2019年7月

2019年7月7日 「七たび倒れても」 箴言24章16節

 失敗のない人はいません。聖書にも多くの失敗の記事が記録されています。ダビデやペテロの失敗は、その代表的な失敗です。失敗をどうとらえるか、失敗に関して聖書の教えを学びましょう。
1.何もしない失敗をしない事です。 マタイ25:24
 神から与えられた賜物を、神の為に使わない失敗をしない事です。「ジッと立っていれば倒れることはない。しかし、歩けば歩くほど躓く確率は多くなる、しかし目標を達成することも多くなるのだ」神が与えた命と人生を神の喜びたもうことに使わない失敗をしないことです。たとい1タラントであっても、1タラントを増やそうと働けば、半タラントであっても褒められたでしょう。
2.失敗から学ばない失敗をしない事です。詩篇32:3~4
 失敗はやむを得ないとしても、失敗の痛みから学ぶことをせず、同じ失敗をくりかえすことこそ本当の失敗です。深い神の前での反省が、決して同じ失敗をしない決心と力を与えます。ダビデやペテロを見てみましょう。失敗から何を学ぶかが私達の人生を変えます。失敗から起き上がる事が出来るのです。
3.人生最大の取り返しのつかない失敗をしない事です。ヨハネ3:36
 神が備えた神との和解と赦しの恵みを受け取らない失敗は、永遠の失敗であり、再びやり直すことの出来ない本当の失敗です。その失敗をしないチャンスがまだ残されています。今日という日に救い主を信じましょう。

聖書のことば
正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。』
箴言24章16節


2019年7月14日 「素晴らしいバルナバ」 使徒の働き4章36~37節

 キプロス生まれのレビ人でバルナバと呼ばれていたヨセフからは、沢山の教えをいただくことが出来ます。
1.彼はバルナバと呼ばれていました。
 これはあだ名でしょう。変なあだ名もありますが、これはヨセフの人となりを良く表しているあだ名です。彼は「慰めの子」と呼ばれていました。(4章36節)慰めとは、立ち上がらせるという意味があります。聖霊のごとく人を助け立ち上がらせる働きをすることのできる人でした。私達は、人を躓かせてしまう粗雑で愛のない行動が多いのですが、彼は違いました。その証を敵対者であったパウロや怖気づいて伝道の前線から退却してしまったマルコへの対応で見ることが出来ます。(15章37~39節)
2.彼は、主に生涯従う証として財産を売って主に献げます。
 キリストのみに従い、キリストのみに頼るあかしです。畑を売って主のご用の為に役立てるのです。当時の聖徒がどれほど感謝した事でしょうか。生涯を主にお捧げした証を彼のこの行為によって、人々の前に明らかにされました。無私の心の証です。彼の立派さが証明されました。(4章36~37節)
3.彼は、伝道熱心でした。
 主に従うとは、主の命令に従うことです。その命令とは、人々を愛し、救いを紹介し、キリストを伝えることです。まず故郷のキプロスへ伝道に出かけ、更に福音をパウロのごとく他の地域へ伝えるのです。しかし、パウロのように目立つ働きではありません。謙虚で柔和で地味な、目立たない働きです。(13章2,3節、15章25,26節)私達もバルナバのような働き方をしたいものです。

聖書のことば
『 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。』
使徒の働き 4章36~37節


2019年7月21日 「伝道所に牧師を迎えるにあたって」 ヘブル人への手紙13章17節

 私たちの伝道所に、牧師を迎える日がいよいよ近づきつつあります。教会は指導者の在り方で大きく変わります。又そこにある信徒の皆さんの姿勢で、教会の祝福は決まります。即ち「牧師が教会を育て、信徒が牧師を育てる」のです。主のみこころは、教会(主のおからだ)が健全に成長し、み栄えをあらわすことですので、キリストのしもべとして、牧師も信徒もおことばに従うことを第1とすることによって、従順なしもべとしての証しを立てることが求められます。そこで、このおことばの勧めに心を向けましょう。
1.牧師は指導する者です。
 教えるだけではありません。その日々の在り方で見本を示し、ある時は叱り、ある時は励まし、キリストの体の一部として忠実に仕えるための指導をするために立てられています。(他の書では監督とも)
2.牧師は神に弁明する者です。
 モーセが神の怒りの前に、赦しを祈ったごとく、信徒一人一人の為に祈り、主の助けと導きを祈り続けます。
3.牧師は信徒の見張人でもあります
 霊的(神に対する係わり)にふさわしくない者には、適切な忠告と警告を与える者です。危険な状況にある者があれば、あらかじめ教える責任があります。(他の書では牧者とも)以上のような務めをもって生涯をささげて仕える牧師を悲しませてしまうような事があれば、互いに大きな損失であり、主に申し訳ないことです。

聖書のことば
あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることのないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。
ヘブル人への手紙 13章17節


2019年7月28日 「万民が祭司として仕える新約の聖徒」 ペテロ第一の手紙2章1~6節

 過去のバプテスト教会の聖徒が命を懸けて守ってきたものの一つが、信じた者の全てが祭司として神に仕える事が出来ると言う、万人祭司の立場です。
1.聖書は万人の祭司制を教えます。 黙示録1:5~6
 中世のカトリック教会は、聖職者と一般信者との間を区別し、信仰を聖職者の介在の必要を定めました。それを改革したのが17世紀の宗教改革です。全ての信者は、自ら大胆に神に近づくことが出来る、万人祭司の原則を打ち立てたのです。聖職者の手から聖書を取り戻しました。
2.祭司として礼拝を捧げるとはどういうことでしょうか。
 キリストの体の一部として、それぞれ賜物に応じて務めを果たすことです。信仰に他の介在者は必要ではありません。みことばを語る者は語る者としての務めを果たし、聞く者は、み言葉を聞く者としての務めを果たすこと、それは同時に自らの信仰は、自ら守る事を意味しています。誰も自分の信仰の責任を持ってくれるものはいないのです。
3.祭司としての信仰を守るにはどうしたら良いのでしょうか。
 神のお言葉によります。主はその完璧な模範者として宣教の初めにサタンの誘惑を神の言葉によって勝利されました。しかし神のお言葉は、信仰によって受けとめられなければ生きて働くことはありません。そして、キリストから目を離さない事です。私達は、祭司なのです。神の家、教会に於いて霊のいけにえ即ち自分の体を生きた供え物として主にささげなさい。

聖書のことば
『あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。』
ペテロの第一の手紙 2章5節