたりつくせりの愛のみわざをなして下さっていることを信仰の目をもって知ることは、なんと大きな励ましでしょう。

 そこにある助け(1)、夜明け前に助けられる(5)ということばの中にはまさしく、神は、目に見えなくても常に私達の傍にいて下さり、まっさきに助けの手をのばし、苦しんでいるその時もっともそば近くにいて助けて下さるお方だというのです。ただ私達が神の助けを求め、願うことなしに神は働いて下さいません。神のいますことと神の救いを信じ求める者にこそ神は、すぐそこにある助けなのです。すなおな気持ちで神を信じ求める時、神のみわざははじまります。それは夜明けのようであり、避難所のようです。


<聖書のことば>
神は、われらの避け所、また力。苦しむ時、そこにある助け。
詩篇 46篇1節




大いなる婚宴
詩篇45篇

2006年4月2日 第1聖日 牧師 山宮利忠
 この詩篇は、王の婚宴に際しての賛歌でどの王であったかは定かではありませんが、歴代の王の婚宴においてうたわれたものでしょう。しかしこれを単にイスラエルの王の婚宴にのみ思いをいたすことなく、メシヤなるキリストとその花嫁たる教会のやがて来る婚宴を想定すると、この歌は壮大な婚宴賛歌として読むことができるでしょう。

 先ず、魅力に満ちた王即ちメシヤなるキリストのすばらしさが賛美されます。クリスチャン達は、キリストファンです。その魅力の程は、この世の者とは違います。いつまでも変わることのない熱い心がいや増しに高まり、やがて婚宴において最高潮に達するのです。その魅力の一つは、品格です。姿の麗しさ内面の美しさから生じるものですが、柔和にして優しく暖かさに満ちたお方であると共に真理の為には、決して妥協することのない、使命に生きた方であり、義に生きる勇敢な戦士です。私達はこのお方の真似をしたいと思います。しかし決してこのお方の域には達しないでしょう。ですからいつまでも憧れのまとなのです。ペテロは、「キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(第1ペテロ1:8)と、私達の状態を言い表わすほどに、私達はキリストファンなのです。うしろのものを忘れ、前にむかってキリストに従う生涯の偉大さを体験しましょう。


<聖書のことば>
わたしはあなたの名を、代々にわたって覚えさせよう。それゆえ、国々の民は世々限りなく、あなたをほめたたえよう。
詩篇 45篇17節




主よ、目を覚まして下さい
詩篇44篇

2006年3月26日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 神が眠っておられるように思える状況がこの詩篇の記者の今の状況です。勿論神は、眠ってなどおられません。24時間まどろむことなく信じる者をお守り下さるのです。

 まず彼(コラの子)は、過去のすばらしい神のみわざを思い出し、感謝し賛美します。とりわけ出エジプトに際しての驚くべきみわざは、毎年正月に行われる過越しの祭りにおいて再現され、親は子に代々語りつげられる責務がありました。神は活きておられ、信頼する者を必ず助けられるお方であることは、明らかなことでした。彼もそれを信じ、誇りに思っているのです。

 しかし、今の状況は、まことに苦しい、つらいものです。彼は苦しみやあざけりの中にあっても、決して神を忘れはしないし、その道を外れたことはなく、約束を違えたこともありません。しかし今の状態はあまりにもつらい状態で、神はわたしを忘れてしまわれたのではないか、愛されていないのではないか、見捨てられてしまったのではないか。どうか目を覚まして下さい。み顔をかくさないで下さいと祈り求めます。

 私達の人生にも、これに似た経験をする事があるに違いありません。その時、神は死んでしまわれた、もう私は見捨てられてしまったと思うものです。しかし、この叫びに耳をかさないお方ではありません。たとえどんな苦しみの中にあっても神の最善を信じる事こそが、真の信仰ではありませんか。


<聖書のことば>
起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさまして下さい。
詩篇 44篇23節




横浜教会と会堂の歩み
会堂献堂記念礼拝

2006年3月19日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 46年間の教会の歩みは教会の入れ物である会堂の歩みでもありました。

1959年、宣教師館の応接間で始められた集会
1960年、共進町に移転、古屋を改造して会堂に、この年教会発足
1970年、37坪の借地に3階建ての新会堂建設、献堂
1975年、3階建ての牧師館が解放されCSの教室に、牧師家族磯子へ転居
1986年、下永谷の現土地購入、300坪
1987年、共進町の土地購入。同年単立宗教法人格取得
1990年、第三会堂献堂、共進町の土地売却
1996年、隣接地購入、350坪、会堂総面積650坪となる。
1999年、新教育館増築、93坪、総建坪192坪となる。
2006年、礼拝堂拡張、40坪、総建坪232坪となる。牧師館開放、
      新牧師館マンション購入。

 これらに加えて、裏の崖の擁壁工事、駐車場のアスファルト工事、駐車場の立体化、尖塔の取りつけ等様々な教会の必要に応じたわざがなされてきました。これらは教会の歩みと共になされた、必要から生じた事であったことこそが大切で、不要なものは何一つなく、より大きくより使い易くという願いの背後に主の大きな祝福とお恵みがあった事を忘れてはなりません。この働きは今後も継続され、みこころにかなった拡大が期待されます。


<聖書のことば>
この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。 万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。
ハガイ書 2章9節



神よ、私の神よ
詩篇43篇

2006年3月12日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 もともとは一篇であったこの詩の、その中心的テーマは、レビ人の神殿礼拝への渇望でした。しかしこの渇望の中に彼等の神への信仰の在り方が如実にあらわされている点に注目しなければなりません。

 それは、「私の神」ということばです。(42-11、43-2、4、5)信仰はそもそも団体で持つことではなく、極めて個人的なものであるべきで、たとえ夫婦であろうと、手をつないで救いの門を入ることはできません。しかし、救いを受けた後は又逆に共なる生活、いのちを共有する神の子としての在り方こそ、この詩の歌う精神に沿うことでもあるのです。

 神と私というこの間に何ものも入れない係りこそが、クリスチャン信仰の基本にあるわけで、パウロは、この経験を個人的で直接的な体験と強調し、大切にしていることをあかししています。(ガラテヤ1:11〜17)この個人の信仰の確立こそが、クリスチャン生涯の基礎とならねばなりません。

 さらには、私の信じる神が如何なるお方であるかがうたわれています。まず、力の神である(2)といいます。全知にして全能のお方、又最も喜びとする神なのです。神のして下さる事を喜ぶというより、神そのものを喜びとするということでしょう(ローマ5:11)。そして私の救いの神と告白します。まさしく私の信じる神は、救いの神(イエス・キリスト)であり、このお方によって希望も平安も安全も与えられる真の神、私の神なのです。

<聖書のことば>
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。
詩篇 43篇5節b




魂の渇望
詩篇42篇

2006年3月5日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 第1巻が終り、第2巻に入ります。この歌は、神殿に仕えるレビ人で聖歌隊の指導者の一人の歌ではないかと思われます。今は、神殿で礼拝することが許されない遠く隔離された状態か、神殿が破壊されてかつてのように多くの者と神のみ名をほめたたえることのできない状態にあって、「お前の神はどこにいるのか」と、周囲のあざけりの中で一層礼拝の尊さを覚え、絶望としかおもえないような逆境の中で神への渇望をうたいます。

 私達は、この詩人のような魂の渇望と、礼拝への執着を持ちあわせているでしょうか。この世のもので満足してしまい、魂の餓え渇きを覚えず、真剣な神への求めや叫びを忘れているとしたら禍です。雌鹿が渇いて谷川におりて水を求めるがごとく、公の礼拝に集まり、主の集りから受ける祝福にあずかる者は、再び力をいただいて起つことができるでしょう。しかしもしこの水をのまなければ、やがて日照りの中で力つきて倒れて、誘惑の激しいこの世の水をのみつつ、やがてやせおとろえ力を失いやがて骸となるのを待つばかりです。

 この水を飲む者は渇くが、わたしの与える水を飲む者は、渇くことなく永遠にいたる水が湧き出ると言われた神の水を飲む者は生きます。詩人は苦しみの中にあっても「なおも」と叫び(5)、望みえない時にもなお望みて信じたという、アブラハムの信仰のごとき信仰の告白をするのです。今あなたは魂の渇きを覚えていますか。それを満たすのは神のみです。


<聖書のことば>
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ。私の魂はあなたを慕いあえぎます。
詩篇 42篇1節




病の床で支えられる神
詩篇41篇

2006年2月26日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 6篇や32篇とともに病床の歌といわれています。この41篇で第一巻が終了し、最後に神をほめたたえる頌栄で閉じられます。(13)

 病の中での苦しみの思いが実に率直に言い表わされていて痛々しい程です。病そのものの苦しみは当然の事として、周囲の人達の反応は一層苦しみに苦しみを増すことになります。特にひそかなささやきや、親しい友であった者の裏切りは、たえられない悲しみであり、そのような状態にある自分自身に罪の結果だと思わせられる苦しみが重なります。

 しかし病は、全ていまわしく、あってならないものではありません。人は何等かの形で健康をそこない病の床に伏さねばならない時があるものです。

 偉大な働きを残したパウロも病を持ちつつ、それを主の恵みとして受けとることができました。

 第一に、病は自らの弱さを自覚させることにおいて力があります。病の中で人は自らを反省し、自分の生き方を深く考えることができるのです。

 第二に、人への深いあわれみの心を持つことができます。健康で何不自由のない状態では、人の痛みや苦しみを思いやる心は希薄です。

 第三に、真の依りどころを見出す機会となります。孤独や不安に勝勝利を得るため、神は私達にあえて病の中に置いて、永遠への解決をお与え下さろうとされるのです。その時病は厭わしいものでなく栄光に変えられるでしょう。


<聖書のことば>
主は、病の床で彼を支えられる。病む時にどうか彼を、全くいやしてくださるように。
詩篇 41篇3節




一粒の麦の死
ヨハネの福音書12章20〜26節

2006年2月19日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 弟子達がキリストの築く王国への誤った野心を持っていることを正すために、一粒の麦の死のたとえをもって語られた主は、現代の私達にも必要な大切な教えを与えてくれます。

 一粒の麦の種が地に落ちて蒔かれる時、それは数百倍の実をみのらせるように、一人の人がそれに死ぬ時、そこには数え切れない実を結ぶことをここから教えられます。先ず死ぬとはいかなる意味でしょうか。当然の事ながらキリストのごとく肉体的に死ぬ事を意味しているというよりも、自分に死ぬという事、即ち自分を第一にし自分を愛し自分の都合を第一にしないということです。「自分を捨て、自分の十字架を負って」主についてこない者は、主の弟子ではないと言われた事と同義です。

 人がもし神第一の生き方をするとしたら、当然の事ながら自分を第2、第3にする生き方をするでしょう。それこそが人として豊かにされる道なのです。自分のいのちを救おうとする者は、それを失うの教えのごとく、自分第一にする生き方は、結局神の約束を自分のものにする事はできません。即ち実を結び、永遠を生き、報いを得ることはできないのです。

 過去のキリスト教徒のすばらしい生涯に共通するものは、己に死んだ人達の姿です。私達は宣教師の働きの中にその一粒の麦の死の模範を見ることができるでしょう。死んで生きる、失って得る道を歩みましょう。


<聖書のことば>
まことにまことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
ヨハネの福音書 12章24節




泥沼からの救出
詩篇40篇

2006年2月12日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 この詩篇は13節以降、70篇と同じもので二つの歌の合併と考えられますが、神殿での賛美の都合上合わせられたのかもしれません。従って前半に中心を置いて学ぶことにしましょう。

 救出された感謝とそのあかしが前半の中心テーマです。ダビデの全般的な生活上起こったできごとのあかしがこの歌の背景と考えられますが泥沼のような罪の生活、即ち身動きできない汚れきった生活から救出されたこと、又その中での騒ぎから引き上げられた自分を、周囲の人々は驚きの目をもって見ていることがうたわれています。キリストによる救いは、暗闇から光の中へ導き出された者のごとく、大きな変化をもたらします。その歩みが確かにされ、呟きの口から賛美が溢れる様は、まさしくそこに奇跡を見るのです。それは泥沼から引き上げられた者のさわやかな希望に満ちた姿であり、きよめられた清々しさをみることができます。

 救いの感謝として犠牲をささげる旧約のならわしではなく、わたくし自身を神にささげ、献身のあかしとして神のみこころに従う服従こそが、主のお喜び下さることだということを知って「今、私はここに来ております」と言います。礼拝とは献身です。その証明として聖書の教えに従い、心の底から神をほめたたえ、他の人々にその喜びを臆することなく伝える者となれることこそ、滅びの穴から救出された者の自然な姿ではありませんか。


<聖書のことば>
わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。
詩篇 40篇8節





沈黙する人
詩篇39篇

2006年2月5日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 38篇と類似した悩みと苦しみの中にある詩です。ここには神への信頼から生れる賛美や感謝がありません。伝道者の書にも似た空しさとはかなさが、うたわれています。そして作者は、沈黙すると言うのです。どうして沈黙するのでしょうか。

 第1に、舌をもって罪を犯さないためです。(2)
人は苦しみに会う時、とんでもない事を言ったり、とりかえしのつかないことを喋ったりしてしまうものです。その結果自分も傷つき人も傷つけてしまい、苦しみにさらに苦しみを加えてしまいます。その点でヨブは言語に絶する苦しみの中にあっても罪を犯すようなことを口にしなかった事は驚くべきことでした。

 第2に、悪者が苦しみの中から語った自分の言葉を利用しないためです。
口から出る言葉は、いったん出されたらとりかえしがつきません。人をおとしめようとする者は、その言葉じりをつかんで攻撃してくるでしょう。ですから手を口に当てて沈黙するのです。

 第3に、神に期待し、訴えることによって沈黙できるのです。(7)
はかない一生の唯一の拠りどころは、旅人をもてなす神の保護であり、疲れ果てた者に手をのばされる神のあわれみです。ですから子供のように神に訴え願うことによって人に対し沈黙を守るのです。


<聖書のことば>
私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです。
詩篇 39篇9節





主よ、私の救いよ
詩篇38篇

2006年1月29日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 苦しみや困難がどうして自分にやってくるのか。この詩の場合自分の罪の結果であると判断している事がわかります。しかし聖書にはヨブのように正しい者でありながら突然の大きな苦しみに会う場合もあり、又パウロのように病の苦しみをとりのぞいて下さいと祈りながらも、それを神の恵みとうけとめ、自分の弱さの中に完全にあらわされるキリストの力を知って、反ってその苦しみを感謝し誇りにする例もあります。いずれにしても人が神に向く時いかなる事も無駄なものはなく、たとえ艱難さえ希望に支えられるという事こそ主のみこころであるということが判ります。

 さてダビデの場合、不義に対する神のこらしめと受けとめた苦しみは、大分深刻なもので健康を失っただけでなく、友人や近親者も離れてゆき、敵はこの時とばかり、ののしりと欺きを語りおとしめる算段をするような状況に陥ります。このような状態から脱する唯一の道は、神との交わりを回復し、神のみ怒りが静まることです。この苦しみは、身に覚えのあることが原因ですから“自分の罪を言い表し”(18)赦しを乞う以外に道はありません。

 たしかにある苦しみや困難は、自分の蒔いた種の刈り取りなのです。しかし神はたとえそうであったとしても、その痛みや苦しみを通して、私達に尊いものを知らせ、与え、苦しみを受ける前よりもはるかに大きな恵みと豊かさを与えて下さいます。苦しみにあった事は良い事でしたと言えるように。


<聖書のことば>
急いで私を助けて下さい。主よ、私の救いよ。
詩篇 38篇22節




貧しい者の豊かさ
詩篇37篇

2006年1月22日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 悪いことには、悪い結果があり、善いことには善い結果がある、仏語の因果応報に近い思想がうたわれています。たしかに蒔いた種は、自らかりとることになりますが、ここでは、神の前には何一つ隠れたことはなく、人の行為の全てを見られる神は、全てに正しい報いをお与えになるという事実がうたわれています。(ローマ2:6)

 ここで言う悪しき者は、神を認めることをせず己を誇る者のことであり貧しい者は、自分のありのままの姿を認め、神に依頼む者のことをさしています。悪者がみじめな生活をしていれば納得がいくのでしょうが現実はそうではありません。不正を行う者が巨万の富を得、極めて幸福そうに生活をし、正しい者が苦労しながら額に汗して働かねばならない現実を見る時、人は、正直に真面目に生きることが馬鹿らしく思え、裏で適当に不正を行って上手に生きる事をよしとするような安易な道を歩きそうになります。

 しかし、神はその全てに正しい審判をなさるのです。敬虔に正しく生きる者を神は決してお見捨てになることなく、たとえ困難に会い、倒れるような事があっても、致命的な倒れ方はしない、その必要は満たされ、一時的な快楽でなく、永遠の祝福をもって守って下さるとダビデは、生ける真の神を信じて歩むことを勧めます。主の前に静まり、耐え忍んで主を待つことが今の私達にも必要なことではないでしょうか。


<聖書のことば>
悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
詩篇 37篇1〜2節




二つの道
詩篇36篇

2006年1月15日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 神を信じない生き方と神を信じる生き方の対比が歌われています。それは空しい人生と豊かな人生という大きな違いです。

 まず空しい神に反逆する人生のいくつかのしるしがうたわれます。

第1に、罪は、心の中からはじまります。人格化された反逆の心は、ひそかに夜寝床の中ではぐくまれやがて昼その実を結びます。決して表にあらわれるまで姿を表しません。

第2に、知恵と義を捨て、神から遠ざかります。罪は人から神に属するものをしめ出し、近づけることをしません。自らの思いのみで行動し、光のもとへこようとはしないのです。

第3に、神への恐れの心をもつことはないのです。神は自分が何をしても、何もすることはない、即ち審き等はないし、できないのだと自らを欺くのです。それに反して神を信じ従う者の豊かな人生は、神の恵みのもとに置かれます。神は人を生かし、必要を満たし、保護されます。そして神の家たる教会の豊かさの中で、大きい祝福をお与えになります。罪赦された人々の集りである教会、神の恵みと真実と義のあかしのあるところです。人々はその恵みを教会の中で体現するのです。そして神の啓示の光の中で、希望を見出し自らの人生の将来をはっきりと教えられ、人のあるべき姿にいよいよ成長することができます。この二つの道のどちらをあなたは歩まれますか。


<聖書のことば>
神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。
詩篇 36篇7〜8節




無実の訴え
詩篇35篇

2006年1月8日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 無実の罪を神に訴える嘆きの歌です。背景にはサウルによる追撃に苦しむダビデの苦しみがあげられるでしょう。ダビデにとってはいわれなき苦しみでありました。たしかに私達の人生には、思いもよらない苦しみや悲しみに会うことも少なくありません。生命をねらわれる苦しみ、策略をめぐらされる苦しみ、親しい友による裏切り、偽りの証言による苦しみ、これらは確かに同様な苦しみに会うことがあるとしても、その典型的な苦しみは、救い主キリストがあわれた苦しみであったに相違ありません。

 私達が受ける苦しみは、意外にいわれある苦しみではないでしょうか。

 自分が蒔いた種を刈り取るような、あえて種を蒔くことはしなくても、知らぬまに蒔いた配慮の欠けた種や、誤解され易い行動の種、非礼の種、利己的言動の種等、案外苦しみや悲しみの背後に、実は自分が蒔いた種を刈り取っている苦しみがあるのかもしれません。

 しかしダビデも決して完全な者ではなかったとしても、王に生命をねらわれる苦しみは、サウルのねたみから生まれた憎しみでしたから、ダビデは神に訴えるのです。私と戦う者と戦って下さい。黙っていないで下さい。奮い立って下さい。目をさまして下さい。弁護して下さいと。

 神は真実な者の訴えを正しく審かれるお方です。悪しき者を決して放置なさいません。神の前に真実であろうとする者をあわれんで下さいます。


<聖書のことば>
主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦って下さい。
詩篇 35篇1節




主の恵み深さを味わう
詩篇34篇

2006年1月1日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 神への感謝の賛美と神に向かう姿勢が歌われるイロハ歌です。新年初頭の歌としてふさわしいものではないでしょうか。

 まず主をほめたたえるという形で感謝がささげられます。作者は「いつも」と言います。それは順境の時も逆境の時も、いついかなる時にも賛美をささげますという言葉の背後には、神の恵みはいかなる時にも最善であるという信仰がみられます。それは、神の恵みを味わうということによってよろこびと賛美が湧き出るのです。味わうということは自分の中にとりこむことがあり、よくかみしめてその味をたしかめることです。もしそうすることができれば、神は恵みによって私達をとり囲み、愛で取り囲まれている事が判るに相違ありません。丁度エリシャがアラムの軍勢に取り囲まれてもそれ以上の神の軍勢がエリシャを取り囲んでいるのを見るがごとくです。

 来なさい子たちよ。と教師の口調で神に向かう人の姿勢を教えます。主を恐れることこれこそが人の本分です。人は神ではないし神のごとくふるまうものでもありません。反って自分の弱さや愚かさを知って自我、我欲、慢心を砕かれなければなりません。砕かれることは痛みを伴いますが、その痛みを通して神を求める者に神は近くいまし、その叫びに耳を傾けて下さいます。己がままなる道を歩む者の平安は、やがて失われますが、己れの弱さを知って苦しみ悩む者の心は、キリストの十字架のいやしを受けることができます。


<聖書のことば>
主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。
詩篇 34篇8節