荒野で叫ぶ者の声 ルカの福音書3章1〜6節
2001年12月30日第5聖日
 メシヤ誕生の半年前に生まれた預言者ヨハネは、バプテスマのヨハネと言われ他のヨハネと区別されます。彼はメシヤの先ぶれとして神によって選ばれた器でした。燃えて輝くともしび、預言者の中で最大の預言者と評されたヨハネの信仰を学ぶことにしましょう。
 彼は新しい時代の幕開けを告げる神の人でした。第一に、大胆に神の言葉を伝える預言者でした。ヨハネは大胆に人々の罪を指摘し、悔い改めて神にたちかえるように迫りました。当時の民の形式化した信仰、道徳的に敏感さを失った生活、不従順を容赦なく責め、人々は自らの罪を悔い改めて、そのしるしとしてのバプテスマ(水に身を沈める)を受けたのです。
 第二に、ヨハネは、謙遜な預言者でした。真に謙遜な者こそ大胆になれます。彼は自分の立場と使命を自覚し、後に来るメシヤの先ぶれとして 自分は単なる声であり、その方のくつのひもをとく値打ちもないしもべであると表明します。キリストを指し示し、キリストに従うように勧めた謙遜な預言者です。誇り高ぶる者の末路は滅びですが謙遜な者の最後は栄誉です。
 第三に、彼は荒野で働きました。何もない厳しい荒野で生活をし、人々を導きました。今は余りにも豊かです。荒野に身を置く心を忘れてはなりません。
聖書のことば
荒野で叫ぶ者の声がする。 「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」
ルカの福音書3:4

地には平和 ルカの福音書2章14節
2001年12月23日第4聖日
 救主が降臨された目的は平和をもたらすためです。しかし現実は数千年を経た今、地に平和は見られません。キリスト在世中「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません」と、全く逆なことを語られた時があります。人の安逸的、事なかれ的、利己的平和を打ち砕く為に来られたのであって、真の平和をもたらすためには、その殻を打ち砕く必要があるからなのでしょう。
 本当の平和は何によってもたらされるのでしょうか。人の歴史が常に探り求めてきた大きな課題です。その一つは赦しのあるところに平和がもたらされるということでしょう。赦しのないところには決して平和はやってきません。しかし赦し合うという事程難しいものはありません。 救主イエスは赦すためにこの世に来られ、和解を実現して下さいました。それは、妥協という方法でも、あきらめという方法でも、屈服という方法でもなく、「身代わりに負う」という方法で赦しの道を開かれたのです。憎しみや恨みによらず愛によってなしとげられた赦しの道です。 
 世界中に平和をもたらされないかもしれません。しかし私達の心の中に平和をいただくことからその一歩を踏み出す事はできます。まず自分から赦され、そして他を赦していくことによって私達の周囲に平和をつくり出すことができるのです。平和をつくり出す者は神の子とよばれます。
聖書のことば
いと高き所に 栄光が神にあるように地の上に平和が御心にかなう人々にあるように
ルカの福音書 2:14

成人の意識 ルカの福音書2章41〜52節
2001年12月16日月第3聖日
 主イエスの成長をルカは40節と52節で二度にわたって記し、医者としての視点を私達に示してくれています。ここでルカが強調することは知恵が進んだことです。知恵とは神と人との間の知識を示します。
 そして幼子イエスは12才となり、ユダヤの世界での成人を迎えました。過越しの祭りには各地から大勢の人が集まり、神殿の庭では公開討論のような形で教師達が集る多くの人々から質問を受けたり、答えたりする習わしがあり、イエスも又その群れの中に加わっていたようです。ヨセフとマリヤは一日路を別々に帰路につきましたから、イエスが各々共に帰路についたのであろうと思っていたために、神殿にのこっているイエスとは別れ別れになってしまいました。驚いた両親はエルサレムに引き返すとそこにラビ達と対等に語り合うイエスを見出します。この時の主の答えは実に驚くべき答えでありました。「自分の父の家にいることを知らなかったのか」と。イエスの中に既に神の子、父なる神の子としての自覚が芽ばえている事が判ります。この意味を両親は理解できませんでしたが、イエスが成人を迎え、自らの使命を自覚しつつある事は大きな意味のある事でした。
 しかしイエスはヨセフとマリヤを父母として、その後も決して軽んじることなく仕え、神と人とに愛されたのです。自らの生涯の使命を自覚することと、肉の両親も重んじ、今の働きを時が来るまで大切にした主の御姿に成人を見ます。
聖書のことば
するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかたのですか。」
ルカの福音書2:49

美しい老人アンナ ルカの福音書2章36〜40節
2001年12月9日 第2聖日
 シメオンが賛美しているところにアンナもいて、彼女は84才の高齢で、しかもやもめでありました。わずか7年間の結婚生活で夫をなくして以来彼女は一人で生きてきたわけですから、どんなにか悲しくつらい日々であったことでしょう。悲しみや苦しみは人を二つの方向のどちらかに導きます。ひがみっぽく反抗的にするか柔軟で思いやりのある者にするか、又は信仰的にするか信仰から離されるかですがアンナは美しい老人になりました。その原因はどこにあったのでしょうか。
 第一に、彼女は、礼拝を欠かすことがなかったのです。(37節)貧しく、苦しい日々であったでしょうが、宮から離れることがありませんでした。即ち教会から離れることがなかったのです。神は信仰の母として私達に教会を与えて下さいました。ここで養われ、育てられ、強められ、整えられるのです。内にとじこもって孤独になる人の心に天の恵みを注いでいただく場所こそ教会です。
 第二に、祈りを欠かすことがなかったのです。個人的に神と交わることこそ、かたくなで意地の悪い人間にさせない秘訣です。人は疲れやすいものですが、主を待ち望む者は新たな力をいただき、疲れることがありません。アンナは将来に希望を持ち、その希望がかなえられることを私達に教えてくれます。彼女はメシヤに会うことができたのです。
聖書のことば
そして宮を離れず 夜も昼も 断食と祈りをもって神に仕えていた。
ルカの福音書 2:37      

救主キリストを待つ人 ルカの福音書2章21〜35節
2001年12月02日第1聖日
 ルカはシメオンという人物を紹介しています。この人物に関する詳しい記録は何もありません。ただ敬虔な神を畏れる者で待望の人であったというだけです。しかし彼の存在は何と大切な教えを私達に与えてくれていることでしょうか。彼はまさしく「キリスト、即ち救い主を待ち望む人」でした。メシヤに会わなければ死ぬことができない人、メシヤに会えば死ねる人だったのです。シメオンは、多くの群衆の中から幼子イエスを見出します。彼は毎日のように神殿に礼拝に来る人の中にメシヤなるキリストがいないかを見張っていたのです。神を待ち望む者はやがてメシヤを発見します。彼にとってそれは救いでありました。私達は神を待ち望む、即ち神の救いを待つ心を持っているでしょうか。前途に沢山の問題が山積みして、全く望みのない時にも尚神を待ち望み、神に期待することができるでしょうか。そうであれば必ず救いと助けを見るのです。シメオンの預言は、まさしく真のメシヤの姿を示すものでした。
 第一にこのメシヤは万民の救い主です。
 第二にこのメシヤは人々に決断を迫るお方です。倒れるか起きるかはこのお方をどうするかにかかっています。
 第三にこのメシヤは人の心の思いをあきらかにします。
聖書のことば
主のキリストを見るまでは・・・・・・・
ルカの福音書 2:26

御心にかなう人々 ルカの福音書2章8〜20節
2001年11月25日第4聖日
 ベツレヘムの野に羊の番をしていた羊飼いに救い主誕生の知らせがみ使いを通じて伝えられました。彼等は天の軍勢の賛美(14)にあるみこころにかなう人々の代表と考えてよいでしょう。12月の雨期に羊飼いが野宿することはないと主張する人々からは、この時期のメシヤ誕生に疑問が持たれてきました。時期の点はともかく羊飼いに第一報が伝えられたことは確かな事でした。彼等はどのような点でみこころにかなっていたのでしょうか。
 第一に、純真な人々でした。東方の賢者が賢さの代表であったとすれば、人々から軽蔑されていた羊飼いの心の中の純真さは、率直な心を持つ人々の代表です。主は鳩のような素直さを弟子に求められ、豊かで知識を持っていても心の素直さのない人々を嫌われたごとく、み使いの知らせに驚きつつもすぐに信じて探しに行く純真な者達を祝されました。
 第二に、行動力があった人々でした教えられても実行しなければメシヤは発見されません。暗い夜に彼等は星の案内もなく赤子を求めて探し歩く行動力がありました。
 第三に、神をほめたたえ、この知らせを多くの人に伝えました。彼等の喜びは、人に伝える力となって貧しさの中でも豊かにされたのです。
聖書のことば
地の上に平和が 御心にかなう人々にあるように。
ルカの福音書 2:14

宿のないメシヤ ルカの福音書2章1〜7節
2001年11月18日月第3聖日
 人口調査は、生れ故郷に於いてなされた為にヨセフ一家はナザレからベツレヘムへ戻ります。この旅は臨月を迎えたマリヤには大変であったろうと想像されます。しかもベツレヘムは各地から戻った人々で宿は一杯でヨセフ達を泊める所もなかったのです。そしてその夜マリヤは初子たるキリストを馬小屋で出産するのです。ここには二つの重要な事実があります。
 第一に、旧約でのメシヤ預言の成就です。まずベツレヘムでの誕生は、ミカが預言をしています。(ミカ5:2)エルサレムでもヘブロンでもない一寒村にすぎないベツレヘムで救い主はお生まれになるのです。そしてこのお方はダビデの家系から誕生するとイザヤは預言しています。(イザヤ11:1〜)ザカリヤも預言しました。ひっそりと馬小屋でお生まれになったキリストは、旧約に於いて預言された事が次々と実現していたわけです。
 第二に、真のメシヤのご性質を象徴する誕生であったということです。宿がありませんでした。この世はメシヤなるキリストをお迎えする余地を持ちあわせていません。馬小屋でした。しかもベットは飼葉桶でありました。メシヤの貧しくなられた姿がそこにあります。主は富んでおられたのに私達の為に低くなられ、貧しくなられてこの世においで下さったのです。
聖書のことば
マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで 布にくるんで飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
ルカの福音書 2:6−7

平和の道に導く者 ルカの福音書1章67〜80節
2001年11月11日 第2聖日
 ザカリヤの賛歌は、マリヤの賛歌と同様「マグニフィカート」ではじまります。言葉がもどったザカリヤの口から発せられた言葉は、神への賛美でした。 ここには、選民イスラエルの回復と幼子ヨハネの位置づけ、そしてやがて来るメシヤへの預言が示されています。 ローマの征服下にあるイスラエルが、やがてダビデの再来として信じられているメシヤによって復興され、救出される。そして恐れなく主に仕えることができるようにして下さると賛美されます。しかしこの国は視覚的地上の王国ではなく、霊的な神の国の到来でありました。
 幼子ヨハネは、メシヤの先ぶれとして、その道を備え、罪の赦しによる救いの知識を与える役目をすると歌われます。主の到来を告げるヨハネは「悔い改め」を人々に求めました。自らの罪を認め方向を変えようとする者に神は深いあわれみをもって赦しを与えて下さいます。これはただ神のあわれみにほかなりません。赦しを乞う者に赦しを与える権利を持つのは、聖なる神だからです。神はただ赦すと言われるのではなく、赦すための大きな犠牲を払って下さいました。それは神の聖さのゆえです。神の聖さは罪ある者を罰することを要求します。その聖さはつぐないがされない限り全うされないからです。こうして神と人との係りは回復されます。何と大きなみ業でしょう。
聖書のことば
暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。
ルカの福音書 1:79

教会と教会堂
2001年11月04日第1聖日
 車で旅をして気付くことは、日本には教会堂が目立たないという事です。韓国やアメリカでは、まず目にとまるのが高くそびえる十字架の塔であって、美しい会堂を見ると、そこでもたれている主への礼拝が目に浮び、心が満たされるものです。教会の十字架を見て導かれる人が少なくありません。
 使徒の時代には家の教会が各地にあったようです。迫害の時代には人目につかない洞窟で集会がもたれました。そこに聖徒の集りである教会がなければ教会堂は不必要です。しかし教会があり礼拝がもたれ聖徒の交わりと奉仕がなされているならば教会の家としての会堂が必要となります。中世の会堂建築時代のような壮大な建築物は不要なのでしょう。しかし神を礼拝する場として、又この世への主のすばらしさをあかしする為にも教会堂はキリスト信仰の告白がこめられていなければなりません。
 私達の主の御住まいとして一体どのような会堂がふさわしいのでしょうか。主は馬小屋でお生まれになったので馬小屋のようで良いと考える人もいるでしょう。ダビデが願いソロモンが建てた壮大な神殿が必要だと言う人もいるでしょう。しかし少なくとも福音宣教の場としての会堂は、収容人数を十分まかなえる広さと設備がなくてはなりません。よろこびのおとずれに相応しく暖かく、そして清いことが必要です。雑然としていて汚れた会堂、冷たくて生気のない会堂は、栄光と復活の主にふさわしくありません。内、外共に祝福を証明できる教会でありたいものです。
聖書のことば
そして、この宮、すなわち、あなたが御名をそこに置くとおおせられたこの所に、昼も夜も御目を開いてくださって、あなたのしもべがこの所に向ってささげる祈りを聞いてください。
歴代誌第2 6:20

神の義と悔い改め
 義とは神の正しさであり、完全なもので、人は誰一人この義の前に己の正しさを主張することはできません。しかし同時に神は、この義を人に求めておられるわけです。義の関係がなければ、そこに交わりが生まれないからです。正しい関係こそが愛の基本であり、人格と人格の永続的な交わりの土台なのです。
 正しさを追求してゆく必要がありながら、その正しさを求めれば求める程、人は審きに近づいてゆくことに気づきます。反逆と背信、汚れと犯罪、その結末は義による審判しかありません。しかし神は、義を曲げることなく、赦しの道を開かれました。それが身代わりの刑罰、罪なき御子の十字架の死です。これは神の義をそこなうことなく、人に義を与える唯一の道なのです。 審かれて当然の罪深い私のなすべきことは何なのでしょうか。それは自らの罪を認め、己の思いと方法を捨て、神の示す道へ方向転換(悔い改め)することです。
 日常生活や社会のさまざまな出来事に関して、この義と赦しの原則は当てはまります。罪は必ず罰せられなければなりません。しかし悔い改めて罪の罰を受ける事を認める者には神は赦しの道を開かれ、罪を認めず己の義を立てる者には審きが待っていることを、知る必要があります。放蕩息子が、「天にも父にも罪を犯しました」と言えたところに赦しがあったのと同様です。
聖書のことば
ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
ペテロ第二の手紙 3章9節