まさしくわたしです  ルカの福音書24章36〜43節 
2004年12月26日第4聖日牧師山宮利忠
死から甦られたキリストは、闇の支配の中にあったマグダラのマ リヤにそして背信のペテロに、失意のクレオパ、疑い深いトマスそして反対者サウル(パウロ)にご自身をあらわされました。主の憐れみの深さを教えられます。弟子達は、主の復活がなかなか信じられませんでした。夢か幻か、はたまた霊かと戸惑うのです。しかし主は甦られた姿が決して霊ではなく、はっきりと人が触れることのできる体であることを、釘で打たれた手と足を示し、さわって、よく見なさいと言われ、さらには焼魚を食べてみせて甦られた霊体であることを強調されました。

後に同じ復活の主によって回心したパウロは、コリントの手紙の中で「血肉のからだがあるのですから、御霊(みたま)のからだもあるのです」(第1コリント15:44)と教え、復活する者には、栄光のからだと言われる霊のからだがあることを教えています。イエスの復活体は、肉体とは著しく変えられたからだであった事は確かですが「わたしの手、わたしの足を見なさい」と言われて、その手の傷跡があり、その声も主の声と変らず、たしかに主キリストと認められるお姿であったわけです。このからだは復活の「初穂」と言われ、やがて天に籍を持つ者に与えられる姿だと約束されています。(第1コリント15:20)

なによりも我主は、活きておられ、信じる者と共におられ、教え 助け導き豊かに報いて下さる現実のお方だという事は、何とすばらしい事でしょう。

聖書のことば
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。
ルカの福音書24:39 





何故祝う、クリスマス  ルカの福音書2章11節 
2004年12月19日第3聖日牧師山宮利忠
全世界でこの時期クリスマスの祝いがされます。クリスマスはメシヤなるキリストの御降誕を祝うことであることはほとんどの方が知っているとしても、その事はともかくとしてなんとなく雰囲気と年の暮れということで、お祝いをしようという人が多いのではないでしょうか?何故クリスマスが数千年にわたって祝い続けられてきたかを聖書の教えにたって考えてみましょう。

まず第一に、キリストの誕生は、真の神がいますことのあかしだからです。人類の堕落以来神は、様々な方法でご自身を表わして下さいましたが、特にメシヤ、救い主来臨の預言は、まことの神がおられることをはっきりと私達に示すものです。

第二に、その神は、イエス・キリストによってあらわされた神であることが明らかにされたからです。(コロサイ1:15)ヨハネは「ことばは神であった」と記しさらに「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と記します。神はどのような方かと言えば、キリストのご性質とその生涯によってあらわされたと言えるのです。そして最後に、神はメシヤとなって私達を救う為においでになられた、という大いなる出来事だからです。罪と死の絶望の世に赦しといのちをお与えになる神のよろこびのおとずれこそ、クリスマスの喜びなのです。

聖書のことば
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
ルカの福音書2:11 



目を開かれた弟子  ルカの福音書24章11〜35節 
2004年12月12日第2聖日牧師山宮利忠
よみがえられたキリストを12弟子達に伝えに行った女達は、即座 に「たわごと」と思われてしまいます。長年キリストの教え を耳にし体験してきた使徒達でさえこの始末ですから、その後の人達がキリストの復活を否定するのは、無理もないことなのでしょう。

ルカは、エルサレムの西11kmにあったエマオに戻る二人の弟子の感動的なイエスとの出会いを記録に残しています。その二人の内の一人はクレオパと言う弟子で(18)、彼等はエルサレムでの出来事を見て既に三日経ち、あのイエスの行いにもことばにも力があったイエスへの期待が完全に打ち破られて失望と落胆の内に自分の村へ戻るところだったのです。主は、この二人の落胆を放置なさいませんでした。

まず主は、一人の旅人の姿で近づかれます(15)。彼等はこの方 がイエスだと気付くことができませんでした。主があまりにも変えられてしまっていたからでしょうか。たしかに栄光の体、新しい復活体は、著しく変えられた御体であったことは確かだと思います。しかしそれ以上に彼等の心がさえぎられ、期待と信仰が消えていたのです。主は「心の鈍さ」(25)を指摘されます。彼らは幸いにも主を自らの家に招き入れ、親しく交わります。そこで、彼等はそのお方がイエス・キリストであることに気付くのです。泊るように願わなかったら、心の熱くなる経験も思い出さなかったでしょう。

聖書のことば
彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
ルカの福音書24:30−31



その名は不思議な助言者  イザヤ書9章2節〜6節 
2004年12月5日第1聖日執事 梅田信一
イエス様のお生まれになる700年も前にイザヤはこの預言をしました。「不思議」は「すばらしい」とか「驚くべき」とも訳されています。皆様はよい助言者、相談者を持つておられますか?

節目の岐路での選択、困難な状況や解決しなくてはならない問題を抱える時に、適切な助言者が傍におられるのは幸いな事です。イザヤは未だ見ていないイエス様を不思議な助言者であると記しましたが、私たちは新約聖書を通して全てを見る事が出来ます。

1.私が実行出来る助言を与えてくださいます。どんなに素晴らしい手段や道が示されても、私が実行できなくてはどうにもなりません。しかし、このお方は私の全てを知ったうえで助言を与えて下さいます。安心して従うことができます。

2.このお方の言葉には力があります。この助言の言葉には力があります。不思議なことに、そこにはどんな状況でも慌てることのない、平安があります。このお方の言葉は私を前に進ませ、進むべき道を示してくださいます。

3.最後の難関をも乗り越えさせてくださいます。私たちの最大にして避けられない最高の困難「死」に解決を与えてくださいます。このお方はこの困難に際し手を貸して下さり、私を天の都まで導き入れてくださるお方です。ですから今も将来も安心と平安があります。

聖書のことば
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にある、その名は、「不思議な助言者」
イザヤ書9章6節



生きている方を死人の中で探す  ルカの福音書24章1〜10節 
2004年11月28日第4聖日牧師山宮利忠
ルカは、甦られた主を強調して記して言うように思えます。他の福 音書特にヨハネ等は、マグダラのマリヤと復活の主との出会いを記していますが、ルカは、女たちとだけ記し10節で名を
挙げるにとどめます。まばゆいばかりの衣を着たふたりの人をマルコは「青年」と記し、マタイは「主の使い」、ヨハネは「ふたりの御使い」と紹介しています。異なる記述がかえって真実さを増しています。彼等(天使)は女たちにキリストの甦りを伝えますがその伝え方は極めて印象的で「生きている方を死人の中で捜すのか」というものでした。

イエス・キリストは、死に勝利して甦られ生きておられる、このお方に会うことこそが信仰です。聖書は「イエスが神の子キリスト(救い主)であること」(ヨハネ20:31)を信じさせるために記されたものであって、その主体は生けるキリストご自身であることを覚えねばなりません。この生きたキリストとの係りは、この女たちが朝早く死せる者の墓にキリストを探しに行った行為の中に見出すことができます。「イエスののことば」を思い出して(8)その真実さに気付く時、人は不信の時代の中で、生きておられるキリストと出会うことができます。求め、見出し、会うというキリストご自身との直接的な係りこそが、キリスト教徒の力となります。

 主イエスは生きておられて、信じる者を助け導いて下さいます。

聖書のことば
恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなた方は、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」
ルカの福音書24:5



救いはただ恵みによって  エペソ人への手紙 2章1-10節 
2004年11月21日伝道師 安藤修司
恵みによって救われるとはどういうことでしょうか。

第一に、思いがけない顧みです(2:1-4)。
人類はみな「自分の罪の中に死ん」でいました。いのちの源である神と断絶、死に定められ、抜け出せない状態に、生まれながらあったのです。しかもこの悲惨な状況にありながら、真の神を求めず、自分の欲望を満たすものを神として生きてきました。この「生まれながら御怒りを受けるべき」私たちを主は愛して救おうとして下さいました。

第二に、思いがけない犠牲です(1:4-7)。
神は罪人の悪を忍耐し、救い主が来られる準備をされました。そして御自身のひとり子を神のあり方を捨てて遣わして下さいました。私たちが罪赦されるため、御子を私たちの身代りに十字架にかけて下さいました。私たちを救うために御子を三日目によみがえらせ、公けに示して下さったのです。

第三に、思いがけない祝福です(2:5-10)。
信じる者に与えられる祝福は、永遠のいのち:キリストと共にいつまでも生きる、新生:キリストと共に罪に死に生まれ変わる、キリストと共に天の位をいただくこと、救いの福音を委ねられ神の栄光をあらわす生涯を送ること、そして何よりキリスト自身を与えられることです。これらの思いがけない恵みをいただくために必要なことはただ1つ、信じて受けるだけです。

聖書のことば
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
エペソ人への手紙2章8節


遅かった勇気  ルカの福音書23章50〜55節 
2004年11月14日第2聖日牧師山宮利忠
イエスの死体は、アリマタヤ出身のヨセフに引き取られて未使用の墓に葬られました。このヨセフという人物は、当時のユダヤ人議会の議員の一人で金持ちであり、イエスの弟子となった人でありました.(マタイ27:57)しかしヨハネの記録によれば「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」(ヨハネ19:38)と言われています。十字架上で息をひきとられたのを見てヨセフは「思い切って」(マルコ15:43)ピラトに死体の引き取りを申し出て議員としての肩書きに物を言わせます。

たしかに彼は立派な人物で、神の国の到来を待ち望む者ではありました。しかも他の議員達と行動を共にしなかったイエスの死刑反対者でした。しかしこの有力な議員の表だった反対があったら事態はどう変化していたか判りません.勿論十字架刑は、神の定められた不可避のメシヤの定めでありました.だがヨセフという人物の神への信仰者としての在り方は、死後の勇気よりイエスの生前の勇気の方がほめられたにに違いありません。この時ニコデモもやってきます.彼も夜ひそかに他の目をはばかって主の教えを乞うた者です。

どんな時にも私たち死後の愛より生前の愛を勇気を持って果たす者になりたいものです。

聖書のことば
この人は、議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。
ルカの福音書23:5


絶望の壁を破る聖書のことば  第一コリント10章13節 
2004年11月7日第1聖日伝道師 安藤修司
苦しい経験の中で、まるで自分だけがこんな苦しみに遭っているように思えることがあります。「だれも自分の苦しみを分かってくれない」と閉じ込もったり、「道を踏み外しても仕方がない」と開き直ってしまいがちです。

しかし聖書の神、イエス・キリストは、私たちの苦しみをご存知です。神のひとり子であり罪のない方であるのに、人類のもっとも罪深い憎悪と非道を受けられて十字架にかかられました。人類を愛して救おうと来られたのに拒まれたのです。そして父に見捨てられ、十字架で苦しみ抜かれて死なれました。しかし、御自身を拒んだ私たち人類を赦して救うために、三日目に死からよみがえられました。「主は、御自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:18)

かつてはキリストを拒んで迫害者であった使徒パウロが、救われ宣教師として労苦する中でこのようにあかししています。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」人生には、予期せぬ出来事があります。期待していた道が閉ざされ、出口の見えない試練が続きます。しかし聖書のみことばは、どんな時にも私たちを励まし慰め、誘惑や試練に耐え抜く力を与えてくれます。

聖書のことば
あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
Tコリント 10章13節


この曲がった時代から救われなさい  使徒の働き2章37〜42節 
2004年10月31日第5聖日伝道師安藤修司
ペテロは、メッセージに心刺され救いを求める人々に、信じてバプテスマを受けるように命じました。しかし彼の教えはそこで終わりませんでした。彼は、多くのことばをもって「この曲がった時代から救われなさい」と勧めるのです。このことばは何を私たちに訴えているでしょうか。

第一に、人間世界そのものがサタンによって捻じ曲げられていることです。創造の時、すべては良いものとして造られました。しかし人が神に逆らって堕落した後、造られたもの、人が良かれと思って造り出したあらゆる考えや働きは、逆に人を支配して神に逆らわせるものになってしまいました。

第二に、私たちは曲がった時代そのものから救われる必要があることです。救い主を十字架に掛けてしまったイスラエルの民族主義、律法主義、世俗主義、民衆の自分勝手は、今も形を変えて人を神に逆らわせ滅びをもたらしています。私たちはそこから救われなくてはならないのです。

第三に、キリストを信じバプテスマを受けることは、曲がった時代に勝利する出発であることです。私たちがイエス様を信じて救われるのは、個々の罪を赦され天国に入るためだけではありません。曲がった時代から救われ、神が願っておられる人本来の幸いな考え方、生き方を回復し、地の塩・世の光として神の救いを世界全体に広めてゆくためです。。

聖書のことば
ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。
使徒の働き2章40節



我が霊を御手に委ねます  ルカの福音書23章44〜49節  
2004年10月24日第4聖日牧師山宮利忠
 キリストの苦難は、天地も揺れ動く程のものであったのでしょう.光は暗くなり地はふるえ、岩は裂け、12時から3時に至ります。しかしこのメシヤの死こそ人が神のもとへ戻る唯一の道の開通でした。神殿の幕が裂けます。この幕は聖所と至聖所をへだてる幕で至聖所へは年に一度だけ大祭司が入る事がゆるされる場所でしたが、キリストの血による犠牲は、もはや動物による犠牲や旧約で定められた制度が廃止され、誰でもが恵みの座にはばかることなく近づくことができる事を示すものです。

主は最後に大声で「わが霊を御手に委ねます」と叫んで息をひきとられました。全てのものは神のもの、神のかたちを宿す人も神のもとへ戻ることこそ真の在り方です。委ねるお方を持つ者は幸いです。私達が人生を終える時“我が霊を御手におゆだねします”と祈る事ができるという事は、自分の行く場所があるという事です。「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来てあなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(ヨハネ14:2〜3)

聖書のことば
イエスは大声で叫んで言われた。「父よ、わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
ルカの福音書23:46



葬儀に思う  ルカの福音書23章39〜43節 
2004年10月17日第3聖日牧師山宮利忠
教会における葬儀の度毎にいくつかの事が心の思いを占めます。

第一に、誰しもが、自らの死の準備をしなければならないという事です。死は必ずやってくるものですから、賢い人は自らの死の備えをするはずです。ただ葬儀の備えというだけでなく、死にのぞんでの心備え、いつやってきてもよいようにしておく準備と共に、死後への備えが必要です。葬儀は本人の意思に関係なくのこされた者が行わなければならず、その時は安らかにと願われるのです。本当に安らかな死後の魂の保証を持つ者であれば、その願いは偽りのない願いとなりましょう。しかし死への解決なくして亡くなるのであれば、その願いは空しく、ただ言葉だけの慰めごとで終らざるを得ません。自らの死のむこうに約束の地への希望を持って生涯を閉じる方は、自分自身も又送る人にも喜びを与えることになります。しかしその逆は偽善です。

第二に、家族の死に関してです。救いをいただいている者は御国への約束があるので葬儀に関しても、死後に関しても1時の悲しみはあったとしても心の奥には安心感がありますが、救われていない家族がある時に、真に聖書のおことばを信じている者であれば、永遠のゲヘナの火に苦しむ情景を思い浮かべないことはないでしょう。それはいっときも我慢のならない事であるに違いありません。たとえ教会で葬儀が行われたとしても、それで天の御国へ導かれるわけではありません。葬儀を迎える度にあなたは何を思いますか。

聖書のことば
あなたは、あなたの神に会う備えをせよ。
アモス書4章12節



わたしと共にパラダイスにある  ルカの福音書23章39〜43節 
2004年10月10日第2聖日牧師山宮利忠
カルバリの丘の上に三本の十字架がたてられました。イエスは真中、その左右に強盗がつけられたことは、イエスも同等だという意味でしょう。しかしこの辱しめの只中でも神の恵みは豊かであります。

まず第一に、ピラト・ヘロデについで犯罪人の一人の口を通して、イエスの無罪性があかしされます.「この方は、悪いことは何もしなかった」と、そして彼は、手足を釘づけにされたまま、自らの人生を顧み、罪の告白とイエスへの信仰の告白をするのです。悔い改めるのに生きている限り遅すぎる事はありません。キリストを信じるのに遅いことはないのです。神はいかなる罪人であろうと、その回心のわざによらず、砕かれた心と主への信頼によってのみ、赦しといのちをお与えになります。

第二に、今日と主は言われました。十字架刑が一日にして死を迎えることはまれです。この強盗がたとえ死を迎えるのに幾日がたとうとも、パラダイスにはきょう入ると言われるのです。イエスはまさしく、御国の門を開くお方です。しかも誰でも主の御名を呼び求める者は、この恵みにあずかることができます。そして主と共にある者は、既に今パラダイスにあると言ってよいのです。死を待つことなく今既に神のものとされ、神と共に生き、御国の住人として生きるのです。まさしく「目ざめていても、眠っていても主と共に生きる」のです。我が国籍は天にあり。

聖書のことば
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。
ルカの福音書23:43



彼らをお赦し下さい  ルカの福音書23章32〜38節 
2004年10月3日第1聖日牧師山宮利忠
 「父よ彼らをお赦し下さい」は、ルカ独自の記録です。メシヤの苦痛に関して記すことなく、捨てられたメシヤの姿と、ご自分をあざけり苦しめる者を赦そうとされる、真のメシヤの姿を示します。

まず、十字架におかかりになるイエスに旧約で預言されている事柄が、次々と実現している事が判ります。二人の犯罪人の間に十字架につけられること、イエスの衣が分けられること、民と指導者のあざけり、キリストなら自分を救えとののしり、酸いぶどう酒を飲まされる事等等、沈黙の内に十字架にむかわれた主の身のまわりには、旧約の神のおことばがやつぎばやに実現しています。

彼らは「他人を救った」ことを認めます。だから今度は「自分を救ってみろ」と言います。自分を救わないメシヤこそ本当のメシヤであることに気付いていません。ですから主は、「何をしているのか自分でわからない」と祈られるのです。何をなすべきか、自分のしていることがどういう結果をもたらすかを知らない事程不幸なことはありません。自分の生涯が何のためにあり、何のために働き、何のために生きているかを知る者は、さいわいです。

イエスは、父よ赦して下さいと祈られました。赦して下さいと求めていますから赦してくださいというのではなく、赦しなど必要としないと思っている不敬虔な者のために赦して下さいと祈ります。

聖書のことば
父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。
ルカの福音書 23:34


悲しみの道を歩む  ルカの福音書23章26〜31節 
2004年9月26日第4聖日牧師山宮利忠
十字架刑は御子の使命でした。群衆の声や侮辱が大きければ大きい程メシヤの姿があきらかになるわけです。エルサレム市中引きまわしの上カルバリーの丘へと死の行進が始まります。ビア・ドロローサと言われる悲しみの道です。多くの物見高い群衆の中からルカは、二つの点を記録します。

一つは嘆き悲しむ女達、もう一つは、むりにイエスのかわりに十字架を背負わされたクレネ人シモンの事です。これらの人達は悲しみの道をカルバリまでイエスのあとについてゆきました。嘆き悲しむとは胸を打って大声で泣き叫ぶことで、こんなにも悲しむ人がいるとは不思議ですが、どうもこの人達は、エルサレムの娘と言われた主のおことばから推測するに、ガリラヤからついてきた主の弟子達ではなく、雇われた泣き女なのでしょう。人の死をいやが上にも悲しませる涙の代理人が当時はいたのです。もしそうだとしたら、祭司達のいやらしさが一層際立ちます。

もう一人はクレネ人シモンです。クレネはエジプトの西に位置する、ユダヤ人の多い町で、ここ出身の者が聖書には登場します。祭りのためにエルサレムに来たか、近くの村に住みついていたのでしょう。彼は無理矢理イエスの十・u梹嚔ヒを背負わされます。恥辱の十字架を背負ったシモンは、やがてこの十字架の意味を知って、魂の救いと神の愛を知ることになります。

聖書のことば
彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかま
え、この人に十字架を負わせて イエスのうしろから運ばせた。
ルカの福音書23:26


老いを喜ぶ 
2004年9月19日第3聖日牧師山宮利忠
老いていく自分を見るのは嬉しいことではありません。あったものが次第になくなっていく現実、思いと行いの違いの中でいらだつ自分を見るのは悲しくつらいことです.残照のような残された自分の時間を思いつつ、いつやってくるか判らない死の現実におそれ、しかもそれを忘れようとする努力も空しいものです。

しかし聖書は、私達にこのどうにもならない定めによろこびのニュースをもたらてくれます。それこそが神の御子イエス・キリストがもたらした救いなのです。年を重ねるごとに慈愛に富んだ神の救いのご計画がより一層鮮明になってきます。即ち永遠への希望です。神から離れた者の行き先は当然のごとく永遠の滅びですが、メシヤなるキリストのもたらした身代りの死と復活は、信じる者に永遠の生命を約束します。それは死も老いもつつみこんでしまう大きな喜びに満ちたニュースであり、その約束を真実なものと信じた者にもたらされる賜は絶大なものがあります。

老いは一歩天の御国へ近づくしるしであり、御国への凱旋の行進となり、天での報いを望みつつ、与えられた生涯を神のお喜び下さるように生きようとする大きな動機となります。そのような生き方をする者は「私の生涯に悔いはない」と言って天に召されるでしょう。そのような生き方自体が、周囲の人達に感銘を与え、存在そのものが尊いのです。老いを喜ぶ道を発見して下さい。

聖書のことば
キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
ピリピ人への手紙3:14 


遂にその声が勝った  ルカの福音書23章13〜23節
2004年9月12日第2聖日牧師山宮利忠
宗教指導者達のねたみによる逮捕に正当な死刑執行の理由などあるわけがありません。ただひたすら煽動した民の「十字架につけろ」という声に頼る以外にないのです。しかもこの声はイエスの宣教の中心であったガリラヤ地方の人達の声ではありません。エルサレム周辺の、いわば人の大声によって右にも左にも傾く都会派の者達の声です。ルカはここに三つの声を記録しています。
 第一の声は、死刑執行権を持つピラトの声です。ルカ福音書には、ピラトの語った言葉が執拗に記されています。無罪の主張が4回、釈放宣言が3回、代案の提示が3回。しかしこの声は次第に弱く小さくなっていきます。
 第二は群衆の声です。大きな力を持った大祭司や律法学者らの己の利の損害を好まない者達の声は、当時の民衆には絶大でした。たとえイエスが正しいお方であろうと、まことしやかな理由で「十字架につけろ」という叫びは、群衆心理によってますます大きくなり、とうとうその声が勝つのです。しかし、沈黙の内に死に自ら向うキリストの無言の声、神の声があることを忘れてはなりません。父のみこころ、その杯は十字架の死でした。罪なきキリストの死は復活を通して勝利を得ます。遂にその声が勝つのです。

聖書のことば
ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声がかった。
ルカの福音書23:23

嘲笑と愚弄の友  ルカの福音書23章1〜12節
2004年9月5日第1聖日牧師山宮利忠
統治者であり死刑執行権を持つピラトと領主ヘロデとの係りを通して、異邦人の前にもイエスの無罪性を示したのがルカでした。しかしここでも主は辱めを受けます。ピラトに関しての詳細は判りませんがAD27年から36年まで治安の悪かったユダヤ地方の総督として派遣されるには、相当の政治的手腕の持主であったろうと思われます。イエスへの訴えの真意を見抜き、妻から正しい人にかかわらないでとの勧めもあり、自らイエスへの審問にも罪を認めなかった彼が、最終的にイエスを十字架刑に引き渡したのは、扇動された民衆の声でした。暴動にもなりかねない騒ぎに恐れをなしたピラトは、群衆の前で手を洗って自分に責任がないことを示しますが、結局保身のため、治安を守れない事への不安からメシヤなるキリストを死に追いやります。

一方主がガリラヤ出であると知ったピラトは、領主ヘロデに決定させようとたまたまエルサレムに来ていたヘロデのもとへ送りますがこのヘロデは全くの興味半分にイエスをあしらいます。兵士達とさんざん主をなぶりものにしたあげく再びピラトのもとへと送りかえすのです。キリストを取りまくいくつかのグループがありますが、こ・u桙フ二人の場合、日頃から仲たがいしていたにもかかわらず、これがきっかけで仲良くなったと記されています。嘲笑と愚弄のとりもつ仲と言えましょう。

聖書のことば
この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対していたのである。
ルカの福音書21:3

あなたは神の子ですか  ルカの福音書22章63〜71節
2004年8月29日第5聖日牧師山宮利忠
夜半に捕えられた主イエスは、大祭司の家で審問を受け異例のサンヒドリン(ユダヤ人議会)の決定により、わずか5〜6時間の間に死刑の宣告を受けて十字架にかけられます。場所を次々と変えて6回の裁判らしからざる裁判を受けた主は、台風の目のような静けさを印象づけます。まさしくイザヤの預言のごとく「ほふり場に引かれて行く小羊のように、・・・口を開かない」メシヤの姿がそこにあります。

主が十字架におかかりになることは、定められた神のみこころでありゲッセマネに於いて祈りによって勝利した主は、彼等の悪意の質問に答える必要はなかったのです。そこには捨てられた神の御子の毅然とした姿があります。周囲が騒げば騒ぐ程イエスのメシヤたる事が証明されつつあると言えましょう。弟子に捨てられ、民衆に捨てられ、父なる神に捨てられた主は、ただ一人十字架の道を歩みはじめられるのです。議会は証人を求めようにも死刑にするだけの理由を述べる証人をつくり出すことはできず、とうとう最後に「あなたは神の子か」と問うことによって自分を神とする冒涜罪で死刑宣告します。

勿論これはローマの総督ピラトにとっては、

聖書のことば
彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」するとイエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」と言われた。
ルカの福音書22:70

みつめられた主  ルカの福音書22章47〜62節
2004年8月22日第4聖日牧師山宮利忠
ゲッセマネの園で祈りをもって勝利した主キリストは、十字架に向って起ちあがりますが、ペテロをはじめ三人の弟子達は眠りこけていました。この霊的にぶさが逃走と否認という恥かしい失敗を生むことになります。ペテロがどうして「あの人と係りはない、知らない」と言う失敗を犯してしまったのでしょうか。

まず「知らない等と言わない、たとえ死にまでもついていく覚悟ができている」という自負心が、この失敗を生む最大の原因です。それが緊張感を薄め、祈りにもあらわれて、イエスが苦しみもだえて血のような汗を流して祈っている間にも眠りこけている様にあらわれます。そしていざという時に勇気をもって実行できない結果を生むことになります。主が予告された通り、鶏が二度鳴く前に三度「知らない」と言ってしまったペテロは、そこではじめて主のおことばを思い出します。自分の弱さ、愚かさ、頼りなさをいやという程示されたペテロは、外に出て激しく泣くのです。

しかしペテロの心をとらえたのは、三度否んだその時、ペテロをみつめられた主のお顔であったに違いありません。あらかじめ「知らないと言う」と予告された事にも主の愛を教えられますが、じっとペテロをみつめられたイエスの顔は、「わたしはあなたの為に祈っているよ。起ちなおりこの経験を通して他の者を励ましてあげなさい」と言われる慈愛に満ちたお顔でした。

聖書のことば
主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。
ルカ22:61

祈りによる勝利  ルカの福音書22章39〜46節
2004年8月15日第3聖日牧師山宮利忠
最後の晩餐を終えたイエスと弟子達は、賛美しつついつも祈りの場としていたゲッセマネ(油しぼり)と呼ばれていたオリーブの森へと、ケデロンの谷を越え、エルサレムを一望にのぞむことのできる小高い丘へと登って行きます。三人の内弟子に「わたしと一緒に祈っている」ように命じられ、ご自身は、石を投げて届く程の距離に離れて、激しい感情の動揺と共に、血の雫のような汗を流されて祈られました。

ここには、明らかな二つの場面が見てとれます。一つは、祈っているようにと命じられた三人の弟子の姿です。徹夜して漁をする事ができた屈強な弟子達が、ひとときも我慢することができず、眠っていたのです。しかも三度も主に起こされねばなりませんでした。彼等は「目をあけていることができなかった」(マタイ26:43)のです。一方で苦しみ祈るイエスがいつつ弟子達は眠っていました。この霊的なにぶさがやがて主を見捨て、否むことになっていったという事は明らかです。誘惑に陥らないすべは、目を覚まして祈っている事、霊のまなこを見開いている事です。

一方主は、与えられた代償の死を覚悟しつつも、人間イエスとしてこの余りにも大きな、負いがたい苦しみに打ちのめされ、顔を地に伏して激しく涙をもって、神のみ怒りの杯をのみほそうとされます。その祈りの心は“みこころのままに”です。己がこころでなく神のみこころにこそ勝利があります。

聖書のことば
父よ、みこころならば、この杯をわたしから取りのけて下さい。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。
ルカの福音書22:42 

二振りの剣  ルカの福音書22章35〜38節
2004年8月8日第2聖日牧師山宮利忠
晩餐の席での最後の説話として、今後の弟子達の心構えを語られました。今までは、主も共にあり、人々の評判もよく弟子達が伝道に遣わされる時も財布もカバンも持たずに出かけても何不自由することなく、人々の支えをうけた。しかし今後はそうではない。キリストも人に捨てられ、ののしられて殺される。同じようにキリストに従う弟子達も、人々から好意をもって受け入れられなくなる。困難な時がやってくる。だからしっかりと備えをして出かけよと教えられました。

二振りの剣を、それでよしと言われたことばの解釈は難解ですが、この剣を生活用品としての大型のナイフと解すれば、自給自立の備えをせよという事になります。たしかにこの剣でペテロは大祭司のしもべマルコスの耳を切り落しますから、小さな剣ではありません。しかし主は彼をいやし「剣を取る者はみな剣で滅び」(マタイ26:52)と言われ、剣をふるう事の愚かさを示されました。ペテロの持っていた剣が闘いのための剣であれば、多勢に無勢、猟師であった者達が兵士にかなうわけもありません。ですから弟子達がまだ剣に頼ろうとする思いを知って「もういい」と言われたのかもしれません。

いずれにしても、今後はしっかり備えして伝道せよと言われた事は確かです。みたまの剣、すなわち神のことばをとって敵に勝利せよと今も主は私達にお語り下さっているのではないでしょうか。

聖書のことば
そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は、着物を売って剣を買いなさい。
ルカの福音書22:36

祈っていて下さるキリスト  ルカの福音書22章31〜34節
2004年8月1日第1聖日牧師山宮利忠
ペテロの覚悟は、もろくも崩れてしまいました。ごいっしょなら牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。マタイ書は「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)とあります。躓きません。いのちも捨てますと言い張った元気の良いペテロも、大勢の捕手や祭司達の敵意の前には、もろくも「あの方と関係はない、知らない」と三度も否んでしまうのです。

人の決心や誓いは何ともろいものでしょうか。そんな人の弱さやもろさをあらかじめ知っておられる主は、ペテロの否みを前もって予告され、しかもあなたの信仰がなくならないように祈ったとおっしゃいました。鶏の鳴き声を聞いたペテロが我にかえって、自分のした事の重大さに気づき激しく泣いた時にも、この主のおことばが思い浮かんだに違いありません。

活き給う主は、今も私達一人一人のために祈り、とりなして下さっている事を知る事は、何と大きな慰めでしょうか。主はペテロに「立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」(32)と言われ、この大きな失敗も決して単なる失敗や痛みとして残ることなく、他の人々を励まし慰める力となることをお示し下さいました。たとえ失敗であろうと苦しみであろうと主を愛する者には、すべて益として下さる主です。

聖書のことば
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
ルカの福音書22:32

誰が一番偉いですか  ルカの福音書22章24〜30節
2004年7月25日第4聖日牧師山宮利忠
古今東西いずれの時代でも覇権を争うみにくい現実があり、それはキリストの弟子においても例外ではありませんでした。弟子達の母親も自分の息子を弟子の最高位につけてくれと頼む程でした。(マタイ20:20) 三年間の弟子としての訓練を受けた使徒たちは、師たるイエスが明日にも十字架にかかって死を迎える直前にも誰が一番偉いかを議論した程に、偉くなる魅力は大きいと言わねばなりません。しかしイエスの答えは、彼等の思わくとは全く異なるものでした。偉くなりたいと思うなら仕える者になりなさいというものだったのです。

人は生まれながらにして仕える事は好まず、仕えられることを好むものです。弟子達の肉の思いは、キリストによって完全に砕かれてしまいます。主は命じられます。一番偉くなりたい人は一番年の若い者のようになれと、即ち自分の未熟さを認め、教てもらう心をもって、率先して動きなさい、そして仕える人となりなさいと。そして給仕される者でなく給仕する者になりなさいと命じました。

それはメシヤなるキリストご自身が、まさしく仕えるために世に来られ、弟子の足を洗い、人々の罪を自分の罪として負われて十字架で処罰されるからです。神の国の原理は、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。己れを低くする者は愛され、恵みが授けられます。この世に於いてもこの真理は最終的な勝利を得る道ではありませんか。

聖書のことば
また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという議論も起こった。    
ルカの福音書22:24

最後の晩餐  ルカの福音書22章14〜23節
2004年7月18日第3聖日牧師山宮利忠
過越しの祭りは、一年に一度行われるエジプト脱出を記念する大切な儀式であり、そこで用いられた種入れぬパンと羊の肉は、この祭りの大きな意味をもつものでした。即ち殺された羊の血のしるしは、死をのがれるためのしるしであり、種入れぬパンは、罪のないキリストの体を象徴するものとなったのです。

イエスは、この目的の祭儀の真只中で自らをほふられる小羊として、十字架にかかり、罪なき神の独子のお体を裂き血を流されて、一方的な契約をおたて下さいました。 これは、最後の晩餐と言われる有名な出来事ですが、ここには少なくとも三つの大切な教えがあります。

第一に、イエスキリストの十字架の死は、過越しの祭りで殺される羊として、我々の罪の身代わりの死であることを示すものです。その血は、まさしくかもいに塗られた羊の血のしるしのごとく、生命を与え死をまぬがれる罪なきキリストの血をあらわすぶどう液です。第二に、新しい契約のしるしです。神は人との間に一方的な恵みの契約をおたて下さって誠実にそれを実行して下さいました。第三に、記念として行わねばならない定めです。主が来られるまで守り行わねばならない定めであり、天での祝宴を待望する儀式でもあります。

聖書のことば
これは、あなたがたのためにあたえる、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。 
ルカの福音書22:19 

悲しい出来事  ルカの福音書22章1〜6節
2004年7月11日第2聖日牧師山宮利忠
 これは単なる悲しい出来事ではありません。イエスの悲しみと苦しみを更に一層強くさせる事件でした。三年間寝食を共にした仲間の一人がこともあろうに奴隷の価に等しい銀30枚でキリストを売ってしまうのです。

 ユダという男は、イスカリオテ即ちケリオテの人と呼ばれ、使徒団の会計をあずかり、漁師であった使徒達とは違った教養のある者だったようです。しかし彼は、主に香油を注いだ女に勿体ない、売って貧しい者に施すことができたのにと批判しつつも、自分は会計の袋の中から金を盗んでいるような金銭欲の強い者でありました。どうしてユダがイエスを裏切ったのか諸説ありますが、彼の物への執着と共にメシヤ王国設立の野心が砕かれつつあった失望感からの行動であったろうと思われます。

 しかし自分のとった行動がイエスを死刑にしてしまう事を知った時、彼は得たお金を神殿に投げ捨て、首を縊て死にます。聖書は彼も裏切りと記し、滅びの子と言い、自分のところへ行くために脱落して行った(使徒1:25)と言われます。

 たしかに麦の中に蒔かれた毒麦でありました。しかし真犯人はサタンです。公生涯の始めに主を誘惑したサタンは、ユダを使ってメシヤを十字架にかけます。ユダにはサタンのつけ入るスキがあったのです。彼はサタンに心を開いてしまいました。しかしサタンはイエスの踵を砕いただけです。復活の主はサタンの頭を砕きました。

聖書のことば
さて、12弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダにサタンが入った。
ルカの福音書22:3

数えてみよ主の恵み  詩篇103篇2節
2004年7月4日第1聖日牧師山宮利忠
 時々過ぎ去った時を思い起こし、主のして下さった恵みや助けを数えてみることはみこころにかなったことです。昔はよかったということではなく、今あるのは、昔の数々の祝福の上にあるのだという事を改めて感謝するためにふりかえるのです。そして主は、今後もさらに恵みを与えて下さると信じて力をいただくのです。

今から30年前は、三階建ての二階が会堂で、断熱材の入っていないスレート張りの外壁とベニヤ張りの内壁で猛烈な暑さの中で近所への迷惑のために窓を開けることもできないすしづめの状態での礼拝でした。夏の暑さがやってくるとそのことを思い出します。人いきれで空気は悪くなり、頭痛が起こり、実に劣悪な環境の中での礼拝でした。しかしそのような状況でも主に在る兄姉達は、礼拝を守ったのです。当時は朝8時45分から教師は集まり、9時からの授業、そして夜は7時から夕拝でしたから、家に帰るのは10時過ぎという具合で、さぞ月曜日は大変だったろうと、支えの為に祈らされる日々でした。冬は全く逆で、石油ストーブをたいての暖でしたから、これも頭痛の種で、よくもあのような状態で頑張れたものだと驚くばかりです。

そういう状態の中でも心熱くして主と教会に仕えた兄姉達の信仰は、ささいな事で躓くような事は、決してありませんし、へこたれません。今は時代が変ったといえども叉違った面で闘いのある日々です。主の恵みを覚えて歩み続けましょう。

聖書のことば
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
詩篇103:2


油断せずに祈っていなさい  ルカの福音書21章29〜38節
2004年6月27日第4聖日牧師山宮利忠
 十字架の死を目前に控えた神殿での教えは、世の終りにかんするものでした。弟子達の神殿のすばらしさへの驚きに対して、美しい神殿も近い将来破壊される事を通し、世の終りの大規模な破壊を予告します。その時をどのように迎えたらよいかが、最後の教えでした。

まず第一に、神の国の実現が近いことを知る事です。(31節)木に若芽が吹けば、夏の近いことが判るとしたら、世の終りのしるしが見えてきたら、最後の時が近いという事を悟る知恵が必要なのです。知らなければ備えることはできません。拠りどころとなる聖書のことばは必ず実現するのですから。

第二に、よく気をつけている事です。(34節)キリスト再臨の時は、ノアの日のようだと(マタイ24:37)いわれました。人々の関心は、終りの時の事でなく自分の思いのまま世の事に心奪われ、全く終りがやってくる事を忘れているそんな時、突如としてキリストの再臨はあるので用心し、目を覚ましていなさいと勧められました。

そして油断せずに祈っている事です。(36節)いざという時にあわてる必要のないように、いつなんどき終りの日が来てもよいように、意識して信仰の目を開いているために祈っている事が必要です。神に会う備えをするとはどうすることなのかを具体的に考えましょう。

聖書のことば
しかしあなたがたは、やがて起ろうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに、祈っていなさい。
ルカの福音書21:36

頭を上げよ  ルカの福音書21章20〜28節
2004年6月20日第3聖日牧師山宮利忠
 1日に終りがあるように、始められたものには終りがあり、そしてこの世にも終りがあります。聖書は幾度となく世の終りについて明らかな終りがやってくること、イエスもここで明白に世の終りについて語られます。もし終りがやってくるとしたら、そのための備えをしておくことこそ賢い人の在り方ではないでしょうか。

世の終りのしるしの多くはエルサレム滅亡の時に実現しましたが、その規模は比較にならない程、ここで教えられた世の終りのしるしは大きく、破壊的で悲惨です。地震や疫病、自然の異変やキリスト教徒への迫害、そして教会の中にも呟きや裏切りがおこり、多くの者の愛が冷え、耐えられない程の苦しみが襲います。しかしそのような中でも福音は全世界に広められ、極限の苦しみの中で栄光の主が再臨されると予告されています。終末に向う前への警告として、目を覚ましつつ、あわてることなくまどわされることなく落着いている事が教えられています。そして安全だと思っている全てのものから逃れよ、ロトの妻のようになるなと警告されます。

そしてその苦しみのさなかに主は来られる、その時こそ背をのばし頭を上に上げなさいと命じられています。この時こそ主の約束が実現し、救いと信仰の正しさが証明される時であり勝利と確信の時です。世の終りに対し十分な備えをする賢い者でありなさい。

聖書のことば
これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。購いが近づいたのです。
ルカの福音書21:28

忍耐して生命を勝ち取れ  ルカの福音書21章5〜19節
2004年6月13日第2聖日牧師山宮利忠
 当時エルサレムの神殿は、破壊されたソロモンの神殿の後イスラエルの民がバビロニヤから解放された後に建築された第二神殿と呼ばれる神殿が当時建てられていました。ソロモン神殿よりはるかに貧しいものであったと言われていますが、でもそれは見事な立派な神殿であり、人々がそれを見た時目を見張るに十分なものでありました。同じ記録をしているマルコ福音書には、弟子の一人が「これはまあ、なんとみごとな、何とすばらしい建物でしょう」(マルコ13:1)と言ったと記しています。

 主はこの神殿もやがて破壊され全てが崩れ去ると予告します。そしてそれはそのことばの通りA.D.70年ローマ軍によって完全に破壊されてしまったのです。しかし主は単にローマ軍による破壊される神殿の事だけを指して言われたのではなく、世の終りについて語られました。(マタイ24:3)

 そこで一貫して予告されている事は、この世の混乱と破壊、そして神を敬うクリスチャン達の苦難です。敬虔に生きようとする者は、迫害を受け、いのちの細い道を歩む者は、苦しみを受けると主は正直に信仰の道は、安易な道でないことを示されました。しかしこの苦難の道は、永遠の安息と栄光につながる道であり、しばらくの苦しみの道はやがて大いなる報いを受ける永遠の都へ通ずる道だと教えられました。そしてそこに到達するためには、忍耐が必要です。この忍耐は希望のある忍耐です。いのちのかかった忍耐です。

聖書のことば
あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。
ルカの福音書21:19

真の信者  ルカの福音書20章45節〜21章4節
2004年6月6日第1聖日牧師山宮利忠
 いつの時代にも、どのような世界にも偽り者は入るものです。当時の学者達は、権威欲と名誉欲のとりこでした。いかにも敬虔深くふるまい、人々から尊敬をこめてあいさつされることを好み、常に軽んじられることを嫌う、主イエスのしもべの姿とは比べようもない程滑稽な人々でした。こういう人達が、民の指導者だった世は推して知るべしです。弟子達も誰が一番偉くなるかを論じるような肉の思いがあった事を忘れてはなりません。主は仕える者こそ最も偉いのだと教えられ、自らその範を示されたのです。

一方宮には、真実な信者もみられました。多くの人達がささげものをする中に、一人の貧しいやもめが礼拝に来ていました。豊かな人達があり余るなかから献金をする中で、彼女は最小単位のレプタ銅貨二枚をささげたのです。主はこの女性の中に信仰の真実をご覧になります。このレプタ二枚こそ彼女のその日の生活を支える全てだったからです。ささげものの大小ではなく神に対する信仰と愛がこめられているかどうかなのです。主は何をご覧になったのでしょうか。

第一に、犠牲の伴う信仰です。痛みの伴う犠牲こそ真の犠牲です。アブラハムは我が愛する独子イサクを献げました。献金は献身が伴ないます。第二に、喜びをもって献げる信仰です。おしむ心は献げ物ではありません。第三に、信仰の伴う献金です。明日を神に委ねる信仰があれば献げられます。

聖書のことば
それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなた方に告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。」
ルカの福音書21:3

ダビデの子・主  ルカの福音書20章41〜44節
2004年5月30日第5聖日牧師山宮利忠
 今度は、イエスが質問します。「どうしてキリストをダビデの子と言うのか」と。詩篇110篇の引用をして「主は私の主に言われた」即ち「主(ヤハウエ)は私の主(キリスト)に言われた」のは、私、即ちダビデがキリストを主と呼んでいるわけだから、あなたがたが期待しているダビデの再来としてのメシヤというより、さらに大きく広い意味での人類の救済者、いのちの根源たる油そそがれたメシヤではないか、とイエスは問いかけられます。

勿論メシヤがダビデの末から来られることを否定しているのではありません。まさしくイエスはダビデの家系からお生まれになったのです。しかし彼等が自分流に考えているメシヤ観を是正しようとされて、このような質問をされたわけです。

わたしたちは、自分なりにイエスという方を受けとっていないかを考えてみなければなりません。メシヤに関する多くの資料を持ちながらも、イスラエルの民や指導者達は、ダビデの再来、国の復興、世界覇権への勝利者としてメシヤを期待しました。自分に都合のよいように神たるお方を受け入れる人間的弱さは、私達にも大いに存在するのです。私にいのちを与え、私の支配者、所有者としての主、あらゆる事に計画をもたれ、それを完全に実行される神としての主を、「我が神、我が主よ」と崇めたいものです。

聖書のことば
すると、イエスが彼らに言われた。「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか」
ルカの福音書 20:41

今も壮健です  ヨシュア記14章10〜12節
2004年5月23日第4聖日牧師山宮利忠
85才のカレブは、約束の地に入った後、強敵のいるへブロンの山地をヨシュアに申し出て征服し自らの相続地としました。神に従い通したことがカレブが壮健であることと、勝利を得た事の秘訣であったと聖書は記しています。(14)

モーセは80才で神から出エジプトの使命を受けて遣わされ、見事にその任を果しました。200万にも及ぶ民を荒野から約束の地へ導く行程は、実に困難であったことが記録されていますが強靭な精神力と信仰によってその務めを果たすのです。年を重ねるという事は、肉体的には衰えがみえたとしても内的には、多くの知恵を体得し、先見の力を身につけたすばらしい器となったという事であり、特にキリスト信者にとっては、永遠への行程の一段階にすぎません。

年をとったから若者に働きを譲ろう、引っこんでいよう等という考えは、神からの使命も将来への希望も持たない者の言うことであり、若者には若者のなす分があり、年輩者には年輩者のなす分があって、天に召されるまでみ栄えのために尽くす責任があるのだという自覚が必要です。

この世の働きから解放されたなら、専ら主の働きのために自分自身をお献げできる時がやってきたと考えるべきではないでしょうか。それまでは家族の為、自分の為に時を費やしたのです。これからは主の為に時を費やそうと願う方々が多くおこされるように祈ります。

聖書のことば
モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。
ヨシュア記14:11

神との生きたかかわり  ルカの福音書20章27〜40節
2004年5月16日第3聖日牧師山宮利忠
ユダヤ教の一派サドカイ派は、上層階級の者が多く復活を信じる者達ではなかった為、旧約律法にある家系の存続のために定められたおきてをたてに復活がいかに愚かな結果を招くかをついてきます。

しかし主はこの愚かしい質問を見事に退けてしまわれました。その答えの要点の第一は、天の御国では、とついだりめとったりするこの世の延長ではなく、そのような事のない全く新しい世界だという事です。イエス・キリストが与えて下さる霊のいのちは、たとえ肉体が滅びても生きる永遠のいのちですし、そのいのちは新たな霊の体をもって復活する約束を主イエスはお与えになりましたが、その初穂は主ご自身の復活体でした。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(第一コリント15:44)その時には、もはや今の世の全てが新しくされ、ただ栄光の神をほめたたえる神の子として天国の住人となり、以前のものが全て過ぎ去るのです。

第二は、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だという事です。いのちの根源である神は人を生かすことのできるお方であり、神に生かされる時にこそ人は本来あるべき人の姿になり、死のむこうに永遠の故郷をみつつ今の肉の世を生きることができるわけです。神との生きたかかわり方ができるために御子キリストは、この肉の世に来られ生命を与えて下さいました。

聖書のことば
神は死んだ者の神ではありません。生きた者の神です。
ルカの福音書20:38

めぐまれた母マリヤ  ルカの福音書1章26〜35節
2004年5月9日第2聖日牧師山宮利忠
今日は、母の日です。一年に一度改めて母に感謝の時を持つ事は意義のある事です。聖書には大勢の母親が登場しますが、中でもメシヤを宿したイエスの母マリヤは、最も不思議な体験をした母であり、めぐまれた母でした。何故ならば、救主メシヤを宿し、メシヤと共に歩み、メシヤの苦しみと喜びを経験した母だからです。彼女のすばらしさを学びましょう。

第一に、マリヤは、驚くべき知らせを受けとめる信仰の心を持つ人でした。未婚でありながら、受胎するという不可思議な宣告を突然受けた困惑と恐れは、言葉にあらわすこともできない程のものであったに違いありません。しかし、マリヤは、何故かと問うのではなく、どのようにしてとその方法について問い、神の全能を示された時、それを心に受けとめて、思いめぐらす信仰の心を持っていました。

第二に、おことば通りになるようにという謙虚な心を持つ人でした。自分の思いを優先させるのではなく、自分のふつつかさや弱さを認めて、みこころがなされるようにと謙虚な心を持っていました。みこころに従う道は決して平坦な道ではないでしょうが、神のみこころに従うのです。

第三に、救主を宿す恵まれた人でした。文字通り、内にキリストを宿し、共に歩み、苦しみと喜びを共にします。十字架の苦しみと復活の喜びを共にします。主を信じる者はメシヤの母です。

聖書のことば
御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられます。」 
ルカの福音書1:28

一致を保ちなさい  エペソ人への手紙4章1〜6節
2004年5月2日第1聖日牧師山宮利忠
エペソの教会への勧めは、一致を保てという事でした。キリストのからだである教会は、このエペソ書の中心テーマであり教会の本質的姿は、一つである事です。そこにはキリストによって与えられた強力なつながりがあります。

ここで注目すべき点は保つというおことばと、召しにふさわしく歩めという勧めです。教会には一致が必要であり、一致がある時教会の真の力を発揮することができる事は、人の体を考えてみれば容易に理解できることですが、ここでは一致をつくり出せと勧められていません。既に与えられている一致をしっかりと保ちつづけなさいと勧められています。

何故ならば一つ体に加えられ、頭は一つ、そして仕えるべきお方は一人、望みも一つだからです。教会に加えられた瞬間に一つとされたのだという明白な認識が必要なのですが、たとえどうであろうと既に一致があるのです。

さらに召しにふさわしくと勧められています。召しにふさわしくなれと勧められていません。召しにふさわしくされたのですから、そのふさわしさをあらわしなさいと勧められているのです。そのふさわしさは謙遜、柔和、忍耐、愛、平和です。これらはキリストを信じた者に与えられています。ですからこれをあらわす事が私達の務めなのです。そこに教会の祝福があります。

聖書のことば
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
エペソ人への手紙 4:3

神のものは神に返しなさい  ルカの福音書20章20〜26節
2004年4月25日第4聖日牧師山宮利忠
ローマに税金を納めるべきかどうかという議論は当時さかんに行われたものでした。14才から65才までの成人男子の税額は1デナリ(1日の労賃)でしたから大したものではありませんでしたが熱狂的ユダヤ人はカイザルへ税を納めることには反対でした。それは彼等の民族的、宗教的見地からできないものでした。従ってカイザルかキリストかというこの問いは、両刃の剣だったわけです。納税に反対すれば反逆者として訴える口実ができ、賛成すれば民衆の心はイエスから離れることになるというわけです。

しかし主は実に知恵深く処せられました。「カイザルのものはカイザルに神のものは神に返せ」と言われたのです。貨幣には王の肖像が刻印され王の所有が主張されていました。この世に生きる限り社会の秩序に従い善良な市民であるべきなのです。そこにも神の支配が及んでいるのですから、しかし神のものは神に返さねばなりません。

神のものとは何でしょうか。第一に、礼拝です。礼拝すべきお方はただ一人、天地万物を創造し、支配なさる神のみなのです。このお方以外のものを神のごとく崇拝してはならないのです。第二に、主の日です。日曜日は私の日ではなく主の日として主に仕える日です。この日を礼拝と奉仕の日として主にささげるべきです。第三に、主の物を返す事です。主に買いとられた体と収入の10分の1です。

聖書のことば
すると彼らに言われた。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
ルカの福音書20:25

捨てられて礎の石となる  ルカの福音書20章9〜19節
2004年4月18日第3聖日牧師山宮利忠
悪い農夫のたとえは、イエスの十字架の死と復活に深い関係があります。このたとえを聞いた指導者達は、自分達の事と言われているのだと気付いてイエスを捕えようとします。ステパノはこの点を指摘し最初の殉教者となりました。(使徒7:51〜52)

ここで示されている悪い農夫は、主人すなわち神のものを預っていながら年貢を納めないばかりか、ぶどう園そのものを自分のものにしようとし、しかも度々しもべ(預言者)を遣わしたにもかかわらず袋だたきにしはずかしめて送り帰し、最後に送られてきた主人の息子(イエス)をも殺してしまいます。

農夫達は、あと取りでも殺してしまえば農園は自分のものだと考えましたが、彼等は主人がいる事を忘れていたのです。それはイエス・キリスト、神の独子を殺しても、父なる神を殺すことができないのと同じです。彼等が打ち殺して捨ててしまったイエスは、復活して勝利をおさめたのです。それはまさしく、価値のない見栄えのしないと思って捨てた石が、建物の大切な要の石となったという事です。

私達は今、この農夫のように神のものを自分のものだと主張し、神の忍耐と愛を軽んじ、信じないという大きな罪を犯しつつ、神の祝福を私(わたくし)している者ではないでしょうか。イエス・キリストを捨てるなら、このお方こそやがて重要で、大いなる力をもつ礎の石としての存在となるでしょう。

聖書のことば
「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」と書いてあるのは、何のことでしょう。
ルカの福音書20:17

苦難と栄光  ペテロ第一の手紙1章3〜11節
2004年4月11日第2聖日牧師山宮利忠
小アジア各地の教会が迫害の中で苦しむ時、ペテロは励ましのためにこの手紙を書き送ったもので、何故キリスト教徒が厳しい迫害の中でそれに耐えることが出来るのかが示されています。

その最大の理由は、キリストの苦難とそれに続く栄光です。ステパノの殉教死以来聖徒達は、あらゆる時代に言語に絶する迫害にさらされてきました。しかし多くのクリスチャン達は、自らの信仰を捨てようとはしなかったのです。

彼等を支えたのは、イエス・キリストの苦しみでした。受難と言われていますが、まさしく罪なきお方のいわゆる苦しみであり、肉体的苦痛は、当時の処刑法の中でも最も非人道的なものでありました。死の恐怖と人に捨てられた呪いの十字架刑は、父なる神に捨てられる瞬間がその最高点であったろうと思われます。しかし御子は、父に与えられた使命に最後まで従順に従われ、人類の罪を一身に負われて十字架の処刑をお受けになられたのです。それはメシヤとしてふさわしい事でした。

慰めの神は人生の苦しみと悲しみの中にある者に、このイエスの受難を通して真の慰めを与え、さらには、三日後の復活により、苦難の後に栄光があることをお示めしになられたのです。死はそれまで勝利者でした。しかしメシヤの復活はその死に勝利し、私達に生きる望みをお与え下さいました。真のメシヤであるからこそ苦しみと復活を通して人類に救いの道を開くことがおできになりました。

聖書のことば
彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
第一ペテロ 1:11

私は知りませんと言いますか  ルカの福音書20章1〜8節
2004年4月4日第1聖日牧師山宮利忠
 祭司や律法学者達のような民の宗教的指導者達は、ナザレから出たイエスが、多くの不思議な奇跡と教えをする事に快くおもっていないだけでなく、そのねたみと憎しみは、殺そうというところまでに至っていました。この箇所も訴える口実を得るための論議です。多くの人に歓呼して迎えられ、神殿での商売人を追い散らす主に、何の権威で、誰の許しを得てそんな事をするのかと迫ります。
 知恵のある主は、バプテスマのヨハネの例をあげて、真の権威の所在を示します。まさしくヨハネは預言者として、神から権威を受けて人々に語った神の器でした。彼等が知りませんと答えたのは、自らの欺瞞を明らかにした事に他なりません。
 真の事に直面した時、私達にはそれに答える責任があります。知りませんという答えは、答えになっていない事は勿論の事、正しいものをつかむ機会を失うことになるのです。
 「あなたは、わたしを誰と言うか」との質問に誰でもが答えねばなりません。ヨシュアは不信の民に、「あなたの仕えるべき神を今日選べ」(ヨシュア  24:15)と叫びました。
 イエス・キリストは、我々を救い得るまことのメシヤか、そうでないか、その問いに、知りません、わかりませんという答えはゆるされないのです。何故ならそれこそが自らの運命を決定してしまうからです。
聖書のことば
するとイエスは、「わたしも 何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われた。
ルカの福音書 20:8
苦難に耐えたキリスト  へブル人への手紙4章8節
2004年3月28日第4聖日 牧 師 山宮 利忠
 4月11日今年のイースターを迎えます。メシヤなるキリストの復活は、全て信じる者の希望であり、キリスト者の信仰の中枢ですしかしこの輝かしい復活の前一週間は、神の御子にとって恐るべき苦難の日々でありました。
 主は、その全ての苦しみを一身に受けて、最後の一滴をも飲みほされて救いの道をひらかれたのです。ここにキリストの忍耐があります。
 キリスト教徒の歩みがより多くの苦しみに会う事を余儀なくされる定めにある事を神は十分お知りになった上で、メシヤを多くの苦しみによってその務めを果たされるようにされたという事は、聖書が示す通りでありそれは誰でもがあわなければならない苦難に、よく耐える事ができるためです。
 ひ弱さが強さの中にあらわれる現代、柔和さの中に真の強さを持つ者にさせて下さるのは、言語に絶する苦難を越えて完全な者とされたイエス・キリストの強さを学んだ信仰の内にあります。今、私達は本当の強さが必要ではないでしょうか。
 正しい事をしっかりと守り通す強さは、この世の誘惑や変りゆく思潮に押し流される事なく、罪の招く結果を知って決して手を染めないところにあらわされなければなりません。与えられた使命をどこまでも貫き通す力こそ、キリストの忍耐の中にあります。私達の模範となられたキリストの御足の跡をたどる真に強い者となりたいものです。
聖書のことば
キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ・・・
へブル人への手紙4:8

大いなる神の家  第T歴代誌29章1〜20節
2004年3月21日第3聖日牧師山宮利忠
 教会堂がこの地に建築されて今年で14年を迎えました。44年間の教会への主のお恵みを顧みる時、まことに大きな祝福をいただいてきたと、ただただ全能の主に感謝をおささげするのみです。しかし、主は決してこれでよしとはおおせにならないでしょうし、私達も神の栄光のためにここにとどまってはならないのです。
 ダビデが神の家神殿のために持った志とその犠牲を、今私達は、主のお体である教会への重荷としてあらためて持つ必要があるのではないでしょうか。ダビデ自身は武将として多くの人の血を流した故に神の宮建築はゆるされませんでしたが、彼は莫大な資金をたくわえ、子のソロモンにその務めを託しました。まず先頭に立つものが志を立て、犠牲をささげるという図式がここには明白に示されています。
 そして彼等は神殿建築のために自ら進んで、自発的にささげます。強いられて、おしむ心からささげられたものは真のささげものとは言えず、またたとえどんなに多くささげられたとしても祝福をいただくことはできません。喜びをもってささげられたもので主の家は築かれてゆきます。
 しかしもっとも大切な姿勢は、「すべては、主のみ手から出たもの」という信仰的な思いです。神の恵みなくしてささげる物も、ささげる心も持つことはできません。さらなる主のご栄光を拝するためにより豊かなささげものをもって私達の霊の家、神のみ住まい教会を美しくしましょう。
聖書のことば
私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを私は喜びのうちに見ました。
第T歴代誌29章17節

わたしの家をいのりの家とせよ  ルカの福音書19章41〜48節
2004年3月14日第2聖日牧 師 山 宮 利 忠
 エルサレム凱旋では、イエスをメシヤ、王として公にご自身をあらわされた主は神殿で商売をする者達を追い出し、いわゆる宮潔めと言われる激しい行動をとられます。マタイは「両替人の台や鳩を売る者たちの腰掛けをたおされた」(21:12)と記録します。

この宮潔めの意味は何でしょうか。

 第一に、真の家としての神殿を明らかにされたことです。主は「わたしの家」と言われて、旧約の時代に定められた神殿にかかわる律法のすべては、メシヤなるキリストの出現によって真の神殿が設立された事を言明します。即ち神の宮とは、キリストの体・教会のことです。従って形だけの礼拝でなく霊とまことをもって真の礼拝をささげる時が来たのです。そこは祈りの家としなければなりません。私達の今の礼拝は、旧約時代の神殿礼拝にまさるまことの神との交わりが行われなければならないという事です。

第二に、教会浄化です。

 商売とは、神殿で献げられる献金はシェケルで献げられたために各地から来る者は両替が必要でした。それは外より中の方が何倍もの手数料がかかったわけです。犠牲の動物も売られていました。騒音と商売の声で騒がしかった神殿は、祈りの家としてはふさわしくなかったのです。教会は浄化され聖別された所であるべきなのです。神の臨在が感じられる会堂と礼拝が必要です。
聖書のことば
こう言われた。「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」
ルカの福音書19章46節

主がお入り用なのです  ルカの福音書19章28節〜44節
2004年3月7日第1聖日牧師山宮利忠
 「主のエルサレム凱旋」と言われる公にメシヤとしてのエルサレム入城の記録は、栄光に満ちた凱旋と言うより、悲しみと死の行進とも言うべき十字架の待つ入城でした。この日は週の初めの日曜日で、子ロバに乗るイエスを人々がしゅろの葉を振って迎えたために棕櫚の聖日と呼ばれ、この日からキリストの受難週となり、金曜日には歓呼して迎えられた主は、人々の「十字架につけろ」との叫びの中で処刑されていきます。
 今まではメシヤ、ユダヤ人の王としての立場を公にされなかったイエスはこの日、ベテパゲの村につながれているロバを乗りものとして、公にメシヤの立場をとって危険極まりないエルサレムへ向います。ここにはイエスがダビデの家系から生れる王として又キリストとしての公の姿が明らかに示されています。
 第一は、ロバに乗るイエスです。これはゼカリヤ書9章9節の成就であり、平和のしるしとしての子ロバに乗る主は、正しく平和の君としての明らかな行動です。そしてここに示された予知と支配力もメシヤの力であり、真の所有者が誰であるかが示されています。
 第二は、人々の賛美を受けられました。しゅろの葉で敷かれた道を歩む主に人々はホサナと叫びました。王として救主として、人々はイエスをほめたたえるのです。
聖書のことば
もし、「なぜほどくのか。」と尋ねる人があったら、こう言いなさい。「主がお入用なのです。」
ルカの福音書19章34節

持っている者はさらに与えられる  ルカの福音書19章11〜18節
2004年2月29日第5聖日牧師山宮利忠
 持っている者はさらに与えられるとは、経済の話しとしてではなく、霊的な教えとして語られたものです。即ち神からあずかったものを忠実に用いた者は、その忠実さの故にさらに豊かな物をあずかる者とされるという事です。このたとえはタラントのたとえと似てはいるものの多くの部分で異なっているので違うたとえとして学ぶ必要があります。
 身分の高い人が王位をもらうために旅立つ際10人のしもべに各々一ミナを託してでかけますが、国民は彼を憎んでいたと言うのです。当時の史実と合致する判り易いたとえですが、これはメシヤの再臨にかけた、しもべ即ち聖徒達のこの世での生き方を教えているたとえとうけとれます。
 まず、王たるキリストの委託と期待を学びとりましょう。主は我々に各々均等に賜を分け与えてくれています。それをどれ程ふやしたかが問われているわけではありません。どれ程忠実にそれを用いたかが問われています。神は私達の人生に期待しておられるのです。
 そして、王たるキリストの報酬を学ぶことができます。より豊かな結果を得た者は、より豊かなものがまかされます。即ち忠実さを持っていた者は、さらに大きな信頼がされてさらに大きなものを委ねられ、持たない者は持つものも取り上げられます。勿論、敵対する者にいのちはないのです。
聖書のことば
あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。
ルカの福音書 19:26

この家に救いが来た  ルカの福音書19章1〜10節
2004年2月22日第4聖日牧師山宮利忠
 エリコは世界最古の町の一つと言われ、東西の交通の要所でもあって税を徴収するにはふさわしい場所であったのでしょう。ザアカイは、この町で取税人の頭として働く地位も富もある世的には成功者でした。しかし世間の評判はまことに悪く、罪人と言われてはばからない評判の悪い存在でした。なりふり構わず力を求めて突き進んできた彼にも転機がおとずれたのです。力と富を得た時、それが彼に真の満足を与えることがなかったのでしょう。一人の人間として本当の豊かさとは何か、生きるという事はど>ういう事なのかを考えざるをえなかったのかもしれません。キリストのうわさとそれを知る人達の話を聞いた彼は、一目キリストを見たいと、そしてそこに解決があるのではないかと、木に登ってまでも熱心にキリストに近づこうとします。この彼の心と熱意が主にとどきます。ザアカイに自ら声をかけられ>た主は、一晩の宿泊を告げ、ザアカイは思いがけないキリストの申し出に喜んで我家に主を迎えます。
 ザアカイは、キリストに触れたのです。キリストの教えは彼の人生を変えます。権力と富に執着していた彼が、貧しい人達へのあわれみの心と、自らの罪を認めて、弁済する心を持つことができるようになりました。誰でもキリストにあるならば、新しく造りかえられます。ザアカイの一生は、真の豊かさを得て、人々からも信頼される幸いなものになった事でしょう。
聖書のことば
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。・・・」
ルカの福音書19:9

マケドニヤの叫び  使徒の働き16章9節
2004年2月15日第3聖日牧師山宮利忠
 宣教者パウロは、異邦人への使徒として選ばれ、全世界に出て行って福音を伝えよとのキリストの命に従い、まずバルナバとともにバルナバの故郷であったキプロスにむかい、小アジヤをまわって第一回の伝道旅行を実施します。第二回は、小アジヤをまわって北方へ伝道をしようとした時、主はそれをとどめられてトロアスに下りそこで、夜幻を見るのです。「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けて下さい」この叫び声は、大いなる大陸への招きであり、新しい伝道の門戸の解放であり、魂の必要の叫びでありました。勿論パウロがヨーロッパ大陸に着いた時、そこにマケドニヤ人達の大歓迎があったわけではありません。そこにはそれまで以上の大きな艱難が待ち受けていました。
 今、私達はこのような魂の叫びを耳にするでしょうか。耳をすまして私達の周囲の叫び声、又遠くの地にある「助けて下さい」という叫び声を聞くでしょうか。パウロは、パンや衣類を持って彼等を助けに行ったのではありません。永遠の生命を与える魂の救いの福音を持って海を渡りました。人の心と生活を根本から変えることの出来る福音こそ今の世に必要なものです。人々の心は荒れ果て失望と混乱の中に置かれています。私達は周囲への伝道と共に未だ見ぬ多くの他の魂の救いのために喜んで犠牲を払う者になりたいものです。
聖書のことば
ある夜パウロは、幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けて下さい」と懇願するのであった。
使徒の働き16章9節

築き上げられて平安を保つ  使徒の働き9章31節
2004年2月8日第2聖日牧師山宮利忠
 教会が築きあげられることによって、教会全体に喜びと平安が宿ります。家の規模がどうであろうと大切な事は、家としてそこに住むに十分な条件を備えている事が重要であって、屋根の一部が壊れていたり、壁に穴があいていたり、電気がつかなかったり、水がでなかったりしては、家としては不完全なのです。教会として安心して教会生活ができるように指導する事が牧会者の責任の一つと覚えるのですが、現在の私達に必要なものは何かと問われたならば、将来を見越して働人の充実が求められていると言えるでしょう。
 現在牧師と青年担当伝道者二組の働人で牧会がすすめられています。多くの方々が教会に集いつつある中で、よりよい活動がされていくためには、もう一組の伝道者家族の招聘が不可欠です。今までは執事の皆さんが牧師の働きをよく補佐して下さいました。しかし牧師も年を重ね牧師職としての働きを完全にこなすには、その思いはあってもできない状況になりつつあります。この点を謙虚に受け入れつつ、教会が平安を保ちさらに前進し、信徒の数を増していくために有能な伝道者を招聘する必要があるのです。場あたり的なこととしてではなく、将来を考えて当教会がさらなる進展を期して、この横浜の地に聖書的バプテスト教会のあかしをたてていくために、そして私達の喜びと祝福のためにも心熱くして祈りに加えていただかねばなりません。
聖書のことば
こうして教会は、ユダヤ、がリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。
使徒の働き:9章31節

黙ろうとしない男  ルカの福音書18章35節〜43節
2004年2月1日第1聖日牧師山宮利忠
 エリコの町の出入口近くで盲人バルテマイ(マルコ10:46)は、お通りになるのは、イエス・キリストと聞くと大声であわれみを求めます。この盲人の信仰に主は応えて彼の目を開く奇跡を行われました。彼は、おいでになるのは主イエスであることを耳にします。目の見えない彼にとって聞く事はとても大切な状況を知る手段です。何を聞くかが問われます。
 そして彼は大声で叫びはじめます。これは傍にいた人達が制止する程の大声であったのでしょう。しかし彼は制止にも係らず更に叫び立てるのです。ここに彼の真剣な求めがみられます。ダビデの子イエスという声の中にも彼がイエスをどう考えているかが判ります。彼は決して黙っていませんでした。彼にはあわれみ、恵みを求める以外に資格はありません。神殿で祈った取税人に似ています。自分の持つものの価値は、キリストの与える価値に比べれば無に等しいと判った者に、主の恵みは豊かです。
 彼は上着を脱ぎ捨てて、主の招きに応えます。(マルコ10:50)そして、何をしてほしいのかとの主の問いに即座に「見えるようになることです」と求めを明確に伝えるのです。この盲人の信仰が主のお力をよぶことになります。そして彼は恵みにあずかり、キリストに従って、主が行くところについて行くのです。彼の真剣な求めに主は祝福をお与えになりました。
聖書のことば
彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
ルカの福音書18:39

この尊い働きのために  ピレモン書8〜20節
2004年1月25日第4聖日牧師山宮利忠
 神のことばによる霊的教育がますます必要な時代となっています。聖書の教えが十分になされると人心の一新が期待でき、霊的空家が清潔で暖かい神の家となります。神のことばを伝える価値の尊さを学びましょう。オネシモは、コロサイに於いて主人ピレモンのもとから脱走してきた奴隷でした。ピレモンは既に敬虔なキリスト教徒として家の教会をもって伝道していた神の器、パウロの同労者でしたから、奴隷オネシモにとって決して居心地の悪いところではなかった筈です。生来の我儘と罪深い性質の故に彼は主人の金を盗んで逃亡し、ローマへやってきます。役立つ者という名が泣くようなピレモンにとっては役立たない、無益な者となったのです。
 しかし不思議な事にオネシモは、ローマでパウロの出会い、そこに於いてキリストを信じて回心します。パウロは捕われの身であり,不自由な中での伝道であるにもかかわらず、福音はつながれていません。見事な回心を経験したオネシモは、全く変えられ、新しくされて、今やパウロをして「愛する忠実な兄弟」(コロサイ4:9)「役に立つ者」(11)「私の心そのもの」「獄中で生んだわが子」と言わしめる程の立派な聖徒となります。彼の回心のあかしは、再び主人ピレモンの元へ戻るところにあらわされています。パウロは懇切丁寧な添書きをもたせてテキコと共にピレモンのもとへ送り出します。キリストの福音のすばらしさです。人を全く変える働きです。
聖書のことば
彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。
ピレモン書11節

十字架に向って  ルカの福音書18章31〜34節
2004年1月18日第3聖日牧師山宮利忠
 イエスは、ご自分の受難の予告をなさいます。ルカ福音書には、これまで7回程人の子は必ず殺され、そして甦られねばならないと語っておいでです。これは弟子達にとって理解できないことであったしそんな事があってはならない事でもありました。しかし主は度々受難の予告をなさって、しっかりとエルサレムに御顔を向けて歩まれます。あらかじめ判っていてさけられない苦難に向うこと程勇気の要ることはありません。しかし主はその勇気をお持ちでした。そしてそれはとりもなおさず罪人の私達の為であったのです。
 主が受難の予告をなさる時には、復活の予告もされている事に注目すべきです。受難とそれにつづく栄光を主はご存じでした。その栄光を受ける為には十字架の苦しみを通らねばなりません。十字架なしにはいかなる栄光もないことをご存知でした。私達の生涯にもこれは言える事ではないでしょうか。人は何事もない事を願い、平安、安楽を求めますが、苦しみはやってきます。しかし神のみこころは、苦しみにあわせない事ではなく、その苦しみに耐えさせる事にある事が多いのです。その苦しみこそ人を育てはぐくみ、練り清め、神の生き給うお働きを体験することになるのです。私達の主が十字架に向って勇ましく進まれ、苦難を通して救いをもたらして下さった事はなんと幸いでしょう。
聖書のことば
人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
ルカの福音書18:32

犠牲と祝福  ルカの福音書18章28〜30節
2004年1月11日第2聖日牧師山宮利忠
 救いは無償の神の賜ですが報酬は私達の信仰の在り方や行為によります。弟子達は、金持ちが天国に入るのは不可能に近いという主の話しを聞くと、私達は全てを捨ててお従いしてまいりました。ついては何をいただけますかと問うのです。それに対して主は、二つの事を示されました。一つは来るべき御国に於ける報い、もう一つは、この世に於ける報いです。まず神よりの祝福と報いは何によってもたらされるのでしょうか。
 第一に神への誠実さと忠実さによります。告白に対しての忠実さ、献身に対する忠実さ、それらはとりもなおさず神への忠実さ祝福をいただく条件です。第二に神のために払う犠牲の大きさによります。私達は自分の為にはおしげなく犠牲を払えるものですが、神の為、他者の為にはなかなか犠牲を払えません。弟子達は全てを捨てた報酬として、この世で100倍の報いを約束され、来るべき世では更に大いなる報いを約束されました。多く蒔く者は多く刈取るのです。
 神よりの祝福は、果の豊かさにあらわされ、人の思いを超えた助けと守り、敵への勝利として与えられます。私達はこの世での報いを期待して信仰生活をするものではなく、御国に於ける報いを切望して歩むものですが、この世に於いても主が豊かな祝福を約束して下さっている事は大きな励ましです。
聖書のことば
この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者
はありません。
ルカの福音書18章30節

富める役人の選択  ルカの福音書18章18節〜27節
2004年1月4日第1聖日 牧師 山宮利忠
  キリストのもとに来る者は様々です。ここに一人のユダヤ社会で役職に着く若く(マタイ19:20)富む、しかも霊的なことにも関心を持ち、永遠の生命を求めてやってきます。しかし主はこの者の求道の動機を初めから見抜いておいででした。即ち彼の願いは、豊かな富の延長線上に永遠の生命を得たいと願ったのです。ですから主は、富と救いとを天秤におかけになります。もしあなたが本当に永遠の生命を得たいのであれば、持てる富を全て貧しい者に施し、しかる後にわたしに従ってきなさいと命じます。
 彼は、結局富を選択します。どこから見ても実に好ましい青年で、マルコは彼が主のもとに来たさまを「走りより、ひざまづいて」(マルコ10:17)求めたと記しています。富める者に見られる傲慢さはありません。ですから、主は、いつくしみの目をもって見ておられます(マルコ10:21)。しかし、残念ながら彼には、この世のものへの執着心を捨てることができませんでした。
 私達が救いをいただく時に、この青年のように自分の持つ富を貧しい者に施す必要はありません。しかし「己を捨て、己が十字架を負って」キリストに従う事は求められているのです。富は人に万能の力があることを信じこませます。しかし人のいのちは持物の豊かさにはよらないのです。富は天国の門を自ら狭くしてしまう力を持っています。私達は今豊かさを追求しつつ自らをいよいよ天の御国から遠ざけてしまっているのではないでしょうか。
聖書のことば
イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです」
ルカの福音書18:27