主の良くして下さったことを 詩篇103篇2節
2002年12月29日第5聖日牧師山宮利忠
 パウロは「後のものを忘れ、前のものにむかってからだをのばし、」と語り、過去のことにとらわれて現在を見失わず、現在にかかわりすぎて将来を台なしにしないで、目標めざして走り続ける姿勢を教え>ています。(ピリピ3−13)忘れるべきことと、忘れてはならない事とを選択する時として、この年の暮れのひとときをすごすことは有意義なことです。
 ダビデの生涯は、神のみこころにかなった祝されたものでしたが、その秘訣の一つは、神のめぐみを忘れなかった事でしょう。「主の良くして下さったことを何一つ忘れるな」と自分の魂に語りかけています。神は、一生をよいもので満たしてくださり、(5)私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをなさらず、(10)私たちがちりにすぎないことを心に留めて扱ってくださる。東が西から遠く離れているように、私たちの背きの罪を私たちから遠く離されるお方だと、主の御名をほめたたえています。主のよくして下さった事はどんな事であったか、この一年をふりかえって教えてあげ、それを忘却の箱の中からとり出して改めて主をほめたたえることは、年の最後の聖日の礼拝にふさわしいことです。
 そして私達の周囲や家族にも、この一年よくしてくれた事を教えて感謝の心を新たにし、それをあらわして、「すべての事を感謝する」あかしをたてましょう。       
聖書のことば
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つわすれるな。
詩篇103:2

暗闇の世に光を ヨハネ福音書1章9節
2002年12月22日第4聖日牧師山宮利忠
 現代は余りにも明るすぎると言ったら笑われるでしょうか。町は明るさで満ち溢れているのに人の生活や心は、決して明るくないからです。聖書は、この世は闇だと教えます。即ち神なき世は暗闇なのです。神は創造の初めに光をつくられ、その最後に神の像(かたち)を宿す人類を創造し神の栄光の内に置かれました。しかし人は悪の誘いに負け反逆の道を歩みはじめ、以後この世は真の神を知らぬ程に混乱と迷信の世となり下がったのです。
 しかし神は最高の被造物として創造された人類を決してお見捨てにはなりませんでした。堕落したその時から救いのご計画をお立てになり、それを実行なさいました。それも人の考えも及ばない方法でです。即ちご自身が人となられて世に降り、人の罪の身代わりとなって罰を受け罪を犯した人類の回復をはかられたのです。暗闇の世に神の光がとどき、人はこの光のゆえにあやまりなく永遠のみ国へと導かれます。
 ただイエス・キリストは、人の目から見て決して光とは言えないようなお姿で世にこられました。泊る宿もなく馬小屋の飼い葉桶をベットとして貧しい羊飼いのお祝いを受けるだけでした。しかしこの方こそ我々の希望の光でありました。この方によって神との回復をいただけるだけでなく、永遠の生命をいただくことができ、生きる望みを持つことができるからです
聖書のことば
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
ヨハネ福音書 1:9

彼の言うことを聞きなさい ルカの福音書9章28〜36節
2002年12月15日第3聖日牧師山宮利忠
 三人の弟子をつれて山に登り祈っておられるとイエスのお姿がかわり、栄光に輝きはじめます。そしてそこに旧約の代表者とも言えるモーセとエリヤがあらわれ、主と最後(エクソダス)の事について語りあわれます。三人の弟子は、ここでも眠くて仕方なく、多分主が祈っておられる最中あのゲッセマネの園で眠りこけていたように、うつらうつらとしていたのでしょう。メシヤの栄光と苦難の時に弟子達が眠りまなこで、その真意を語りかねていた姿は、今の私達によく似ているのではないでしょうか。
 主は、弟子の告白を境にご自分の苦難を語りはじめます。しかしそのことも天の父のおゆるしなくして何一つなそうとしないしもべとしての在り方をあかしされます。人の子が来たのは父のみこころを行うためだと語られた通りです。(ヨハネ4:34) 語らいの内容はメシヤとしての最後に関する事でした。この最後は死を意味しますが、同時に「脱出」なのです。死の闇、永遠の滅びから、そしてエジプトに於ける奴隷の苦しみから解放されて出エジプトしたごとく、メシヤはその使命として罪に苦しみ、死の恐れに束縛された私達を解放するためにご自分のいのちを代価として、栄光の道へと導き出す使命を果そうと歩み出されます。しかしそれは安易な道ではなく、苦難と辱めの道であり、過越しの羊のごとくご自身を十字架におつけになる道であります。
聖書のことば
すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」という声を聞いた。
ルカの福音書9章35節

十字架の道 ルカの福音書9章23〜27節
2002年12月8日第2聖日牧師山宮利忠
 イエスをメシヤと告白した使徒達に対し、主はキリストに従う者の条件を示されました。みなの者に言われたので使徒だけでなく、キリストに従う全ての者に対して言われたととるべきでしょう。そこには三つの条件があります。第一は、自分を捨てること、即ち自分に対してお前を知らないということ、第二は、日々自分の十字架を負うこと、十字架は単なる重荷ではなく、死そのものですから、死を背負ってという事になります。そして最後は、メシヤなるキリストについて行くことです。己を否定し、己は死んだ者として、主なるキリストに従う生活、これこそキリストを信じたクリスチャンの生き方だと厳しく命じました。まさしくキリストの歩んだ足跡に従う生き方が、その弟子たるクリスチャンの在り方なのです。これは大変な生き方ではありませんか。しかしよく考えてみれば、自分が心の底からある者になりたいと決意したら、この位の覚悟は当然なのでしょう。一時の気まぐれや好奇心でついて行く者にとっては、数日でいやになる道です。しかしこの厳しく過酷な生き方は最後に逆転すると主は語られました。即ち今安逸をむさぼる者は、後にさらに厳しい苦しみが待っている、自分を大切にしてそれを守ろうとする者は、やがて自分を失うことになる。しかし今自分を捨てて厳しい過酷の道を歩む者は、つらく苦しいかもしれないが、やがて大いなる安息と慰めにあずかる者となると約束されます。
聖書のことば
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
ルカの福音書9:23

わたしを誰と言うか ルカの福音書9章18〜22節
2002年12月1日第1聖日牧師山宮利忠
 伝道して帰ってきた弟子達は、その成果を報告し、主は彼等を淋しい所へ導き休みを与えようとしましたが群衆に妨げられます。パンで満腹した彼等は、イエスを主にしようとしますが、主はその真意を見抜いておられました。群集のイエスへの評価は、昔の預言者のひとりであろうというものでした。そこで主は、使途達に尋ねるのです。「では、あなたがたは、わたしを誰だというのか」と、これは実に重要な質問でした。
 わたし達は、今日この問いかけを一人一人がうけているといってよいでしょう。「あなたは、わたしを誰というか」。この問いに答えねばなりません。あなたがたと言われたこのことばは、特に強調されたことばで、他の人ではない、あなたがたは、いやあなたは何というのですかと問うています。
 ペテロは「神のキリストです」と、実に正しい答えをします。キリストとは、「油注がれた者」の意で、救主という意味として受けとってよいでしょう。マタイ福音書の同じ記録を見ると、主は大いに喜ばれ、このペテロの告白の上にわたしの教会を建てると言われます。しかしペテロは、このキリストが 人々に捨てられ、殺され、三日目によみがえるメシヤであることを知りません。ペテロの考えていた救主は、十字架にかけられてしまうメシヤではなく、パンの奇跡で王にしようとした群集と同じく、ダビデの再来、イスラエルに復興をもたらすメシヤなのです。告白と真意とは異なるものでした。
聖書のことば
イエスは、彼等に言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」 ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」
ルカの福音書9章20節

ふえたパン ルカの福音書9章10〜17節
2002年11月24日第4聖日牧師山宮利忠
 4つの福音書の全てに記録されている奇跡はこれだけで、いかにこの奇跡が重要な意味をもつものであるかが判ります。各々4つの福音書の記録は、細部で異なっていますが、イエス・キリストが、飢えた群衆に糧をお与えになった事は、キリストがまことの牧者であり、人生の全ての必要を満たすお方であることを示す点で共通しています。まず、忙しくて休みのとれなかった弟子達を淋しいところへ導き休みを与えようとされた主のもとへ群集が押しかけますが主は彼等を歓迎して弟子に食事を与えることを命じます。弟子への訓練がここでされているように思われます。“糧を与えよ”とは、伝道者への大切な命令です。 弟子がみつけたのは、貧しいパンと魚でした。しかもそれは子供の持っていたもので、そんなもので一万人以上の人の飢えを満たすことができるわけはありません。しかし主は、この貧しいパンと魚を用いて多くの人の飢えを満たします。驚くべき奇跡でした。何しろ全員がたしかに自分の口に入れてお腹を満腹にしたのですから、これ以上確かなことはありません。
 主は羊飼いのごとく、私達の全ての必要を満たすお方であることが示されています。ただし教えをなされた後であることに注意しましょう。大切な事は、イエスがメシヤであり、人の罪と死の解決者であることを信じる事が先決です。満腹しただけで主を王にしようとした人は、やがて十字架につけよと叫ぶものになったからです。
聖書のことば
人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを取り集めると12かごあった
ルカの福音書9章17節


御国への備え ヨハネの福音書6章47節
2002年11月17日第3聖日牧師山宮利忠
 そろそろ受験シーズンにむけて受験生達は気ぜわしくなってきました。結婚式の準備や就職活動等、私達の歩みには、沢山の準備の必要な事があります。しかし人は死に対する準備は苦手のようです。それは決して自分にとって好ましい事ではないからでしょうか。せいぜい墓地の準備、葬儀の費用の準備、遺言等の準備で、死そのものに対する準備はなかなかできません。
 イエス・キリストがこの世に来られた目的は、信じる者に永遠の生命を与えるためでした。十字架上のイエスは、隣で十字架にかかっている盗人に、パラダイスへの約束をなさいました。又自ら墓から栄光のからだをもって復活され、人は死をもって全てなくなってしまう終りではないことを示され、たましいの故郷、天の御国への希望をお与えになりました。死を他人事として考えたり、身近でないもののように考えることはできません。いつやってくるか判らないが確実にやってくる死と死後への備えをすることは、人としてどうしてもしなければならない責務なのです。
 平安と希望をもって死を迎えるためにどうしたらよいかを日頃から備えておくことは知恵ある行為であり、又それが生きている今を充実して歩むことのできる条件となる筈です。残される人達に希望を与えるためにも、御国への備えをしっかりとしておくことをお勧めします。
聖書のことば
まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
ヨハネの福音書6章47節

遣わされた者 ルカの福音書9章1〜6節
2002年11月10日第2聖日牧師山宮利忠
 使徒とは、遣わされた者という意味です。主は、12名を選ばれ彼らに権威と力を授けて、キリストの代弁者、代行者として遣わし、神の国の福音を宣べ伝えさせます。
 主は、遣わすにあたっていくつかの命令を与えます。第一に、旅のために何も持たないように、即ち、着のみ着のまま、何の余分な用意をせずに出て行くことを命じられます。それは伝道者達が、たとえいかなる状況にあっても、主に守られているのだということを悟るためであり、又、伝道者が、福音によって支えられることこそ、神のみ旨であることを教えるためです。第二に、迎えられる家にとどまること、ピリピのルデヤのように救いの喜びから必然的に生れる自発的な犠牲と仕える心に、伝道者が支えられることを示し、伝道者を迎え入れることは、主を迎え入れることであり、伝道者を拒むことは、主を拒むことであることを教えられました。
 教会にたてられた牧師は、キリスト御自身によって呼び出され(召命)、訓練を受けて招聘され、主によって遣わされた器です。キリストの代弁者として聖書のおことばを伝え、教える務めをもった者を、心から主にあって尊び、その指導に従うことは、牧師を遣わした主に従うことになることを群れは知る必要があります。牧師を尊とぶ教会と信徒は、祝福されます。
聖書のことば
イエスは、12人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し病気を直すために、力と権威をお授けになった。
ルカの福音書9:1

目をさましていなさい マタイの福音書24章42節
2002年11月3日第1聖日牧師山宮利忠
 この目は、心の目、霊の目です。このことばは、44節では「用心していなさい」と言い換えられています。病気になってつらい日を送ると、健康であることのありがたさが判り、食料難になると、一杯の白い御飯のありがたさが判るように、人は慣れてくると、どんなに恵まれた状態であっても、ありがたいという気持や、もっと大切に、重要に考えなければならないということが、どこかへいってしまいます。
 主イエスは、弟子達に度々「目をさましていなさい」とおっしゃいました。十字架におかかりになる前夜、ゲッセマネの園でひとり祈る時も、弟子達に,「目をさましていなさい」と、お命じになりました(26−38)。しかし彼等は眠ってしまったのです。肉体的な疲れは、眠気をさそいます。しかし霊的なねむりは、信仰の停滞や後退を生みます。そればかりか、突然やってくる大いなる出来事に対応できません。
 いつなん時どんな事がおきるか判らない時代に生きているものとして、常に用心しつつ、目をさましていなければなりません。眠る者は、機会を失います。又ただちに正しい行動がとれません。眠る者は無感覚となって主の恵を感得することができません。眠る者は神のしもべとして、この世にあってよいあかしをたてることができません。眠る者は、やがて目を覚ました時、後悔をしなければなりません。目をさましていましょう。
聖書のことば
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
マタイの福音書 24章42節

子供を祝福された主 ルカの福音書18章15〜17節
2002年10月27日第4聖日牧師山宮利忠
 子供はわがままで、無知で成長の必要がある者であったためにユダヤでは大人の世界には入ることがゆるされませんでした。ですからイエスのもとにつれて来られた幼子達は、当時の習慣を破っていたことになります.弟子達はしかりましたがイエスは幼子達を呼び寄せて、手を彼等の上にかざして祝福されたのです。そして次のように言われました。「子どもをわたしのところに来させなさい」と。
 子どもを主のもとに来させよとの命令は、今私達に必要なお言葉です。幼子を主を礼拝する場にこさせるには多くの抵抗があり、妨害がありますが、主の命にお従いして祝福をいただかねばなりません。即ち礼拝の場に幼子を近づけることです。親はそのために努力と工夫が求められます。忍耐の限られている子供に礼拝の大切さを身をもって教えるだけでなく、礼拝の時間を静かにすごすための工夫と訓練が必要となります。難しいメッセージが幼子に判るわけはありません。しかしこの時間はとても大切な時間だという事は判ります。子供がぐずらないように、泣かないように、あきないようにするためにはどうしたらよいか知恵を祈り求める必要があります。又子供づれでない人達の理解が求められます。弟子達のようにしかってはならないのです。主の祝福を共々にいただくために幼子のような心で礼拝をすることが求められます。お互いに忍耐と知恵をもって主のもとへ行きましょう。
聖書のことば
子どもをわたしのところに来させなさい。
ルカの福音書18章16節

賛美の喜び 
2002年10月20日第3聖日牧師山宮利忠
 今年も教会内の聖歌コンサート・「プレイズ・コンサート」が開かれます。プレイズとは、ほめたたえることで、勿論キリストのみ名をほめたたえることを意味します。プレイズ・コンサートの目的は、第一に、文字通り主のすばらしい御名をほめたたえ、私達の感謝と喜びを、歌をもってあらわすことにほかなりません。賛美のあるところに祝福がある事は教えられている通りです。ダビデは神をほめたたえる事に於て、誰よりも豊かにした人で、その生涯は祝福に満ちたものでありました。勿論ただ歌が好きであったから歌ったというのではありません。ほめたたえざるをえない神への感謝や願いがあったからなのです。そしてその賛美は今、詩篇という形で残されています。
 第二に、賛美をもって主に仕えることです。 信仰のすばらしさを知った者は、誰でも主に仕えたい、神の御用のために役立ちたいと願います。たとえどんなにささやかな働きであっても、主に喜んでいただきたいという思いが与えられるものです。各々には声が与えられていて、その声をもってご奉仕したい、又は楽器をもってご奉仕したい、そのような幸いな願いを実現するきっかけをこのプレイズ・コンサートは、与えてくれるでしょう。臆する心を強められ、誇る心を清められて、賛美の心と奉仕の心をもって参加されるなら、このコンサートの目的を達します。
聖書のことば
喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。
ヤコブへの手紙5章13節

子どもよ、起きなさい ルカの福音書8章49〜56節
2002年10月13日第2聖日牧師山宮利忠
 風を水を静め、悪夢を追放されたキリストは、病をいやされます。メシヤの力あるしるしをあかしするためであって、キリストの使命が病のいやしや人の安全を与えるためだと誤解してはなりません。病のむこうにある死、死の向こうにある滅びからの開放こそメシヤの来臨の目的でありました。
 会堂司(つかさ)ヤイロは、社会的には人望と尊敬を集める立場にありましたし、地位も名誉も富も得た人物です。しかし一人娘が瀕死の病にかかり一時を争う状態になった時、彼は未だ未知の存在であったイエスのもとに自ら来て、その足下にひれ伏して助けを求めます。ただただキリストの力に依り頼む以外になすすべを知らなかったのです。
 主はこのヤイロの真剣な求めに、信仰を見て娘をいやすために出むこうとします。しかしその途中に思いがけないヤイロにとっては邪魔が入り、主が長血の病を持つ女に時を費やしている間に娘は死んでしまいます。万事窮すです。しかしイエスは、ヤイロに「恐れるな」「信じつづけなさい」「娘は、死んだのではない。眠っているのだ」といわれ、娘に「タリタ・クミ」娘よ起きなさいと命じて、いのちをあたえられます。眠っているという主の言葉に、人々はあざ笑いますが、人の常識ではその通りです。しかしメシヤなるキリストは、死の恐怖に縛られている者を解放するためにこられました。人の思いを超えて信じる者に主のみ力は働きます。
聖書のことば
これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」
ルカの福音書8:50

のばされた信仰の手 ルカの福音書8章40〜48節
2002年10月6日第1聖日牧師山宮利忠
 会堂司ヤイロの娘の奇跡と長血をわずらう女の奇跡とは切り離せない共通点があるのですが、あえてまずこの女のいやしを学びその後ヤイロの娘のいやしでその共通性を学ぶことにしましょう。
 12年間もの長い間、病と痛みの為に悩み苦しんできた女は、病の性質上外見はそうは見えない苦しみの中にありました。というのは律法によれば、血の流出は汚れであり、触れるものは全て汚れることとなる宗教上の苦しみと社会的苦しみ、更には医者も薬も効かないばかりか反って苦しめられてきた(マルコ5:26)苦しみ、更には経済的にも困窮し、ますます病はひどくなっていたからです。
 大勢の群衆にまぎれて、彼女は、そっとキリストの衣のふさに触れます。衣の4角には、律法を守っている敬虔のしるしであるふさがついていました。彼女は、おそるおそるしかし必ず助かる(救われる)と信じて触れるのです。弟子のことばによれば群衆が押しせまっている中で誰がふれたか判るはずがないにもかかわらず、主はご自分から力が出て行くのを感じられ、のばされた信仰の手の持ち主を探されるのです。主は勿論ご存知でした。しかし あえて、「それは私です」と告白することを求めておいでなのです。ここに信仰によってのばされた手に与えられる奇跡と、その信仰は私でしたと告白する女の完全な解放を経験するめぐみとが示されています。
聖書のことば
しかしイエスは、「だれかがわたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」と言われた。
ルカの福音書 8章46節
幼子と礼拝 マルコの福音書10章13〜16節 ルカの福音書18章15〜17節
2002年9月29日第5聖日牧師山宮利忠
 キリストのみもとに子供達をつれてきた親達の気持は尊いものでした。しかし弟子たちは、うるさくて、少しもじっとしていない子供達とつれてきた親達とを、しかったのです。しかし主は弟子達のしたことを憤って「子どもたちをわたしのところへ来させよ」と命じられました。当時のユダヤの世界では、子供は大人の世界に入れない、砂利のような存在でした。ですから主のもとへ来た子供達を遠ざけたのは当然だったかもしれません。
 今私達は、何とか幼子や子供達と一緒の礼拝を主におささげしようとしています。たしかに子供は大声で泣くし、少しもじっとしていない存在で、大人から見たら邪魔な存在なのでしょう。静かに礼拝したい、説教を心地よく聞きたい、集中したいと願う気持は誰でもが持つ気持です。ですから子供達をしかりましょうか、遠ざけましょうか、又親達も騒がしくする子供が他の人に迷惑になるから子供を別室へ移して遊ばせましょうか、もしそうしたら、主は憤られないでしょうか。周囲の者全てが「わたしのもとへ来させよ」との主の命を聞いて、理解と協力をすべきではありませんか。
 又親も自分の子供を礼拝に静かに出席させる工夫と努力が必要です。何も判らない子供に無理に礼拝させる必要はない等と思わないで下さい。判らない内から主を礼拝することを教えるべきなのです。
聖書のことば
イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
マルコの福音書 10:14

正気に返って ルカの福音書8章26〜39節
2002年9月22日第4聖日牧師山宮利忠
 ガリラヤ湖の東岸にゲルゲサといわれる所があり、ガダラ人又はゲラサ人が住んでいました。主はそこに行かれると悪霊につかれた男に出会います。この男は、サタンに支配される罪人の典型と言ってよいでしょう。 まず墓場をすみかとしていました。この地方の墓は横穴式で、住むには都合がよかったのでしょう。しかし人の最終的住家である墓場をすみかとするのは象徴的です。墓場は汚れと死に満ちた所でした。
 彼は狂暴で裸でした。さらには自らを傷つけていたのです。鎖でしばられてもそれをひきちぎってしまい誰も彼を押えることができず、夜昼叫びつづけて自分の体を傷つけているのです。(マルコ5:3〜5) 主はこの男にむかって「汚れた霊よ、この人から出て行け」と命じます。この権威あるおことばによって、悪霊は豚の群の中へ入って湖へかけ下りおぼれ死んでしまいます。自然界を支配するだけでなく霊の世界においてもキリストの力をまざまざとみせつけた主の力に、異邦人達はおそれを覚えておののきます。
 悪霊を追い出していただいた男は、正気に返り、着物を着て、お供をしたいと申し出ますが、主は家に帰ってあかしをするよう命じます。救われた者がまっさきにすることは、家に帰って家人にあかしをすることでしょう。
聖書のことば
イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返ってすわっていた。 
ルカの福音書 8:35 

嵐をしずめるキリスト ルカの福音書8章22〜25節
2002年9月15日第3聖日牧師山宮利忠
 ガリラヤ湖に突然の嵐がおこる事は、よくあるといわれています。山上湖の特徴なのでしょう。ガリラや湖を仕事場としていたプロの漁師達が死ぬ程と思う程の激しい暴風の中で、主は疲れて眠っておられました。弟子達の信仰をためされる事もあったのでしょうが、それ以上に、風も水も治められるお方としてのキリストの権威が示されています。
 私達の人生には、様々な突発的な事件が起ります。その時はまさしくこの弟子達が遭遇した有様に似ているのではないでしょうか。あわてふためき恐れおののき、こんなに困っているのに何とも思われないのかと周囲に訴えるのです。しかしキリストは、「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」と言われます。いったい、どこに信仰を置いているのか。日頃養われた神への信頼は、こういう時にこそ発揮されるべきではないのか。そう語られた主は、嵐を静められます。キリストを信じる者全てが、この主のおことばの権威の前にひざをかがめ、平安を得ることができれば幸いです。
 主は舟のとものほうで眠っておられましたが、「わたしが共にいるではないか」というお声が聞えてきそうです。神は、まどろむこともない方です。恐れや心配のある時には、神は遠くにおられるように思われるものですが、その時にこそ近くにおられるのです。
聖書のことば
風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。 
ルカの福音書8章25節 

持つ者は与えられる ルカの福音書8章16〜21節
2002年9月8日第2聖日牧師山宮利忠
 正しい神のことばの聞き方は、聞いたことを実行することであって、ただ聞くだけの者になってはならず、実行しよう、神のみこころを行おうとする心を持つ者は、いよいよ豊かに与えられ、そのような心を持たない者は、持っているものまでも奪われてしまうと主は教えられます。 
 実に神のしもべ、キリストを救い主と信じた者は、その内なるいのちの豊かさに応じて、世の光、地の塩となるわけであって、それはその存在そのものによってあかしされるので隠すことはできません。丁度ランプの灯が高くかかげられて部屋を照らすように、秘密があばかれるように、キリストを信じた者は、ことさらにそのようにふるまうことがなくても、内なる光は外にあらわされるものです。 
 長年信仰生活をしている方々は、キリストに似た者となっている筈です。そのような人は、主の教えの聞き方に於いて著しい特徴がある筈です。即ち神の言葉聖書を、熱心に読み、メッセージを熱心に聞き、それを実行しようとする心を持つ方々です。 そのような人を主は真の家族だと言われましたし、神のことばを実行したアブラハムは、神の友とよばれたのです。もし聞いて実行しようとしなければ、持っているものまでも失い、愚かな者が砂の上に家を建てたように、外見上は立派でも、事ある時にもろくも崩れてしまう失敗者になるでしょう。
聖書のことば
だから聞き方に注意しなさい。というのは持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。 
ルカの福音書8:18 

病床雑感 
2002年9月1日第1聖日牧師山宮利忠
 10年前の胆石摘出手術と同じ病院に伏せながら様々な事を感じさせられながらの数日間でした。まずこれで三回も聖日を守れなかったわけですから、40年間の牧会生活でたった一度だけの聖日欠席などと誇るわけにはいかなくなった自分を顧みて、人間の誇りを一つ一つ砕かれ、ただ主のみを誇ることを教えられる厳しさを実感しつつ、弱さを知ることの大切さを改めて痛感させられました。
 狭い病室の中での人間模様もさまざまです。年輩者の多い病室の中で家族や知人との会話で知られる生活の背景や人柄、医師や看護士との対応からみられる性格等、いやおうなしに感じさせられる中で、人は存在そのもので、その人自身の人生観や価値観、死生観をあらわすものだということを痛感させられました。「私はクリスチャンです。」と口で言い表わすことがなくてもキリスト教徒としての証明は、その人の存在そのものによって明らかにされる。そして世の人々は、その無言の証明をいやおうなしに感じさせられつつキリストそのものを評価しようとするのだということではないでしょうか。
 主は「あなたがたは、世の光です。地の塩です。」と弟子達におっしゃいました。主のおことばに従う日々の生活、真剣な礼拝によってつちかわれる神の子としての内面、それこそが、自然に身につくあかしとして、世の多くの人達にキリストの証人としての大きな力となるのではないかと思いました。
聖書のことば
だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。 
ルカの福音書 7章35節

クリスチャンの将来の希望 ローマ人への手紙8章18〜25節
2002年8月25日第4聖日伝道師安藤修司
 クリスチャンは、信仰ゆえの多くの試練や困難も経験しなければなりません。しかしその試練に優る祝福や喜びがあることをこの箇所はあかししています。
 第1に、今の苦しみを取るに足らなくする将来の栄光があるからです(18)。信仰年数を増すにつれ、試練や妨害によって、当初の無垢な喜びに浸ってはいられなくなります。しかし、救いによって約束されている救いの完成がどんなにすばらしいかを知ることによって、試練の中でも希望をもって前進できます。
 第2に、被造物も共に私たちの救いの完成を待ち望んでいるからです(19-23)。人類が罪を犯したために、神が創造された「すべて良かった」世界は滅びの束縛のもとに入れられてしまいました。そのため私たちは自然を通して恵みを頂くだけでなく、自然から苦しみをも受けなければならなくなりました。被造物はそれでも私たち聖徒と共に、罪ののろいから解放されるのを待ち望んで産みの苦しみをしています。忍耐して待ち望んでいるのは私たちだけではありません。
 第3に、私たちは「この望み」によって救われているからです(24-25)。望みとはまだ得ていないものが与えられるのを待っている状態です。神は、救いの完成の希望によって、信じる私たちを救って下さっています。なぜなら、救いは信じた時にはまだ完成してはいませんが、救いの全てが信じた人のものとして与えられており、神に守られて必ず完成に至るからです。だから、この世で楽しみな事を待つ以上に、聖徒は生涯の終わりの後の栄光を希望を持って待ちます。
聖書のことば
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
ローマ人への手紙8章18節

聞き方に注意しなさい ルカの福音書8章16〜18節
2002年8月18日第3聖日牧師山宮利忠
 種蒔きのたとえと共通したたとえとして三つの教えがされています。あかりは、周囲を照らすためにたかだかとかかげられる必要があり、それこそがあかりの使命であること、又隠されているものであらわにされないものはなく、秘密は必ずあばかれること、そして最後に、持っている者は、さらに与えられて、持たない者は、持っていると思うものまでも取りあげられてしまうというものです。
 前の二つの教えには、隠されている事が本来の姿ではなく、あらわにされてこそその者の真の在り方であることが教えられています。神のことばを信じた者は、自分が誰に仕え、何に従い、どこにむかって歩んでいるかをその生き方によって明らかにするものであり、隠しおおせるものではありません。本当に信じた者は、たとえことばで否定しようがその在り方でキリストを証明します。ですから神のことばの聞き方が大切です。実を結ぶ祝福にあずかるためには、聞くだけでなく聞き方が重要なのです。
 その聞き方はよい地におちた種と同じです。正しい良い心でみことばを聞くことです。聞いてもその聞き方がまずければ実を結ばないだけでなく、自分の持っていると思っているもの又は持っているように見えるものまでも奪われてしまいます。率直で、従う心をもって神のことばを聞く者は、豊かな祝福をいただくことができます。
聖書のことば
だから聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。
ルカの福音書8章18節

実を結ぶ蒔かれた種 ルカの福音書8章4〜15節
2002年8月11日第2聖日牧師山宮利忠
 有名な種蒔きのたとえは、沢山の教えを含んだたとえですが、群集と弟子達全員に語られた事を考えれば、やはり主の教えの聞き方を教えられたものととらえるのが適切でしょう。即ち正しい、良い心でみことばを聞き、それをしっかり守って、よく忍耐する者が、みことばの力にあずかることができるということです。
 では、正しくないみことばの聞き方とはどんなものかといいますと、第一は、かたくなな心です。この世の考え方におしかためられた、俗的な心は、神のことばを受け入れる素地がありません。第二は、一時的で、熱狂的な心です。感激してすぐにみことばを受け入れたようにみえますが、テストに会うともろくも崩れて、さめてしまいます。根を張ることがないのです。第三は、しばらくは続くのですが、それよりももっと強くこの世への心づかいが大きくて、結局実を結ぶには至りません。 正しくて良い心とは、紳士的で優しい心をあらわします。聖書の教えのすばらしさをしっかりと心にとめ、うるわしい心でたえしのぶ人は、やがてみことばの力にあずかり、その結果を見ることができます。 
 弟子達にとっては、福音の種蒔きの労苦への励ましと希望を教える意味もあったのでしょう。何故ならば実を結ぶのは畑(心)の問題だからです。
聖書のことば
しかし、よい地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい良い心でみことばを聞くと、それをしっかり守り、よく耐えて実を結ばせるのです。
ルカの福音書8:15

イエスに仕えた女性達 ルカの福音書8章1〜3節
2002年8月4日第1聖日牧師山宮利忠
 主の活動は、会堂から外に出て旅をしながらの働きになります。12弟子も共に従い、その一団を支える働きは女性達が自らの財を費やして仕えましたマグダラのマリヤは、暗い悪の力に縛られた過去を持つ女性であり、又逆に王に仕える執事の妻であったヨハンナ等、自分も生活も違う女性達が、心をひとつにし、犠牲をもって主の一団に仕えたのです。当時の差別社会で、これは驚くべきことでした。もはやユダヤ人もギリシャ人も奴隷も自由人もない、全く平等の係りの中で、彼女達は喜びをもつて主と弟子達に仕えることができたその理由は何だったのでしょうか。
 それは彼女達が、各々明確にイエス・キリストの力を体験し、赦しといやしをいただいていたからです。罪の力に完全に支配されていた圧制の中から、解放された喜びは、おしげなく仕える力の源となっています。まさしく多く赦された者は、多く愛することができたのです。彼女達は、キリストご自身に仕えていました。ですから人にも仕えることができたのです。継続して、いつまでも仕える働きをつづけることが出来ました。
 ルカはマグダラのマリヤやヨハンナが復活の証人となっていることを記録しています(ルカ24:1−10)わたし達が働くその動機はどこにあるのかを深く考えさせられます。仕える動機がどこにあるかをさぐられます。
聖書のことば
また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、7つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女といわれるマリヤ〜そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大勢の女たち〜。
ルカの福音書 8章2〜3節

罪を赦すお方 ルカの福音書7章36〜50節
2002年7月28日第4聖日牧師山宮利忠
 ユダヤ人の豊かな家は、四角の周辺に部屋があり、夏中は吹き抜けで植木や噴水などがあるものでした。パリサイ人シモンはそんなすばらしい家にイエスを食事に招きますが決して礼を尽くした招き方ではなく、訴える口実をみつけるためであることがその招き方でよく判ります。 一方招かれざる客としてこの宴席に入りこんだ罪ある女は、水のかわりに涙で足をぬらし、布のかわりに髪でぬぐい、御足に香油を塗ります。その様子を冷やかに見つめるシモンの心を見抜いた主は豊かではあるが心の冷たいシモンを名前すら呼ばれず、罪ある女で通っている罪深い女の愛の行為と比較なさるのです。
 ここで主は「多く赦された者が、多く愛す」ことを示されました。 表面的には、多く愛したから多く赦されたように読みとれますが 決してそうではありません。「あなたの信仰があなたを救った」とのおことば通りこの罪ある女は、キリストの内に自らの罪深い生涯や生活を清め、赦していただける力を知り、信じて主のもとへ、勇気と感謝をもって来たのです。
 主のおことばは「多く愛したから、多く赦されていた」と解すべきでしょう。 「赦し」という事がどんなに人の心に平安と喜びを与えるか、はかりしることができません。何故この女が堕落の道を辿ることになったか不明です。しかし今キリストにお会いし、無条件で赦される愛を知った時、彼女の生涯は変るのです。主はこの女の涙を決してとどめようとはなさいません。
聖書のことば
すると いっしょに食事にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
ルカの福音書 7:49

御国の子らの証明 ルカの福音書7章22〜35節
2002年7月21日第3聖日牧師山宮利忠
 イエスはバプテスマのヨハネを預言者の中でも最大の預言者と評しますが、御国の子らはそれよりも偉大だといわれます。それは何よりもメシヤの合否を知っているという点で偉大なのです。キリストを救い主と信じた者は、バプテスマのヨハネによる神の使信を信じたみこころに従おうとする者達の事と考えてよいでしょうが、ここでは神の正しいことを認めた人(29)、知恵の正しい人ということになります。
 わたしたちは神の被造物として、神のみこころに従うところにこそ本来の生き方があるわけですが、人の最高のたまものとしての自由意志は、みこころに従うことと、みこころを拒む人とに悲しい事ながら分けてしまいます。神はバプテスマのヨハネをつかわし、イエス・キリストをつかわして、滅亡の死から救おうと、丁度子供達が笛を吹いても踊らず、とむらいの歌を歌っても泣かないと歌うように、神への招きを語っても彼らはそれに耳を傾けようともしないばかりか、ヨハネが昔の預言者と同じような姿と働きをしていると、悪霊につかれていると言い、イエスが罪人と共に飲んだり食べたりしていると食いしんぼうの大酒飲みと批判します。
 神に従うこころを持たない者はいずれにしても不満と不平の中にあるものであり自分のこころに神のみこころをあわせようとする者です。しかしみこころに従おうとする者はその生き方を行動により神ご自身を証明します。
聖書のことば
だが知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。
ルカの福音書 7章35節

わたしに躓かない者は幸いです ルカの福音書7章18〜23節
2002年7月14日第2聖日牧師山宮利忠
 入獄中のバプテスマのヨハネから二人の使者がつかわされて、来るべき方はあなたなのか、それともほかの方を待つべきかを問わせます。ヨハネの使命は、メシヤ到来の先がけとして道を備えることにありました。たしかにヨルダン川での出会いとバプテスマは、ヨハネに『世の罪を取り除く神の子羊』と叫ばしめたのです。
 では何故今更と思わせられます。その問いかけへの答としてイエスは、盲人、足なえ、病人、耳の不自由な者、そして死人さえ生き返り、貧しい者によろこびのおとずれが伝えられている、その事をヨハネに伝えるように命じます。かつてのエリヤやエリシャのような大預言者とは異なる、まさしくイザヤの預言したメシヤの特質を備えた働きでありました。パリサイ人達の期待したダビデの再来とは異なった力を持つメシヤの到来です。弱い者、しいたげられた者、苦しみ、悲しむ者達に希望を与える真のメシヤの到来は、多くの者に躓きを与える要素をもつものでもあります。
 まさしく『十字架のことばは、滅びゆく者には愚であり』、神は宣教の愚かさの故に己を高くする者の目を閉ざされます。神が遣わされたメシヤなるイエスは、弱々しくも十字架にかけられて殺されてしまいます。一見敗北にみえたメシヤの最後が実は人類救済の道であったことを悟る者は、ヨハネと同様主のことばを真のメシヤと受けとる者です。
聖書のことば
だれでも わたしにつまずかない者は幸いです。
ルカの福音書 7:23

あわれみ深い主 ルカの福音書7章11〜17節
2002年7月7日第1聖日牧師山宮利忠
 ナインは ナザレの南にあり、旧約ではエリヤやエリシャが子供を死から蘇えらせたことのある場所でもありました。主の一団と葬列とが町の入口でぶつかります。悲しみの葬列は、キリストのあわれみあるみわざによって喜びにかわるのです。なんと美しい、又劇的な状景でしょう。主はどうしてこの葬列に深いあわれみを催させれたのでしょうか。
 第一に、なくなった子供は、ひとり息子だったからでしょう。かけがえのない独り子を失った母親の悲しみはいかばかりか、その悲しみが大きければ大きい程愛は大きかったのです。やがて十字架におかかりになる神の独り子の犠牲の大きさを思わされます。
 さらに、この母親はやもめでした。夫を失った悲しみ、そして今女手一つで、育ててきた独り息子の死、それはやもめにとってこの上ない悲しみでした。主は、人を襲う死の現実に憤られ、あわれまれ、涙されるのです。そしてこの大いなる敵とたたかわれます。 あわれみこそが奇跡の動機となっている事がわかります。多くの病人をあわれまれ、空腹の群衆をあわれんでパンを与え、盲人をあわれんでいやされます。主はご自分の力を誇示するために大いなる力を用いませんでした。あくまでも周囲にいる元通りになってほしい、本来の姿にたちかえってほしい者達への深いあわれみによって、生と死を支配する力を用いられました。
聖書のことば
主はその母親を見て、かわいそうに思い「泣かなくてもよい」と言われた。
ルカの福音書 7章13節
主への期待 ヨハネの福音書16章24節
2002年6月30日第5聖日牧師山宮利忠
 わたしたちは 人や事柄に期待をしては失望を経験します。しかし主に期待をして裏切られた人はいないのです。ただ残念ながら主に期待することにおいてあまりにも少ないのかもしれません。
 宣教40年たった今、20年の時に行われた「ビジョンを語る会」を聞いて,今後の教会の祝福を期待しました。教会の祝福を願うことは、主のみこころにかなったことですから、大いに求め願うことができます。先日の発表会はそういう意味で大変意義あることでした。主のために大きく期待する習慣を身につけたクリスチャンがもっともっと多くおこされなければなりません。昔の伝道者は「スコットランドを我に与えよ」と祈り願いながら伝道しました。それ位の期待をもった働きができれば何と幸いなことでしょうか。
 地道な働きが必要であることは勿論です。一時的な派手な行為は単なるパフォーマンスであって信仰ではありません。真の主への期待は,大いなる事を願いつつ,着実に与えられている事をなしつづける者でありましょう。ただ目先の事のみをこなしていくだけのものになってはならず、あるいは大きな事を夢見てささいな事を軽んずるものになってはなりません。
 わたしたちが何を願っているかが大切です。志をたてさせて実現にいたらせて下さる主を信じて、「あなたの信じたとおりになるように」と言われる主のおことばをかみしめて、大いに期待して明日を待ちたいものです。

立派な信仰 ルカの福音書7章1〜11節
2002年6月23日第4聖日牧師山宮利忠
 「ナホルの村」という意味のカペナウムは、ガリラヤ地方でのイエスの働きの中心地でした。そこはペテロ達の出身地であり、マタイもここの収税所で弟子として召された町でもあります。ローマ兵の駐屯地でしたから軍の最も重要な実戦的ポストにいた百人隊長もここに駐留していたわけです。
 ユダヤ人にとって異邦人であったローマ人は、征服者ではあったが彼等の生活の慣習を尊重して、ユダヤ人の家には入らなかったようです。病人をかかえて何とか治してもらいたいと願った信仰深い百人隊長は、人を介してイエスに頼みます。この百人隊長の主への態度は、まれにみる立派なもので、イエスを驚かすのです。では彼の信仰の立派さはどこにあったのでしょうか。
 第一に、キリストの権威への信頼です。自らも重い立場にある者として、権威に対する服従はよく判っているものの、自分にはどうにもならない病をいやす権威をイエスが持つことを信じた信仰。しかも言葉の命令だけでよしとする信頼は、実にイエスを驚かす程の徹底した信仰でした。
 第二に、深い謙遜です。支配者でありながら、屋根の下にお入れする資格はないと言えた謙遜さ。
 そして第三に、人格的な評判です。日頃の生き様が、ユダヤ人にも尊敬される生き方でした。
聖書のことば
あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。
ルカの福音書 7:9

隠れた土台 ルカの福音書6章43〜49節
2002年6月16日第3聖日牧師山宮利忠
 人を批判する人に、まず自分自身をよく吟味するように教えられた主イエスは、人の隠れた内側の大切さを三つのたとえで示されました。
 第一は、良い木のたとえです。良い木は良い実を結びますが、悪い木は悪い実を結ぶのです。木はその性質にかなった実を結ぶのであって、大切な事は、いかなる木であるかということであり、いかなる人であるかということです。
 第二は、良い倉のたとえです。倉は人の心を示します。よい心を持っている人は良い倉からよいものをとり出しますが、悪い心を持っている人は悪い倉から悪いものを吐き出します。大切な事は心の中がどうかということです。
 第三は、隠れた土台のたとえです。同じ所に家を建てても地を掘り下げた岩の上に基礎を置いて建てた人とそうでない人とは、洪水という困難が襲った時その結果があらわにされます。隠れた土台がしっかりしている人は,困難によく耐えることができるのです。人生の基礎をどこに置いているかは、とっても大切な事です。何を基として考え、行動し、希望を持つかによって私達の一生は大きく変わります。
 イエス・キリストを信じ、このお方に従い、その教えを実行する人は、決して失望させられませんし、困難に耐え、よい実を結ぶことができます。大切な事は隠れたところであり、目に見えない土台です。
聖書のことば
その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。
ルカの福音書 6章43〜49節

新しい次元の心 ルカの福音書6章37〜42節
2002年6月9日第2聖日牧師山宮利忠
 ここでも四つの点が示されています。即ち、審くな、赦せ、罪に定めるな、そして、与えよ、です。ここでは、まず自分自身が赦される必要のある者であり、罪に定められない者だという事を知ることが必要だと教えられています。そのために三つのたとえが示されます。
 最初は盲人のたとえで、自分が判らないことは、人に教えることができないこと、次に弟子と師のたとえでは,自分に欠けたところがありながら、相手に自分以上のことはもとめられないこと、そして目の上のチリと梁のたとえでは、自分の欠けたところの大きさに気づかずには、人の欠けたところを直すことはできないというものです。
 ここでは、自分の量りで人を量ってはならないことを教えると同時に新しい次元で人を見る事が示されています。即ち神の量りで人を量るということです。神が私にして下さったお取り扱いをもって,人を量るということは、神が私を赦して下さったように人を赦し、神が私を愛して下さったように人を愛し、神が私を忍耐して下さったように耐え忍ぶことです。
 これは、その経験を得ない限りできないことです。多く愛す人は多く赦された人ではありませんか。罪ある女は、主を豊かに愛しました。それは彼女が多く赦されたからです。神と自分という新しい次元で物事を考え、行動していける者こそ、キリストを信じたクリスチャン達の生き方です。
聖書のことば
あなたがたは,人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。
ルカの福音書 6:38

望むことを行え ルカの福音書6章27〜36節
2002年6月2日第1聖日牧師山宮利忠
 愛の四つのシリーズです。即ち敵を愛すること、侮辱する者のために祈ること、奪う者を拒まないこと、求める者に与えること、その結論は「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」(31)と教えられました。ゴールデン・ルールと言われるものです。
 目には目、歯には歯というおきては、過剰復讐を禁じているおきてですがイエスが語られた教えは、そのおきてをはるかに越えたもので「してもらいたくないことを人にしてはならない」ということより積極的で、高度です。マタイ福音書7章12節にも同じことばが記録されていますが、ここにはこれが律法であり預言者であるという言葉が記されています。即ち旧約全体はこれに集約されるということです。 
 ここから教えられる事は、まずイエスの求めがいかに高度なものであるかということです。他人に迷惑をかけてはいけない程度ではない.更にそれから一歩先へ進んで、自分から出て行く姿勢があります。この高度な教えに自分の無力さを覚えるなら、主のみこころに一歩近づいたことになるでしょう。
 そして次にこの教えの根底に流れるものは、愛であることが判ります。沢山の教えやそれを実践する源には、愛がなければなりません。小さないましめを守ることだけに心を用いるのではなく愛の原理に立って物事を判断し、行動するすべを心得ることこそキリストの示す信仰なのです。
聖書のことば
自分にしてもらいたいとの望むとおり、人にもそのようにしなさい。
ルカの福音書 6章31節

哀れな者とは ルカの福音書6章24〜26節
2002年5月26日第4聖日牧師山宮利忠
 ここに四つのあわれがあります。しかし私達にとってこの四つは、決して哀れとは思われないものに違いありません。即ち、豊かな富と満腹、笑いとおほめのことばです。しかしイエスはこれらのものに幸福を見出そうとする者は哀れだと語られました。その理由として富んでいるものは既に慰めを受けてしまっている、満腹なものはやがて飢えるようになる。笑っている者は、やがて泣くようになり、人からほめられている人は、決して本当の栄誉ではないと言われるのです。
 当時このメッセージを聞いた人々は、たしかに貧しく、飢えており、悲しみの中に決してほまれある地位にある人々ではありませんでした。ですから人一倍そのようなものを熱心に求めようとしていた人々であったとも言えるでしょう。豊かさや満腹の中に幸せを求めようとする者を哀れな者と断じた主の真意はどこにあったのでしょうか。
 豊かさや誉れは決してそれ自体悪いものでも、不幸なものでもありませんそこに人の幸福があり、安全があり、人生の目的があると考えてしまうことこそが、永遠の視点から見て愚かなことだとおっしゃりたいのです。この地上の生活は1時的です。いつもいつも笑ってばかりいられません。人のほめることばも真意ではないかもしれません。飲め、食え、楽しめという生き方が人の生きる目的であると考える生活には、大きな落とし穴が待っています。
聖書のことば
しかし富んでるあなた方は、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。
ルカの福音書 6:25

朝ごとにあたらしく エレミヤ哀歌3章22〜23節
2002年5月19日第3聖日牧師山宮利忠
 真の神は、御子イエス・キリストによりその愛の全てをあらわして下さいました。十字架の刑罰は、私の全ての罪の身代わりの刑罰であり、これから犯してしまうであろう罪を含めて、全ての罪の赦しがそこにあります。なんと大きなあわれみ、なんと大きな愛でしょう。主のあわれみは尽きることなく、朝ごとに新しいと記されています。
 即ち主は、毎朝新しい愛と赦しをもって接して下さるわけです。私達は、昨日の自分をひきずり、何年も前の出来事を忘れることができず、人との係りでも自分にされた行為やひとことが忘れられずに心を乱すものです。しかし主は朝ごとに新しいあわれみをもって接して下さるのです。何と感謝なことでしょうか。
 このようなお恵み豊かな主を知ったなら、私達も朝ごとに新たな心で歩み出すことができるようになるのではないでしょうか。心に積みあげられたよからぬ思いを捨てて、新しい心で歩み出すのです。そのように決断し、主を仰いで実行しようとすれば、主は必ず力を下さって新しい心で毎日歩み出すことができるようになります。毎日汚いものを拾って歩いていれば、いつか必ずその重荷でつぶれてしまいます。わたしのもとに来なさいとおっしゃる主は、わたしの荷は軽いともおっしゃいました。毎朝、心を主に向けて、新しい心で歩む心がけを持ってみて下さい。
聖書のことば
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。
エレミヤ哀歌 3章22〜23節

逆転した幸福観 ルカの福音書6章20〜23節
2002年5月12日第2聖日牧師山宮利忠
 山上の説教とか黄金律とか言われるガリラヤ湖畔での大勢の群衆を前にした説教は、当時の人々の心にあった幸福観や生活の仕方とは全く異なる新しい教えでした。ここにはイエスのめざした救済の原理と人本来の生き方とが明確に示されています。マタイの記録したものと比較しながら少しづつ学ぶことにしましょう。"ああ幸いだなあー"という、幸福に関するメッセージは、4つの数え歌を踏襲し、4番目がクライマックスです(箴言30:15〜)
 第1は、貧しい者の幸いです。この貧しさは物的貧しさというより、貧しさから生れた真剣な求め、神に呼び求める以外に道のない、心の貧しさ謙虚さを意味します。神の国はまさしく心低くした者の入れるところなのです。
 第2は、飢えている者の幸いです。肉体的な満腹は時が来れば空腹となる、食物による満たしではなく、義にうえかわく者こそやがて義を見出して満たされると教えられます。
 第3は、今、泣く者の幸いです。自らの罪性を悲しみ、涙する者は、罪の赦しを見出してよろこびの笑みをうかべることができます。
 そして最後は、迫害されている者の幸いです。信じる者を得て、その生き方を貫く者は、将来をみすえて今という時を耐えしのぶことができます。今の世の快楽に身をまかせる者は、真の幸福を得ることはできません。
聖書のことば
イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから」
ルカの福音書 6章20節

弟子を選ぶキリスト ルカの福音書6章12〜19節
2002年5月5日第1聖日牧師山宮利忠
 イエスは、ご自分の使命を委ねることのできる弟子を12名選ばれて、彼等に使途、すなわち遣わされた者という意味で呼ばれました。まず主は、祈られた事を注目しましょう。重要な時には必ず祈る姿を聖書は記録しています。特に十字架の死を目前にしたゲッセマネの園での祈りはこの祈りにこそ勇気と決断の秘訣、みこころを知りそこに歩む確信の秘訣があることを教えられます。
 次に、弟子の中から12名を選ばれた事も注目しましょう。主は人を求めておいでです。御国のすばらしい福音を伝えるものは自然や天使ではありません。神のかたちを宿した人なのです。そしてみこころのままにある人を選ばれます。神の栄光のための働きに選ばれている者は幸いです。招かれる者は多いが選ばれる者は少ないからです。
 そして最後に、選ばれた人達に注目しましょう。彼等はごく普通の人達でした。高名な律法学者や祭司達、有力な人達が選ばれたのではありません。しかも当時の社会では、神のご用に選ばれそうもない、罪人と言われた取税人や無学な猟師、国粋主義者であったゼロデ党員等が入っており、しかもやがてイエスを裏切る者さえ使徒の中に加えられたのです。人の思いと主の思いとは異なります。イエスは無力であっても心を熱くして仕える者達をお選びになりました。やがてこの人達が世界を変えることになります。
聖書のことば
夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選び彼らに使徒という名をつけられた。 
ルカの福音書 6章13節

何が第一ですか?  ルカの福音書6章1〜11節
2002年4月28日第4聖日牧師山宮利忠
 罪人取税人を召し、罪を赦し、弟子達に断食や規則的な祈りを強要しないイエスに、律法学者達は、ますます非難の目を注ぎはじめますが、さらに安息日に麦の穂をつんで食べている弟子達の姿や、同じ安息日に右手のなえた人をいやされた主の働きを見て彼等の怒りはいやがうえにも燃えあがってしまいます。何故ならば安息日(土曜日)は、神の休まれた日として労働をしてはならないとの戒めに従い、事こまかにユダヤ人律法には規定されていて、弟子と主のわざは、その規定に全く違反していたからであり、イエスは、あえてその違反をされたからなのです。
 ここでイエスが語られている事、教えようとされている事は一体何なのでしょうか。おきてや規則に従わなくてよいという事でしょうか。キリストを信じる者は、あらゆる事に自由にされるのだから何をしてもよいということでしょうか。
 そうではありません。ここでも先に学んだ事と同様、人にとって何が最も大切な事なのかを教えようとされたのです。まずおきては人の為にあり、安息日も人の為にあると言われるのです。律法にがんじがらめになってその本質を忘れている者に、あわれみと忠実さを教えようとされています。私達の生活に本当に必要なものは何で、必要なものの中で最も大切で第一のものは何かということを知って、それを第一にしなければなりません。なくてならぬものは多くはないのです。いや一つなのです。
聖書のことば
そして彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」
ルカの福音書 6:5


新しい皮袋 ルカの福音書5章33〜39節
2002年4月21日第3聖日 牧師山宮利忠
 イエスの教えは、形式化し伝統化してしまった当時のユダヤ人社会にとっては、従来の生き方を変えてしまう新しいものでした。その軋轢は次第におおきくなり、やがてはとどめることの出来ないほどにまでなってゆきます。既に取税人や罪人と言われていた当時おきてを守れない人たちとの交わりをとがめた律法学者達は、断食も祈りも当時の習慣に従ってすることのないイエスやその弟子達に一層の嫌悪感をつのらせます。主は彼等のとがめだてに対して、いくつかの例をあげて信仰生活の本質を示されました。
 第一は、喜びです。神を信じる信仰者の生活の根本は喜びにあることを婚礼の例をとって語られました。自らの罪や弱さのために嘆き悲しみ悔い改めることは必要です。しかしその赦しの福音がとどいたらもはや嘆く必要はありません。喜び踊ることこそクリスチャン生活の本質です。
 第二に、一貫性のある生き方です。新しい生き方は、新しい方法でなければなりません。神を信じなかった生活の仕方は、神を信じる生活にはあわないのです。同質のものでつぎあてをすることがふさわしい方法なのです。
 最後に、いのちあふれる生き方です。内側から、あふれ出るいのちにふさわしい生活の仕方が求められます。あらゆる点で新しい生き方なのです。
聖書のことば
新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。
ルカの福音書 5:38

さあ主の家に行こう 詩篇122篇1節
2002年4月14日第2聖日
 主の家とは、エルサレムに建つ神殿をさしています。この詩篇は神殿へ礼拝に向かう人々が歌った歌として「都上りの歌」という表題がつけられているわけです。神の民にとって神殿は、神の臨在のあかしであり、よりどころでした。神殿さえあればという行き過ぎた思いを持つ時代だったと言ってもよいでしょう。
 イエスは人のつくった神殿はもろく崩れるが、三日で建てる真の神殿、即ち教会(救われた人々の集合体)は、永遠であることを教えられ、今私達は、その神殿として、豊かな恵みの内にあるわけです。従って神殿は建物ではありません。そしてその教会が集まるところに会堂が建てられます。そういう意味では、会堂は二次的な必要という事になります。会堂がなければ、雨露しのげる洞窟でもよいわけです。私達は、古屋を改造した小さな集会所から出発して今に至りました。40年経た今、主の注いで下さった大きな祝福を感謝しなければなりません。そして、主の家なる教会を喜ぶことのできる者とならねばなりません。
 本質的なことは、主の家即ち教会を喜ぶことにあります。教会を大切なところとして、又喜びの場所として常に誇らしく思えるかどうかなのです。自分の教会を良い意味で誇ることができずに、どうして多くの失なわれゆく魂を教会にお誘いすることができるでしょうか。主は活きておられるあかしなくして、どうして不信の族に信じることをお勧めできましょうか。
聖書のことば
人々が私に、「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、私は喜んだ。
詩篇 122:1

わたしについて来なさい ルカの福音書5章27〜32節
2002年4月7日第1聖日
 カペナウムと思われますが、税の収税所にいたマタイに主は声をおかけになります。取税人は同胞から税ととるということだけでなく、割当て以上の税を課して私腹をこやし、税を払えない者には高利で貸すなどユダヤ人にとっては人殺しにも等しい罪人でありました。ですからイエスが取税人マタイを弟子に加えることなどとても考えられない事であったわけです。
 マタイは主のメッセージを耳にし、不思議を目にしザアカイと同様、日頃から人間としての貧しさを感じていたに違いありません。「わたしについて来なさい」との主のお声に、何もかも捨ててただちに立ちあがってついてゆきます。取税人の椅子は一度離れたら再び座ることは難しい地位でしたから、余程の決意がない限りできないことでした。マタイは、キリストにお会いした時、自分の求めていたものの全てを見出すことができたのでしょう。
 彼は大宴会を開いて、自分の生き方の転換をあかしし、多くの人に主を紹介します。今迄はローマの王カイザルに仕えていたマタイが、これ以後王の王たるイエス・キリストに仕える者となったのです。マタイは確かに主の目から見るならば病人でありました。自分の生活や生き方に苦しむ病人です。しかしこの宴会に出席した律法学者たちは、自分が病人であることに気付いていない助けがたい病人でした。マタイはイエスの中にいやしを見出し、悔い改めて新しい生活に入ります。
聖書のことば
この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
ルカの福音書 5:27−28
再会の喜び ヨハネの福音書20章11〜18節
2002年3月31日第5聖日
 イエスの復活の事実を最初に知ったのは、マグダラのマリヤでした。マグダラのマリヤは、いやされた時の記録はないものの、7つの悪霊を主によって追放させていただいた女性として登場します。彼女にとっては、暗黒の世界から光の世界に導かれた感謝とその体験が、残された生涯をキリストと共にと強く願わせた動機となり、イエスと常に行動を共にしている姿が福音書の中に散見されます。
 「主の御傍近くに」という思いが、十字架におつきになったカルバリの丘にも、そして葬られた墓にも自分の身を置くことになり、そして日曜日、週の初めの朝早くにも墓をおとずれて、死より甦られた復活のキリストに最初にお会いする恵みにあづかることになります。マリヤはそこで悲惨な死をとげたイエス・キリストの栄光に満ちた復活の主に再会することになります。
 12の弟子がいたにも拘らず、一人の女性にどうして復活の主は最初にご自身をあらわされたのでしょうか。それは彼女の明らかな救いの体験と主の御傍近くにいたいという熱い心がそうさせたに違いありません。マリヤの体験は、復活のキリストにお会いするという更に大きな体験となって、喜びは更に大きくなりました。
 私達がもし、キリストのみ傍近くにいたいと願うなら、天の恵みによる喜びと驚きは今より一層大きなものになるでしょう。そして既に天にある兄姉との再会の実現によって喜びは最高点に達するでしょう。
聖書のことば
イエスは彼女に言われた。「マリヤ」。彼女は振り向いて、へブル語で「ラボニ」とイエスに言った。
ヨハネの福音書 20:16

罪を赦す権威を持つ人の子 ルカの福音書5章17〜26節
2002年3月24日第4聖日
 パリサイ人がはじめて登場します。分離派と言われた厳格な律法主義者が、これからのイエスの敵として、十字架に至るまでつきまとうことになり、この奇跡は中風の男性のいやしだけでなく、罪を赦す権威を御子なるイエス・キリストがお持ちになっていることを証明するみわざとして、今後のメシヤとしてのお働きの根幹をなすこととなります。
 まず中風の男のいやしから学びましょう。動けない男を主のみもとに運んだのは友人達です。主は彼等の信仰をご覧になっていやしのみわざをなさいます。彼等の信仰とは、主のみもとへ運べばいやしてくださるという信仰であり、屋根をはいででも主のみ傍近くへ運ぼうとした熱意です。信仰とは行動を生み、結果を生むものだということが判ります。彼等がはいだ屋根は、再び彼等によって修復されたであろうし、中風の男も手伝ったに違いありません。
 一方パリサイ人は大勢イエスのもとに集まってはいましたが、座って理屈を言う者達でした。当時は病は罪の結果と考えられていましたから、罪赦された結果として病がいやされた現実を見ては、パリサイ人は一言も反論できなかった筈です。イエス・キリストは人の罪を赦すためにこの世においでになられ、そのお方を信じる者に奇跡のみわさをなさるお方です。誰でもキリストを信じる者は、新しく生まれかわる偉大な奇跡をおこして下さいます。
聖書のことば
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。
ルカの福音書 5:24

お心一つで ルカの福音書5章12〜16節
2002年3月17日第3聖日
 イエスのメシヤとしての力をひきつづき記録します。悪霊を追い出し、熱病をしかり、大漁をもって漁師達を驚かした主は、重い皮膚病にかかった者をいやされますが、この奇跡のわざが他のものと異なるのは「彼にふれ」「だれにも話さないように」と命じた点です。主は必ず人の信じる在り方をご覧になりますから、まず病人の信仰を見てみましょう。
 彼は、主を見るところまで近づいてひれ伏してお願いします。彼等は人中へ身をさらすことはできませんでしたし、たとえできたとしても人が近づかないように「私は汚れた者です」と叫ばねばならなかったのです。病のつらさと同時に社会的な、精神的つらさを身に負っていました。そして「お心一つできよくしていただける」と願うのです。主がそう望むだけで私はきよくされると告白します。いやされるよりきよくされる方がはるかに大きな意味をもつ願いでした。主はこの者の信仰をご覧になって「わたしの願いだ」と彼にふれてきよめ給うたのです。いやしでなくきよめを主は願われました。
 きよめ・・・これは今の私達に必要なことではないでしょうか。罪はライのように人を腐らせてしまいます。人の罪はキリストの尊い血によってのみ、清められます。人のみにくい罪に御手をふれてきよめて下さいます。きよめられた彼は「語るな」とのお心に反し、善意の不従順を犯しますが、心したいものです。
聖書のことば
主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。
ルカの福音書 5:12

私は罪深い人間ですから ルカの福音書5章1〜11節
2002年3月10日第2聖日
 イエスは弟子の選定にお入りになります。その基準は私達には判りません。しかし弟子を召された時のこの出来事の中にわずかながらその資格が示されているように思えます。ペテロ達はガリラヤ湖で漁をする漁師であり、通常夜に仕事をするのが最もよく魚のとれる時間帯だったようです。彼等の長年の熟練した働きをもってしてもその夜は不漁でした。しかし主は「深みに漕ぎ出して網をおろす」ように命じます。その結果は舟が沈みそうになる程の大漁でした。ペテロはその結果を見て主への畏敬の念を深く持ち「私から離れて下さい。私は罪深い人間です」と叫ぶのです。この出来事の中に主がペテロ達を選ばれたいくつかの理由を見ることができます。
 まず第一は、でもおことばですからと言って、疲れている身をうちたたいて舟を出したことです。彼らの漁師としての誇りを捨て、状況に左右されずにイエスのことばに従う従順、これこそが弟子となる大切な条件の一つです。
 第二に、自分の罪深さを知ったことです。ペテロの心には、漁師でもないイエスへのあなどりや、「そう言うのならまあ一回位網をうってみるか」「どうせ魚はとれないだろう、でもやってみようか」という思いがあったのでしょう。しかしそのあなどりは見事に打ち砕かれたのです。この罪深さを知る事、それこそが弟子としての大切な点でした。
聖書のことば
主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。
ルカの福音書 5:8

献げる恵み、与える喜び コリント第2の手紙8章1〜15節
2002年3月3日第1聖日
 2月-3月は、毎年信仰による約束献金の更新の月として、私達に献げることへの主からのチャレンジがなされます。救いの尊さと主からの恵みの豊かさを覚える時に、マケドニヤの諸教会が、大きな苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらずあふれ出て惜しみなく施す富となり、自ら進んで、力に応じ力以上にささげるささげものとなってあらわされた事は、私達への大きな模範であり、献金に対して正しい態度を持つことは、天よりの豊かな祝福を受ける条件でもあります。
 第一に、感謝と喜びをもって献げることです。そのためには、キリストにある救いの豊かさと祝福への感謝がなくてはできません。もしそれがなければ献金は苦しい義務となってしまいます。既にそれは献金とは言えないのです。
 第二に、信じて献げることです。神の約束は献げる者への豊かな祝福であり、豊かに献げる者は豊かに受けることなのです。主は献げることにおいて、ためしてみよと言われました。
 第三に、強いられてでなく、自ら決めたとおりにすることです。強制されたものや、人真似でされたものも献金とは言えません。献金は私達の心や信仰をためし、あらわにし、愛のあかしともなる神の定めた恵みです。
聖書のことば
この恵みのわざにも富むようになってください。
コリント人への第2の手紙 8:7

権威あることば ルカの福音書4章31〜44節
2002年2月24日第4聖日
 最初の奇跡をガリラヤのカナで行われたイエスは、次々とご自分がメシヤであることのしるしとしての奇跡を行われます。あらゆる病をいやされ、その衣にふれるだけでもいやされる程の力をあらわされました。ルカはカペナウムでなされた二つの奇跡を記録しています。一つは会堂に出入りしていた悪霊にとりつかれた男をいやし、もう一つはペテロのしゅうとめの熱病をいやされた記録です。この二つの奇跡を記すには明らかな意図がみうけられます。先に人々がイエスの話が権威ある者のように語られたのに驚かされましたが、さらに今度はそのことばの力に驚かされるのです。
 汚れた霊につけられた男には「黙れ、その人から出て行け」と命じると悪霊は男を地に投げ倒して出て行きます。
 ペテロのしゅうとめの熱病には「熱をしかりつける」と熱がひきます。又悪霊どもをしかってものを言うのをお許しにならなかったのです。人々は権威と力で命じると、そのことばだけでいやされていく病人の姿を見てますますイエスの力に驚き、そのうわさは次第にひろがり多くの人々の口にのぼるようになってゆきました。
 キリストのことばには力があるということを証明なさいました。私達は今聖書という形で神のことばを持っていますが、これこそ力ある神のいのちのことばなのです。これによって救われ、これによって養われ、力が与えられます。
聖書のことば
人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。
ルカの福音書 4:32

異邦人への光 ルカの福音書4章22〜30節
2002年2月17日第3聖日
 ガリラヤのナザレで、伝道をはじめられた主の教えに、群衆は驚きつつも、「この人はヨセフの子ではないか」と言うのです。教えはすばらしい、力もある。しかし彼は大工の息子ではないかと言うのです。長年知っているイエスが、どうしてもキリストと結びつかない、そこに神の子メシヤだという信仰に至らない理由があります。
 ペテロを迎えた異邦人コルネリオの態度とは正反対の姿がそこにあります。彼等はキリストの中に人を見たのです。私達が十字架につけられてしまったイエスに救主、王の王たる方を見ることができなかった時と同じように、板を削っていたイエスの中に救主を見ることができなかったのです。
 しかし主のみわざは、ナザレを越え、ガリラヤを越え、ユダヤを越えて、あらゆる壁をつき破って、全世界への福音となりました。選民意識の強かったユダヤ人には耐えられないことであったでしょうが、イエス・キリストは万民の救主であられました。ですから人種や国の違いを超えて、いかなる人であっても、イエスを主と告白する者は、救いにあずかることができるのです。まさしくすべての人を照らすまことの光が世に来たのです。
 偏見にこりかたまって、イエスを崖からつきおとそうとした人々の真中を通り抜けて、堂々と去ってゆかれたイエスの威厳は、もはや大工の息子の姿ではありません。
聖書のことば
また、こう言われた。「まことに、あなた方に告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。
ルカの福音書4:24

実現した聖書のおことば ルカの福音書4章14〜21節
2002年2月10日第2聖日
 メシヤとしての動きを故郷ナザレから始められた主は、イザヤ書を会堂(シナゴグ)で読んで「聖書のことばが実現した」と語られました。安息日には会堂に集まり聖書の朗読と解きあかしに耳を傾け、礼拝を欠かすことのなかった一人の聖徒の姿を主の内にも見ることができます。
 イザヤの預言は、第一にメシヤは、油注がれる(キリスト)という事でした。即ち上よりの権威をさずけられるという事であり、預言者、祭司、王としての職務を与えられ遣わされた事を意味します。
 第二にメシヤとしての使命が預言されています。その一つは、赦免です。とらわれ人に赦しが宣告されます。メシヤの使信は赦しの福音であり、罪と死に束縛されている人々に赦しのニュースを伝えることです。さらに開眼の知らせです。事実盲人がいやされました。しかし霊的盲目である全ての人に、信仰の目、霊の目を開いて下さいます。そして解放、罪にとらわれている全ての人に、その縄目が絶ち切られた事を宣告します。まさしくイエスの働きは、福音そのものであるわけです。そしてこの時から主の恵みの年が始まりました。長い間待たれていた人類への救いのニュースがこの年から始まりました。
 主はそのメシヤこそ自分であることを故郷ナザレから伝え始めます。彼等はそれを受け入れ、信じたでしょうか。大工の息子がメシヤだと・・・・。
聖書のことば
イエスは、人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
ルカの福音書4:21

誘惑に勝つ ルカの福音書4章1〜13節
2002年2月3日第1聖日
 30才でメシヤとしての働きに立たれたキリストの最初の体験は、サタンからの誘惑でした。荒野で、空腹に弱められた体、荒廃した環境の中でただ一人誘惑に会うのです。大いなる救いのみわざのために立ちあがった時、真先にやってきたのはサタンであったという事は覚えておかねばなりません。しかも波状攻撃と言ってよい、次々とやってくるたくみな誘惑です。
 第一の誘惑は、石をパンに変えてみよというものでした。力あるメシヤの力をためし、空腹をみたすためにパンをつくり出し、物で人を満足させようとする魂胆です。しかし人はパンだけではなく神によって生かされていると主はお答えになります。
 第二は、サタンにひざまづけば世の栄誉、栄華を与えるというものです。妥協から生れるものが真の誉れではなく、礼拝は神にのみささげられるべきだと答えられます。
 第三は、神の子である立場を利用して一大パフォーマンスを演じ、世をあっと言わせよというのです。神は試みるのではなく信じるものだと答えられます。全て申命記のことばによって勝たれた事、はっきりとした態度でサタンのつけ入るすきを与えなかったこと、苦難の先にこそ栄光があることを確信されていた事など、私達の日々の誘惑へのすばらしい模範です。
聖書のことば
イエスは答えて言われた。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。」と書いてある。
ルカの福音書4:8

神の喜びとなる生き方 コリント人への第2の手紙5章9節
2002年1月27日第4聖日
 神の喜びとなる生き方こそ人の本分なのです。自分の喜び、家族の喜び、社会の喜び、みな大切な事ですが、その全てを含めて最も大いなることは神が喜んで下さる生き方こそ最高の生き方なのです。何故なら神の祝福のないところには、たとえバベルの塔が築かれても滅び以外に道はないからです。神がお喜び下さる生き方とはいかなる生き方なのでしょうか。
 第一に、まっすぐな道を歩む者です箴言11:20まっすぐな道はイエス・キリストを信じる道以外にありません。「わたしは道である」といわれた主にお従いする者こそ神はお喜び下さり、自分にとっても安全な道です。
 第二に 仕える者です。ローマ14:18キリストご自身も仕えられるためでなく、仕えるために来られました。神は仕えるしもべをこよなく愛し、己を高くする者を嫌われます。しもべだけが主の恵みを知り、上よりの力をいただき、成長することができます。
 第三に、信頼する者です。へブル11:6己の力に頼る者でなく主を頼る者に、神はご自身の力をあらわし、栄光をあらわして下さいます。人は大層な事をしてみせますが果は残りません。あなたの生涯を神がお喜び下さる生涯に転換させて下さい。
聖書のことば
そういうわけで肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと私たちの念願とするとこ
ろは、主に喜ばれることです。
コリント人への第2の手紙5:9

二つの疑問 ルカの福音書3章21〜38節
2002年1月20日第3聖日
 メシヤとしての公の生涯に入られる時の記録に、二つの「何故か?」と問うことは意味のあることです。
 まずその一つは、悔い改めのためのバプテスマを何故罪のない神の御子が受ける必要があったのかという事です。ヨハネもキリストのバプテスマをさえぎっています(マタイ3:14)。その答えとして「すべて正しいことを実行するのは、ふさわしいこと」だといわれました。すべての点で人と同じようにならなければならなかったメシヤが神の要求されているすべての事を実行し、かつ罪人の身代わりとして一身に人の罪を負われようとしているキリストとして、この悔い改めのバプテスマを受けることは正しい事だったのです。その結果父は「わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と神の御子としての承認とその使命の決定をなさいました。更に使命遂行の為の御聖霊をも注がれたのです。
 第二は、どうして三十才になるまでナザレでヨセフの子として過ごされたのかという事です。12才でも20才でもよかったのでしょう。しかし30年間ヨセフの子として、家業にいそしみ母マリヤを助け、人としての大切な責任を忠実に果され、この小さな事に忠実であった事により、大いなる事に忠実であることのあかしとされて私達に「私のした通りにしなさい」と教えられるのです。
聖書のことば
教えを始められた時、イエスはおよそ30歳で、人々からヨセフの子と思われていた。
ルカの福音書3:23

ヘロデの大罪 ルカの福音書 3章19〜20節
2002年1月13日 第2聖日
 ヘロデは新約聖書に5人登場しますが、その内の第二番目のヘロデでバプテスマのヨハネから、その妻へロデヤとの結婚に対しあからさまに罪を指摘され、その恨みのために捕らえて投獄していました。というのは異母兄弟であったヘロデ・ピリポの妻であったヘロデヤを自分のものにしてしまったからです。これには妻ヘロデヤのそそのかしが大きかったように思われます。それを証拠に娘の踊りの報酬にヨハネの首を所望するように勧めたのは、他でもないヘロデヤだったからです。バプテスマのヨハネは、サロメの踊りの報酬として、又宴会の余興として、殉教の死をとげたことになります。ヘロデの犯した罪を知って私達の内にひそむ罪の性質を教えられる必要があります。
 第一に、自分の欲望を力で満たすものでした。ここには道義がありません。異母兄弟の妻を強引に自分のものにしてしまう権力にまかせて自分の欲望を満たす者の姿があります。
 第二に、軽々しく約束をして困難を招く軽率な者でした。サロメの踊りに何でもかなえてやろうと約束する彼には、権力者としての奢りと軽率さがみられます。
 第三に、正しい事を知りつつもそれを実行できない弱いものでした。ヨハネの正しさを認めつつも最後には殺してしまう弱さがあります。
聖書のことば
すべての悪事にもう一つこの悪事を加えた。
ルカの福音書3:20

私達はどうすればいいのでしょう ルカの福音書3章7〜18節
2002年1月6日第1聖日
 ヨハネのメッセージに集った人達は、「私たちはどうすればよいのでしょう」と問いかえします。神の使信を伝える結果として、このような応答がされる事こそ理想的です。 まず群衆に対しては、あわれみの心を持つことを求めます。貧しいラザロに対してあわれみの心を閉ざした富める男は、ゲへナの火に焼かれて苦しみました。自分の事だけに関心を持つ者は、自分の楽しみや自分の都合だけを考える者は悔い改めねばなりません。取税人に対しては、不正を行うことを戒めます。貪欲やそこから生れる不正は、神の義とかけ離れたものです。キリストに触れたマタイやザアカイは 不正をただされただけでなく、受ける生活、いや奪う生活から、与える生活へと変えられたのです。最後に兵士たちにはその権力によって人々をおどしたり略奪したりしないように勧められます。
 神を知らず神から離れた生き方は以上のような果実を結ぶと言ってよいでしょう。その先にいかなる結果が待っているかを知る事こそ知恵ある者の姿に他なりません。ヨハネはあくまで福音の先ぶれでした。あわれみの心や自己本位や権力欲にとらわれている者がそこから抜け出せないで苦しむ者に解放をもたらす救いこそ、キリストのもたらした真の救いなのです。
聖書のことば
群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」
ルカの福音書3:10