幼子のように  ルカの福音書18章15〜17節
2003年12月28日第4聖日牧師山宮利忠
 子供の祝福をラビから受けることは,当時行われていた事でした。ですから力ある教師としてイエスのもとに多くの母親が子供への祝福を願ってつれて来たのは当然の事と言えましょう。しかし時は、これから危険の待つエルサレムへ上ろうとしていた時です。弟子達はそれをしかったのです。
 しかし主は、「止めてはいけない。神の国はこのような者たちのもの」と言われます。マルコはもっと厳しいことばで記します。すなわち「憤った」と(マルコ10−14)主は「アーメン(まことに)」と言われて、神の国へ入れる者は、幼子のような者でなくてはならないと教えられました。幼子のような者とはどのような人の事を言うのでしょうか。
 第一に、子供は信頼性に富んでいます。単純と言えばそれまでですが、その単純さが、神の国へ入る為には必要で、難しく複雑にしたがるのが大人で、結局は、信じられなくなってしまうのではないでしょうか。
 第二に、子供はありのままです。飾ったり、恥ずかしがったり、隠したりしません。自分をありのままさらけだします。正直なのです。全知の神の前に何も隠しようがありません。
 第三に、従順で率直です。子供は次第にわがままで頑逆になってゆきますが幼子は率直です。率直で、悲しみや驚きをただちに表わします。
 そして最後に、吸収力に富んでいるのです。私達は幼子のようでしょうか。
聖書のことば
こどものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこにはいることはできま
せん。
ルカの福音書18:17

奇跡の日  イザヤ書11章1〜2節
2003年12月21日第3聖日牧師山宮利忠
 イザヤは、B.C.700年頃預言した南ユダの預言者であり、既に北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされその脅威は、南のエジプトの圧迫とともに増大し、極めて危険な状態におかれていた時期です。イザヤは50年間にわたってユダの滅亡とやがて来るメシヤの預言をします。その日(10)エッサイの根株から大いなるメシヤが立つ。そのメシヤは苦難と栄光の王であり、不思議と呼ばれる(9:6)
 そして今よりとこしえまで万軍の主の熱心がこれを成し遂げると預言しました。その日・・・まさしくその日こそキリスト誕生の日なのです。「その日、あなたがたは言う.『主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。』」(12:4)
 この日は、神のみわざがなされた奇跡の日です。神が反逆と不信の民に近づき,探し,救おうとされた日です。イザヤと同時代の預言者ホセアは、姦淫の女をめとり、姦淫の妻をゆるすよう命じられ実行します。それはまさしく神の恵みのしるしでありました。(ホセヤ1:2〜3)
 神を神とも思わず堕落の道を歩む反逆の民に赦しの愛を示された日、それは驚くべき奇跡の日ではありませんか。メシヤの到来は、神ご自身の顕現の日であり、神の御心が示された日です。暗黒の世に光を見るがごとき神のみわざのすばらしさを賛美いたしましょう。
聖書のことば
エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
イザヤ書11章1節

聞かれる祈りと聞かれない祈り  ルカの福音書18章9〜14節
2003年12月14日第2聖日牧師山宮利忠
 熱心な求め方には、真の必要と信仰が証明されると教えられた主は、今度は祈りの仕方、祈りの姿勢を一つのたとえで教えられました。一言で表せば謙虚な祈り方が聞かれる祈りだということです。祈りは必ず答えられるのですが、これはそれ以前の問題です。宮での祈りは、特に答えられるというのが当時の考え方でしたから、ここに登場する二人も宮で祈ります。
 一人は例の宗教家パリサイ人です。彼は堂々と自分の行為や立場を祈りあげては、近くで祈る取税人のような者でないことを感謝します。どこから見てもいやな祈り方です。それに加えて聖書は立ってということばと心の中でという二つのことばで彼の祈りの悪さを指摘します。心の中とは、自分自身にむかってという意味にとれる独白です。
 一方罪人と言われていた取税人は、自分自身を罪人と認め、内省的で、聖い神の前に自分自身を置いて神に直面し、しかも神に顔向け出来ない自分を、遠く離れ、目を伏せるという態度にあらわして祈ります。そして彼の唯一の拠りどころは、神のあわれみであることを祈り求めるのです。主は祈りとは謙虚なものでなければならない、いや人が神に真に祈ろうとする時必然的に謙虚にならざるを得ない、それこそが神に向う人の在り方だと教えておられます。祈りの答えがどうかと考える前に、果たして聞いていただける、耳を傾けていただける求め方をしているだろうかと考えましょう。
聖書のことば
神さま、こんな罪人の私をあわれんでください。
ルカの福音書18章13節

失望せずに祈りなさい  ルカの福音書18章1〜8節
2003年12月7日第1聖日牧師山宮利忠
 執拗に願う女のたとえは、失望せずにいつでも祈ることを教えるたとえとして語られました。時に子供はしつこくねだることによってその願いをかなえられる事があります。はたして主は、執拗に願えば、みこころを変えて、本当はかなえられない事であっても、あまりのしつこさに根負けしてかなえて下さるのでしょうか。
 まずこのお話しは、失望しやすい私達に語られている事を知らねばなりません。人に失望し、自分に失望し出来事に失望し、そして将来に失望しやすい者なのです。特に信仰に伴う迫害や困難に置かれた時に私達は希望を失いやすいものです。しかし希望は神の内にあることを学ぶ必要があります。そしてその手段は祈るという方法なのです。
 ここに登場する不正な、この世的な裁判官は、神をあらわすものではありません。ここでは真剣な求めに比重がおかれています。何故ならば、真剣な祈りは人の本当の必要を明らかにし神がその祈りにおこたえ下さるという確信を明らかにするからです。
 答えられるかどうか判らないけれど、祈ってみようなどという祈りに神は答えられる筈はありません。不正でわいろをとって裁判をまげるような裁判官でも、真剣で執拗な求めには心を変えるとしたら、まして正しい裁判官である主が、真剣な祈りにおこたえ下さらないわけがないのです。ここに希望があります。人に迫らず神に迫る祈り、そんな信仰の祈りが今見られるでしょうか。
聖書のことば
いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために。
ルカの福音書18:1

主からのチャレンジ  出エジプト記3章
2003年11月30日伝道師安藤修司
 モーセは、神の山で、燃える柴の中から語りかける主のことばを聞きました。神様は、彼に「わたしの民をエジプトから連れ出せ」と命じられたのです。しかしモーセは、自分はその働きにふさわしくない者ですと固辞します。40年前、彼は同胞を救おうと努力しましたが、同胞にも受け入れられず、パロはその事を知って彼を殺そうとしました。モーセは恐れて逃げ、ミデヤン人の元で羊飼いとして生きてきたのです。どうして今になって神が自分を立てようとされるのか、、、彼は主の召しに恐れました。やがてモーセは、主の召しに立って民を救い出し、約束の地へと導きます。ところが、民の不信仰のために荒野の40年の放浪を余儀なくされ、彼自身は約束の地に入れませんでした。それでも彼は、主の約束を受け継いだ子供たちが約束の地で勝利し主の栄光を表わすために、主のみ教えを余すところなく伝え、彼らを戒め励ますのです(申命記)。
 主の働きは、私たちの力と意思ではなく、主の召しと主の力によって成し遂げられるものです。大切なのは、主の声を聞きそれに従うことです。また主の働きは、何度失敗しても挑戦し続ける価値のある尊い働きです。だからモーセは、40年前の失敗を乗り越えて立ち上がり、また荒野でどんなに困難があっても彼自身が約束の地に入れなくとも、みことばを伝え、働き続けました。あきらめないで挑戦し続けるところに勝利と結実があります。ペテロもパウロもマルコもそのようにして主に用いられました。私たちも主が来られる時まで、挑戦し続けたいものです。
聖書のことば
神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。
主エジプト記 3:12

主の良くしてくださったことを忘れるな  詩篇103篇2節
2003年11月23日第4聖日牧師山宮利忠
 人は、忘れ易いものです。忘れてよいものもあれば、忘れてはならないものもあり、忘れることによって感謝が薄らぎ、誓いが守れず、礼を失する事になります。そのような事にならないためにーーー。
 私共の教会の過去40数年の歩みに対して主のなして下さったすばらしい恵みを何一つわすれてはならないのです。まず、この横浜の地に福音を伝え、教会を建てようとした宣教師の最初の働きと、その宣教師を支え祈った米国諸教会の志を忘れてはなりません。多くの犠牲が払われ、労苦がありました。簡単にできた事ではなく血の出るような働きがあった筈です。今私達は、その犠牲の上に信仰生活が成り立っている事も忘れてはならないのです。
 さらに、わずかな借地から広い土地をお与えくださり、多くの主にある聖徒を加えて下さった主のお恵みの数々を忘れてはなりません。勿論ここにも沢山の信仰から生れる犠牲が伴いました。その犠牲を喜んで払った今までの兄姉の労に感謝せねばなりません。今豊かに恵まれて教会活動ができるのは、一つ一つの主の恵みが積みあげられてきたからです。そして 今、教会が教会を生み出すみこころに添った新しい教会の発足を迎えることができたお恵みを心に刻む必要があります。又新しい恵みの歩みが始まるのです。私達の教会が40数年前に歩み始めたのと同じように。
聖書のことば
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くして下さったことを何一つわすれるな。
詩篇103:2

人の子の日  ルカの福音書17章22〜37節
2003年11月16日第3聖日牧師山宮利忠
 神の国の到来はすでにあなた方のただ中にあると語られた主は、その実現の時は、丁度ノアの日の時のようだと、これから現実にこの地上に起る神の国について語られます。人の子の日とは、キリスト再臨の時を指し、主の日とも終りの日とも言われ、新約聖書の大重要事項として、25節に一節の割合でこの日に関して記されているとも言われています。ノアの日の時とは、創世記6章に記されている事実です。この日はどんな日であったのでしょう。
 第一に、世に悪がはびこった時でした。神に反逆した人類は,罪と死の中を己の思いのままにつき進み暴虐が世に満ちます。神はその栄光のために創造した人類を悲しみ、それを一掃しようとされるのです。世は正しくノアの日のごとく罪に満ちた時代ではありませんか。
 第二に、神の警告に耳を貸すことのない時代でした。彼等は、飲み食いとつぎ等し、それを無上の喜びとし、神への信仰とか聖書のことばに心を向けること等愚かしい事と片づけていた時代です。
 第三に、滅びは突然にやってきました。人々が平安だ無事だと言っているその時突然終りの時がやってきたのです。しかしノアの時も神は救いを用意されました。そして今神はイエス・キリストによる救いを備えて下さいました。
聖書のことば
人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起った事と同様です。
ルカの福音書17章26節

私たちのただ中にある神の国  ルカの福音書17章20〜21節
2003年11月9日第2聖日牧師山宮利忠
 神の支配する神の国の光景は、ユダヤ人にとっては大きな関心事でした。ダビデの再来を信じ、国の復興を望んだ彼等は、その実現がいつなのかは重大な事でした。ですから彼等は「神の国はいつ来るのか」と問うのです。
 イエスは次のようにお答えになりました。「神の国は、あなたがたのただ中にある」と. 神の国の到来に関しては、現在と未来の二つの面から考えなければなりません。即ち、イエス・キリストを救い主と信じた者は、既に神の国に入ったのです。(ヨハネ3:3)そこには、キリストを主とする新しい生命をいただいた神の子たちの、新しい生活があります。彼等はキリストの内に神の国の具現を見るのです。
 しかし同時に、神の国は誰にでも判るかたちではっきりと実現します。それを主は22節からお語りになるのです。それまで人は先走りをして、再臨が既にあったとか、再臨はないとか、すぐにでも世の終りが来て神の国が目に見えるかたちで実現すると考えて、落着かない生活をしてはならないと教えられます。
 いいですか、(見よ)と念を押して語られる主のおことばは「神の国は、私たちのただ中にある」のです。神の国は始まっています。何とすばらしい事ではありませんか。世が変らなくても信じる者の内に大きな革命が、既に起こっています。
聖書のことば
いいですか、神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。
ルカの福音書17章21節

救われた者の証明  ルカの福音書17章11節〜19節
2003年11月2日第1聖日牧師山宮利忠
 ルカ特有の記事です。ガリラヤとサマリヤの境での出来事ですから、一緒に生活をしていた人達は、病という事の故に日頃おつきあいのなかったユダヤ人とサマリヤ人とが共同生活をしていた事になります。ライという病にかかった人達の生活はとても悲惨なものであって、病そのものだけでなく社会的にも精神的にも、勿論経済的にも言葉に尽くせない苦しみの中にありました。彼等はキリストのうわさを耳にして、主が来られるのを待ちのぞみます。まず、遠くから大声であわれみを求めます。彼等の切実な求めは、大声をはりあげてあわれみを求めるところにあらわされています。求めが切であるところに主は心を動かされるのです。
 彼等は、信じて行動します。祭司に見せに行くことは、当時の律法に定められたところで、彼らは主のおことばに従って祭司に見せに行こうと出かけます。その途中で彼ら10人は病がいやされるのです。主のことばを信じて行動に移したその時主のみわざはなされました。
 しかしその内の一人だけが主のみもとに戻り感謝するのです。彼は大声で神をほめたたえながら引き返して来て主の足もとにひれ伏して感謝します。ただいやされるというだけでなく彼は心の内に、いやし主をあがめ、感謝するという、助けられたというより、救われた者のあかしをします。
聖書のことば
そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。 
ルカの福音書17:15

あなたの天幕の場所を広げよ  イザヤ書54章2節
2003年10月26日第4聖日牧師山宮利忠
 誕生した子供の健全な成長を願わない親はいません。霊の父なる神も同様です。神の子達の限りない成長を願って導き助けようとしておいでです。もし子供に更に成長しようとする意志と意欲がなくなったとしたらどうなるでしょうか。食事をとろうとしない、生活もなげやりでどうともなれと毎日の生活もいきあたりばったりであったとしたら、最も悲しむのは父なるお方にちがいありません。
 私達の心や霊的領域、さらにはそれに付帯する物質的領域のすべてによりよく成長しようとする意欲を失ってはならないのです。志のあるところに神は働いて下さいます。教会として又一人の人として私達は成長をとげているかどうかを時々点検しふりかえってみる事が必要です。
 赤ちゃんの時には何も出来なくても構わないでしょうが、成長したらそうはいきません。自分の足で立ち、自分の手で働き、自分の判断で行動し、責任をとらなければならないのです。主は弟子達をよく訓練されて宣教の働きに遣わされました。しかし遣わされる前の訓練期間は、いかなる失敗も主は受けとめて下さったのですが、遣わされた後の弟子達には、支えはして下さったとしても自立した働き、責任をとれるだけの覚悟をもった働きを求められました。幼い時の甘えを捨てて神の栄光のために己を捨てて凛々しく働く弟子を期待され、弟子達はそれに応えたのです。
聖書のことば
あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り、伸ばし、網を長くし、鉄のくいを強固にせよ。
イザヤ書54:2

役に立たない僕です  ルカの福音書17章1〜10節
2003年10月19日第3聖日牧師山宮利忠
 使徒への勧めでしょう。躓きが起こるのは避けられないが、躓きをあえておこさせる者は忌まわしい、又兄弟が罪を犯したら戒めること、もし悔い改めてたとえ一日に7度そのようなことがあったとしても赦しなさい。と日頃おこりうる出来事の中でも、キリストを信じる者として非常に高度な求めが主から、与えられます。弟子達はただちにそれは信仰が増さなければできない事だ、今のような幼稚な信仰ではとてもできない。だから「信仰を増して下さい。」とお願いします。
 しかし主は「からし種一粒程の信仰があればできる」と答えられるのです。からし種は肉眼でようやく見える程の小さな種です。信仰は量ではない、たとえからし種の小さなものでもそこにいのちがあれば大きく働くと教えられました。その小さなからし種ほどの信仰とはいかなるものかを示されたのが役に立たないしもべのたとえです。このしもべは一日の労働を終えて戻ってくると主人の食事の仕度をした後自分達の食事をし、しかもすべきことを全部した後で「わたしたちは役に立たないしもべです」と言いなさいというのです。
 主人に仕えるしもべとして徹底してなすべき事をしつつ尚主人の前では自分の足りなさを告白する事、これこそが信仰の質なのでしょう。自分の立場とふつつかさを自覚する謙虚な思いを持つ者が、人を配慮して躓きを与えず、人を赦す事ができると教えます。
聖書のことば
私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。
ルカの福音書17章10節

逆転する人生  ルカの福音書16章19〜31節
2003年10月12日第2聖日牧師山宮利忠
 旧約における神の定め(律法)は、何一つ廃棄されたり無効となるのではなく、律法を守る人間の行為以上の心の碑に記される福音の力のすばらしさをこの話しはさらに強烈に私達に示すものです。
 この話しに登場する二人は、世の両極論を示すものでもあります。金持は世の成功者であり、人々から尊とばれる存在でありながら、門前で物乞いをする極貧のラザロの存在を知りながら、何一つ助けの手を伸ばすことをしない、無慈悲な心の持主です。彼は神から命じられている労働もすることなく毎日贅沢に遊び暮らしている、一般的にはいいご身分な存在です。
 しかし一方、ラザロは、貧しさ以上に病を持ち、気力も衰え見るのも哀れな状態ですが、人の物を盗んでまで己を助けようとはせず、おきてに定められた富める人のあわれみにすがろうと門前で物乞いをする「神は助け」という名を持つ貧しいが神に頼もうとする信者です。富める者や一般の者達には、神を信じているなら何故そのような哀れな状態なのだと譴責されていたであろうと思われます。
 しかしこの二人は、人生の最後にやってくる死をもって逆転します。人の見る目と神のご覧になる目とは異なるのです。自己中心で憐みの心を持たない金持はハデスに行っても身勝手です。だからこそ彼は永遠の苦しみに行かねばなりません。神のことば聖書に耳を傾け、それに従おうとする者はたとえ今苦しくとも逆転します。
聖書のことば
しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
ルカの福音書16章25節

心をご存じの神  ルカの福音書16章14〜18節
2003年10月5日第1聖日牧師山宮利忠
 金(この世の不正な富)を愛するパリサイ人の心には、富を善のしるしであり、善行の報いでしたから「神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われたイエスの言葉を鼻であしらい、あざわらうのです。
 主は大切な事は心だと言われます。旧約のおきても福音の時代もその根底にあるものは心でありメシヤなるキリストは人の心を変えその本性を変えることによって不変の律法を全うするようにさせる奇跡の働きをなさいます。
 この箇所は次のラザロと金持の話とも関連して人生の逆転を教えるものですが、この世に重きをなして、富に万能の力を信じる誘惑は、私達の現実の生活に常につきまとうのです。先立つものは何とかで、富は全てに解決を与える力だと思い易いものです。たしかに富は繁栄をもたらす神の恵みの一つに違いありません。
 しかし聖書は富を信頼せず、富を与え豊かさを与える神を信頼するように教えます。富は人を誇らせ、神への信仰を希薄にさせてしまうからです。そしてそのような生き方は、やがて大きな逆転を経験しなければならないのです
 ダビデはその信仰と神へのいつわりのない心の故にイスラエルの王に選ばれます。人は外の顔かたちを見ますが、神は人の心をご覧になります。心の正しい人は何事にも神のあわれみと助けを受け、その最後は祝福を与えます。
 その心こそが律法を全うする力となるので、それをキリストは与えるのです。
聖書のことば
あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。
しかし神は、あなた方の心をご存じです。人間の間であがめられる者は神の前で憎まれ、きらわれます。
ルカの福音書16章15節
小事に忠実であれば大事にも  ルカの福音書16章1〜13節
2003年9月28日第4聖日牧師山宮利忠
 そのまますらっと読んでしまうと何の事か判らない難しい教えです。
 1−8節までは、抜け目なく利口に自分の将来の安全を確保しようとした不正な管理人のたとえで、おおような主人は、このぬけめない管理人の利口なやり方をほめます。9−13節までは、このたとえを通して教えられた主イエスの勧告です。
 ここでひっかかるのは不正の富という言葉でしょう。これは人から盗んだ言われある金という事ではありません。神から離れていよいよ物質、拝金主義となっていくこの世の富の総称です。全てのものは神からの預りものという考え方とあい反する世の富が神となってしまっている富をさします。
 しかし主は、このたとえでこの世(不正の)富をいかに用いるべきかを教えるのです。その第一は、この世の子らのごとく、不正の富を得るのに熱心である程に魂の豊かさの為に熱心であるなら、その影響力はいか程であろうかと。第二に、この世の富の正しい使い方こそ御国への備えとなると語られます。金持ちとラザロの話は、そのよい一例です。持てるものをどれ程与えたかによって、持てる人の真価があらわされます。第三に、この世のものへの忠実さが神のみ国の大事への忠実さにあらわされるのです。忠実さは事の大小によりません。その人の心一つなのです。そして最後に人は神と富とに同時に仕えることはできない。神にか、そうでないかのいずれかなのです。
聖書のことば
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
ルカの福音書16:10

息子の帰りを喜ぶ父の愛  ルカの福音書15章11〜32節
2003年9月21日第3聖日牧師山宮利忠
 教会に足を運ぶ者であれば一度は耳にする放蕩息子のたとえは、この章の三つのたとえのクライマックスと言える福音の中の福音とでも言える有名なたとえです。家から飛び出した息子の回心が中心のように扱われ易いのですが、このたとえの中心は、家出息子の帰りを喜ぶ父親の愛が主なる教えです。
 それは、迷える一頭の羊の帰りをみんなで喜び、失った銀貨を近所の人を集めてまで喜んだ女の喜びと共通するものです。ここにも帰って来た羊をあなたの息子と呼んで共に喜ぶことをしないパリサイ人の姿が背景にあります。
 まず父親は、弟息子の心を尊重している事が判ります。父親の力で息子の家出をとどめる事はできたかもしれません。痛みと悲しみを抱きつつ、自分の道を行こうとする息子を強制的にとどめようとしません。その意志をを尊重し、じっとみつめて送り出します。そして赦している父をみます。
 息子はやがて己の愚かさに気づいてボロボロになって戻ってきます。父親はその姿をいちはやく見つけるのです。いつか必ず帰ってくると忍耐して待ちつづけた父親は、既に放蕩した息子を赦しているのです。自ら走り寄り、しっかり抱き、くちづけしてやまない父親は息子の行為や姿ではなく、息子の存在そのものを喜びます。かつてなかったほどの大祝宴を開いて息子の帰りを喜ぶのです。神は私達を忍耐強く待ち、愛し、赦して下さっている事に気付く者は救われます。
聖書のことば
この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。そして彼らは祝宴をはじめた。
ルカの福音書15章24節

見出された一枚の銀貨  ルカの福音書15章8〜10節
2003年9月14日第2聖日牧師山宮利忠
 第二のたとえは、失われた銀貨のたとえです。10枚の銀貨は、この女性にとってはかけがえのない大切な銀貨であることが、この女性の熱心な探し方と発見した時の喜びようであらわされています。
 パリサイ人にとっては、神が人を探し求めるなどという事は考えられないことでした。人が己れのみにくさにうちひしがれ、おそれおののきつつ神の前にひれ伏すことこそ彼等の考えたあるべき姿です。しかしイエスは、失われた一匹の羊を自ら探し求め、一枚の失われた銀貨を灯をかかげて家を掃いてまでみつけようとする神の執拗なまでの求めは、全く考えもしない神のお姿でありました。
 私達は、一日の労賃にあらわされる程の価値の少ない存在です。しかもあるべきところから失われ、暗やみにただ存在するだけのものとなっているとすれば、まことにあわれなものと言わねばなりません。神の御手の中に握りしめられてこそ、人の真の価値があるのです。しかし神は10の中の1つとしてではなく、1つとして私を探し求め、私が神を必要とする以上に神が私を必要としていること、それ程までに私を尊いとして下さっている事を示して下さっています。この一方的な神の捜索に気づくこと、そしてそれ程まで愛されている事に気付くことこそ信仰なのです。その叫びをキリストの十字架から聞くことができる人は幸いです。神は大いに喜んで下さいます。
聖書のことば
なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んで下さい。
ルカの福音書15章9節

探し出された羊  ルカの福音書15章1節〜7節
2003年9月7日第1聖日牧師山宮利忠
 三つのたとえは、その背景として自己義認者であるパリサイ人が意識されています。最後の放蕩息子への父の愛が、このたとえのクライマックスですが、一貫して示されているのは、戻された事の喜びです。
 羊は、人をあらわしていますが、有益でありながら弱くて愚かです。羊飼い、すなわち神の保護なくして生きてゆかれません。神のもとから迷い出した羊こそ我々一人一人なのです。たとえは、その全てが聖書の教えに合致しているわけではありません。何を教えんとされているかを学びとる事が必要です。
 まず羊としての人そのものを考えましょう。羊はユダヤの社会では最も有益な家畜として位置づけられます。宗教祭儀に用いられた外、その全ては使われないところがない程生活上の必要を満たすものでした。しかし羊自体はまことに弱い動物であり、群をなして羊飼いの保護のもとで養われない限り生存は不可能と言って過言でない程のものであり、度々群から迷い出しては、羊飼いを困らせるものでもあります。人はまさしく神の御手から迷い出した羊のごとく、危険な状態でありながら、又自ら弱いものでありながら己が道を歩むものです。
 神は迷い出た私達を探し出してつれ戻そうと御子キリストを羊飼いのごとくつかわされ救いに導こうとされています。見出された者は幸いです。なによりも天に大きな喜びがあると聖書は教えます。 
聖書のことば
いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。
ルカの福音書15章6節

最後まで弟子を愛された主  マタイの福音書 26章29-46節
2003年8月31日第5聖日伝道師安藤修司
 イエス様は、最後まで従ってきた11人の使徒たちに、彼らが主を見捨てて逃げてしまうことを宣告しました。彼らは必死で否定しましたが、主がゲッセマネの園で苦しみ祈る時に弟子たちは眠りこけて共に祈ることができず、主を捕える者がやってきた時、彼らは語られた通りに、主を見捨てて逃げ、ペテロは主を否んでしまいました。しかしこの痛ましい失敗の出来事の中にも、弟子たちを見捨てずに愛する主の大きな愛があかしされていました。
 第一に、彼らのつまずきも神のご計画にあることを告げられました。弟子たちのつまずきは聖書の預言の成就(ゼカ13:7)でした。人間的な思いに支配されていた弟子たちの信仰が聖められ、神の恵みの力のみによって支えられるために、この試練に渡されたのです。
 第二に、彼らが回復して主と再会することを告げられました。主は、弟子達のつまずきだけでなく、彼らが「ガリラヤでよみがえった主と会う」ことを約束され、彼らが再び立ち上がれるように備えて下さいました(32)。
 第三に、弟子たちが御自身を失望させても見捨てられませんでした。最大の苦しみを迎える主は、彼らに共に祈ってほしいと願いますが、彼らは肝心の時に役立てなかったのです。しかしそんな彼らに主は「さあ、行くのです」(46)と声をかけます。受難の道とつまずきの道、一時は離れているように見えても、弟子たちはやがて主と同じ道に進むことを主は御存知で声をかけられました。主イエス・キリストは、私たちをどんな激しい試練や失敗の中でも見捨てることなく導き、勝利させてくださいます。 
聖書のことば
しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。
マタイ 26:32

インドネシア訪問と按手の恵み 
2003年8月24日第4聖日牧師山宮利忠
 入江宣教師が佐倉での伝道を後継者に渡してインドネシア、正確にはスマトラ半島メダンに渡ったのは、1975年12月の事です。今から28年前になります。メダンは人口の90%以上がイスラムである中で、バタック族を中心にキリスト教徒の多い町でもあり、町のそこかしこにキリスト教会堂が目につくところです。バタック族はメダン山岳地帯に住む昔は人食い人種と言われたいかにも勇猛な肌の色の濃い人種です。
 今回按手を受けるルックマン師はメダンより北に位置するアッチェ出身でバタック族ではありません。私が兄弟にお会いしたのは、1981年4月最初にお招きをいただいてメダンを訪れた時でした。その時兄弟は高校生で、純朴な好青年でした。その時から22年の時が流れ、今教会の指導者として、一家庭のあるじ又伝道者と召されて按手を受けられる事はまことに大きな喜びです。入江宣教師にとってもメダン伝道初期の霊の果実であるわけですから、今回の按手礼式は宣教師として大きな喜びであり慰めであるに相違ありません。
 現在メダンには、メンテン・ケサワンの両教会と共に神学校のキャンパスと宣教師館が建てられ、トバ湖方面にあるシアンタールでの開拓伝道が入江宣教師によって行われています。健康面での心配と年を重ねた宣教師にとって、息子の結婚と按手は二重の喜びとなる事でしょう。
聖書のことば
私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
テサロニケ人への手紙第一 2:19

祝宴へ招待 ルカの福音書14章15〜24節
2003年8月17日第3聖日牧師山宮利忠
 神の国の喜びは祝宴にたとえられます。花嫁なる教会は花婿なるキリストとやがて婚宴をもつことになるのですがそこには大いなる祝福と喜びが約束されています。そして今はその婚宴への招待状がとどけられている時と考えてよいのでしょう。神の国の食事にあづかる人は幸いですねという客の言葉に主は、選民イスラエルを招待したが、彼等は色々理由をつけて食事の招きに応じなかったとたとえを語られました。ある人は畑を買ったから見に行くと、ある人は牛を買ったのでためしに行くと、そしてさらにある人は結婚したので行くことはできないと断ったため、招いた主人は、しもべに言いつけて町にいる人々や街道に出かけて行って誰でも、無理にでもつれて来るように命じます。勿論断った人達は誰一人食事の恵みにあずかることはできなかったのです。この事は今の私達にもあてはまります。神の国の祝福に招かれているのは全ての人達です。しかし何と多くの人達がこの招きに応じないことでしょう。神は今、イエス・キリストの十字架の赦しという招待券を無料で与えようとしています。ある人は忙しいと言い、ある人はそんな食事は不用だと言いある人は関係ないというのです。又信者と言われる人でもイエスの祝福への招きに様々な理由をつけて断る事があるのではないでしょうか。天の恵みは、招きに応じるところに豊かだと言う事を覚えておきましょう。
聖書のことば
主人は言った.「街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。
ルカの福音書14章23節

己を低くする者は高くされる ルカの福音書14章1〜14節
2003年8月10日第2聖日牧師山宮利忠
 これも安息日の日のできごとです。律法学者、多分サンヒドリン(議員)の一員であった者の招きによって食事の席に着いた主は、そこに招かれざる客を発見します。彼は当時神ののろいと思われていた水腫をわずらっていました。主は彼の内にいやされる程の信仰をご覧になったのでしょう。ひややかな視線の中で彼をいやして帰らせます。
 主はそこにいる者達のあわれみとへりくだりのない様子をご覧になり、彼らに憐みと謙遜を教えられます。人より上座に座ろうとする者に、婚宴の席に招かれたら下座に座るように、そうすれば招いた人が来てどうぞ上座の方へお座り下さいとうながされて面目をほどこすになるだろう。又招く人に対しては、自分のお気に入りの仲間ばかりでなく、貧しい人や困難を覚えている人達を招きなさい。彼らは返礼ができないので、天に宝を積むことになると教えられ、規則を守っていればそれが敬虔であるかのように錯覚しているパリサイ人に真の在り方を示されました。
 私達は生れついて誇り高いものです。ひとよりぬきんでよう、人を押しのけてでも出世しよう、功成りとげれば自分の業績を誇って銅像をつくり名を残したいと思うのです。しかし主は最終的に人を評価するのは神であることを示し、その神は己を低くする者を高くし、己を高くする者を低くされるお方だと語られました。真の謙遜を身につける事こそキリストの僕です。
聖書のことば
なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ自分を低くする者は高くされるからで
す。
ルカの福音書14章11節

ああ、エルサレム、エルサレム ルカの福音書13章31〜35節
2003年 8月3日第1聖日牧師山宮利忠
 勿論エルサレムは町の名だけではありません。選民イスラエルの不信と不従順に対するイエスの嘆きと悲しみがこめられた叫びです。めん鳥がひなを翼の下にかくまうように、いくたびも集めようとしたが、彼等はそれを好まず、己が道へ走っただけでなく、神が遣わされた預言者を殺したのです。
 ここには、生んだ我子の離反の悲しみがあります。親鳥が精魂こめて育てたひなが、親の苦労も心遣いも意に介することなく親元から離れてわがままに行動する悲しみはひとしおなのです。現代多くの若者がプチ家出をし、携帯電話の多額の使用料を親に支払わせ、あげくの果てに警察の厄介になって親がひきとりに出向く親の痛みと悲しみに共通するところがあるように思われます。度々かばう親の愛も通じない嘆きがあります。
 人の内には、どうにもならない罪の性質があり、たとえひとたび後悔したといえども、二度と同じあやまちをしない保証はどこにもなく、そのたびに反省をしても又同じ泥の中へ入りこんでしまう姿に幾度となくかばってみたがもうかばいきれない嘆きがあります。そしてその最後は、大きな悲しみと滅びが待っている事を知る親の悲しみがあります。主は私達をご覧になって嘆かれるでしょうか、それとも・・・?
聖書のことば
ああ、エルサレム、エルサレム、預言者達を殺し、自分に遣わされた人達を石で打つ者、わたしはめんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾度集めようとしたことか、それなのに、あなたがたは、それを好まなかった。
ルカの福音書 13:34

狭い門から入る努力 ルカの福音書13章22〜30節
2003年7月27日第4聖日牧師山宮利忠
 努力するという言葉の意味は、この場合苦悶する、苦闘するという意味です。狭い門とは、いのちに至る救いの門をさしています。(ヨハネ10:9)あたかも迷路から出口を探し出すような努力を想定すると判り易いかもしれません。弟子の「救われる人は少ないのですか」という質問に対して、主は「努力して狭い門から入れ」と答えられたのです。
 まず、神の国に入るためには自動的に入るのではない、という事が示されています。人は死んだら即天国と言うわけでも、クリスチャンの家庭に育ったから、エスカレーターのように救いへというわけでもなく、努力がなくてはならないというのです。この努力とはどんな努力なのでしょう。それは求めのための努力です。パウロは自分を見つめる時、そこにみじめな死んだ自分を発見しました。このような自分を救ってくれる方はどなたかと求め、苦しみ悩んだのです。求道の苦しみだけでなく、神の国に入れたとしても神の子として育ち天の御国へたどりつくまでには、多くの戦い、苦しみを経なければなりません。御国への門といのちの道は主キリストが備えて下さいました。この道をしっかりと歩みつづけるために、己の十字架を負って従ってきなさい。即ち自らを十字架につけて従うことを求められています。
 ですから、この努力、戦いを勝ち抜くには、先に走っていた人が後になったり、後の者が先になったりすることがあるわけです。<聖書のことば>
聖書のことば
努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますがはいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。
ルカの福音書13:24

からし種とパン種のように ルカの福音書13章18〜21節
2003年7月20日第3聖日牧師山宮利忠
 安息日に病の女性を解放した奇蹟を見た群衆は、その輝かしいみわざを喜びました。それは神の国の到来をあらわすみわざでもあったわけです。主は、神の国について語られ、それはからし種のようであり、又パン種のようなものだと教えられました。両方とも小さく、わずかなものであるにも係らずやがて大きくなる比喩として用いられています。即ち神の国のはじまりは小さいが、やがて世界に広がり、大きな影響力を持つというのです。たしかに、以来、数千年キリスト教は全世界に拡大してきました。しかし終末的にはキリストの完全な支配があることを暗示しています。からし種とパン種は、福音による救いです。人の内側に働いて、それは大きくなるのです。私達の間に働く神の国のすばらしさをしっかり確信して、御国の住人としての喜びにあずかりたいものです。内にいのちの種を持つ者は、いかにして判るのでしょうか。それはからし種のように小さな種が鳥がとまる程大きくなるがごとく、又わずかなパン種(イースト菌)が大きくパンをふくらませるように、著しい変化です。イエス・キリストを救い主と信じる者の内に働く力は、その人を変えます。しかもより良く変えるのです。そしてそれは弛みなく成長するのです。キリストを信じる前と信じた後の変化を数えて、自分が神の国の住人とされた事を喜べる人は幸いです。
聖書のことば
神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。それは、からし種のようなものです。
ルカの福音書13章18節

安息の日のいやし ルカの福音書13章10節〜17節
2003年7月13日第2聖日牧師山宮利忠
 安息日(あんそくにち)は、天地創造の第7日目、神が創造のわざを休まれた事に由来した安息の日の創造です。この日は、仕事をせず神への礼拝と奉仕の日として聖別することが戒めで定められました。(出エ20:8)
 イスラエルの民はこの日を命がけで守らねばならなかったわけです。しかも細則をもうけて、この日を守ることに最も大きな力を注ぎました。ですからこの日に人をいやす等という事は、もってのほかだったわけです。しかしイエスはこの日18年もの間病に苦しんでいた女性をいやされます。彼女は腰をのばすこともできない不自由な体でありながら会堂に来て聖書を学び礼拝をささげていたわけです。主はこの苦しむ女性を豊かに憐れまれて、18年間の苦しみから解放してあげました。
 ここには形だけを重視する形式主義者と神の前に何が大切なのかを判断することのできない者への強い警告があります。たしかに安息日を守る事は神のご命令ですから守らねばなりませんでした。しかし何のために守らねばならなかったかと言えば、それは私達の益の為に守る必要があったからです。この日は魂の解放の日、現在では復活の日であり、リバイバルの日です。永遠の安息を覚えて神を礼拝し、内なる癒しと力をいただく日なのです。キリストは安息日の主なのですから、主がこの日苦しみから解放された事は、私達にとって大いに喜ぶべき幸いな日です。
聖書のことば
安息日だからといってこの束縛をといてやってはいけないのですか。  
ルカの福音書13章16節

実を結ばないいちぢくの木 ルカの福音書13章1節〜9節
2003年7月6日第1聖日牧師山宮利忠
 ピラトの虐殺事件も、シロアムの塔の倒壊事件もそれにあった人の災難に対して、彼等は罪深かったからだというのが当時の人々の考える事でした。しかしイエス・キリストは、そのようには教えませんでした。不幸な目にあった人々が特別に罪深かったからではない。皆同じであって悔い改めて神にたちかえることをしなければ同様に滅びてしまうと語られました。そのたとえとしてこのいちぢくのたとえを語られたのです。
 三年間も期待を外された主人は、根を張って邪魔ないちぢくの木を切り倒してしまえと番人に命じます。すると番人はもう一年猶予を下さい。手入れをしてみます。もしそれで駄目なら切り倒しましょうと願います。果たしてこのいちぢくの木は実を結ぶことができるのでしょうか。それは極めて疑わしい。ただきり倒されるのを待つのみという気配がします。ただ望みがあるとすれば「悔い改める」ことです。
 昔イスラエルは、預言者イザヤによってぶどう畑の預言が示されました。主人は畑をほりおこし、石を取り除き、良いぶどうの実るのを待ち望んだが甘いぶどうはならず、酸いぶどうができてしまったと、神の期待は見事に裏切られ彼等は、大いなる神の審きに会わねばなりませんでした。かすかな望み、すなわち一年の猶予があります。今は恵みの時です。十字架の赦しを信じ、神にたちかえる救いの日がしばらく残されています。
聖書のことば
番人は答えて言った。「ご主人、どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから」
ルカの福音書13章8節
時のしるしを見分ける知恵 ルカの福音書12章54〜59節
2003年6月29日第5聖日牧師山宮利忠
 私達は明日の事を知りたい、知ろうとするものです。天気予報等は実生活の中で大いに役立ちます。占いがはやるのも明日やこれからの事を知ろうとする人の心のあらわれです。たしかにこれからの事が判れば今どのように生きたらよいかが判断できるというものです。主は人が季節の移り変わりを敏感に察知する点を指摘して、今の時を見分ける知恵を持つことを教えられました。それは丁度罪ある者が告訴されて判決を受け牢につながれる事に似ていると言うのです。
 人の定めは残念ながら死と審判です(ヘブル9:27)。やがて来る時のしるしは、わたしたちの心の内を調べれば十分に判る筈です。わたしたちは最後のレプタを払えばよいのですが、それさえもはらうことのできない大いなる負債を聖なる神の前に持つ者だという事を悟らねばなりません。又この時代のしるしをも見分ける知恵が必要です。世の終りの前兆はいたるところに見出されるでしょう。いちぢくに実がつくと夏が近いことが判るように、世の終りの前兆はいたるところにみつけることができるのです。戦争や暴動、民族は民族に国は国に敵対し、地震や疫病、ききんが起ります(ルカ21:9)。
 たしかにこの時代は、確実に滅びに向かって驀進しているのです。自らの終末とこの世の終末に気付き備えをする人は、知恵ある人であり、自分の時を見分ける者は、真剣な求めと生き方ができる人です。
聖書のことば
あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。
ルカの福音書12章56節

剣を投げこむキリスト ルカの福音書12章49〜53節
2003年6月22日第4聖日牧師山宮利忠
 メシヤ誕生にあたってみ使いは「地には平和」と歌い、預言者は「平和の君(王)」の到来を預言しました。キリストご自身も「平和をつくりだす者の幸い」を教えます。しかしその平和は私達が考えているような平和とは異なる平和なのです。(ヨハネ14:27)
 このおことばの背景はミカ書7章6節にあります。イザヤと同時代の預言者としてイスラエルの滅亡と南ユダへの警告は、どうにもならない選民の堕落に神の厳しい審判がやってくる以外に道はない事を示すものでした。主はこのミカの預言の言葉を引用しつつ、私達の神への不信に対する神のお取り扱いは、まず破壊であることを示されるのです。もはや補修では事が足りない、根本からつくり直されなければならない、新しい生き方をするために古いものが壊されなければならないのです。
 火も分裂も神の審判を象徴的に表わすことばです。マタイはこれを剣と表現しますが、その方が判り易いかもしれません。古い契や習慣、思想や行動を切り離し新しい生き方を造りあげるメシヤの救い、一見破壊に見えますが新しいものをつくりあげるための破壊なのです。混乱もあり痛みもありましょう。しかし私達がつくりあげてきた安逸的、妥協的、物質的平和ではなく、内的、希望的、永遠的な平和、なにものにも動かされない不変的平和をお与え下さるメシヤの救い、そのために主も苦しみを通らねばなりませんでした。
聖書のことば
あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。
ルカの福音書12:51

思慮深い管理人 ルカの福音書12章41〜48章
2003年6月15日第3聖日牧師山宮利忠
 世の終り、再臨にのぞんで「目をさましている」ことを勧めた主は、目のさまし方について教えられます。ルカは特に教会の指導者に対して勧められたように記していますが、マタイやマルコは全ての者への勧めと解しているようです。まず思慮深い生活のしるしは、与えられた神からの賜を忠実に管理することです。日々の生活や私達の人生は、全て神によって与えられ支えられているのだという事を信じる者達は、管理者としての心構えをもってすごすことができます。それこそが豊かにして誤りのない生き方を生み出す秘訣なのです。思慮深い管理人の在り方を見てみましょう。
 第一に、いつ主人が戻ってきてもよいように備えていました。私達の人生には終りがあります。特にキリストは再び来られると約束をなさいました。いつ再臨されるか判りません。しかしいつ主が戻られてもあわてることのない人、あずけられたものを忠実に管理している人は思慮深い管理人だと言われています。
 第二に、あずけられた仕事に忠実な人です。再臨なんかないと思っている人は、全てを私有化し、横暴となって、傍若無人にふるまいます。しかし思慮深い人は、自らの使命を自覚し、神に喜ばれるように生きるのです。
聖書のことば
わたしは真実をあなた方に告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。
ルカの福音書12章44節

目をさましていなさい ルカの福音書12章35節〜40節
2003年6月8日第2聖日牧師山宮利忠
 やがて来る事実についてまず群衆に、そして弟子達へと勧めがなされます。まず、「目をさましていなさい」と教えられました。目をさましていると言う事は、用心している。待ち受けているという意味です。これはやがて実現するキリスト再臨の予告でもあります。旧約の時代の人達がメシヤなるキリストが、イエスのような姿で来られる等とは思っていなかったように、又たとえイエスがメシヤであると判っても真のメシヤによる救いが判らなかったように、今の私達も復活され今父のみもとにあるキリストが再び来られる事を本当に信じられているかどうか、はなはだ疑わしい事でありましょう。
 しかし主は再び来られます。その時目をさましている人は幸いなのです。目をさましているとは、あかりをともし、腰に帯をしている事とたとえられています。二つともたえず、心をそこに置き、油断なく心を用いている事を示しています。ペテロは「心を引き締め、緊張していなさい」(第1 1:3)と教えています。基本的には、信仰生活を忠実にしていなさい。教会生活をしっかり送りなさい。聖徒同志互いに励ましあい徳をたかめあっていなさい。という事です。何故なら何時主が来られるか判らないからです。突然おいでになります。その時慎み深く信仰を守り通している者は幸いです。ともしびをかかげている者は、その忠実さの故に大いに称賛され、あたかも王のように主はその人達を扱ってくださるでしょう。
聖書のことば
帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。
ルカの福音書12章37節

恐れるな小さな群れよ ルカの福音書12章32〜34節
2003年6月1日第1聖日牧師山宮利忠
 群衆へは貪欲への警告をし、弟子達には心配への警告をした主は、人の最終地は天の御国であることを示されて、この地上の生活は最終地ではない事を教えられました。主は「恐れるな、小さな群れよ」と、ご自分に従うキリスト者の群れに語りかけられます。私達は神の創造のわざによる神の像に似せて造られた者であるにも係らず、やはり生ける大いなる牧者である主の守りの中にある羊なのです。
 目前の弟子達は、羊飼いであるキリストが打たれ殺される時、彼等は羊が散るようにさまよい出てしまうでしょう。しかし恐れてはなりません。栄光の主は再び彼等を集め天の御国へ導かれます。私達も今人生の最終地がどこで、その心がどこにあるのかを確認する必要があります。そして羊のように弱い者であることを認め、羊飼いであるキリストのもとに集められ、常にこの恐れるなという御声を耳にして、ふるいたつ必要があるのです。
 弱い者が強くされるその最大の秘密は、人の内に常に「恐れるな。私が共にいる。」という声を聞くことにあります。御国は信じる者の最終地です。即ち最後は天の御国なのです。そこにたどりつくまでのこの世の生き方をいかにしましょう。やがて行く天の御国へ宝を積む生き方こそ賢明な生き方ではありませんか。その方法は主に与えることです。時と労と心と物とを神に与えなさい。それは結局自分の為なのです。
聖書のことば
小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
ルカの福音書 12:32

心配しないで ルカの福音書12章22〜31節
2003年5月25日第4聖日牧師山宮利忠
 群衆に対しては貪欲に対して警戒するように語られた主は、弟子達に対して心配しないように教えられました。たしかに弟子達には心配の材料が沢山あった事には違いありません。仕事を捨て、家族から離れ、ねぐらのないイエスとの日々の生活は、それこそ心配だらけだったと推測されます。しかし主は心配しなくてよい理由をたくさんあげて弟子達に安心するように求めます。
 第一に、いのちを与え守られるのは神だから心配してはならないのです。衣食住は人にとって不可欠なものには違いありませんが、それがあったからとて人のいのちが与えられるわけではありません。蔵を建てかえた貪欲者がそれを証明するのです。
 第二に、神は人の力にまさって私達を守って下さるからです。そらの鳥は蒔いたり刈ったりしませんし、野の花は紡ぎも織りもしません。しかし神は彼らを守り、美しく装って下さるのです。彼らとて生きる闘いをしていないわけではありません。しかし彼らを美しくたくましく支えておられるのは神御自身です。まして人のために彼ら以上によくして下さらないわけはないのです。
 第三に、第一にすべきものを第一にするなら必要は満たされるからです。まず何を第一にするか、それこそが大切で、あとは添え物にすぎません。
聖書のことば
だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
ルカの福音書12:22

信仰の戦いを勇敢に戦い 第一テモテ6章12節
2003年5月18日第3聖日牧師山宮利忠
 パウロは若いテモテに信仰を全うするように命じています。信仰告白と召しのあかしがされてキリスト教徒として又主に自らを献げた献身者として歩み出したテモテに必要な事は、最後まで忠実にその務めを果たすことでした。その中でパウロは、「信仰は戦いだ」と語っています。告白を最後まで誠実に守り通すには沢山の困難が伴う事を指しています。その戦いの内容とはいかなるものでしょうか。
 第一に、守る戦いがあります。主が命じられた信仰者の在り方を、この世の誘惑や自らの弱さからしっかり守るためには、多くの戦いが必要です。告白した事が忘れられたり、曲げられたり滞ってしまったりしてはならないのです。主と教会への変わることのない告白の証明がしっかり守られるためには、どれ程の戦いが必要でしょうか。迫害や異端から信仰を守るためには、激しい戦いが求められるのです。
 第二に、攻める戦いがあります。テモテには、機を得るも機を得ざるも福音を伝え教会を建てあげる責務がありました。福音を正しく伝える務めと共に、救われた魂を教会という集まりの中へ加えて共にキリストのお体なる教会を建てあげ、キリストの花嫁として整えてゆく責務がありました。これも大きな戦いであったでしょう。わたし達に与えられた信仰を戦いをもって守る信仰の勇者が必要です。
聖書のことば
信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。
第一ペテロ6章12節

本当の豊かさ ルカの福音書12章13節〜21節
2003年5月11日第2聖日牧師山宮利忠
 群衆の中から遺産の問題を解決してほしいとの訴えがされた時の答えが、このたとえの語られる発端です。ここで教えられている事は、人が生きることは、いかに持つかではなくいかに生きるかだと言う事です。富める者の愚かさは、魂が生きるのに沢山の物があれば安心だと考えたことにあり、そのような生き方が私、わたしという利己的な生き方となり、又飲め食え楽しめという快楽的な生き方となります。人のいのちは物にはよらない、いのちも物も与える神にあることを知らない愚かさとなってあらわれるのです。
 主は遺産の分配を求めた者の背景に富の分け前を求める人間のあくなき欲望を見てとり、そこに生れるみにくい争いを察して貪欲への警告をなさるだけでなく、いかなる事が真の豊かさなのかを教えられました。すなわち、―神の前に富むことです。神の前に富むとはいかなることを指しているのでしょうか。
 第一に、神こそあらゆるものを支配し保つお方だという事を知ることです。物やいのちは神の御手の内にあり、人は神に生かされている事を知って謙虚になるべきなのです。飲め食え楽しめと言ってくださるのは神御自身です。第二に、キリストを通して与えられるいのちこそ永遠のいのちであり、キリストから与えられる豊かさは、はかりしれない価値を持つことを知る事です。
聖書のことば
自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。
ルカの福音書12章21節

一羽の雀さえ ルカの福音書12章1〜12節
2003年05月04日第1聖日牧師山宮利忠
 イエスのもとに足を踏み合うほどの人が集まって来ました。そんな光景を今も見たいものです。主は先のパリサイ人への譴責に続いて弟子や群衆に対して、終末の世の状態を見越して背教の時代への心構えを教えられました。
 背教という最もあってはならない偽善に対して、自らを守る方法として、第1に、真におそれるべきお方をおそれる事。この世に在る間のいのちを奪うことができてもそれ以上の事もできないものを恐れてはならない。真におそるべき(知るべき)お方は唯一の神お一人。
 第2に、その神の守りを信ずべき事。マタイは、二羽の雀は一アサリオンで売られていると記し、ルカは五羽の雀は二アサリオンで売られていると記します。一羽はあまりにも安価なのでおまけなのでしょうか。そんなものでも神はお忘れにならない。神の配慮と加護は細部にわたることを覚えることです。
 第3に、聖霊なるお方の助けを信ずべき事。聖霊は、慰め主、助け主と言われて信じる者を弁護して下さるお方です。聖霊に対する罪は、神の導きと助けに背を向ける者、丁度パリサイ人のように耳で聞いても目で見ても悟る事のない、かたくなな心の持主が犯す罪です。しかし心砕かれた者に常にとりなして下さる聖霊の助けを信じることです。
聖書のことば
5羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも神の御前には忘れられてはいません。
ルカの福音書 12:6

忌まわしい者にならない為に ルカの福音書11章37〜54節
2003年4月27日第4聖日牧師山宮利忠
 愛深いキリストが激しく叱責した類の人々がいました。ここに登場するパリサイ人と律法学者と言われる人達です。パリサイ人はユダヤ教の一派、律法学者は、その祖をエズラとするバビロニア捕囚後に生れた会堂(シナゴグ)で律法を教える聖書解釈学者でやはりパリサイ派でした。彼等は律法を守るだけではあきたりず、更にこまかい日常のおきてを定め、伝承を尊び、外面的には落度のない立派な生活をしていた十分に尊敬をかちとることの出来た人達です。しかし主は彼らを忌まわしい偽善者だと厳しく責めておられます。何故なのでしょうか。
 第一に彼等は、自分の正しさをたてにして他を審く律法主義者だったからです。たしかに彼等の生活は外面的には非のうちどころのない立派なものではあったでしょう。それが故に律法を守れない者を地の民として軽蔑したのです。しかし彼等は人を審く者であっても人に審かれた時その本性をあらわすのです。自分を軽蔑したイエスを訴えるのは彼等でした。
 第二に、悔い改めることを知らない偽善者だったからです。彼等の関心は常に人でした。人からほめられること誉れを得ること誇ることが彼等の姿勢でした。内側は汚れに満ちていたのです。神殿で祈るパリサイ人と取税人の姿に対衆的なものを見ることができます。主はありのまま自分のみにくさと汚れを認めてあわれみを求めた取税人を好まれました。
聖書のことば
忌まわしいことだ。あなたがたは、人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。
ルカの福音書11:44

最大の奇跡 ルカの福音書24章1〜8節
2003年4月20日第3聖日牧師山宮利忠
 人の思いを超えた出来事が主イエスの生涯に起こりました。それはもはや私達の常識をはるかに超えた、全く新しい次元の始まりでもあったのです。その誕生から十字架上の死にいたるまでにも数多くの人の目から見れば奇跡としか思えないみわざをあらわされたイエスは、人生の最後と考えられていた死を超えて、想像もしなかった復活をなさいました。
 イエス・キリストの復活は、キリスト教の土台をなすものです。もし主が甦ることがなければ、アジアの片隅で起った事件で終っていたでしょう。弟子達の多くは散り、その教えを信奉するわずかな者が残されたにすぎなかったかもしれません。しかし12名の使徒達は、各々弱さを持ちながら、キリストの復活を体験して以来、イエスのメシヤであることを確信し、その生涯を殉教の死に至るまでささげつくすのです。彼等が得たものは何であったのでしょうか。大いなる富や名誉だったのでしょうか。彼らの誰一人世的なほまれを得ることはありませんでした。ただ神の栄光の為にその生涯をささげたのです。ここにもキリストの奇跡が見られます。
 イエス・キリストの復活は、イエスが真の神であり、救い主であることを示すものです。死に支配されない生きた者のみが、私達を救い、導くことができます。私達には死んだ案内人は不要です。復活のキリストにお従いする者に与えられる安心と希望を信じて生きることができる幸いを得ましょう。
聖書のことば
あなたがたはなぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。
ルカの福音書24章5〜6節 

明るく輝きなさい ルカの福音書11章33節〜36節
2003年4月13日第2聖日牧師山宮利忠
 しるしを行えと言う群衆への答えの後半は、弟子達への教訓が記されています。即ち光り輝いていなさいと勧めます。健全の目とは、見るべきものをしっかり見ることの出来る目でありましょう。目が不自由ですと全身に影響を与え暗い生活を余儀なくされます。当時は眼病の人が多かったのかもしれません。人は何を見つめるかによってその生涯も変るものです。アブラハムは天の星をみて神の祝福を思い、ノアは空の虹を見ては神の約束を思いました。
 私達は今、キリストの十字架を見て神の赦しと愛を思います。ひとすじにそして真剣に見つづける目にこそ、内なる人を輝かす秘訣です。人の弱さは、目を閉じてしまう事です。みにくい世や自分自身にも目を閉じてしまいます。主が苦しみの祈りをささげている間にも、弟子達は目を覚ましている事ができずに眠りこけていたように、この終わりの時代に目をしっかりあけていなければなりません。そして内なる人を輝かせている事こそキリストを信じて神の国の住人とされた者の特権です。
 次第に暗くなり易い私達は、目を開いて注意深く内なる人を輝かせておくことが必要なのです。喜びや希望、平安や愛、すばらしい上よりの賜をいただいている者として、常に心をそこにむけ、目を開いて主の恵みに目を注ぎ、日々新たにされていくことによって、光の子としてのあかしができます。輝きましょう。
聖書のことば
もしあなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように、明るく輝きます。
ルカの福音書11章36節 

よりまさった者 ルカの福音書11章29〜33節
2003年4月6日第1聖日牧師山宮利忠
 さらにしるし(証拠)を求めた者に主は答えられます。まず「悪い時代は、しるしを求める」と言われました。即ち言葉だけでは信じられず、常に結果を求め、証拠を求めるというわけです。
 わたし達の生活の中で、ことばが信じられなくなった時、それは大変不幸な現象ではないかと思います。ことばに出された事が守られない行動としてあらわされない限り信じられないということになります。結果しか信じられない世の中は、決して良いものではありません。教会に於ける結婚式の最も大切な部分は誓約ですが、神に対して互いに誓い合う厳粛さがあってこそ結婚の式をあげる価値があります。その誓いは果たされるべきだからです。しかしなんと多くの人達が多勢の祝福を受けて結婚したにも係らず、その誓いが守られない事でしょう。誓いのことばはむなしい結果として終わります。約束は守られずことばは空しく消えていきます。悪い時代は、ことばが信じられなくなったことにその病の深刻さがあらわれています。
 主は、ヨナのしるし以外には示されない即ちニネベでの説教によって悔い改めて神の審きをまぬがれた異邦の民やソロモンのもとにその知恵を聞くために訪れたシバの女王のように、膝をかがめて神のことばを聞く事のしるし以外は示されないと、そしてここにヨナよりソロモンより偉大な者がいます。
聖書のことば
ここにヨナよりまさった者がいるのです。
ルカの福音書 11:32 
霊の空家 ルカの福音書11章14〜28節
2003年3月30日第5聖日牧師山宮利忠
 悪霊追放の力を見た群衆の中に、彼はサタン(ここではベルゼブルすなわち家の主人)によって追い出しているのだと言う者があり、さらにイエスをためそうとして天よりの奇跡によるしるしを求める者もいました。主は彼らの心を見抜かれてその答えを出しておられます。17〜28節で前半の答えを、そして29節以降で後半の答えをしておいでです。
 まず主のお答えは、内紛は滅びの前兆があってサタンが悪霊を追い出しているとしたら内輪もめであって、自分の手で自分のものを壊していることではないか。そんな事があり得ようかと反論します。神の指、神の力で悪霊を追い出しているとしたら既に神の国の支配は始まっているわけです。悪霊よりはるかに強い力を持つ方が到来したからには、この方について行くことこそ安全な道なのです。それは私達の日々の生活にあてはめるなら、キリストを救い主と信じ、この方の教えを常に心にとめ、それに従う生き方です。
 当時の霊能者達がしていたように、単に悪霊追放だけでは反って危険で、出て行った悪霊は、掃除してあるかつての自分の家へ更に多くの悪霊をひきつれて戻って来て、以前の状態より更にさらに悪くすると語られました。イエスが信じる者に与える聖霊は(11、13)、悪霊の働きから守るだけでなくあらゆる悪の力から人を遠ざけ、聖い上からの賜で人の内側を満たします。危険なのは自分を霊の空家にしておくことです。
聖書のことば
しかしイエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを開いてそれを守る人たちです。」
ルカの福音書 11:28 

熱心に求める者は得られます ルカの福音書11章5〜13節
2003年3月23日第4聖日牧師山宮利忠
 主はたとえをもって祈りの心を教えられました。旅の途中、しかも真夜中に訪れてきた友人をもてなすために食事を出してあげたくても自分には与えるパンもなかった彼は、隣人に求めます。突然おとずれる祈りの必要が教えられています。
 日々の祈りと共に真に必要な祈りは、いかなる時でも求めることと祈りをもって主におささげする事が肝要です。自分で何でもできてしまう者は祈りという方法で必要を満たされることが少ないでしょう。しかし自分の中に不足を覚える者は、祈って求めない限り必要は満たされません。神は不足のあるところに奇跡をおこして下さるお方である事を、主の最初のしるしカナンにおける婚宴の席でおきた不足を通して教えて下さいます。
 友人だから隣人だからというだけでは真夜中に起きて与えてくれなかった隣人は、その熱意に感じてパンを与えてくれます。熱心な求めは、必要の切実さをあかしするものです。与えられても与えられなくてもどちらでも構わない、与えられればもうけものというような求め方に誰が大きな犠牲を払って与えてくれるでしょうか。真剣で熱心な求めに主は耳を傾け、その祈りにこたえてくださいます。人の親でもその子の求めに応じてあげるとしたら、まして真の父、天のお父様が、その子たる信者の求めにおこたえ下さらないわけがないのです。
聖書のことば
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。ルカの福音書11:10 

主の家を喜ぶ 詩篇122章1節
2003年3月16日第3聖日牧師山宮利忠
 エルサレムでの神殿礼拝は、イスラエルの民にとって主の生活の中心であり、力の源でした。彼等は神をほめたたえつつ、階段を一段一段登り、礼拝の場へ向かったのです。壮大なソロモン神殿はバビロニヤの侵攻で破壊されましたが、85年後再建された第二神殿も、かつての壮大さはなかったもののやはりそれは神の民にとって喜びであり、誇りでもあったのです。
 私達は今、イエス・キリストのたてられた神殿において礼拝をささげています。その第一義的意味は、救われた私達一人一人が、主が住み給う神の宮そのものであります。(第一コリント6:19)と同時にキリストのお体である教会が神の家なのです。(第一テモテ3:15)。教会は聖徒の集合体でありその集りは、教会堂を我が霊の家とします。
 イスラエルの人々が神殿を神の住み給う臨在の場所として敬ったように、私達はキリストの満ち満ちた教会を敬い喜ぶことが求められています。聖徒にとって教会は神の家であり、住いですから主のみ栄えに恥じることのない、そして世の人達に主のすばらしさをあかしできるものとすることが必要でしょう。教会は建物ではありませんが、世の多くの人達が自らの家をより住みやすく、立派に管理しているように、神の家たる教会とその住いをより美しく保つことはそこに住む人達の責任でもあります。教会堂に足を運ぶ者達が喜こびを覚えるような誇らしい思いを持ちたいものです
聖書のことば
人々が私に「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、私は喜んだ。
詩篇122章1節

祈りを教えて下さい ルカの福音書11章1−4節
2003年3月9日第2聖日牧師山宮利忠
 当時のラビ達がその弟子に祈りを教えたようにイエスにも祈りを教えてもらいたいと願い出た彼等が、祈ることを知らなかったわけではありません。キリストの唱える祈り、即ち主の祈りを教わりたかったのです。イエスはその要求に見事にこたえられて、ここに有名な祈りの模範をのこされました。
 マタイ福音書には、この祈りを教える前置きとして当時の祈りがくどくどと繰り返しの多い長い祈りと批判されたことばが記されています。主の祈りは実に簡潔にして、明解です。まず神を崇める祈り、そして次に自分のお願いです。前半は「・・・ように」ということば、後半は「・・・ください」ということばで表わされます。さて、前半で特徴的な点は「父よ」という祈りだしのことばです。これは優しい呼びかけで、父なる神と子なるキリストとの係りに関係すると同時に、キリストによって神の子とされた信者が、大胆にお父さんと呼びまつることのできるすばらしい特権を意味します。父なる神の愛はイエス・キリストにあって、はばかることなく祈ることをおゆるしくださったわけです。
 後半では、日毎の糧を毎日与えて下さいという祈りでしょう。人は欲深くて心配性です。今日の糧だけでなく明日の糧も、そしてもっともっとと倉を建てかえます。しかしマナのごとく明日のものは腐ってしまうのです。今日必要なものが今日与えられれば人は生きてゆけます。そんな祈りが必要です。
聖書のことば
父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
ルカの福音書 11章2節

どうしても必要なこと ルカの福音書10章38〜42節
2003年3月2日第1聖日牧師山宮利忠
 私達はこの出来事を読むと、自分は果してマルタ的なのか、マリヤ的なのかと、両者を比較して自分にあてはめてしまいます。実は両方とも神は愛して下さり、両方とも必要なのです。所はベタニヤだとヨハネは記します(ヨハネ11−1)。
 主は旅を続けてエルサレムへ上る途中で、この愛すべき姉妹達の家に招き入れられ家族の接待にあずかります。多分ベタニヤを通られることを知ったマルタは、ルデヤのように主を自分の家へ招きいれたのでしょう。あわただしく、気ぜわしく働くマルタでしたが、一方マリヤは、イエスの足もとに座ってみことばに聞き入り、姉の手伝いをしませんでした。マルタはこの妹の姿が気に入りません。私達もそんな経験をするのではありませんか。忙しくしているのに、全く手伝うこともしない人がいるとついつい呟きたくなります。マルタは、ついにマリヤではなく主に「何ともお思いにならないのですか。」と言ってしまいます。しかし主のお答えは、どうしても必要なことは一つだと言われます。即ちみことば、神のことば、聖書に耳を傾けることです。
 今日私達は礼拝のために集りました。ここで神のことばを聞きます。マリヤのごとく、多忙な生活の中でも主のみもとに来て、耳を傾けてメッセージに聞き入ります。これこそが第一の事だと言われるのです。ここから始まるここに力がある。これを抜きにしては労苦も空しくなってしまいます。
聖書のことば
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。
ルカの福音書 10:42

わたしは誰か ルカの福音書10章25〜37節
2003年2月23日第4聖日牧師山宮利忠
 「よいサマリヤ人」と言われるこのたとえは、そのとらえ方次第で純真に神のことばに従おうとする者を苦しめます。即ち主が最後に言われたことばのサマリヤ人のようにしなければならないと思うからです。しかしそうできない自分に苦しむことは必定です。
 まずこの教えは、律法の専門家の「何をしたら〜永遠のいのちを受けられるか」との問いに対して、主が語られたものだという事を頭に置かなければなりません。彼には自負心があり、隣人への自分の考え(ユダヤ人のみ)があり、キリストをためそうとする根胆があります。主はそのような心を砕こうとされるのです。あなたもこのよいサマリヤ人のように、徹底した愛を示してみなさい。しかも彼はユダヤ人が敵視する、つきあいのないサマリヤ人ではないか、彼でさえこのようなあわれみの心があるなら、まして律法の専門家であるあなたならできるだろう。さあ行っておこないなさいと・・・しかし私達は知っています。主の教えは決して我々の善行や愛のわざによって永遠のいのちを得ることはできないということをーーー。
 よいサマリヤ人のたとえは、隣人とは誰かを問うことでも、サマリヤ人のように愛の実践をしなさいと教えるものでもありません。私達は愚かな旅人のような者であり、愛の破産者だ、ただ真のサマリヤ人イエスに助けられる他はないのだという事を教えます。
聖書のことば
するとある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生、何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」
ルカの福音書10:25

どれ程の犠牲を払えますか ルカの福音書19章33節
2003年2月16日第3聖日牧師山宮利忠
 人は余程の動機がないと自分の犠牲を払うことができません。誰しもが得たいと願っているからです。しかしこの得たいと願う心に落とし穴が待っていると主イエスは言われました。即ち「得ようとする者は失う」と、逆に失う者は得ると教えられました。受ける生き方から与える生き方への転換こそ私達の大きな課題ではないでしょうか。
 与える生活の模範は勿論イエスご自身です。ご自分を罪人のために差し出し、いのちをもおしまずに与えて下さいました。この愛を知る時人は与えることの尊さとその価値を学ぶことができます。バルナバは主を知った時、自分所有の畑を売ってささげました。ルデヤはキリストを知った時、自分の家を伝道のために用いていただきたいと、パウロ達を強いて招き入れ、主の働きに参加しました。そのパウロも主のために自分自身を使い果したいと願い、その生涯をお献げしました。
 献げる価値があるもののために自分自身を犠牲にできる人は幸いです。私たちは今何のために労力や時間や持てるものをついやしているのでしょうか。神がおゆるし下さりお与え下さった一生を何のために使うかは、私たち一人一人の信じるところによります。たとえ沢山のことができなくても与える生き方の第一歩を踏み出し、失うことのないものを自分のものにしたいものです。塩の柱になったロトの妻にはなりませんように。
聖書のことば
自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者は、いのちを保ちます。ルカの福音書19章33節

見ていることを見る目の幸い ルカの福音書10章21〜24節
2003年2月9日第2聖日牧師山宮利忠
 伝道から戻った弟子達のよろこばしい報告を受けた主は,ご自身の立場を明らかに語られます。まず、福音は幼子のように自分を低くする者に受け入れられることこそ父なる神のみこころである事が祈りの内に語られます。この世の知者によって理解される福音でなく、純粋にして素直な、しかもこころ砕かれた者によってのみ救いはもたらされることは、実力主義のこの世にあっては全く反対の道ですが、人が神の前に自分の知恵と力が救いをもたらしたのだと誇ることのないための神の深いご配慮であります。
 実に使徒の大半は、無に等しい者でありました。それは神の前に誇ることのないためであり、人間の愚かな誇りを打ち砕く神の知恵でした。人々は「使徒は何とすばらしい」と言わず「使徒を変えたイエス・キリストは、何とすばらしい」と神をほめたたえるのです。主は、神の深い知恵からもたらされた人の子イエスの姿を見る者は幸いだとひそかに語られます。ガリラヤ出の大工の息子が何でメシヤであろう筈がないと世は思う中で、使徒達はイエスの心とみわざを見、「あなたこそ神の御子キリスト」と告白します。そしてその告白を通して、同じくあなたこそ救い主と信じる者は幸いだと言われました。
 私達は今反神的な時代、物質万能、実力主義の時代に、幼子のごとくイエスの中に神を見、救いを見ることによって同じ幸いを得ることができる恵みの時にいかされています。
聖書のことば
それからイエスは 弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われた。「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです」
ルカの福音書 10章23節

狼の中に遣わされた小羊 ルカの福音書10章1〜20節
2003年2月2日第1聖日牧師山宮利忠
 70人の弟子達を二人一組にして伝道に遣わされる時、彼等に与えた注意がここには記されています。これは現代も遣わされた者にとって大切な心構えですので、遣わされた伝道者だけでなく、その働きを理解し共に仕える全ての聖徒達がしっかりと心に納めておかねばならない事柄です。
 第一に、福音を伝える者は、物に頼らない事です。 物に執着すれば、十字架を負って従う事が難しくなります。必要最小限でもってその働きにつかねばなりません。
 第二に、働きに専念しなければなりません。 道草をくってはならないし、本当の務めをないがしろにしてはいけません。
 第三に、収入をあてにしてはなりません。自分の前にだされたものをもって満足をすべきで、欲をかいて必要以上を要求してはなりません。主はその必要を必ず満たして下さいます。
 第四に、主より与えられた大きな権威をもつことへの自覚が必要です。働き人を遣わしたのは主です。従って働人を拒否する者は主を拒否することになります。権威を与えられている働人の責任は重大です。
 第五に、働きの結果や力を誇るのではなく天に名を記されている事を喜ぶ事。
 第六に、自らは小羊のような弱い者である事を知る事、その弱い者が強くなれるのは、主が共にいて下さる故であることを知り狼の中で働けるのです。
聖書のことば
さあ、行きなさい。いいですか、わたしがあなたがたを遣わすのは狼の中に小羊を送り出すようなものです。
ルカの福音書 10:3

礼拝と聖書 使徒の働き38章26-40節
2003年1月26日第4聖日牧師 山宮 利忠
 CS・カミング・デーのこの日、改めて教会に於ける礼拝とその中心である聖書について思いをいたすことは、ふさわしい事と思います。聖書中有名な回心記事はいくつかありますが、このエチオピアの宦官のような詳細なものは他に見当たりません。しかもユダヤ人でなく肌の色の違うアフリカの人が遠路エルサレムにまで来て礼拝をささげ、帰りの馬車の中でも、聖書を声をあげて朗読する姿は、実にすばらしものがあります。主はこのような礼拝者を決してお見捨てにはならず、ピリポを遣わして正しい救いを伝え回心に導きます。ここにはみこころにかなった礼拝姿勢と神のことば聖書の重要性が実にはっきりと示されています。すばらしい礼拝者としてのエチオピアの宦官の礼拝姿勢を見てみましょう。
 まず、大きな犠牲を払って礼拝にのぞんでいます。遠くエチオピアからはるばるエルサレムまで沢山の犠牲を払ってやってきた彼には、時間的にも費用の点でも肉体的にも大きな犠牲があったでしょう。しかし神への礼拝はそれ以上に大切であったわけです。彼は異邦人でした。従って神殿に於てもユダヤ人とは差別された異る場所での礼拝でした。しかし彼は人を礼拝しに来たのではなく、神を礼拝する為に来た故に、そんな事に左右されませんでした。何よりも彼は聖書を求め、聖書を読んで、聖書に書かれている事を理解しようとしました。そして判ったらただちに従うのです。ならいたいものです。
聖書のことば
彼は礼拝のためエルサレムに上り、いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。」
(使徒 8:28)

手を鋤きにかけたなら ルカの福音書9章49〜62節
2003年1月19日第3聖日牧師山宮利忠
 イエスはエルサレムに顔を向け、ご自分の使命である十字架にむけて進みはじめられます。これからの主の働きは弟子への訓練に重点が置かれるように思われます。主のもとには12名の使徒と呼ばれた弟子以外に大勢の弟子達がいたわけですが、その従い方は様々でありました。ここにはキリストに従う者への覚悟が教えられています。
 ここに三人の弟子志願者が登場しますが、第一の者は、どこにでもついてゆく覚悟を表明しますが、主はわたしにはゆっくり休むことのできる塒(ねぐら)さえない。あなたはそれ程の覚悟ができているのかと語られます。キリストに従う生活は時に動物以下というような事がある。それでもついてこれますかとその覚悟の深さを指摘なさいました。
 第二の者はまず父を葬ってから従いますと、従う前に条件をつけます。主はただちに従うことを求められました。たしかに父を葬ることは大切な事ではある。しかしそれ以上に御国に入るいのちの道を伝える働きの方がはるかに重要なのだと言われます。
 そして第三の者は、家の者にいとまごいをさせて下さいと、別れのあいさつを願い出ます。しかし手を鋤きにかけた人は、後ろをふりむかず、前をしっかり見て前進してこそその働きを全うすることができるわけで、後ろをふりむいたロトの妻にならないようにと教えられました。
聖書のことば
するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手に鋤をつけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」
ルカの福音書9章35節

大いなる人 ルカの福音書9章46〜48節
2003年1月12日第2聖日牧師山宮利忠
 12名の弟子達の中で常に最も関心があったのは、自分たちの中で誰が一番偉いかということでした。彼等は未だキリストの弟子として成長したしもべではなかったのです。主のお答えは、幼子を手もとに置いて、幼子を受け入れる者、即ち未熟で、無力なものを軽んずることなく、同等に受け入れる者こそ偉大な者であり、自分を最も小さい者と評価する者こそ大いなる者だと言われました。この教えはキリストご自身が実行なさったことでした。即ち神の座を捨ててしもべの姿となって、十字架の死に至るまで忠実に従われ、罪人の為にご自分のいのちをお捨てになったのです。
 私達の世には、覇権争いがおこり、己を神の座につけて誇る者が多くある中で、イエスの教えは全く逆の教えでありました。神の国の原理は罪なる世の原理とは異なります。幼子のような信仰者とはどのような人なのでしょうか。第一に、自分を低くすることのできる人です。自分を最も小さい者と評価できる人は、他のいかなる者をも軽んずることは、ありません。第二に、積極的に仕えることの出来る人です。(マルコ9:35)しんがりとなり仕えることのできる人こそ偉大な人です。最後に、人を躓かせない、心くばりと注意のできる人です。(マタイ18:6)
聖書のことば
あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。

ルカの福音書 9章48節

まっすぐな道 ルカの福音書9章37〜45節
2003年1月5日第1聖日牧師山宮利忠
 山上で栄光につつまれたイエスの姿を見たペテロは、そこに小屋をつくりましょうと言い、いつまでもその驚くべき様にとどまりつづけたかったのでしょうが、主と弟子の使命は、山の上にはありません。地にくだり、そこにある多くの失われ、痛み、傷ついた魂をいやす働きが待っていました。ところが残された弟子達は、その苦しむ人々に囲まれ、いやしを求められていたのです。彼等には、いやしと悪霊をいやす権威が与えられていた(9:1)にも係らず、求めてきた人の息子の悪霊を追い出すことができないでいました。主は「ああ不信仰な、曲った世だ」と、悪霊の働きに対し、又それを追い出すことの出来ない弟子達の無力を嘆かれ、ただちに息子を悪霊から解放します。
 三つの点を心にとめましょう。まず弟子達の無力さです。上よりの力は絶えず神との交わりの内にいただくことなくして、立場だけでは霊的な力を発揮することはできません。さらに、主の嘆かれた不信仰で曲った、ねじれた世であることに注目すべきです。神なき世はねじ曲った世であり、正常ではありません。ペテロの大説教は、この主の教えを反響しています(使徒2:40)、そして最後に本当のメシヤは、病や悪霊を追放したりするところにあるのではなく、曲った世をまっすぐにするために自らのいのちを犠牲にして神と人との橋渡しをします。       
聖書のことば
イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。
ルカの福音書 9:41