2019年2月

2019年2月24日 「なんと幸いなことでしょう」詩編84編

 レビ人コラの子の歌でバビロン捕囚が背景にあると思われます。神殿で礼拝できない苦しみと、神の家で過ごす幸いへの願いは現在の神の家なる教会につながる私達にも当てはめられます。三つの幸いを学びましょう。
1.第一に、神の家に住む幸いです。(4節) 救い主によって買い取られた霊の家である教会、又主のお体である教会を自分の家と考えて、そこに住む人は幸いです。そこで主の豊かな恵を受けることが出来、命のつながりの内に霊的な実を結ぶことが出来ます。そしてキリスト教徒としての全人格的な成長を遂げることが出来るのです。教会を自分の家と覚えて、そこに住む事の出来る人はなんと幸いでしょう。
2.第二に、神を自分の力とする人は幸いです。(5節) 力を神に頼む人は、天に続く命の道を歩む人です。命の危険が臨むとき。天を仰ぎ主のお約束によって勇気を頂きます。如何なる時にも神を自分の拠り所とする人は、弱った時、困った時に上より力を受けることが出来、又、事を行う時に勇気と知恵を頂くことが出来ます。私達の力は、真に小さく、弱いのですから。力の源である神に、自分の力があると言える人は、なんと幸いでしょう。
3.神により頼む人は幸いです。(12節) 信頼できる方を得た者です。聖書によれば人は信頼できない者です。しかし、神は信頼できるお方です。主は決して信頼する者を裏切る事はありません。主に信頼を置く人は、何事でも焦ったり、慌てたりする必要はありません。私達が信頼するお方は、私達の為にいのちを捨てる程の愛を持った方です。罪人である私を愛してくださる主を信じる者は、なんと幸いでしょう。

聖書のことば
『なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。』
詩篇84篇4節


2019年2月17日 「彼らが知りますように」詩編83編

 約束の地の周辺の敵が列挙されていますが、連合して襲って来た記録はありません。敵に対して報復を願う祈りと共に、真の神を知る事が出来るようにと願う賛美は、新約的です。
1.過去の神の恵みによって力を頂くことが出来ます。(9節~) ここに記されている過去の神の介入による勝利は、ほとんど士師記に記されたものです。過去の困難な時の神のお働きによる勝利は、民に勇気と力を与えました。恵みによって強くされたのです。信仰生活における主の恵みによる助けは私達の信仰生活に励ましと勇気を与えて下さいます。救いは、感情や体験によって得るものではありませんが、信仰による救いは必ず実を結びます。それは大きな励みになるのです。
2.聖徒の信仰の証で、世の人々に真の神を紹介出来ます。(16,18節) 信仰による神の恵みの体験は、信じる者に大きな力となります。また、正しい教えに基づいた経験や体験は、シロアムの池で目を開けていただいた盲人が「あの人がどういう人か知りません。しかし今は目が見えるということです。」と証したように、信仰による救いの実を周囲の人に伝えることは、真の神と真の救い主を世の人々に伝えるきっかけを与えることが出来ます。
 主をお伝えするという事を大げさに考えずに、主のお恵みを人に話すことによって、聞く人たちが救い主を知る事になる事を覚えましょう。

聖書のことば
『こうして彼らが知りますように。その名、主であるあなただけが、全地の上にいますいと高き方であることを。』
詩篇83篇18節


2019年2月10日 「神こそ真の審判者」詩編82編

 神の義と愛のつなぎとなられたキリストの十字架による罰は、全ての信じる者を裁かない恵みの約束でした。しかし、神こそ正しい公平な真の審判者であることに変わりはありません。
 神の正しい審判を求めるアサフの賛美から、裁きについて学びましょう。
1.神は最終の審判者として世をふるいにかけられます。(1節) 神の正しい審判は、人に恐れと希望を与えます。罪ある者は、その罰の為の恐れを、赦された者には、感謝と平安が与えられます。神は、最終の正しい審判者ですが、人生のあらゆる場面で、義の実と罪の実を刈り取ることも事実なのですそして、最後にふるいにかけるように、全ての者を正しく裁かれます。
2.世にある教会もふるいにかけられます。(2,6~7節) 麦と毒麦を分けるように、救われた真の聖徒と似て非なる麦とをふるいにかけて分けてしまわれます。キリストの裁きの座においては、聖徒の隠れた善行の全て、主の御心を痛める不従順と不忠実の全てが明らかにされて、それぞれ報いを受けることになります。
3.神の裁きにお任せする為の聖徒の役目は、自分を裁くことです。人を裁く者は、自分を点検する時、人を裁くことが出来なくなります。まして主の十字架の痛みによって赦された者は、人を裁くことは出来ません。もし自分を常に点検することが出来れば、自分を神の座に着ける審判者にはなれないのです。
 神を真の審判者と覚えて、神に裁いていただきましょう。

聖書のことば
『神は神の会衆の中に立つ。神は神々の真ん中で、さばきを下す。』
詩篇82篇1節


2019年2月3日 「受けるよりも与える方が幸いです」使徒の働き20章18~38節

 パウロの告別説教で、キリストの生涯の教えとお働きをまとめると、「受けるより与える」事だと語りました。
 与える幸いがどこにあるか、学びましょう。
1.与えることは、神の愛の中心だから幸いなのです。神は罪人である私達の為にいのちをお与えくださいました。与えることは、神の御心なのです。与えられた救いの喜びを持つ者は、与えるところに真の幸いがある事を知り、経験します。
2.与えようとする人は、与えられるから幸いなのです。神は与える人を喜び、愛してくださいます。神を喜ばせようとする人で祝福されない人は、一人もいません。神は、与えようとする人を覚えて必要を満たしてくださいます。又、与えた人も、与えられた人から与えられる喜びを経験します。
3.与える人は、神のお働きに参加できるので幸いなのです。強制されたからではなく、与えられた喜びをもち感謝して与えようとする人こそが参加できるのです。そしてその人は、与える幸いを頂けるだけではなく、主の福音宣教の御業に参加する喜びを経験します。
 今伝道所に、与える幸いを頂く人が多く必要です。

聖書のことば
『主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。』
使徒の働き20章35節