聖書からのメッセージ

【礼拝説教要旨】

永遠の光
イザヤ書9章2節

2005年12月25日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 暗闇の世に光が照った。その瞬間こそメシヤなるキリストの誕生でした。この闇の部分とは如何なるものでしょう。

 第1に、失望という暗闇です。自ら存在の意味や価値を見出すことのできず、自分も人も愛せない人が増えています。

 第2に、価値観の混乱という暗闇です。何が尊いものなのか、何が自分にとって最も大切なものなのか、物と心の転倒、家庭と仕事の転倒、そまつにされる生命、私達の周囲には混乱の渦ができています。

 第3に、不徳という暗闇です。結婚の混乱、正義の混乱、責任の喪失、若者の生活にはびこる不徳は、次第に心の痛みを失わせつつあり、真に尊敬される大人が減少しつつあります。

 第4に暴力という暗闇です。家庭にも、学校にも、そして社会のあらゆる面に、国と国の間に理不尽な争いが蔓延しています。

 これらの闇は、罪と死の結果です。イエス・キリストはこの死の闇に、いのちの回復をもたらし、全てを明らかにし、私達の将来に希望を与えるために来られました。「私は世の光である」と言われたイエスは、信じ従う者に安心と希望を与え、生きる価値と望みを与えて人の本来の姿への回復をもたらして下さいます。闇は決して光に勝つことができません。一条の光は暗闇を追放します。世の闇、心の闇にキリストをお迎えしませんか。


<聖書のことば>
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に、
光が照った。
イザヤ書 9章2節




地は主の恵みに満ちている
詩篇33篇

2005年12月18日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 国家的かつ公の賛美で、個人的色合いのないものです。ここには全てを統治支配される神の力が示されています。

 第一に、神は、主権者であられます。
全ての源、創造主として、天の万象は、全て御国のいぶきによって創造されたことが歌われます。地は神の恵みで満ちているのです。何一つ人が創り出したものはなく、又偶然の所産ではありません。全てのものは神のものであって所有権は、神ご自身です。

 第二に、神は、計画をおもちです。
 万物を創造された神は、被造物の全てに創造の目的と計画をお持ちです。そしてその計画は、不幸と禍を与える計画ではなく、将来を与え幸いを与える計画なのです。私達は自分の将来を思って様々な計画を立てるものですが私以外に神ご自身も私の生涯に計画をお持ちであることを知ることは驚きであり、不思議であり、又励ましでありましょう。だとすれば人の使命は私に対する神のご計画を知ることであるに相違ありません。

 第三に、神は、全てを見ておられる方です。
主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になるお方です。善も悪も全てをご覧になって公正な判断をされます。しかもいつくしみをもって神を信頼する者の上に豊かな恵みを注ごうと待ち構えていて下さいます。


<聖書のことば>
主は正義と公正を愛される。
地は主の恵みに満ちている。
詩篇 33篇5節




会堂建築の回顧と願い


2005年12月11日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 1959年のクリスマスから伝道開始、1960年に教会設立以来当教会は三度目の会堂建築と二度の増築、三度の牧師館開放をしようとしています。この間隣接地の購入、駐車場の整備等大体10年に一度位の割合で会堂に係る建築等をしてきたことになります。

 第一会堂は、中古家屋を改造したものでしたが、第二会堂は三階建ての当時としては思い切った広い会堂でした。そして現在の第三会堂は、まさしく主の奇跡のみわざと言える多くの不思議をもって建築されました。そして今私達は、この円形の会堂を本来の円形として拡張して礼拝を持つことができるようになり、さらに将来にむけて第四新会堂のビジョンをかかげるところまで主は祝して下さいました。

 会堂建築は、教会の建設と一心同体であって、教会なくして会堂は不要であり、会堂があっても教会がなければ意味のないものです。教会の成長とともに会堂が必要となります。従って会堂はそこにある教会の証明(あかし)となるものでもあり、又世に対する教会としてのあかしになるものなのです。

 教会に集う者として、どなたかを教会にお招きして恥かしくないような会堂であってほしいのですし、何よりも神を礼拝する所としてふさわしいところであるべきなのです。本日私達は拡張された部分を主にお献げして、専ら神のために用いる場所として祝福を祈り願いたく思います。


<聖書のことば>
あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。
イザヤ 54章2節




罪を赦された者は幸いだ
詩篇32篇

2005年12月4日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 七つの悔い改めの詩の一つとして数えられ、51篇と対をなすもので、背景としては、ウリヤの妻バテセバを策略をもって自分のものとしてしまったダビデの大罪と思われます(第2サムエル11)。51篇が懺悔の詩とすれば、32編は罪を赦された感謝の詩でありましょう。

 先ず、罪を告白しなかった苦悩がうたわれます。罪は人から告発されなくても、人の心の内側から悩ませ苦しめ、日夜人をさいなむのです。ダビデはうめき、つかれ、かわき、気力を失わせ喜びや平安を奪ってしまったと言います。しかし罪は決して隠しおおせることなく、必ず露見し、当然の報いを受けなければなりません。その罪が大きければ大きい程その結果もおおきなものであり、たとえ小さなことであってもやがては手のつけようもない大きなものになる可能性があり、その全てに共通している事は、罪を認め、告白され、赦されることなくして平安と喜びは戻ってこないということでしょう。

 ダビデは王の権力にものを言わせて、自分の罪を隠しおおせると思っていたのでしょうが、神は預言者をつかわして罪を暴きます。ダビデの素晴らしさは、内なる罪を指摘された時に素直にそれを認め告白した事です。それこそが人が神の前に赦される出発点です。「罪人であるわたしをあわれんで下さい。」という祈りが口からだされる時、人の幸いを得る出発点だという事を覚えましょう。


<聖書のことば>
幸いなことよ。
そのそむきの罪を赦され、罪をおおわれた人は。
詩篇 32篇1節




私の魂を御手に委ねます
詩篇31篇

2005年11月27日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 この詩は、主イエスが十字架上の最後のことばとして語られたことばがあることで有名になりました。内容的にはさし迫った危険から助けを求める祈りがこの歌の中心テーマです。

 作者の苦悩は如何なるものでしょうか。それはひそかにもうけられた網と言います。狩人のごとくワナをもうけておとしめようとする人からの苦しみ、又たましいも体も衰えている病による苦しみ、さらには自分の咎によって、すなわち罪から受ける苦しみが自分の骨々を衰えさせ、死人のように、こわれた器のようになって捨て去られるばかりになったと言います。その苦脳の中で自分が支えられると思っていたものが全てあてにならないものであることを知った時に身に頼るべきお方は神であることを「わたしはあなたに信頼します」と重ねてうたうことによって信仰を表明します。しかし時には、信じます、この苦悩からこの闘いの中で神の助けと導きを信じます、ということさえ言えない時に私達はどうするのでしょうか。その時にはもはや救いも助けも何もかも全てが神の御手の内にあることを認めて委ねることです。

 私のたましいを御手にゆだねますとは、私自身を神におあずけする事です。人は全ての事をなしうるわけではありません。人にはできない事があることを認めて、人の生涯の一瞬一瞬が神の御手とみこころの内に在ることに気付いて委ねることができれば、そこに大きな平安がもたらされます。


<聖書のことば>
私のたましいを御手にゆだねます。
真実の神、主よ。
あなたは私を贖い出してくださいました。
詩篇 31篇5節




教会の中に祈る姿を見ますか
テサロニケ人への手紙第一5章17節

2005年11月20日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 上からの力は、祈りによって与えられます。祈りは私達に与えられた神のものをいただく手段なのです。祈りがどんなに大切で力あるものであるかは、聖書の中に沢山の例証を見出すことができます。

 まず、主イエスご自身こそ祈りによって力と勇気をいただき、その努めをまっとうされました。主は祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされ(ルカ6:12)、度々ひとりで祈られました(ルカ9:18)。又弟子と共に祈るために山に登り(ルカ9:28)、死の迫った前夜ゲッセマネの園で血のごとき汗を流されて祈り、勝利を得られたのです。その主が「わたしの家(教会)は、祈りの家でなければならない」(ルカ20:46)と言っておられます。

 初代教会の聖徒達は、迫害の中にあってもみな心合わせ、祈りに専念していましたし、ペテロが捕えられた時も教会はペテロの為に熱心に祈り続けて、神の奇跡を拝しました。信じて祈り求めるものなら、何でもいただける(マタイ21:22)という主の教えを彼等は実行したのです。

 昔も今も、神は変りなく熱心に祈る祈りの民を求めておいでです。目を覚まして祈る時、神は私達の日々の生活や働きにも必ず祝福をもって報いて下さいます。教会のあちこちに祈りの輪ができ、友人知人の悩みや苦しみを聞いたらただちにその場で祈るような敬虔な姿勢が教会にあれば、あらゆる面で上よりの力をいただくことができるでしょう。そんな姿を見たいものです。


<聖書のことば>
絶えず祈りなさい。
テサロニケ人への手紙第一 5章17節




いのちは恩寵のうちにある
詩篇30篇

2005年11月13日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 この詩も苦しい病床から回復された時の感謝の歌です。作者は言うのです。「私が栄えたときに、私はこう言った。私は決してゆるがされない。」と、栄え、何不自由ない時には人は不幸な時がやってくる等とは考えもしないものです。たとえ考えることがあったとしても、豊かさや力はそのような思いを打ち消すのに十分な材料なのです。あの農夫のように豊かな収穫の後に倉を建て替えて己に、「飲め食え楽しめ、安心せよ」と言います。

 ダビデが死に直面した時、自らの傲慢さに気付き神に赦しを乞うといやしの御手がのばされ、涙が喜びにかえられ、そこではじめて「いのちは恩寵のうちにある」と気付きます。丁度ペテロが「わたしは決して躓きません。たとえ他の者が躓いても、私はあなたと共にたとえ死にまでも」と豪語した彼が、やがてイエスが捕えられ裁判にかけられると「あの人を知らない」と否んでしまいます。ここに人の弱さと愚かさがあります。人は自分に自信のある間は、神を呼び求めようとも、信じようともせず「揺るがされない」、いや動揺してはならないと自分に言いきかせるのです。しかし私達はそんなに強いものではありません。人の究極の苦しみすなわち死に直面した時、自分の求めてきた栄えは何の役にもたたない事を知るのですそれがいかに頼りにならないものかを知るのです。神が与えた環境による平安ではなくあらゆるものを与えて楽しませてくれる神を信じる平安を持つべきです。


<聖書のことば>
まことに、御怒りはつかの間、
いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、
朝明けには喜びの叫びがある。
詩篇 30篇5節




聖なる飾物をつけてひれ伏す
詩篇29篇

2005年11月6日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 人にとって最も大切な事は何かと問われたら、神への礼拝だと答える人はそんなに多くないでしょう。しかし人の一生は何を礼拝するかによって決まります。即ち宝のあるところに心があるわけです。

 ダビデの宝は神ご自身であり、神への礼拝でした。29篇はその神への礼拝の歌です。特にダビデがどのような心で礼拝をしたかが「聖なる装いをもって」(口語)礼拝することに表されています。文語体の聖書では、「きよき衣」。

 聖さとは、分けられた事を意味します。他のものと一緒でなくはっきりと分けたものの意で、礼拝の為に用意された装いという事ですから、普段の衣とは違う改まった服装という事になります。又整えられたという意味でもあります。混乱した装いではなく整えられ、他の人の目にもだらしのない装いと見られないもの、そして清潔な装いという事も聖さの中に含まれます。

 何故聖い装いをもって礼拝をおささげすべきかと言いますと、栄光の神への礼拝だからです。内と外をあきらかにされる神への礼拝は、光の中に置かれた者の礼拝です。そして礼拝に於て主の声を聞くからです。神の声は天地を創造し、天地を支配します。その御声の前に威儀を正して礼拝する者に相応しい状態は、聖い神に相応しい姿であるべきです。しかし真の聖い装いはイエス・キリストという衣です。この衣を着て真の礼拝を献げましょう。


<聖書のことば>
御名の栄光を、主に帰せよ。
聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ
詩篇 29篇2節




羊飼いとなって下さい
詩篇28篇

2005年10月30日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 呼ばわります。耳を閉じないでください。口をつぐまないで、穴に下らせないで下さい。・・・と切実な訴えをするダビデは、死に至るほどの危険な病の中にあったのでしょうか。神からの応答がない事を最も恐ろしい事として訴えています。しかしこの切実な訴えも6節以降では、突然感謝に変るのです。
祈りの最中に神からの答えを得たのでしょうか。ダビデにとって神は、不動の岩であり、力があり、盾となって守って下さるお方です。主に拠り頼むことによって助けられたダビデは、こおどりして喜び、歌をもって感謝します。
そして、自分を含めて全ての民の羊飼いとなって下さいとお願いします。

 羊は、民の生活を支える財産でした。どこにでも見られる羊の群れは、丁度羊飼いが羊の群れを導くと同じように、我々を導き守る神に似て、羊飼いとしての働きをして下さっています。

 イエス・キリストは「私は良い羊飼い」(ヨハネ10:11)と言われて羊のような私達の為に、いのちをかけて守ると言っておられます。
良い羊飼いは、迷い出した羊を探して下さいます(ルカ15:4)。良い羊飼いは、羊の一匹一匹を良く知って下さいます。どの羊がどういう性格を持っているのか、どんな体調なのか、どこが痛むのか、良い羊飼いは、羊を養い、育てて下さいます。(詩篇23)。そして良い羊飼いは、羊のためにいのちを捨てて下さるのです。牧者なるキリストに従う者は、安全です。


<聖書のことば>
どうか、御民を救って下さい。
あなたのものである民を祝福して下さい。
どうか彼等の羊飼いとなって、
いつまでも 彼らを携えて行って下さい。
詩篇 28篇9節




私は一つの事を願う
詩篇27篇

2005年10月23日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 ダビデが王として盛んになろうとする時の歌である事が70人訳(ギリシャ語旧約聖書)聖書の表題で判ります。そしてその信仰がダビデの今後の生活と働きを大いに祝したものと考えられます。

 先ず、神への強い信頼が賛美されます。(1〜6)

 私達の生活を圧迫するものは数多くある中でも、周囲にある人間こそその大きな原因です。ダビデにとっても敵は周囲の人々であり、いのちをねらう者達でした。しかしダビデは神との交わりこそあらゆる困難から救出される力であることを知っていました。ですから彼は、ひとつの事を願います。すなわち「いのちの日の限り、主の家に住むこと」です。神殿での神との交わりこそ第1でありたとえ家族が自分を見捨てるようなことがあったとしても、神との係りは動くことはない(10)という信頼です。この単一的、単純な信仰姿勢こそ、ダビデが豊かな恵みと祝福をいただいた源であることを忘れてはならないでしょう。信仰は複雑なものではなく、極めて単純なものであり、その単純さの故に豊かさが伴うことを覚えたいものです。継続した教会生活が祝福された人生の土台であるという事になります。来るべき世にあって主と共にあろうと願う者が、今の世にあってその体なる教会にしっかりとつらなっているということは極めて当然な事でありましょう。しかし自らは弱い者ですからダビデは自分自身に雄々しく心強くせよと励まします。(13〜14)


<聖書のことば>
私は一つの事を主に願った。
私はそれを求めている。
私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
主の麗しさを仰ぎ見、
その宮で、思いにふける、そのために。
詩篇 27篇4節




試練の後に
ヨブ記1章1〜12節

2005年10月16日 第3聖日 伝道師 福田敬三

 人生に問題はつきものです。信仰を持つが故に生じる困難もあります。「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない(1:8)」と神様から評されるヨブに試練がやってきました。

 サタンは言います、「ヨブが神を恐れるのは、信仰の故に裕福で、多くの家族に恵まれるという見返りを期待するから。それを取り去れば、神を呪う」と。ヨブは、それらを失い苦しみましたが、神を呪うことなく、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(1:21)と証ししました。

 次にサタンは、「ヨブ自身に災いが下れば神を呪う」と言います。そこでヨブに腫物ができ大変苦しみはしましたが、ヨブは「私達は幸いを神から受けるのだから、災いをも受けなければならないではないか」(2:10)と証ししました。確かに、人の尊厳を守る死というものがあるなら、それに値すると言われても仕方の無い状態でも神を呪いませんでした。それは、神と共に生き、神を信じ、神の支えのうちを生かされているから、おじ惑いながらもなせる証しではないでしょうか。

 人生に災いの日が来る前に、神を覚える必要があります(伝道12:1)。神を覚えること無くして、真に人の問題は解決されません。

 神を覚え生きるときに、神の恵みのゆえに試練さえも私たちにとって益となり、試練を通して神に対する理解が深まります(42:5)。耳で聞く噂のようでなく、目で見たと言えるほどの現実味のある深まりです。


<聖書のことば>
私はあなたのうわさを耳で聞いていました。
しかし、今、この目であなたを見ました。
ヨブ記 42章5節




私は誠実に歩みます
詩篇26篇

2005年10月9日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 誠実とは、罪を犯さない完全な生き方という事ではありません。たとえ失敗があったとしても、その失敗を認め心から悔い改める姿こそ誠実な者の姿です。ダビデは決して罪を犯さない人物ではありませんでした。しかし神の前に誠実に歩んできたと賛美します。ダビデの誠実さはいかなるものであったのでしょう。

 第1に、よろめくことがなかったのです。(1)
たとえいかなることがありましょうとも動揺することなく、神への信頼を守り通したことを主張します。心がわりしない、自らの告白に忠実に約束を守ったことの中に神への誠実さがあります。

 第2に、真理のうちを歩み続けたのです。(3)
神の教え、みことばにしっかり従って信仰の道を歩み続けました。大切な点は歩み続けたところにあります。途中で放棄したりやめたりしなかったのです。沢山の障害があったでしょうが、それを乗り越えてきました。

 第3に、不真実な者に同調することがありませんでした。(4)
人との争いにまきこまれたり、嘲笑や侮りの罠におちたり、悪を行う者に加担しなかったのです。

 第4に、主の家を愛しました。(8)
今は教会と言えましょう。教会を愛し、自分の霊の家として愛し続けました。神はこのような者を求めています。


<聖書のことば>
私を弁護して下さい。主よ。
私が誠実に歩み、
よろめくことなく、主に信頼したことを。
詩篇 26篇1節




教会と共に歩む聖徒


2005年10月2日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 教会はクリスチャン達が便宜上作った集りではなく、キリストご自身が創設されたものであり、エペソ人への手紙には、イエス・キリストが「教会のためにご自身をささげられた」(5:19)と記し、「教会はキリストの体」(1:23)と教えています。メシヤなるキリストは、再び世に来る時、花嫁なる教会を迎えに来られると予告されています。

 どこの教会にも、自分の所属する教会を自分の霊の家として(第1ペテロ2:5)しっかりと仕え、キリストに仕えるしもべとしてのあかしをたてている聖徒(信徒)がいます。これらの方々は、キリストに仕えるという事は、教会に仕えることに他ならないという事を知っている方々であり、キリストを信じているという事は、教会につながっていることによって証明されるのだという事を知っている方々です。たしかに教会は多種多様な人々の集りでありますし、様々な問題も生じますが、だからと言って逃げたり、隠れたりすることなく、キリストの体の一部として、働きは違っても体の大切な一部であり、全ての部分が分に応じて働く事によって頭なるキリストに仕え、成長をとげていくのだという事が教会を創設された主のみこころなのです。

 即ちキリスト教徒(聖徒)は、教会の成長と共に成長していくという事に他なりません。教会を素通りしていく者に、霊的成長はありません。しっかりと教会に根をおろして、教会と共に歩み、教会と共に成長するのです。


<聖書のことば>
彼がそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って常に主にとどまっているようにと励ました。
使徒の働き 11章23節




あなたの小道を教えて
詩篇25篇

2005年9月25日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 言葉の遊びによるイロハ歌で、節の冒頭の言葉がへブル語のアルファベットになっています。

 ダビデのものと思われますが、彼の神との交わりを何よりも大切にしたい切実な信仰が歌われていていじらしいばかりです。ここから神との交わりの真剣さを学ばなくてはなりません。

 第一に、主を仰ぐ。(1)
これは、信頼することに他なりませんが、仰ぐことには自らを低くし、主を尊ぶ心と、信じ望む思いがこめられています。神からの導きや助けを待ち望む強い思い(5、21)があらわされています。

 第二に、主の道、主の小道を教えて下さい。(4、10)
自分の願う道ではなく神のみこころを知って歩む道、しかも一人で歩むだけの小道を教えて下さいと願います。自分で正しいと思う道でもそれが滅びに至る道もあるからです。神は各自にご計画をおもちです。

 第三に、赦して下さい。(11、18)
神と対面する全ての者が己の罪深さを教えられ、ただ、赦ししか、平安をいただき祈れる資格を得るすべがないことを痛感するのです。その時こそ、メシヤなるキリストの身代りの死の十字架が尊く思われる事はないでしょう。

このお方に目を注ぐ時にこそ(15)、私達は、神を身近に覚えるのです。


<聖書のことば>
主よ。 あなたの道を私に知らせ、
あなたの小道を私に教えて下さい。
詩篇 25篇4節




永遠の戸よあがれ
詩篇24篇

2005年9月18日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 荘重な雰囲気にあふれた詩篇で、多分契約の箱がエルサレムへ運びこまれた時(第2サムエル6:15〜19)にうたわれたものと思われます。
問いと答えという形で、独唱・合唱、祭司と会衆というように互いに歌いかわされたものでしょう。

 誰が主の山に登り、その聖なる所に立つことができるのか、これは祭司によって問われる質問です。その答えは、身も心もむなしいものに向けることのない者、即ち移ろいゆくもの、一時的なもの、いつわりの幸せを約束するもの等に心をむけず、真実に神を求める者だと言います。

 人の幸せはどこにあるのか、私達が今求めつつあるものの先に真に幸せがあるのか、一生の間人に希望を与え平安を与えるものがあるのかと問うてみる時、実は空しいものを求めつづけている自分を発見するのではないかと思います。金持ちザアカイは、得ようとしたものを得た時、そこに自分の幸せを見出すことができませんでした。

 今、永遠の幸せを約束する神の救いは、死に勝利したイエス・キリストの内にある、人の前に閉じられた永遠の御国の戸は、キリストの身代りの死を通して開かれ、誰でもそれを求める者には、その道を通り、その門を通ってはいることができます。誰でもイエス・キリストの門を通って入る者は、救われ永遠の御国に入ることができます。栄光の王が開かれた道です。


<聖書のことば>
門よ。おまえたちのかしらを上げよ。
永遠の戸よ。上がれ。
栄光の王がはいって来られる。
詩篇 24篇9節




大いなる牧者
詩篇23篇

2005年9月11日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 詩篇の中で最も愛されている詩篇と言って過言ではないでしょう。多くの聖徒がこの詩を暗誦し、慰められ励まされています。

 明白な二つの立場、即ち羊飼いとしての主、羊としての我々が示されていて極めて判り易い係りの中で、神に対する人の係りが歌われているために、この賛美は親しまれ、愛されているのではないでしょうか。

 まず第一に、羊としての私達の姿を見てみましょう。
羊はイスラエルでは最も普通の家畜であり、それは大切な財産でもありました。その全てが生活に不可欠なものであったからです。肉は勿論のこと毛皮から、皮そのものも器として使われ、乳は飲料と共にチーズにされて保存食となりました。即ち最も有益な家畜なのです。しかし羊が私達と似ている点は、有益というよりその性質でしょう。弱く臆病であり、集団生活をし愚かで常に羊飼いの守りが必要でした。たしかに羊には羊飼いが必要なのです。一匹の迷い出した羊は、この上なく危険な状態に置かれているわけで、その羊が、私だと聖書は教えます。

 しかしこの賛美のすばらしさは、羊と認める作者が神を我が牧者として歌うところです。牧者のもとにある羊がどんなにその御腕の中で安心していられるか、たとえいかなることがあろうとこの牧者は、自分を守り導いて下さるという確信です。日々そして永遠に守られる大牧者なる主が歌われます。


<聖書のことば>
主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
詩篇 23篇1節




信仰の継承
テモテへの手紙第ニ 1章3〜10節

2005年9月4日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 祖母ロイスと母ユニケという信仰者のもとで育ったテモテは、親子三代にわたってクリスチャン家庭に育った実に恵まれた人物でありました。ですからルステラ地方では評判の良い人物としての評価があったわけです(使徒16:2)。

 パウロはこのテモテを第2次伝道旅行に是非連れて行きたいと願って同行させ、その評判の通りテモテは、パウロに仕える忠実な働き人としてキリストの福音宣教のため役立ちます。パウロはテモテを「真実なわが子」(第1テモテ1:2)と呼び、立派な働きぶりをほめています(ピリピ2:22)。

 テモテに見る信仰の継承の祝福を学びましょう。

 第1に、テモテは祝福された信仰者の家庭に育ちました。
おばあさんと母親の日々の生活の在り方は、言葉での教えというより存在そのものによってテモテは大きな感化を受け、純粋で素直なクリスチャンとして育ちました。

 第2に聖書の教えに親しむことによって与えられた祝福です(第2テモテ3:14)。幼い時からキリストの教えを学び、そこから教えられた事が、彼の人格形成に大きく影響を与えました。

 第3に、与える生涯への成長をみます。知識や経験をただ自分の為だけでなく、他者のために分け与え、仕えていく人生へと変えられていくのです。


<聖書のことば>
私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。
テモテへの手紙第ニ 1章5節




わが神、どうして、・・・
詩篇22篇

2005年8月28日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 詩篇の中でも最も注目される詩の一つです。その理由は第一節をイエス様が十字架上で叫ばれたことによります。又衣をくじ引きで分けた(18)ことや苦しみの描写は、まさしくメシヤの受難のさまに等しく、この詩がメシヤ詩と言われる大きな理由でもあります。

 この詩は二つに分けられます。21節までに苦しみの中からの切実な祈りと願いが、そして後半は感謝と賛美がうたわれ、他の詩と異なるところは、苦しみの理由が己にないこと、そして苦しめる相手への報復の祈りがないこと、そして感謝と賛美が突然にやってくることです。(22)

 ダビデの作とするにはあまりにも深い苦しみの経験であり、これはダビデの末なるメシヤ・キリストの苦しみと解することが妥当でしょう。その苦しみは、最後のよりどころとする神にも見捨てられたかのような苦しみで、肉体的、精神的苦しみの極限の中で「どうして」と叫ぶのです。私達は、たとえわずかな困難に出会っただけで、どうして私がこんな目に会わなければならないのか、どうして私だけがと考えがちです。

 この詩の最大の力点は、どうしてにあるのではなく、「しかし」「けれども」とひるがえって神を見上げるところにあります。たしかに自分はみすてられたかのような状態だが、主は私に答えて下さり、御顔を隠されもしなかった、叫びを聞いて下さったと賛美します。主の受難と復活を思います。


<聖書のことば>
わが神、わが神。
どうして、私をお見捨てになったのですか。
詩篇 22篇1節




救いを楽しむ
詩篇21篇

2005年8月21日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 この詩篇は、王に与えられた勝利を感謝するもので、油そそがれた(キリスト)者への神のとこしえの祝福が歌われています。神が味方となれば敵はいない。その勝利を喜び、楽しもうというのです。

 まずダビデに与えられた勝利の理由が歌われます。

 第1に、神へのゆるぎない信頼です。(7)
神に信頼をおくということは、たとえ目の前に大きな困難があったとしても又先の見えない不安があったとしても、神の最善を信じて希望を持ち、平安をもつことです。バビロニアの王ネブカデネザルの迫害を受けて燃える炉の中に投じられたダニエル等が、神の救いと守りを信じ、たとえ救われなくても神を信じる告白をしたのに似て、神を信じることは確固とした生き方を与えるものです。それは常に神と直面するところから生れる信頼といえるでしょう。

 第2に、神を信頼するところから生れる勝利は、喜びと楽しみを生み出します。(1〜2)
喜ぶということは、勝利の事実を体験した事に重きがおかれています。楽しむということは、更にこれからなされるであろう神の最善への期待から生れる意味が強く、神はどのようにして下さるのか、どのような解決を与えて下さるのかという楽しみをもたらす信仰がうかがえます。


<聖書のことば>
主よ。王はあなたの御力を、喜びましょう。
あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。
詩篇 21篇1節




勝利のための祈り
詩篇20篇

2005年8月14日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 王の出陣に際して勝利を願う祈りの歌です。21篇は凱旋が歌われていて対をなしています。

 苦難の日(1)、それは戦いの日であり、この時に神に祈るということは日頃不信心の者でもよくする行為でありましょう。しかしダビデは常に勝利は、神の御手の内にあることを知っていました。ですからまず神に祈ります。

 弟子は、主のお力が祈りにあるのではないかと思って「私達にも祈ることを教えて下さい」と頼みます(ルカ11:1〜2)。生活の中でもうこれ以上はできない、駄目だと思える時にも祈ることができることはなんと大きな励ましでしょう。全てに私達の願い通りの結果は得られることはないとしても、神は私達の祈りに耳を傾けてみこころをなして下さいます。しかしまず第1に必要な事は、全焼のいけにえによる犠牲をもって私達の主への信仰を表明しなければなりません(3)。勿論これは現代イエス・キリストによってはらわれたいのちの代償による犠牲が与えられているわけですから、キリストによる赦しを信じて祈ることと同じです。主は、「わたしの名によって祈りなさい」(ヨハネ16:23)と言われました。キリストの御名に力があります。“わたしは世に勝った”と言われた主の御名こそ、あらゆることに勝利を治めたキリストご自身なのですから、このお方の上に人生を築く者は、常にまっすぐに立って、勝利の歩みをすることができます。


<聖書のことば>
ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。
しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。
詩篇 20篇7節




何故神は私を愛されるのか
ヨハネの福音書3章16節

2005年8月7日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 何故神は、あらゆる被造物の中で、ご自分の独り子イエス・キリストを殺してまで私を愛されるのか、この答えを理解した者はまことの平安と喜びをもって一生を送ることができるでしょう。

 第1に、神は、人を全ての被造物の最高のものとし創造されたからです。6日間の創造のみわざの最後に人類を創造され、それはご自身に似るものとして創造されました。あらゆるものは神の大いなるご栄光をあらわすものとして存在しますが、人はその中でも最も神に近いものとして創造されたのです。いわば一人一人は神の大いなる作品であり、人は神の似姿に作られ、存在させられた故に、神は何よりも人を愛されるのです。

 第2に、神は人を交わりのできる唯一の生きものとして創造されたからです。人だけが神を敬い神を愛し神のみこころを知って歩むことができるのです。いかに美しく強い動物でも人のように人格的に神と交流できるものはありません。神は人を愛し、人もまた神を愛することができるのです。人は神の愛の対象として創造されたが故に神は人を愛して下さるのです。

 第3に、人は神のみ栄えを最もあらわすことの出来る存在だからです。与えられている才能の全てをもって神のすばらしさをあらわすことができるのは、人だけです。私こそ神のすばらしさをあらわすことのできる最高の存在なのです。


<聖書のことば>
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネの福音書 3章16節




内なる神の声を聞く
詩篇19篇

2005年7月31日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 19篇は、8篇が夜の詩篇と言われるのに対し、昼の詩篇と言われています。前半は大能の神、後半は人と係りを持たれる契約の神としてうたわれ、天地万物を創造された神は、人と深い係りを持たれる真の解決者であります

 まず、自然の中に聞える神の声がうたわれています。

 話しもなく、ことばも声も聞えないにも係らず、語りつげ、告げしらせ、知識を示し、その響きは地の果てにまで及ぶのです。自然はその創造主である神の大能の偉大さを示しています。しかし自然を自然として片づけてしまえば、そこに天の響きを聞きとることはできません。自然の中に神の声を聞き、神の偉大なみわざを見るには、肉体の耳や目と違った耳や目を持たねばなりません。電波をひろって写し出されるテレビのように私達の内側に、神の響きを受けとる信仰の耳と目が必要です。人が何を見、何を聞くかによって人の歩みは大きく変るのです。

 さらに、目に見えざる神は、聖書(神のことば)によって人との係りをもたれます。神のことばは、人の魂を生き返らせ、賢くし、喜びを与え、明るくします。人の真の姿を浮き彫りにして、真の姿を示してくれます。聖なる神、創造の神の前にみことばによって写し出される人の姿は、傲慢、おごりたかぶりだと示されます。創造のみわざの前には虫けらのような小さな姿である私を、神は宝石のように大切にして下さる不思議を感謝したいものです。


<聖書のことば>
話もなく、ことばもなく、
その声も聞かれない。
しかし、その呼び声は全地に響き渡り、
そのことばは、地の果てまで届いた。
詩篇 19篇3〜4節a




活ける神による勝利
詩篇18篇

2005年7月24日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 戦いの勝利をうたう、壮大な詩篇で、表題のごとくダビデがサウルの追撃から救い出された時にうたわれたもので、歴代の王の凱旋の時にもこの歌はうたわれたものと思われます。

 神を信じる者の勝利が高らかにうたわれますが、イスラエルの過去の神からの救いをも念願においたものと思われます。出エジプトの救出の恵みはその歴史の中では、特筆すべきものでありながら、同時に、神は神を信頼する者に恵み深く、日々の生活のあらゆる部分に介入される生きたお方である事が賛美されています。

 まず真の神は生きておられ、信じる者に勝利を与えて下さる事をダビデは力強く賛美します。生ける神は、求めに答えて下さる方です。苦しみと困難の中から主を叫び求めるとその声を聞き答えて下さる。(6)そして敵から救って下さる(3)生きて働いて下さると言うのです。日々の歩みに介入されるお方なのです。

 ある者はこの詩をメシヤ詩と評価します。それはダビデの末にとこしえに恵みを施すとうたわれた50節によります。真の勝利はやがてダビデの家系から誕生されたイエス・キリスト(油そそがれた者)によってもたらされました。罪と死の解決、永遠の生命をもたらしたキリストのみわざ、サタンへの勝利とその支配下にあるこの世と弱い自分への勝利がもたらされました。


<聖書のことば>
主は生きておられる。
ほむべきかな。わが岩。
あがむべきかな。わが救いの神。
詩篇 18篇46節




潔白の訴え
詩篇17篇

2005年7月17日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 17篇は16篇と深い係りがあり、偽りの訴えに対する潔白を訴える詩となっています。ダビデがサウル王から妬みの為に生命をねらわれる事への訴えと考えられます。私達はこの訴えの中から、いわれなき誤解や批判に対して、どのようにすべきかを学ぶことができるでしょう。

 第1に、ダビデは、自らの潔白を神に訴えます。
全知である神に対して、神が調べ、試されても何の悪しきことを見出されなかったと訴えるだけでなく、常に神のおことばに従い、ことばと行動に気をつけ、主の前に正しく歩んだことを訴えます。天地神明に誓って等とよく耳にしますが、ダビデは真の神をよく知る者でした。

 第2に、ダビデを迫害する者の横暴さを訴えます。
まず、言葉による暴力です。彼等は心をかたくなにして、その口をもって鋭く人を傷つけののしるのです。目のかたきにして打ち倒そうとし、後をつけまわして、あたかもライオンのようにすきがあればとびかかって引き裂こうとする、彼等の思いは全くこの世のことのみなのです。

 第3に、しかしダビデは、神の内に平安を求めます。
神を呼び求め、ひとみを守るように守って下さい。みつばさの陰にかくまって下さいと訴え、全てを神に委ね、平安を得るのです。人と人との争いは際限がありません。全知全能の神に委ねることこそ平安の源です。


<聖書のことば>
私を、ひとみのように見守り、
御翼の陰に私をかくまってください。
詩篇 17篇8節




栄光の富の中からの満たし
ピリピ人への手紙4章19節

2005年7月10日 第2聖日 牧師 山宮利忠

    1960年 第1会堂にて教会発足。旧家屋を改造した第一会堂。
  • 1970年 第2会堂献堂。南区共進町にて三階建て新会堂を献堂。
  • 1975年 狭くなった会堂の為、三階の牧師館を開放し牧師家族転居。
  • 1986年 下永谷に300坪の会堂用土地を購入。
  • 1990年 第3会堂献堂。(現会堂)
  • 1998年 隣接地350坪を購入、合計650坪の境内地となる。
  • 1999年 新教育館増築。
  • 2005年 会堂増築予定。
 45年の教会のあゆみは、全くのゼロからの出発で、活ける主は教会の必要の全てを満たして下さって今に至りました。まさしく栄光の富の中から、教会の必要を満たして下さったのです。この45年に貫かれた事は、ただただ、主のお恵みとあわれみを信じて受け取るだけでした。
    信仰とは、イエスをキリスト(救い主)と信じることです。
  • 信仰とは、神の約束を信じて疑わないことです。
  • 信仰とは、神が私達の必要を知って、どうしても必要なものは、必ず与えて下さると信じることです。そして安心することです。
  • そして最後に、信仰とは、主がおよろこび下さることを最大の願いとして生きることです。主は信頼されることを最大の喜びとされます。


<聖書のことば>
また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
ピリピ人への手紙 4章19節




主が赦してくださったように
コロサイ人への手紙3章13節

2005年7月3日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 人と人との係りの中で最終的な解決の道は、赦し以外にないということは神が罪人である私達を赦すという方法で救いの道を開いて下さったことを通して明確にされています。しかしこの赦し合うという事が何とむずかしい事でしょうか。

 しかし神は赦しというのはこうするのだという事を御子イエスのみわざを通して示して下さいました。

 第1に、神ご自身がまず愛し、近づき、赦しのために身代わりの死をもって救いの道を開いて下さいました。私達がまだ罪人で不敬虔であった時に、聖なる神は、愛をもって自ら痛んで赦しを備えて下さったのです。即ちお赦し下さいと私達が祈る前に既に神は私達をお赦し下さっていたのです。悔い改めなさい、そうすれば赦しましょうではなく、赦していますよ、ですから悔い改めなさい(戻ってきなさい)なのです。

 第2に、無条件の赦しでした。赦すための条件は何一つありません。罪のために死んでいた者が一体なにができましょう。ただ信じて見上げるだけなのです。神の愛にふれた時、人は真の悔い改めに導かれます。

 第3に、赦しの後の新生、新しい出発、新しい生涯は、神の赦しから始まります。家に戻った息子は以前と同じように、不平と不満の中で生活したでしょうか。父の愛に触れた息子は二度と後戻りはしなかったでしょう。


<聖書のことば>
互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださたように、あなたがたもそうしなさい。
コロサイ人への手紙 3章13節




神こそわたしの大いなる遺産
詩篇16篇

2005年6月26日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 ミクタムとは黄金又は神秘の意で、神を信じる者の幸いが歌われています。ダビデの苦難は死に直面するような大きなものでしたが、その中で本当に必要なものは何かを見出します。

 先ず死の危険の中から神こそ我が主であり、自分をとり囲む親しい友も、国も、法も真に頼りとなるものでなく、神こそ我が避けどころであることが告白されています。信仰とは神を持つことであり、万有の神を持つ者は、全てを持つ者だという事を知ったダビデは、神をほめたたえます。

 さらに自分の最大の遺産は、神ご自身であると歌われます。
はかり綱とは土地を測るひもの事です。それは自らの所有をあらわし、後世に残す遺産です。レビ人が嗣業の地を得ず神が嗣業であった(ヨシュア13:33)ようにダビデにとってゆずりの地は、主であるというわけです。死に直面した時、人は何が最も大切なことと考えるのでしょうか。たしかにダビデは神殿の建設を自分の手で行うことができず、多くの資産をソロモンに残しました。しかし彼にとって真の遺産は、神への信仰でありました。これをうち捨てる者の悲惨は、いや増しに積まれる痛みとなることも知ったダビデは、常に主を前に置いて歩みます。そしてそのお方だけが、いのちの道を開き、永遠のいのちをお与え下さる復活の主となられることを信じることができます。平安と喜びの源です。


<聖書のことば>
測り綱は、私の好む所に落ちた。
まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。
詩篇 16篇6節




放蕩息子を赦した父の愛
ルカの福音書15章21〜24節

2005年6月19日 第3聖日 伝道師 安藤修司

 今日は、父の日、日頃の父親の存在や働き、一家の主として責任ある立場に対し感謝を新たにする日です。

 私達が信じる神は“天の父なる神”であり、イエス・キリストの父というだけでなく、全ての者の父である神なのです。この放蕩息子と言われるたとえは、まさしくその父の大きな愛をあらわすたとえ話ですが、現実に私達は、この大きな愛の中にあるのだという事を知って、肉の父と共に霊の父に感謝をささげたく思います。ここに示された父の愛はどのようなものでしょうか。

 第一に、家出する我儘息子の自由を認めました。勿論それはあってほしくないことであり、父親には息子の行末が判っていたでしょう。しかし父親は、強制的にとどめようとしません。相続財産をも分けてやる程息子の求めを受け入れているのです。

 第二に、息子の帰りをじっと待っていました。遠くから帰ってくる息子を見つけられる程、注意深く息子の帰りを待っていたのです。年とった父親の目はかすんでいなかったのでしょうか。

 第三に、無条件で放蕩に身を崩した息子を受け入れました。父は息子のことばの裏にいかに真剣に自分の行状への反省があったか、又戻って来たことにあらわされた悔い改めの真実を見てとったのです。天の父はそのごとくあなたの帰りを待っておいでです。


<聖書のことば>
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。
ルカの福音書 15章24節




誰が神の宮に宿るのか
詩篇15篇

2005年6月12日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 この歌は、神殿の入口で祭司が問いかける言葉「誰が神の宮に宿るのか」という言葉への応答としてつくられたもので「宮の十戒」とよばれています。現代の私達には、礼拝出席の祝福ととらえて学ぶことができるでしょう。

 霊とまことをもって礼拝する(ヨハネ4:24)者がいかなる者か、又礼拝することの中に含まれる大いなる祝福を学びましょう。
    第1に、正しい礼拝者は、まっすぐに人生を歩むことができます。みことばの教えが、常に道を照らし、主の導きがその道を守るからです。
  • 第2に、神がよしとされる義を行うことができます。私の人生に私以外に目的を持つお方がおられるということを知る事は、人の本分です。
  • 第3に、真実な者となることができます。アーメンの人生を歩めるのです。
  • 第4に、人をそしるような低俗な者になりません。人を愛し尊敬します。
  • 第5に、親しい友を大切にします。信仰の友を大切にするのです。
  • 第6に、人に非難すべきことがあっても、その傷口をひろげるような非難の仕方をすることはありません。愛は人の罪をおおいかくします。
  • 第7に、全知全能の神をおそれ、敬虔な生き方ができます。
  • 第8に、約束を果す誠実な人になります。
  • 第9に、人の弱みにつけこんで、利得を得ようなどとはしません。
  • 第10に、人をいやしくさせるわいろ等はとりません。真の礼拝者の姿です。


<聖書のことば>
主よ。
だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。
だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。
詩篇 15篇1節




仕事に取りかかれ
ハガイ書2章1〜5節

2005年6月5日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 バビロン捕囚70年間の苦しみから開放されてエルサレムに帰還したイスラエルの民は、先ず神殿の建設にとりかかりましたが、周囲の民の反対にあって工事は、中断して15年が経っていました。ハガイは主の召しを受けて彼らに預言をします。祝福の源である神のみ旨をなさずにどうして日々の祝福があろうか、その働きが徒労に終らない為に、先ず神の宮再建にとりかかれと。そして民は、エズラ等のみことばによる励ましを受けて立ちあがり、とうとう神殿は再建され、礼拝の場が確保されます。

 私達は過去40年余、貧しい会堂から始まった主への礼拝が豊かに祝され教会も会堂も大いなる主のお恵みをいただいて今に至りました。これまで幾多の障害を主の助けと憐れみによって乗り越えてきました。先ずこのお恵みを感謝しなければなりません。主の良くして下さったことを何一つ忘れてはならないのです。そして今、私達にはふたたび信じて事を行う時に至っているのではないでしょうか。即ち会堂の拡張という仕事です。教会にとって最も主なるものは、会堂ではありません。そこに集う我々キリストを信じる聖徒の群です。しかしその教会が主のご命令に従ってみ旨をなす為に必要なものの一つに会堂があります。雨露をしのぐ家というだけでなく、神を礼拝する聖なる場所としての会堂、よりよく集いをもつことができ、又この世へのあかしとなる会堂が必要です。主が共にいて下さる事を信じて事に取りかかりましょう。


<聖書のことば>
仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。―――万軍の主の御告げ。―――
ハガイ書 2章4節




神はいないと言う愚かさ
詩篇14篇

2005年5月29日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 この詩は、53篇とわずかな違いでほぼ同じものです。神はいないと心の中で言う者の愚かさが歌われています。

 愚か、とはナバルということばで、これは同じことばのナバルという名の人を旧約に見出すことができ、まさしく彼の行為は、恩を仇で返す愚か者の代表者でありました。(第1サムエル25:2〜)

 選民イスラエルの事ですから表だって神を否定する者はいないとしても、言葉ではなく行為で神を否定する者、即ち心の中で神はいない、何もできないと言う者が多くいて、ダビデの嘆きとなりました。彼等の外側は美しく見えても内側は腐っており、神のみこころを行おうとする者はなく、心がみな神から離れ、神を呼び求めようとする者はなく、いまわしい行いが彼等をして、神を否定する者にしていると言います。「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」(第2テモテ3:5)なのです。

 かつて神を敵にまわして勝った者はありません。ダビデのこの世における勝利は、神が共にいて下さったが故の勝利でした。立派な行いが神の助けをいただける条件ではありません。神を避け所とする、(6)心砕かれた者に、主は限りなくあわれみをほどこされます。神なしとする人生と、神ありとする人生の終りは、天と地の違いがあることをダビデはよく知っていました。

 いついかなる時にも、神に信頼をおく、真に強い人になりたいものです。


<聖書のことば>
愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。
詩編 14篇1節




主に歌を歌います
詩編13篇

2005年5月22日 第4聖日 伝道師 安藤修司

 嘆き、訴え、求め、信頼の告白という流れで、典型的な嘆きの詩です。
作者の嘆きの背景は、定かではありませんが、絶望的な悩みに陥り、頼みとする神ご自身にも忘れさられたかのように思える中で、いつまでですかと呼びつつも、主の恵みに望みと信頼を置いて歌わざるをえないダビデの信仰があらわされています。

 まず、その嘆きの深さをみてみましょう。いつまでですかと4度も繰り返して、苦しみの限界をあらわしています。しかも神は忘れてしまわれたのか、お見捨てになったのかと、苦しみとその長さの中であたかも、イエスが十字架で叫ばれた、「エリ、エリ、レマ・サバクタニ」に比べられるような苦しみを訴えます。

 悩み苦しみは、人の力や感覚を飲み干し、人を眠りに誘います。ゲッセマネの園での弟子達のように、悲しみの余り眠るのです。ですから目を輝かせて下さいと訴えます。もしこのまま死の眠りにつけば、敵は「勝った」と言うでしょうし、神はお前を助けはしなかったと言うでしょう。彼らを喜ばせないで下さい、と訴えるのです。困難と苦しみの只中でダビデは、恵みに依り頼むことによって、賛美が口をついて出てきます。この恵みとは、神の約束にもとずくあわれみと助けです。私達は、たしかに苦しみは避けることができない。しかし神の約束、十字架の赦しと復活は、人を喜びに導きます。


<聖書のことば>
私は主に歌を歌います。
主が私を豊かにあしらわれたゆえ。
詩編 13篇6節




神のわざが現れるため
ヨハネ福音書9章12節

2005年5月15日 第3聖日 伝道師 福田敬三

 ヨハネ福音書9章はイエス様と弟子たちとの印象深い会話から始まります。生まれつきの盲人を見て弟子たちは、「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか」と因果応報の考えから問います。イエス様は、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」と答えられます。

 生まれながら盲目の人の目は開かれます。癒しは偉大な力ある神の働きで、神から来た人によって癒されたと堂々と証しします。「神のわざ」とは何でしょう?もしお話しがここで終わりでしたら、目が開かれることだけが神の御業と考えられるかもしれません。しかしそうではありません。

 イエス様は「人の子を信じるか」と、かつての盲目の人に問われます。「人の子」、それはユダヤ人なら常識として理解しており、簡潔に言えば「救い主」−身も心も魂も救われるお方です。彼は、今までイエス様を見たことはありませんでしたが、自分の目を癒して下さった方の声を忘れるわけがありません。しかし、目の前の「癒し主」をさておき、「主よ、その方はどなたでしょうか。その方を信じることができますように」と「救い主」を求め、そして信じます。

 「神が遣わされた者を信じることが神のわざ」(ヨハネ6:29 )です。目が開かれる「こと」を超え、キリストという「お方」に目が開かれること、それが神のわざです。


<聖書のことば>
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」
ヨハネ福音書 9章3節




あなたの父と母を敬いなさい
出エジプト記20章12節

2005年5月8日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 旧約の律法が無効になったわけではありません。十戒は何一つ守らなくてよいものはないのです。ただ守ることによって神の義をいただく事ができず、ただイエス・キリストの代償の死を信じる者にのみ、神の義が与えられます。そして父なる神の愛を知る者こそが、愛という方法で神の掟を守る事ができるようになります。

 さて今日は、母の日、五戒には、「父と母を敬う」神の命令があります。
敬うとは、重んずる事、大切にする、ほめたたえるという強い意味があり、これは神の厳粛な命令だという事に心しなければなりません。どのような親であるかという条件があるわけではありません。ただ親であるという事が、敬う条件です。親は、神の代行者としての権威が委ねられています。何故ならば親を定めたのは、神ご自身だからです。たとえいかなる親であろうと、親を愛し敬うことこそが、子に与えられた責務なのです。父も母も同等に敬わねばなりません。

 しかし同時に、親は神の代弁者としてのあるべき姿が求められるのは当然の事です。親は、子に何を教え、与えるべきなのでしょうか。高等教育を施し、他にぬきんでて優秀な能力をつけさせる事でしょうか。聖書は、我々に必要なもので、しかもいつまでも続くものは、信仰と希望と愛だとおしえます。

 まず親が正しい信仰といかなる状況でも希望を持ち、愛の人であるべきです。


<聖書のことば>
あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢(よわい)が長くなるためである。
出エジプト記 20章12節




純化された銀
詩篇12篇

2005年5月1日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 この歌は、敬虔さの失われた時代への嘆きの歌です。しかし作者は、決して失望落胆だけをしているわけでなく、主と主のことばに希望を持っています。

 堕落した時代のしるし、それは偽り、へつらい、二心、傲慢、卑しいことが、あたかも素晴らしいものであるかのようにあがめられるところにみることができます。世が堕落する時は、一体どのような時なのでしょうか。

 聖書に見る過去の歩みの中では、ノアの時代、約束の地に定住した後の士師の時代、70年のバビロニヤ捕囚から帰還した後の時代に、堕落した社会の現出を特にみることができます。これらの時代の共通した特色は、自分の力でできるという過剰な自信と弛緩した(ゆるんだ)心にみることができます。「だれが、われらの支配者なのか」、自己追求と自己主張、仕えることを忘れた時代です。

 しかし、支配者は、おいでになります。謙虚に神を求める者達を神は、決して放置なさいません。主のことばは、純化された銀のように、まじりけのない純粋なことばとして、真実を教え、真実を約束し、そのことばは偽りのないいのちのことばとして、求める者に力と希望を与えて保たれます。神のことば、即ち聖書のことばは、人にいのちを与え養い、そのことばの通りに実施します。混乱した時代の中で真の拠り所として神のことばを執りましょう。


<聖書のことば>
主のみことばは、混じりけのないことば。
土の炉で7回もためされて、純化された銀。
詩篇 12篇6節




鳥のように山にのがれよ
詩篇11篇

2005年4月24日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 ダビデが生命にかかわる危険な状況におかれた時の歌です。身近な親しい友人は言います。このように世が乱れている時、我々に何ができようか。敵対者達は、弓に矢をつがえいのちを奪おうとねらいを定めている。今は逃れる以外に道は無い。鳥のように山に逃れよと。

 絶対絶命の窮地に立たされたダビデは、友人の提言に対して「私は、主に身を避ける」みつばさの陰に身を避けると断言します。友人の拠りどころとダビデの拠りどころとは異なっていました。たとえいかなる状況の中にあっても逃れるという方法に解決はない。環境を支配なさる神の導きと最善を信じるところにこそ解決の道があると信じていたのです。のがれよという勧めは、親切のように見えても信仰者ダビデにとってはあのペテロがイエスの十字架の苦難を告げられると「そんなことがあるわけはありません」と主をいさめて主より「サタンよ、しりぞけ」と叱責されたのと似ています。自分の考えた安全、のがれるという方式での解決は、決して正しい解決ではないのです。神は常に全てのことをしっかり見通されて正しい審きをなさいます。

 たしかに敬虔なる者は、この世においては苦しみに会うでしょう。しかしその苦しみが神を信じる者を破壊するわけではない、神の御手の内にあって限界を知り給うお方は、その苦しみを用いて清め、より強く豊かな者にしようと愛の試練をお与えになります。


<聖書のことば>
主に私は身を避ける。
どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。
「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。
詩篇 11篇1節




主よ立ち上がって下さい
詩篇10篇

2005年4月17日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 10篇は9篇の続篇と考えられ、9篇では外敵の苦しみでしたが、ここでは内部から生じる苦しみへの訴えです。

 ここで語られる悪者とは、神を知っている信じていると言いながら、その実を捨てる選民イスラエルであり、不敬虔者です。彼等は自分の人生は安泰だ、ゆるぐことはない、わざわいにあわないと心の中で言い(6)不遜な行為悪しき行為をなしても神は決して見ることはないし、忘れている、神は何もなさないと言うのです。たしかにそういう者の生き方は、一見栄えているように見え、害毒と悪意とに満ちた存在であっても又貧しく弱い者をしいたげていても、何等神のさばきを受けないかのようにみえるのです。

 困窮の時には神に叫び求めても、しばらく安泰が続くといつのまにか「心の中に」不遜な思いが生え、罪を犯しても神は何もなしえないし、たとえ判っても悔い改めれば大丈夫だと口先だけの悔い改めで済ませてしまう、そんな弱さや愚かさが私達の内側にはあるのではないでしょうか。

 貧しい者、すなわち自分の弱さや愚かさに気付いていて神に依り頼む者は神に祈り求めます。「主よ立ち上がって下さい」と、神は見ておられ、じっと見つめておられる(14)ことを知る貧しい者は、主に身をゆだねることによって平安と解決を得ます。誇り高ぶる者の栄えはひとときですが、主に依り頼む者の誉れは、永遠です。


<聖書のことば>
主よ。立ち上がってください。
神よ。御手を上げてください。
どうか、貧しい者を、忘れないで下さい。
詩篇 10篇12節




貧しい者の叫びを忘れない神
詩篇9篇

2005年4月10日 第2聖日 牧師 山宮利忠
 9篇と10篇は、一連の詩であったと思われ、ことばの遊びのようなイロハ歌となっています。タビデの戦勝の賛美で、感謝、信頼、祈りが中心となって神をおそれる敬虔な者を決してお見捨てにならないことが強調されています。

 神は、貧しい者の叫びをお忘れになりません。(12、18)

 この世の敵、すなわち神を信じない不敬虔な者との戦いに於ては、最終的に勝利をお与えになるのは、真の神であって、主を尋ね求める者、貧しい者、悩む者の望みはなくなることなく、必ず神はかえりみて下さって勝利を与えて下さる、ここで言う貧しさとか、悩む者とは、神の助けを必要とする者のことで、己の無力さ、限りある人間の弱さを認めて、全能の神に信頼を寄せる者としてうたわれています。

 なぜならば、神は公平な審判者であられるから、悪しき者には必ず報い、人の思いを越えたみわざによって神の栄光をあらわされるからです。

 神を信じない者は、自分の力を信ぜざるを得ず、その力はいかに大きくあったとしても、又一時勝ち誇ることがあったとしても、神の前にはチリ、灰に等しい者であることをやがては知るようになります。それにひきかえ、己の弱さを知って主を求める者を死の門からひきあげて、最終的な勝利を与えて下さる、だから謙虚になって主により頼む者となることです。


<聖書のことば>
貧しい者は、決して忘れられない。
悩む者の望みは、いつまでもなくならない。
詩篇 9篇18節




私は何者なのでしょうか
詩篇8篇

2005年4月3日 第1聖日 牧師 山宮利忠
 この詩は、星空を仰いでうたった黙想の歌です。創造の神の偉大さと、その威光の前に己の小ささ、そしてその小さな自分を恵みをもって顧みられる神のいつくしみ深さを歌っています。

 人とは、何者のなのでしょう。

 夜空は今の私達の時代では考えられない程輝いていたに違いありません。人工の光はほとんどなかったのです。降るような星空こそ神の栄光をあらわすものでした(詩19:1)。その輝かしい神のご威光の前に、人はいかに小さく、もろいものです。人とはもろいもの、人の子とはアダム(ちり)の子です。しかしダビデは、そんな弱くてもろい自分を嘆いたりのろったりしていません。愚かな罪深い者をも心にとめ、顧みて下さる神のいつくしみに驚くのです。私達は、聖なるそして大いなる神を知ることによってのみ、本当の自分を知ることになり、神の創造の偉大さから、一個の人としての自覚をもたらす、神中心の考え方ができるようになります。人は賢くなろうとして、反って愚になって神を否定し、賢くもない幼子が神のすばらしさをあらわすこととなったといいます。まさしく幼子のようにならなければ、神の国にはいることはできないのです。神の似姿に創造された私達が、幼子が両親に何の疑問もなく信頼を寄せるように、私達も神を信頼することができれば、まさしく人は、上を見る者(アンソロポス)となります。


<聖書のことば>
人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれをこころに留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。
詩篇 8篇4節




〔イースター記念礼拝〕
希望の朝
ルカの福音書24章5〜7節

2005年3月27日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 日曜日の朝は、毎日おとずれる朝とは全く違う朝です。金曜日に十字架に処刑されたイエスが墓から復活された驚くべき朝であり、人類に新たな希望を与えた朝だからです。

 それは先ず、イエス・キリストが活きておられる希望をもたらしました。
弟子達は、悲惨な最後をとげられた主が墓に葬られた時、それが最後で、あとは、その教えが残るだけだと思ったでしょうが甦られたイエスは、栄光の体をもって彼等といつまでも共にいるお方として、日々助け導いて下さるメシヤとなられました。それは彼等に勇気と確信を与えたのです。

 さらに、全人類に死が終りではないという希望をもたらした朝です。
漠然とした死後の世界に、確固としたしるしをもって明るい将来をもたらしたのは、キリストの復活によってであり、このことこそ誰もがなしえない、真のメシヤである者のみがなし得るみわざなのです。これによって死後の希望だけでなく、誰しもが通らなければならない死に対する絶望的な恐れから人を解放し、死は決して終着ではなく、通過点にすぎない事を示されました。

 そして最後に、天の御国への希望をもたらした朝です。
苦難とそれにつづく栄光こそメシヤの通られた道です。そしてそれは又信じる者も同様、この世の戦いの後に栄光の御国即ち天国へ、凱旋していくことの出来る希望をもたらしたのです。


<聖書のことば>
あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。
ルカの福音書 24章5〜6節




私たちの家のために
歴代誌第一29章1〜20節

2005年3月20日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 新会堂(第三会堂)が与えられて、15年の時が流れました。この間主は隣接地をお与え下さり、教育館の増築をおゆるし下さり、驚くばかりの恵みをお与え下さいました。今日はその主のお恵みを何一つ忘れないため、さらに今後の主のみ栄えを拝するために礼拝をお献げしたく思います。

 イスラエルの民に神の宮を建設する志が与えられたのは、ダビデでした。
ソロモンがその意志をついで壮大な神殿を建設したのはBC950年頃と考えられます。その後歴史的には、第2、第3の神殿が破壊と建設を繰り返すことになります。

 最初の神殿建設のためにダビデが持った神の宮建設の理念を学びましょう。

第1に、神殿の中心には、神の言葉(十戒の板)が置かれました。
 神の臨在のしるしである神殿の中心に神のことばがあることは今も同じです。神は神の家、教会に今も満ちておいでです。

第2に、ダビデは「私の神殿」と言います。(29:2)
 教会を自分の家と考える人によって教会は支えられ、守られます。

第3に、神の家のために大いなる犠牲がささげられました。
 ダビデは「私の宝」を献げ(29:3)、民達は自ら進んでささげ、献げたものを喜びました。

そして最後に、全てのものは神のもの、神から出て神に帰すると考えました。


<聖書のことば>
このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても、すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。
歴代誌第一 29章14節



盾は、神にあり
詩篇7篇

2005年3月13日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 この詩の背景に該当するものは、サウルの妬みのために生命をねらわれるダビデが浮びます。ベニヤミン人クシュのことについてとの表現は、ベニヤミン人キシュ(サウルの父)と読めば関係なくもありませんが、クシュとはエチオビアを意味し、この表現は意味不明です。しかし今ダビデは、いわれなき敵対の只中にあり、いのちの危険を感じつつ、神の正しい審判を訴えている事はたしかです。

 サウルのもとに召しかかえられたダビデは、武将として名を挙げ、王サウルより力ある存在となり、人々は”サウルは千を打ち、ダビデは万を打つ”とほめたたえられる程になりました。当然の事ながらサウルはダビデを警戒するようになり、やがて王位をもねらう者と疑いと妬みの心をもってダビデを殺そうとはかります。ダビデはサウルの兵の手をのがれて荒野をさすらうのです。ダビデにとっていわれなき疑い、いわれなき苦しみでした。

 ダビデは、神のもとに身を避け、私の盾は神にあると、神の弁護を嘆願し義の神が正しい審判をくだされるようにと祈り求めます。ダビデにとって神は正しい審判者であり、悪をそのまま放置なさらないお方でした。神の義が確立するようにと訴え祈るのです。

 身に覚えのないうらみや敵対、誤解から生れる争いや憎しみをいかに処するか、盾は神にあり、愛と善をもって勝利されたキリストの道にあります。

<聖書のことば>
私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われる。
詩篇 7篇10節




涙の洪水
詩篇6篇

2005年3月6日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 七つの悔い改めの詩の一つと言われていますが、罪の悔い改めという表現は、ここに見れません。瀕死の病の中からの叫びと嘆願が激しく祈られ、その背後に、当時の一般的な考え方であった罪ゆえの病や苦しみという思想が浮きぼりにされています。

 表現にはダビデとあり、ダビデのものであれば三篇の背景やバテセバ事件等が考えられるでしょう。苦しみの中からの訴えは実に激しいものです。私は衰えている、骨は恐れおののいている、魂も恐れおののいている、いつまでこの苦しみは続くのですかと訴え、嘆きで疲れ果て、寝床は流す涙で押し流す程だと言います。責めないで、こらしめないで、いやして、主よ帰って来て下さいと、その嘆きと訴えは極めて切実な魂の叫びとなって読む者の心に迫ってきます。しかしこの叫びの中に作者の神への真実な信仰を見ることができます。

 第一に、神への切実な嘆願の中に、砕かれた悔いた心を見ます。病の中で決して神にうらみごとを言ったりしていません。あわれみを求め、いやしを求めます。この苦しみが終るのはいつか判らないが、その終りには再び喜びと賛美をささげられることを示しています。

 第二に、恵みを求めています。全く自分ではできない解決を神ご自身がして下さる信仰が見えます。その信仰の中に突然勝利がやってきます。


<聖書のことば>
帰って来てください。主よ。
私のたましいを助け出して下さい。
あなたの恵みゆえに私をお救い下さい。
詩篇 6篇4節




〔宣教カンファレンス〕
何故の宣教か


2005年2月27日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 日本のクリスチャン人口は、人口の1%にも満たない、まことに弱小な群れです。お隣りの韓国は人口の25%から30%にも及ぶクリスチャン人口と比較すると、同じアジアの一国として、何故なのかと不思議に思われます。神なき教育、物質拝金主義の横行とご利益信仰が、真の神への敬虔な信仰を疎外している事は確かでしょう。

 しかし聞くことができなければ信じる事もできず、聞くためには、語る者がいなければなりません。「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるのでしょう」なのです。(ローマ書10:14)

 教会の弱体化が聞く人を少なくし、聞くことがないために信じる人が少ないということも確かに言えることです。教会がもっと宣教の働きに力を注げば、神の救いの福音をより多くの人が聞くことができるに違いありません。

 主は、教会に福音を伝える使命を委ねられました。福音は福音によって救いに導かれた人を通して語られ、伝えられることこそが神が定められた方策なのです。ですからたとえどんなに小さな群れでありましょうとも、そこに与えられた神からの命令は「全世界に出て行って福音を宣べ伝えよ」なのであって、その大きな使命に目覚めた人達だけが、身近な人達により熱く福音を伝える者となるわけです。遠くにある魂の為には、祈りと支援によって福音を伝える働きが委ねられています。困難ですが尊い働きです。


<聖書のことば>
良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。
ローマ人への手紙 10章15節




朝明けに
詩篇5篇

2005年2月20日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 朝明け、夜明けは、一日の始まりであるだけでなく暗闇が追い払われ明るさが取り戻される時です。あたかも闇の中に居るような苦しみの中で、神に祈る作者が、祈りの内容だけでなく祈る姿勢にこそ、意味を見出しているかのようです。

 まずここに神を信じ恐れる敬虔な人の嘆願があります。
人は苦しみに襲われる時、狭い部屋にとじこめられたような思いや、その苦しみの捌け口を人にむけたり、自分にぶつけたりしがちです。しかし信徒なる者は、神に向うものです。その姿勢こそ神の好まれるものに違いありません。ただ祈るだけでなく備えをして、即ち犠牲を用意して祈ります。

 一方、不敬なる者は、ますます神に逆らい、誇り高ぶり、不法を行い、偽りを言い、血を流し、待ち伏せします。これらのほとんどは、闇にまぎれて隠れて行われるのです。

 たとい、いかに彼等が立ちはだかり、攻め寄せようと聖なる宮に向ってひれ伏し、神に身を避け、神の裁定を待ちのぞむ者に神は、大楯で囲むように愛で彼等を囲まれるのです。

 この世は神に背を向ける敵(サタン)の支配する世です。神を信じて歩む者にとっては、暗闇の中を歩むようなものでしょう。しかし朝明けがやってきます。苦難とそれにつづく栄光が約束されています。


<聖書のことば>
主よ、朝明けに、私の声を聞いて下さい。
朝明けに、私はあなたのために備えをし、
見張りをいたします。
詩篇 5篇3節




神が特別に扱われる聖徒
詩篇4篇

2005年2月13日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 四篇は、三篇と対をなすもので、背景は同じと考えられています。そしてこの歌は、夕べの祈りとも言われるものです。

 苦しみの只中にあってもダビデに平安な眠りを与えるのは、主なる神だけだという信仰の表明がここでは中心的メッセージですが、ダビデを常に暖かく守られ、保たれる特別な神のおとり扱いを学ぶ必要があります。

 第1に、苦しみの時ゆとりを与えて下さる。(1)
周囲にどんなに多くの敵や恐れがあっても、丁度狭いところから広いところへ置かれるような安心感と、穏やかさがある、あたかも母親のふところにあるような安心感、それは過去における神の守りの経験にもとずくゆとりでしょう。神の審判には誤りはない。善悪を公平に審かれるお方への信頼感と祈りがこのゆとりを生み出します。

 第2に、喜びを与えて下さる。(7) 
この喜びは、農夫の収穫にまさる喜びです。収穫は農夫のいのちを守るものですし明日を保証するものですが、神の与える喜びは、それにまさる、異質の喜びです。即ち霊的な喜びなのです。

 第3に、平安の内に眠らせて下さる。(8)
神が与えて下さる平安は、何事もない平安ではなく、嵐の中での平安であり、審かれることのない、永遠のみ国への約束にもとづく平安です。


<聖書のことば>
知れ、主は、
ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。
私が呼ぶ時、主は聞いて下さる。
詩篇 4篇3節





私は目を覚ます
詩篇3篇

2005年2月6日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 表題には、ダビデがその子アブシャロムからのがれた時の歌とあり、それが背景とすれば、ダビデの三男であったアブシャロムが妹タマルに係る事件で異母兄弟アムノンを殺し、さらに父ダビデに反逆して王位をねらう実に悲しくつらい背景が浮かんできます。アブシャロムは人並はすぐれて美しい男子で、王の子、しかも三男で我儘いっぱいに育てられた傲慢な男だったのですが、この家庭の混乱は、父ダビデの生涯の汚点、ウリヤの妻バテセバとの罪の刈り取りでもありました。(第2サムエル12:10〜12)

 ダビデはその苦しみの中で、更に先王サウルの息子シムイの逆恨みにあい、口ぎたなくののしられます。やがてアブシャロムはダビデ軍によって、追いつめられ最後を遂げますがダビデの悲しみは、さらに増し加わり、「ああ、アブシャロム、アブシャロム」と叫ぶのですが、その痛みの叫びは、この歌からはあまり感じられません。

 この3篇は「朝の祈り」と言われ、平安のうちに身を横たえ、また目を覚ます」その源が、「主のささえ」にあるとうたわれます。また救いは主にあると、ダビデがいかなる状況にあっても、神のうちにあること、神の最善を信じ、神の公正を信じ、信じる者を決してお見捨てにならない生ける神であることを歌うのです。世の暗闇のようなひとときがあっても、やがて朝が来ることを信じ、人生の最後に希望を持つ者は幸いです。


<聖書のことば>
私は身を横たえて、眠る。
私はまた目をさます。
主がささえてくださるから。
詩篇 3篇5節





神のことばを豊かに住まわせよ
コロサイ人への手紙3章16節

2005年1月30日 第5聖日 牧師 山宮利忠

 私達の心に何が住んでいるかによって、私達の生活や行動、品性が決まります。

 神のことば、聖書は変ることのない真理のことばとして、数千年にわたって人の生活を変えて力ある働きをしてきました。人はパンだけで生きると考えている人達に、そうではない、神のことばによって人は生かされ、生きるのだと教えるのです。教会に於て、どうして聖書のみを学び、聖書を心にたくわえようと勧められるのでしょうか。

 それは、第1に、聖書は、神のことばとして生きていて力があるからです。
主イエスでさえ、旧約の神のことばを用いてサタンの誘惑に打ち勝たれました。ユダヤ人は家の門口にみことばを記し、手や額にみことばをつけて身近に神のことばを置いて、それを守りとしました。神のことばには力があるからです。(ヘブル4:12)

 第2に、神のことばは、人を救うからです。(ヤコブ1:21)
迷える人に道を示し、人の本当の姿を教え、救いを与えます。聖書の教えに従う者は、決して悪しき道へそれることなく、その約束を信じる者は、確実に助けられ、守られ、天の御国へと入れられます。

 そして最後に、神のことば聖書は、人を成長させるからです。
霊の糧として、人をキリストに似る者に成長させます。


<聖書のことば>
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
コロサイ人への手紙3章16節




真の王に仕える人の幸い
詩篇2篇

2005年1月23日 第4聖日 牧師 山宮利忠

 第2篇は、真の神に仕える国の幸いがうたわれている。そしてその国の王は、メシヤ、即ち油注がれたキリストです。

 まず、神を信じない反逆の世を「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか」と問いかけます。たしかにこの世は波のように騒ぎ泡を吹き、結集して戦いの備えをします。そして彼等は「神のかせ」を打ち砕こうと願うのです。彼等にとって神を信じる者の守りと導きは、決して好ましいものではなく束縛なのです。罪と死と永遠の滅びという大きなかせに縛られている事に気付いていません。たとえどんなに繁栄を極めたといえども、神の一息で吹き滅ぼされてしまうことを知りません。神をおそれない、神の義をもって立つことを知らない国の大騒ぎを、神は笑われます。

 そのような反逆の民に鉄槌をくだす前に、「しかし・・・王をたてた」と、メシヤをたてる計画を語ります。それは主の定めであると言われるのです。

 このお方は、主から生れた子であり、地の果て果てまでも治める真の王です。このお方は世を審く前に赦そうとする方であり、治める前に仕えられる王であり、愛される前に愛して下さるお方であって、武器による戦いによって国々を征服されるのでなく、愛と赦しによって人の心を征服される愛の王であられます。このお方が既に世に来て赦しの道を開かれておられます。

 このお方に身を避ける人は幸いです。御国の住人となりませんか。


<聖書のことば>
「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。
わたしの聖なる山、シオンに。」
詩篇 2篇6節




幸いな、その人
詩篇1篇

2005年1月16日 第3聖日 牧師 山宮利忠

 賛美の書、信じることの総体と敬虔の書と言われる詩篇の学びに入ります。教えられている真理を曲げることなく、なるべく平易に解き明かすことができるように主からの助けをいただき、聴衆にも等しく助けをいただくことを祈りつつ学びに入らせていただきましょう。

 第1篇は、詩篇全体の序であり、神を敬う者と神を敬わない者の姿と結末を示しています。「幸いなことよ」(一節)はイエスの山上の説教の冒頭と相通じます。神を敬う人になれと勧められているのではなく、なんと幸いなことだろうと、事実をそのまま歌っているものです。ではその幸いな人とは、どんな人なのでしょう。

 第1に、罪人の道を歩まない人です。(1)
神から離れた悪の支配するこの世は、魅惑的です。繁栄と快楽が人の心を奪います。しかしそれは風が吹けば吹き飛ばされてしまうもみがらのような命のない軽い、一時的な幸いです。最後は滅亡なのです。

 第2に、神の教えを中心に置いて離れない人です。(2)
外見は同じでもその根源に神のいのちの教えがその人を支えます。ですからやがて実を結ぶ事ができ、世の流れに押し流されずにすみます。

 第3に、祝福された結末を迎える人です。
最後が悪かったら、その人の一生は何だったのでしょう。


<聖書のことば>
幸いなことよ。
悪者のはかりごとに歩まず、
罪人の道に立たず、
あざける者の座に着かなかった、その人。
詩篇 1篇1節




非常な喜びを抱いて (ルカの福音書最終回)
ルカの福音書24章50〜52節

2005年1月9日 第2聖日 牧師 山宮利忠

 復活されたイエスは、40日地上に於てご自身のよみがえりをあかしされて、天に昇り父なる神の右の座に着席されました。昇天は、オリーブ山からと使徒の働きで記すので(使徒1:3、9、12)この別れは昇天するイエスとの別れでないかもしれません。しかし彼等がこの別れを悲しい別れとせず歓喜の別れとしたのは一体何故だったのでしょうか。生ける復活のキリストにお会いできたというだけでなく、昇天のキリストを通して約束された大いなる祝福によります。キリストの昇天にはいかなる意義があるのでしょうか。
    第1に、天の父から遣わされたメシヤは、その務めを果して父のもとへ帰られるのは当然だからです。(ヨハネ16:28)
  • 第2に、父なる神の右の座に着席されたのは、しもべとしてではなく支配者王の王としての権威を持たれたことを意味するものです。(エペソ1:20-21)
  • 第3に、助け主、即ち聖書を世におくられるためです。(ヨハネ16:14-15)
    主は、物理的制約から、解放され、いずこにてもおられる霊となられたのです。
  • 第4に、我々の天の住いを備えるためです。(ヨハネ14:1)
  • 第5に、天の御国への先駆者、初穂として甦られ天に昇られたのです。
  • 第6に、天にあって罪を犯す者のとりなしをされるためです。(第1ヨハネ2:1)
  • 第7に、我々を迎えて下さるためです。彼等弟子達が、宮(教会)にいつもいて歓喜の礼拝をした事を覚えましょう。


<聖書のことば>
彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。
ルカの福音書 24章52〜53節




上よりの力によって
ルカの福音書24章44〜49節

2005年1月2日 第1聖日 牧師 山宮利忠

 ルカの福音書は、最後に復活の事実、主の命令、そして昇天と重要な部分を記して終ります。私達も2001年の9月から開始したルカの福音書の講解説教を来週で終ろうとしています。しかし主のメッセージは決して終るわけではありません。今も尚福音は、信じる全ての人達によって、即ち証人によって伝えつづけられています。この年もその延長線上にあります。

 主の命令はこのよろこびのおとずれを伝えることですが、二つの点に注目しなければなりません。

 第1は、主が心を開いて下さらなければ、この福音も神のことばも理解できないという事です(45)。たしかに信仰は聞くことから、そしてそれはキリストのことばから始まり、そのことばは伝える者がいなくてはなりません。しかしどんなに沢山の聖書の知識があっても、主が心を開いて下さらない限り、信仰と結びつくことはなく、救いはもたらされません。ルデヤのように主に心を開いていただいた者だけが救いにあずかり、ただちに主の働きに加わろうとするのです。

 そして第2に、上よりの力をいただかねば、主の証人となれません(49)。上よりの力は、十字架と復活のあったエルサレムで注がれました。彼等は大胆に、恐れることなくキリストの証人として、見た事聞いたことを伝えはじめたのです。よろこびは伝えたくて仕方がないものです。これが伝道です。


<聖書のことば>
あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。
ルカの福音書 24章49節a